四年制大学卒業後、新入社員として入社。職種は、営業。今まで移動は一度もない。
 社員番号二千五百二番、程よく後輩がいて尊敬できる先輩と上司がいる環境下で仕事をしてそれなりの社会人生活を送る。履歴書上、転職もなくプライベートを充実させながらも仕事にも遣り甲斐を求められるいい環境に身をおく。独身。
 ざっくりとした自分の経歴を見た時、私は何処か自分を世間的に見ても優秀な人間かもしれないと自分でも気づかない間に評価していたのかもしれない。時に、勘違いというものは恐ろしいと思う。
 時刻は十時半、片田舎のローカル線の最終に乗って、私は上司と他に乗客のいない電車に揺られていた。


 出来事は、今日の午前中に時を遡る。
 朝一番のアポイントで私は目的先へと向かい、商談に挑んだ。今まで大きなクレームを受けることもなく、そこそこ出来る中堅の営業マンとして生きてきたのだから油断していたと言われたらそれまでだ。入社して以来始めてのクレーム案件を発生させてしまった。
 一歩引いておけば良かったものを、私は何故か半分感情的になって反論の意を唱えたのだから自業自得の結果なのかもしれない。クレームを発生させてしまったという悔しさと、周りからの同情の視線や言葉がどうしようもなく私を惨めにさせた。
 昼過ぎに一度報告をする為社内に戻り、上司が先方へと連絡を入れる。形式上、お詫びを入れるためにと訪問の依頼をすれば今日の二十一時にくるようにと指定され、私と上司は十九時頃に会社を出て、ローカル線に揺られて頭を下げに向かった帰りが冒頭へと繋がる。結局今日は一日中、この事で頭がいっぱいだった。せっかくの週末も、よく分からない片田舎の最終に揺られているのだから一週間を締めくくるには酷く後味の悪いものだ。
「おーい、生きてっか。」
 完全に巻き込んだのは私なのに、私は気を使ってくれる上司に対しても、余裕がなく少し合間を置いて「…生きてますよ。」と答えるのに精一杯だ。余裕がないというのは、心底私を惨めにするものらしい。出てくるのは大きなため息ばかりで、自分の事ながら嫌な奴だなと思う。
「まだ引きずってんのか。案外お前も子どもだねえ。」
「そりゃ上司まで巻き込んでこんな片田舎のローカル電車の終電に揺れてたら引きずります。」
「物事はプラスに捉えた方が楽なんだよ。一回した事は馬鹿じゃない限り二度はしないだろ。」
「…さすが、宇髄さんは違うなあ。」
 そんな事を言ってみたものの、気持ちは上の空でせっかくのアドバイスも右から左へと耳を貫通していき、次の言葉が続かない。時折見える車窓の外にある明かりを見て、電車の揺れに体を委ねる。今ここは、何処なのだろう。あと何時間したら見慣れた都会に着くのだろうかとぼんやり考える。
 まさか自分がこんなにも打たれ弱い性格だったとは知らなかった。負けん気が強い所もあってか、入社してから全力で仕事に取り組めばそれだけ成績にも結果がついてきてその喜びに仕事のやりがいも感じた。
 失敗は若いうちに買ってでもしておけ、という言葉があるように私に足りないのは負の経験だったのかもしれないと考える。耐性がない事もあってか、今日のことは正直相当に堪えた。夕方にかけて、怒りや悔しさは熱を冷ましたように何処かへと逃げていき、今の私に残ったのは惨めさだった。この土日で、この負の感情ときちんと向き合って解消する事が出来るのか今から不安に感じた。
「宇髄さんは、仕事で失敗した時どうやって気持ち切り替えてました?」
「あー、それ聞く相手間違えてないか。」
「そうですね、宇髄さん失敗しない男だから。どっかのドラマの主人公みたいに。」
「そういうこった。気に病むな、俺は特別だ。」
