「分かるかなあ。なんて言うんだろう、きっと言葉で表現するのは難しいんだけど、……そう、例えるならば使い古した携帯を変えた時に、暫く新しい携帯を使った後に前の携帯を持った時のあのどうしようもなく古びえてみえる、そんな感じ。」

 女は息をつく間もなく淡々と台詞じみた言葉を紡いでいた。まるで自分に言い聞かせているようにも取れる、そんな言葉だ。そしてそうであり、きっと相手にもそう思われているのだろうと彼女、青葉自身もまたどこか知らないふりをしながらもひしひしと感じ取っていた。終焉は、近い。目の前にいる能天気な彼との、終焉が。
「それがキヨ、アンタなの。」
 強気を装う青葉の声に、千石は笑う。
「そっか。もう俺は君にとっては用済みだっていう事なのかな。」
 きっとその青葉の言葉が平常心から紡がれているものではなく、自制心を保つために必死になって紡いだ言葉であろうことを彼は知っている。そしてそんな彼を知りながらも彼女は知らないふりを続けるのだ。
「…そう。もう、飽きちゃった。」
「またどうして。随分と突然なんじゃないかな。俺は理解出来ない。」
 彼の言い分は最もだった。この時点で可笑しなことを言っているのは十中八九青葉の方だ。そして彼女もそれを自覚していた。しかしまた、青葉には彼が自分がこんな不可思議な事を言い始めた理由を知っているのだろうという確信があった。彼はあの外見からは反し、酷く頭の切れる男だから。そうではない男を演じているに過ぎない。
 だからこそこんな会話は不毛だと思った。互いに終焉を予知し、理解しているのだから。
「知ってるでしょ?私が聞きわけのない人、嫌いだって事。」
 青葉の言葉に千石は一度間を置いてから口を開いた。
「ああ。でも君は俺を選んだろう。聞きわけのいい、俺をね。」
 彼女は何も言えなくなった。なんと言って彼を説得したらいいのか、どの言葉を持ってすれば彼に納得してもらえるのか、最早分からなくなってしまった。これ以上自分を偽りながら言葉を紡ぎあげても、出てくるものはボロでしかないような気がしてならない。本当に彼はもっと、聞きわけのいい人だと思っていた。
 いつの間にか千石に本気になってしまっていた自分が怖くなった   理由はただその一点のみだ。最初はただのお喋りで能天気な男だった彼がどんどんと自分の中へと入って来るのが心地よくて、逆に酷い恐怖感でもあった。その狭間で、青葉は揺れ動いていた。でも彼はもっと身近になっていった。それは彼との距離が近づけば近づくほど迫って来る恐怖心だった。失う事しか次第に考えられなくなった。
「もうしつこいな。私しつこい男嫌いって言ったよね?」
 最初のうちは本当にただの厄介者だった。嫌いと言っても、何を言っても彼は根気よく姿を現した。それは青葉だけでなく世の人間ですらきっと賛同出来るほどに彼はしつこい男だったであろう。しかし次第に青葉は心を奪われてしまった。この、聞きわけの悪い男に。
「俺はそんな青葉ちゃんが好きなんだけどなあ。ほんっとにつれない態度だな。」
「そんな簡単につられちゃたまんない。」
 青葉の中で彼の存在が少しだけ変わり始める。千石からの猛烈なアタックが始まってから実に一カ月が経過した頃だ。ようやく青葉の中に千石清純という人間が一つの対象となった時だった。恋の、対象に。
「経験豊富なアンタにならこんな事、よくある事でしょう。」
「……だとしても君は別だよ、青葉。」
「キヨの十八番。甘い言葉はアンタの武器じゃない。」
 そう。彼のこの言葉はずるい。卑怯だ。確かに彼を好意を抱くようになった時、彼のこの言葉は幸せにしてくれた。しかし彼はいつだって口を開けばこうだった。最初のうちは嬉しかった言葉が、何処か不安に感じられるようになっていった。何度も繰り返し使われる事で有難味が薄れてしまうような、そんな感覚に近かったのかもしれない。彼の甘い言葉は青葉を不安の底へと誘った。
