青葉はコートに散らばる黄色いボールを拾っていた。時刻は夕暮れ時、もうすぐに完全な夜がやって来る。部員達全員でやればすぐに終わるだろうという誘いをを指しおき、青葉は一人もくもくとボールを拾い続ける。季節の変わり目に発症した風邪によって、部活を一週間休んだ自分への戒めなのだと言って聞かない彼女に、真田ですらも今回ばかりは決まり文句のあの台詞を吐く事もなかった。
「青葉。終わったかい?」
「…精市?先に帰っておいてって、伝えた筈だけど。」
「そんなつれない事を言わないでくれよ。」
 青葉は暗闇がかったテニスコートで、目を細める様にしてその先に在る人物を確認する。口ではそう言っておきながらも、幾分か声に機嫌が上乗せされているような、そんな彼女の声だった。
「今日皆で打ち上げやるって言ってなかったっけ。今からでも行って来たら?」
 全国大会も終わり、三年は名目上の引退を遂げた。けれど、立海テニス部に何ら変わったところは見当たらない。受験のないこの学校では、三年であろうが実質上の引退はない。全国大会の決勝に敗れてからも、ストイックにテニスに励んできた彼らへの、名目上の打ち上げが、まさに今日だった。
「俺は病みあがりだし、今回は遠慮させてもらったんだ。」
「病み上がりだなんてよく言う。以前にも増して強くなったくせに。」
「まあ、それでも負けた事には違いないけどね。」
「自分で傷を抉っている辺りは、本当にまだ病み上がりなのかもしれないね。」
 青葉は本当に何もかもを引きずることなく、常に前だけを向いているのだなと、幸村は苦笑した。まるで自分とは正反対であるような、そんな彼女に、感謝の念を抱いてしまう程に。未だかつてない敗北に、未だ前を向けないのは、自分だけなのではないかと、彼は憂鬱に苛まれる。以前、病に侵され、湿っぽい入院生活をしていた頃と、同じように。
「青葉とこうして二人になるのも久しぶりだろう?恋人としての特権くらい、欲しいんだけどな。」
 そう言えば、「独占欲強いよね、精市って。」と、捨て台詞のように言って、再びボール拾いを始めた彼女ではあったけれど、何処となく肩が嬉しそうに跳ね上がっていた。幸村も、そんな彼女の後追うようにして、暗い地面に散らばる黄色いボールを拾い上げて、籠に戻す。
「疲れてるでしょ?もうすぐ終わるから、そこで待ってて。」
 暗がりの中で確認出来るボールももう少なく、幸村は青葉の言葉に従うように、ベンチコートに腰かけて彼女の仕事が終わるのを待っていた。暗がりの中でふと苛まれた恐怖感に、入院していた頃の記憶と、全国大会の敗北の瞬間の記憶とが、混ぜ合わせたように、同時に襲ってくる。夜になると、いつだって恐怖に苛まれた。その恐怖感と同時に、目の前にいる青葉を所有したいという、恐怖と比例するはずのない独占欲が幸村の中で渦巻いた。
「終わったよ。帰ろうか。」
 仕事を終え、ベンチの前で微笑む青葉に、縋りそうになった自身に、彼は現実へと引き戻された。湿っぽい過去の残骸に、呑みこまれそうになって、思わず視界に映し出された青葉の両手を握った。
「精市?どうかしたの。」
 毎日入院先のベッドで明日が来るのかどうか不安に駆られていたあの時と、同じ衝動が彼を覆っていた。



 幸村が歩く三歩後ろを、青葉が歩く。幸村が彼女の歩幅に合わせる為にペースを緩める。けれど、会話もなく悶々と考えごとに勤しむ彼の歩幅は知らず知らずに、大まかに早くなっていく。それに気づいて、歩幅を緩める、状況はその繰り返しだった。
「久しぶりに彼女と一緒に居たかった割には歩幅が大きいのね。」
 そう言えば、苦笑いしたように、幸村が足をとめた。
「だったら話をしてくれないか。在り来たりで、些細な笑い話でもいいから。」
「笑い話?」
 青葉は、少し考える仕草をしてから、何かひらめいたように拳を打った。思えば青葉と、こうして、テニス以外の場で関わりを持つのは久しぶりだった。地区予選、地区大会、関東開会、全国大会、立海はそのどれもで手を緩める事はない。必然的に、青葉と幸村が部活外で会う時間も、以前とは比べ物にならない。彼女と同じクラスの丸井と、仁王でさえ、幸村の嫉妬の対象になり得る。入院していた分、青葉と接していた時間は、他よりも限りなく短いのだから。
「そういえばね。今日、可笑しな話を聞いたの。到底私には、理解出来ない話を。」
 そう言いながら、青葉は今日あった不可思議な出来事を幸村に伝え始める。彼女からしたら本当に、ただの笑い話であって、幸村にとっては、同意を示してしまうような、そんな会話を。
「友達がね、言ってたの。彼氏が好きだからこそ、殺してしまいたくなるんだって。可笑しいでしょ?」
 青葉の笑みに、幸村の笑みは同調しない。彼の口角だけが、ニッとあがり、苦笑めいたように小さく笑った。「え?笑う程可笑しい?」青葉がそう言えば、そうではないのだと、彼は笑いながらにそう言った。
「いいや。ちょっと、分かると思ったんだ。」