 こうやって、きっと私が笑えるポイントを作ろうと上司なりに気を使ってくれているのだろうと思う。あまり真剣に私を励ましては、私が余計に惨めの溝へと転がり落ちていくのを知っているからだ。彼との付き合いもずいぶんと長い、よく私のことを知っているなと思う。上司として部下の特性を知るというのは仕事の一環だ。―――人の好意と分かりつつも、素直に受け取れない自分にも心底嫌気が差した。
 入社した頃は、こんなタイプではなかった。とにかく自分の知らない事を取り込もうとして必死にもがいて、誰よりも努力していた。与えるものはなく、常に与えられるものばかりだったから一生懸命だったのだろう。
 今も自分の仕事に誇りを持っているし、それに恥じない仕事をしようと日々生きてはいたけれど、それが少しの努力で当たり前に出来るようになってきたからこそ私は自分の能力に驕ってしまっていたのかもしれない。惨めに感じるのは上司を巻き込んでしまった事よりも、本当はそこにあるのかもしれない。
「辛気臭いと嫌われるぞ。」
「嫌われましたよ、クライアントに。」
「酒でも買ってやろうか。」
「社内販売あるような電車に見えますか、これ。」
 確かに彼の言うとおり酒でも飲めばこの感情にも一時休戦を申し込むことができるのかもしれない、けれどそれは所詮一時的なものでしかないのだから本質的な解決をみない。そもそもこんな時だから深酒でもしてしまいそうな事を考えれば、私は余計に頭が重くなる出来事を抱えてしまう可能性があるのだから酒に逃げるのはよくない。
 朝一に行われた商談で、今日は随分と早起きをした。体は酷く疲れているのだからいつもであればすぐに電車の揺れで眠りにつけるものの、頭はちっとも眠気を感じない。兎に角、ただひたすら見慣れた東京の景色を目に入れたいと思った。日常の風景が戻れば、少しは私も日常に戻れるかもしれない。
「おい、降りるぞ。」
 そう言われて、景色を見渡す。車窓はまだ片田舎の暗闇しか映し出していない。所々に、気持ちばかりの明かりが照らされているだけで乗り換えをするはずの風景とは程遠い。
 一度その言葉に立ち上がりはしたものの、否定の言葉を紡ごうとした時には逞しい彼の右手が私の腕を掴んでその暗闇へと引きずられていた。
    此処は、何処だ。


 私たちは暗い夜の海を歩く。駅から少し歩けば、すぐに海があった。通りで電車からほとんど何も景色が見えないわけだ。周りには飲食店どころか、コンビニすら簡単に見つかりそうもない土地だった。彼は、私たちが乗っていた電車が最終だった事に気づいていないのだろうか。どう考えてもタクシーで帰れるような場所に私たちはまだ到達していなかった。仕事でも絶望を味わい、金曜の夜に更なる絶望をこれから味わうような気がした。
「宇髄さん、今の現状分かってますか。私たち終電に乗ってたんですよ。」
「それも知らないで降りる訳ないだろ。」
「だったらこの状況からするに、絶望的ですよ。どうするんですか。」
 まあ、今日金曜日だしたまにはいいだろ。大人の青春ってよく意味のわからない事を呟いて、彼は夜の街を大またで歩いていく。コンビ二も見当たらない代わりにアルコール専用の自販機があり、彼は立ち止まって小銭を出してビールのボタンを押してガタンと大きな音を立てたそれを私に渡してくる。受け取ってぽかんとしていれば、先ほどと同じ事を繰り返して私と同じ銘柄のビールが彼の手元にも納まっていた。
 夜の砂浜に足を取られながら進んでいくものの、ヒールが刺さって上手く進むことが出来ない。そんな事にもお構いなしに進んでいく彼に、私もヒールを脱いで手に持って上司である宇髄の元へと小走りで進んでいく。
 スーツ姿の私たちに全くフィットしない状況が、どこか非日常的で一瞬ばかり今日あった出来事を忘れている事に気づいた。よくもただの部下一人に、自分の貴重な時間をつぶしてまでこんな事をしてくれるなと、少しばかり感謝の念を抱いた。