 だからこの結果を選択した。不安におびえるばかりの日常にはもう、疲れてしまったから。彼の優しくて、酷く魅力的な甘い言葉に一喜一憂する自分とはもう見切りをつけたいとそう思った。
「酷い言い様だなあ。俺はこんなに青葉が好きだっていうのに。釣れないなあ。」
 千石の言葉に、青葉は数年ぶりに嘗ての口癖を紡いだ。
「……そんな簡単につられちゃたまんない。」
 次第に彼の事を好きになっている自分の心を知ることが恐ろしかった。好きになればなるほど別れを恐れた。きっとそう言えば彼は甘い言葉をズラリと並べて安心させようとしてくれるだろうが、青葉はあえてその不安を言葉にはしなかった。言葉にしてしまえば不安は現実になってしまうのではないか、そう思ったからだ。
 優しい千石は望めば何だってしてくれた。乙女が求めるような甘い囁きも、抱擁も、望むものは全て満たしてくれた。でも、だからこそ怖かった。満たされすぎている、その満足を与えてくれる彼が居なくなってしまったらと考えると依存していく事がどうしても恐ろしく感じた。好きになれば、なるほど、彼が怖くなった。独占欲という名の鎖で彼を繋いでおけるのなら、何度そんな不毛な事を考えただろうか。しかし首輪の似合わない彼には、束縛という言葉よりも幾分も自由という言葉が相応しいように思えた。
「釣られてくれないと俺が困るんだよね。」
「…私と違ってアンタには代えの女なんていっぱいいるんでしょ。」
「それがそうでもないんだよ。君とこうなってからは。」
「だとしてもその気になれば一発じゃない。そして飽きれば、古びた携帯みたいにポイっと捨ててしまえばいい。私がアンタに今しようとしているように、捨ててしまえばいい。」
 青葉の言葉にも千石は苦笑めいた笑みを浮かべたまま、酷く穏やかなものをかんばせに浮かばせていた。それはきっと彼が元より優しいという事もあるだろうが、それよりも青葉のその言葉が到底彼女の本音からのものではないと分かっているからなのだろう。頭の切れる男である彼だから。
「本当にもう俺に飽きたのか?」
「そう。」
「古びた携帯のように?」
「何度も言わせないで。」
    ならどうしてキヨって呼んでくれるんだ?
 千石の言葉に青葉は言葉を失った。言い返しようもない、彼の質問だったからだ。嘗て、まだ二人が今の関係を育む少し前、千石は彼女に一つの頼みごとをした。自分の事を少しでも男として見れるようになったのであれば名前で呼んで欲しいのだと。彼がその願いを口にしてから案外時間もかからず、青葉の口からは彼の名が紡がれていた。
「青葉はね、嘘をつくのが下手なんだよ。すごく。」
「…うるさい。」
「そしてちょっと不器用だ。あと、強がりだ。」
 結局いつだってこうして言いくるめられるのは青葉だった。優しいくせに肝心な所で押しの強い千石はいつだって正しい答えを知っていた。
「…もういいんじゃない?君が言うように俺は君よりも経験豊富だから、女の子が考えてる事もよく分かるんだ。」
 悔しい程に、溺れている。こんな女たらしで、聞きわけの悪いどうしようもない男に。心底惚れてしまった。何もかもが不安になってしまう程に惚れてしまったのだ。きっとこの先このような別れ話が出ても私は聞きわけの悪い彼に今日のように説得されてしまうのだろう   青葉はそう思った。
「俺、結構束縛されるの好きなんだけどなあ。もっと俺を縛っててよ。」
 きっと彼といる限り不安は一生付きまとって離れないだろう。しかしまた、彼女は彼から離れる事も適わないのである。終焉を感じる度に彼から紡がれる惚気でしかないこの会話に、青葉は吐き捨てるように言い放つ。

「変態。」

二十回目の嘘
( 2010’12’15 )