リョータが帰国して、再会してから一ヶ月ほどが経っていた。
 大学生から社会人になり、数年の間別れていたという事実が今は嘘のように感じられる。私もリョータも、別れる以前の生活に近いものを取り戻しつつあった。今すぐにでももう一度同棲しようと提案してくるリョータに、私は次の家賃更新の時にと曖昧な言葉を返していた。
 渡米する話を受けることが決まったタイミングで、私たちは別れる事を決めた。正確に言えば、私がほぼ一方的に一緒に住んでいた家を出た。いつ帰ってくるかも分からないリョータを好きでいられる自信はあったけれど、変わってしまうかもしれないリョータに耐えられる自信がなかったからだ。
 結果的に帰国してしばらくしてから三井さんのお節介で再会した私たちは、ヨリを戻して、そしてとても平和に生きている。
「結構楽しみにしてたんだけどな〜。」
「この雨じゃ仕方ねえよ。」
「うん、どうする?映画でも見よっか。」
「レンタルいくのも厳しいっしょ。」
「あ、そっか。」
 帰ってきてからは、結構ベタなデートをしていたりする。学生時代にはできなかったような、ちょっと大人な遊び。今日はレンタカーを借りて御殿場のアウトレットにでも行こうと計画していたところだった。
 楽しみにしていたと言いつつ、結局どこに行くかではなくて誰と行くかが大事であって、口では残念だと言いつつも特別そう思っている訳でもなかった。どうって事もない日常的なこんな会話をしてみる事で、小さな幸せを感じているだけなのかもしれない。
 朝九時、ぼんやりとした意識の中でリョータが大雨が降っているので今日は家でゆっくり過ごそうと私に言ったもんだから、本当にその後盛大にゆっくり寝入ってしまった。
「リョータお腹すいたよ。」
「…そりゃね、こんな昼過ぎまで寝てりゃ減るでしょ。」
「よくそんなに早起きできるよね、ソンケ〜。」
「全然敬意感じねえけど………」
 一週間分の疲労を溜め込んでリョータの部屋にやって来た、週末の金曜日。コンビニでビールのロング缶をたくさん籠に詰め込んで家を訪ねると、「パーティーでもすんの?」と呆れながら笑うリョータと夜遅くまで馬鹿馬鹿しい話で盛り上がった。
 学生時代、一緒に同棲していた頃からリョータは起きるのが早かった。対する私は酷く朝に弱い。それは社会人になってもついには変わらなかった。リョータに早起きの秘訣を聞いてみたこともあるけれど、スポーツマンだからというよく分からない回答しか返ってこなかった。結局私に早起きは無理という事なんだろうと思う。
「カップ麺でもいいからなんか食べたい。」
「んなもんばっかり食べてると栄養偏るでしょ。」
「なにその専属管理栄養士みたいな発言。」
「そろそろ偏食治しなよ。」
 一緒に住んでいた時から、あまり自炊はしなかった。リョータも私も同棲資金の為にバイトをしていたし、そこで運が良いことに賄いにも恵まれていた。だから私もリョータも、あまり料理をする必要性がなかったのかもしれない。
「…あ、も食べれる完全栄養食あったわ。」
「なにそれ〜?なんか美味しくなさそう。」
「食う前から言うなって。多分美味いから。」
「多分?」
「ぜったい。」
「ふ〜ん。」
 思いついたようにそう言ったリョータは台所へと向かう。何を取り出すのだろうかと見ていれば、手にはいくつかの食材が抱えられている。野菜室に、冷凍室に、冷蔵室。それぞれパタパタと順番に扉を開いて、その全てをシンクの上に並べるとまな板と包丁を取り出した。
「え、料理すんの?」
「なに、しちゃ駄目だった?」
「ん〜、イメージなかった。」
「二年も経てば嫌でもそこそこは覚えるっしょ。」
 改めて、それだけの年月を離れて過ごしていたんだなと思う。それだけあれば人は変わるものなのだろうか。あの頃からなに一つとして変わっていない自分が少しだけなんだか恥ずかしくなった。
 SUSI!SUKIYAKI!なんて言葉が海外にも流通しているご時世だ。それなりに日本食が海外でもあるものかと思っていたけれど、実際はそういう訳でもないらしい。
 そもそも純粋な日本人がやっている日本料理店はかなり少ない。あっても、日本で存在し得ないグロッキーなカラーリングの料理が出てくるので見た目にも味にも若干のトラウマを覚えたとのこと。行ってみないと分からないことなんて、きっと五万とあるのだろう。
「日本の調味料とかも売ってねえから、結局作るってもこれくらいなんだけど。」
 リョータは手際よくまな板の上で野菜をトントンと切り刻んでいる。料理男子って感じだ〜と言ってみると、冷やかすなと怒られた。全然怖くない。
 冷凍室で固く眠っていた冷凍ご飯が解凍されたのだと電子レンジが知らせて、今度はその袋ごとフライパンに投げ入れた。男が作る男飯と言えば、チャーハンだろうかとなんとなく予測をつける。暫くじっ、と見ていると冷蔵室から出てきたそれによって白いキャンバスが真っ赤に染まった。
「もしかしなくても私が好きなやつ?」
「そう、好きなやつ。」
 ザッザッとフライパンを振り翳してケチャップの水分を飛ばす。こういうフライパン捌きは、やっぱり男の人の方が力がある分得意なんだろうかと、そんな事を思いながらカウンター越しにリョータの男飯の過程を見ていた。
「私半熟がいいな〜。」
「そんなオプションつけられても無理。」
「たんぽぽオムライスがいい。」
「ここは俺の家で老舗洋食店じゃないの。」