「早くお前も空けろよ。温くなる。」
「私飲みますなんて言ってないのに随分強引ですね。」
「上司の言う事は聞いておけ。」
 私も砂浜に座って、取りあえずビールのプルタブを開ける。勢いよく自販機から直角に出てきたそれは大量の泡を吹いて、砂浜にこぼれて行く。それを見て、あきれた様に「どんくさ。」と彼に笑われた。何故同じ条件のビールなのに、私ばかりがこうして悲劇に見舞われないといけないのだろう。惨めだ。
 これから何を言われるのだろうか。これからの展開を想像できないが、確実に私を罵ったり叱ったりする事はしないだろう。そうでなければわざわざ終電を降りてまでこんな所に来ないだろう。私たちは朝までここで時間を潰す以外に選択肢を持ちえていないのだから。
「お前さ、失恋した事とかある?」
「何ですか藪から棒に。こんな所でする話じゃないでしょ。」
「知らないのか?海って、そういうとこ。」
 どうして私は金曜日の夜の片田舎の海辺で、上司とこんな話をしているのだろうか。よく分からない。過去の自分の出来事に思いを馳せて、そういえば失恋して人生のどん底のような気持ちを覚えた事もあったなと思い出す。人間、時間が経過すればある程度の傷を癒す事ができるのかもしれない。
「宇髄さんはあるんですか、失恋した事。」
 きっとないに違いないとどこか思う。私は彼とは仕事上以外での接点はないが、それでもプライベートでもスマートに生きているのだろうと簡単に想像がついた。会社での彼の完璧な仕事ぶりを見ていれば誰もがそう思うのが自然だろう。
 ある訳ないだろ、そんな言葉がすぐに耳を掠めるかと思っていたが、すぐに聞こえてきた心地の良いトーンの彼の言葉は、正反対のものだった。
「…ある。もう随分と昔の事だけどな。」
 私の話ではなく、彼は淡々と自身の事を話し始めた。失恋をした相手、そしてそれが現世ではなく過去の記憶である事、どんな女だったのかを余すことなく伝えてくれる。まるで壮大なひとつの物語のようなスケールで、そんな小説のような事が現実にあり得るのだろうかと半分聞き流しながら、夜の海を見た。
「宇髄さんでも失恋するのか。」
「モテの生産性を保つ為には努力も必要って事。」
「なんか結局自慢になってるな、最後には。」
 もう何時間程が経っただろうか。夏の夜明けは、早い。私たちはビール一本を片手に自分たちの話をした。どんな幼少期を過ごして、何をして遊ぶのが好きだったのか、どこの大学に行って何を学んでいたのか。案外長年一緒に働いている相手でも、知らない事の方が多いものだ。この数時間で、より彼の事を知ったような気になっていた。以前よりももっと、近くに感じると言えば生意気と怒られるだろうか。
 手元にあるビールも、もう温い。それだけ夢中になって話していたのだと改めて思わされる。これだけ自然と自分の事を話したくなって、相手の事も知りたくなるようなトーク展開をする彼の営業力には改めて学ばされるものが多い。
「お前もちっぽけなプライドや見栄は、ここに捨てていけ。」
「…突然人の傷を抉りますね。」
「まあ、俺お前の上司だし。少しは反省もしてもらわないと困るが、お前は間違った事した訳じゃないだろ。」
 叱られる事はないとは思っていたけれど、ここまでフォローをしてもらえるとは思っていなかった。現に迷惑をかけたのは、ひとえに私の責任だ。けれど、彼は一度たりとも私を責める事をしなかった。惨めさに潰されそうになっている私に、救いを与えてくれる。それは新入社員の時から、今もずっと代わらない事実だ。
「自ら不利な案件選んで、可能性のある案件を後輩に譲るのも、一つの才能だ。」
「…嫌だなあ。宇髄さん、私のストーカーですか。」
「あほ。上司なめんじゃないわ。」
 私の入社からの努力は、昇給という対価だけではなく、きちんとこの人が両の目で見てくれていたのだと改めて思い知ると、見せたくもない筈の涙が滲んだ。きっと、朝日があまりにも眩しくて私の目を晦ませたからに違いがない。人前で涙を見せるのは、どこか恥ずかしかった。
「手の掛かる部下ですみません。」
「自覚あるなら善処しろ。あと、お前はもう少し人に甘える事を覚えた方がいい。」
「そんなに私のこと甘やかしたら、また大きなクレーム案件出すかもしれませんよ。」
「お前の尻拭いくらい、屁でもないわ。」
 その言葉と共に、大きな彼の右手が私の髪を揺らした。これが私にとってどうしようもなく罪深い行為と知ってやっている事なのだろうか。否、分かっていてやっていても、無意識的だとしてもどちらも罪深い。彼の器の大きさに、朝日が眩しいからという理由だけでは最早言い通せないくらい視界がぼやけた。
「宇髄さんはずるいな。完璧なクロージングです。」
「そんな事言っても何も出ないぞ。当たり前の事実だから。」
「ほんと、憎たらしいですね。」
 どうやってこの泣き顔を処理したらいいのだろうか。すぐに泣き止んで、何事もなかったように平然を装えばそれでいいのだろうけれど、どうやら今の私にはそれが出来るだけの余裕がないらしい。
 そんな私を察したのか、私の泣き顔を見せなくていいように長い二本の腕が私を包み込んでくれる。声もなく、素直にその腕に抱かれながらしばらく時間が過ぎていく。もう夏も近い、熱を持ち始めた海辺の砂が少しだけ熱い。
「…これ、下手したらセクハラですよ宇髄さん。」
「お前の課題は人に弱みをしっかり見せる事と、あとはその強気な態度は相手を選んだ方がいい。」
 結局彼にこれだけ評価されて、甘えることの出来る環境を与えられても、自分の性格などすぐに変えられるものではない。彼の腕の中に抱かれながらも、結局私は強がりな自分のままだ。けれど、そんな私を理解してくれた上でしっかりと力強く抱きしめてくれる彼も、たいがい部下に甘い上司なのだ。
「相手を選ぶって、例えば?」
 最後まで悪があきをする私にも、小さなため息を挟んですぐに切り返しがくるのだから本当に彼はずるい。
「その判断も出来ないようじゃまだまだお前も半人前だな。」
 温くなったビールが、足場の悪い砂浜の上で傾いて、すべてを洗い流すように流れ出て行った。


 この海に来るのは、どれくらいぶりの事だろうか。おそらく一年ほど前の最近の出来事なのに、どうしようもなく昔の事のように感じられる。あの時私がこの海に捨ててきたプライドは、今頃この海の上でぷかぷかと波に揺られているのだろうか。
 季節は、もうしばらくしたら本格的な夏がやってくる。梅雨が明けるのも近いだろう。
「ビール、買ってきた。」
「おー、温くなる前に早くくれ。」
 いつかにみた海で、ビールを開ける。あの時、どうしてあそこまで私は落ち込んでいたのだろうかと酷くちっぽけな事に思える。あの時海に捨てたものは私にとってどうしようもなく大きいものであったからこそ、今は本当に身が軽く感じられる。そう思わせてくれる人間を知った今の私は、確実にあの時よりも強くなった筈だろう。
 こんな片田舎でしかないこの土地が、私がリスタートするきっかけになったのだ。少しばかり恥ずかしい記憶も残しつつ、どうしようもなく温かくて、大切な場所になった。忘れられない場所だ。ここにくれば、また一から頑張れる気がするのだから。
「おいノロマ、早く来い。」
 もうヒールを脱ぐ必要もない。サンダルのまま私は、声の元へと大またで走って向かう。
 私を呼ぶその声を、全力で目掛けてただ前へと進めばいいと今は思う事が出来るのだ。私は、きっと幸せな女に違いない。


21:00のアポイントメント
( 2020'07'13 )