 偏食の私が昔から好きな食べ物。オムライス、ハンバーグ、ナポリタン、グラタン、カレーライス、ハヤシライス………カタカナが続いているのは多分気のせいではないけど、偶然だと思う。中学生男子が好きそうなメニューだという自覚はあるし、私の味覚は成長していない事も承知の上だ。その中でも、私は取りわけオムライスが好きだった。
「皿に盛るから座っといて。」
「うん。上からケチャップかけてね!」
「わ〜ってら!」
 注文をつけてから、テーブルに戻って腰かける。食べ物に限らずだけど、何かを待っている瞬間というものはとても待ち遠しくどきどきするものだ。私の心がもう少し強ければ、渡米するリョータの事もこうして待ち遠しくどきどき待っていることができたんだろうかなんて考える。どう考えても、それは別ものだ。
「あいよ、リョータくん特製オムライス。」
「わ〜、リョータくんベタだな。」
 頭の中で想像していた通り、黄色い薄皮の上にはケチャップで描かれた定番のマーク。これを最初に考案した人って誰なんだろう?オムライスは日本の食べ物だから、当時これを考えた人は随分とハイカラな事をする先駆者だったんじゃないだろうか。
「自分だって期待してたくせして。」
「ん〜、まあね。」
 お互い満更でもない顔だ。多分、二年間のブランクを取り戻し、そして埋め尽くすような事をしているし、二人きりの空間だからこそできる事でよくよく考えるとただの呑気なカップルだ。やっぱり今日は御殿場に行かなくてよかったかもしれない。
「これ向こう行って一年後くらいに覚えたんだ。」
「結構遅かったね。」
「目から鱗っていうか、なんか急に思い出して。」
 きっと渡米してからの一年間は、振り返ることすら出来ないほどに余裕がなかったんだろうとこの一言で推察できた。リョータはあまり自分の事を多くは語らないけど、その分、こうした不意にでる言葉でそれを感じることが出来る。
「イースター・エッグってのがあってさ。」
「なんか美味しそうな名前だね。」
「ちなみに食べ物じゃなくて行事の名前な。」
「そうなの?」
「うん、俺も向こう行って初めて知った。」
 一度も出国したことのない私にはとても馴染みのないその祭りは、卵や卵形のプラスチックなんかを彩って飾りつけたりするらしい。なんの為にそうするのかと聞けば、リョータもとても詳しく知っている訳ではないようで、キリスト教の習わしのようなものだと言った。アメリカっぽい〜という馬鹿みたいな感想が口から出た。
「青とかピンクとか装飾された卵見てさ、」
「見て?」
「なんとなくの事思い出した。」
「…どういう流れ?」
「こんなんじゃオムライスも不味くなりそうって。」
「なにそれ。」
「言いそうだなと思って、なら。」
 今の流れだともっと甘いエピソードでも仕込んでいるのだろうかと、少しばかりどきどきしていたのに、私のどきどきを返してほしい。どんな瞬間に私の事を回想してくれてるんだ。オムライスを見て私を思い出したとか、そういう話じゃなくて?
「そっから練習して作れるようになった。」
「ふ〜ん。なんか私の登場の仕方雑じゃない?」
「え、そう?」
 リョータからスプーンを渡されて、そのまま端っこの方を掬って口に入れた。ここ最近コンビニでもカフェでもふわふわの半熟卵が乗ったオムライスが主流になっているけれど、しっかり火の通った薄焼きの卵に包まれたオムライスは何だか少し懐かしくて、逆に新鮮だった。
「私の登場は雑だったけど、味は繊細だ……」
「美味しいって言えよ。」
 私の鼻筋をトン、と軽く押しのけたリョータは続くように素直じゃないな〜とぼやいている。なんだか、ようやく私にもリョータがいる日常が戻ってきたんだなと実感した気がする。ちょっとした事を共感して、そして一緒の空間にいれる事。そんな小さな幸せが、私にとっては何よりの心の栄養だ。
「こういうのって普通彼女がやるんじゃない?」
「ん〜、まあ一般的にはそうかもしんないね。」
「料理勉強しよっかな。」
「それはそれで嬉しいけどな。」
 私がケチャップで描かれた不揃いなハートにスプーンを入れて伸ばすと、リョータはコーヒーを啜りながらゆっくりと肘をついて、私の口に運ばれていくオムライスのカケラを見ていた。普通であれば、やっぱりこれは逆の立場なんだろうなとぼんやりと思う。
「でも、美味しいって喜んでるの顔の方が見たいから、当分は覚えなくてもいいんじゃない?」
 急に胸がいっぱいになりそうな科白を吐き出さないでほしい。胃もたれ、消化不良、太田胃酸、ムカムカ、この後の私に想定される症状だ。でも、それでも構わないと思えるのはオムライスの美味しい味じゃなくって、リョータが変わらず私を好きでいてくれて、そしてここに居てくれるということ。ただ、それだけだ。
「あま〜い。」
「おい、そこは照れるとこだろ?」
「食事中はお静かに。」
 今日は雨が降って良かったのかもしれない。御殿場にはいつでも行けるけど、リョータの絶品オムライスをいち早く食べられた私は確実にただの幸せ者だ。
 あまりにも幸せすぎるので、曖昧に濁していた同棲の提案はやはり家賃更新のタイミングで受けようと思う。二年間のブランクを埋めるには、この距離感でも幸せでぺしゃんこに潰れてしまいそうなので、もう少しだけ距離が必要だ。辛い後に待ち受けるのは、贅沢な悩みでしかない。



14時、アフタヌーン
( 2023’03’05 )