 入院時代、何度孤独に苛まれただろうか。幸村は考える。自分を見舞ってくれるのは、上っ面でしか人を見ていないような、そんな人間ばかりだった。本当に来てほしいと、彼が願う人は、あまり姿を見せない。それが自分の為であり、自分が戻るまでの間必死に立海の本来の姿を継続していくためであると分かっていながらも、彼はそう思わずにはいられなかったのだ。こんな時に、傍にいてくれなくて、どうすると。あれだけ深いと思っていた友情も、何処か薄っぺらく思えた。それが何よりも苦痛であって、そして、そうとしか思えない幸村は自分自身に一番の嫌悪感を抱いた。
「……冗談じゃ、なくて?」
 そう尋ねる青葉に、一度は冗談だと開きそうになった彼の口は、軌道を修正した。
「強ち冗談ではない、かな。」
 彼女に不満があった訳ではなく、ただ、ありのままの本心を吐きだした。もう、仮面を被るのは、疲れてしまったのだと、よく理解していたからだ。仮面は何れ必ずはがれる。最初から、仮面を張ってまで違う何かを演じるのは、間違っていたのだ。
「俺は恐らく、青葉が思っている程、完璧な人間なんかじゃないよ。」
 そう言えば、彼女は一度、驚いたようにたじろいだけれど、的確な言葉を見つけたのか、冷静さを取りもどし、告げる。
「完璧な精市だったら、私多分に好きになってなかったし、そんな人きっと居ない。でも   。」
 でも、とそう言葉を止めて、青葉は幸村を痛いほどの真っ直ぐな眼差しで見つめながらに、言う。
   でも、ただの正論でしかないけど、私は精市が戻ってきてよかった。好きだけど、居なくなって欲しいだなんて、微塵も思わなかった。何よりも、戻ってきてくれた事が、嬉しかったから。」
 悔しげに幸村を見つめる青葉に、幸村の歩みが止まる。正論すぎるその正論が、今更ながら彼の胸をつんざした。
「同意されるなんて、夢にも思わなかった。」
「俺だって人間だ。嫉妬くらい、人並みにはするよ。入院中、中々見舞いに来ない、君にね。」
 だったらいっその事、消えてしまえばいいと、そう思った。元からそこに居なければ、来ない事に悩む事も、苛立つ事も、恋しく思う事も、きっとなかった。青葉の友人の言葉が理解出来ないなどとは、今の幸村には言う事は出来なかった。
「本当は行きたかったよ。毎日でも。」
「今更そんな事言って、どうなるっていうんだ。」
「言い訳に聞こえるならそれでもいい。」
 唇を噛みしめ、今にも泣き出しそうな青葉に、幸村は首をかしげる。何故、彼女がそこまで悔しそうにしているのか。泣きたいのは、こちらの方であるのに、と。ふつふつとした怒りにも似た不満をぶつけようとした幸村の口は、青葉に遮られた言葉によって、静寂を試みた。
「私が行くのは簡単だった。でも、それで精市に満足されては困るの。早く、戻らなきゃいけないって、そういう感情を常に忘れてほしくなかったの。私だけでなく、テニス部員、皆がそう思ってたよ。」
 言い終えて、気を緩めたのか、零れ落ちた青葉のそれに、幸村は何も言い返す事が出来なかった。
「精市が戻って来るって信じてたからこそ、出来た事なんだよ。」
    貴方は、王者立海の頂点に君臨する、皆のボスなんだから。いつだって。
 その、たった一言だけで、彼の心は救われたように、暗闇がかった孤独な世界から、引き上げられた。



 幸村は授業を終え、テニスコートへと向かう。すれ違う部員が、キラキラとした目で、彼に一礼をしながら、通り過ぎていく。自分もかつては、彼らのようであったのだと、そういう時代があったのだと、彼は思いだす。自分は有頂天になり、そこが自分にとっての不動の位置であるのだと、いつしか感違いするようになっていたのかもしれない。幸村は、そう改め、そんな浅ましい自身を人知れずせせら笑った。
「あ、部長!おはようございます!」
 歩み寄ってきた、部を任せた切原に、どうようもない愛おしさを感じたのは、やはり彼女のおかげなのだろうかと、彼は思う。
「部長は君だろう、赤也。俺はもう、ただのOBだよ。」
 そう言えば、少し嬉しそうに笑う切原を横目に、幸村は戦場へと突き進んでいく。自分との決別を、嘗ての自分との決着を、つけるために。その先にいつだってある、頬笑みを、目指しながら。
「青葉。」
「うん?ああ、おはよう。今日は随分と機嫌が好さそうね。」
 彼女だけは、自分の事をよく理解しているのだなと、彼は改まる。強さだけでなく、弱さをも理解し、そして、それを叱れるだけの強さを持っている青葉に、幸村は呟く。
「もう少しだけ俺のテニスに、付き合ってくれないか?」
 その言葉に、彼女は呆れたように、笑った。
「馬鹿。断られたって、ついて行くに決まってる。私がどれだけ精市のテニスに惚れこんでるか、知らないの?」
「そう言われると、俺は俺自身のテニスに嫉妬したくなる。」
「…よく言う。」
 続く様にして、真田の決め台詞を叫びあげた青葉に、幸村も、笑った。その笑顔が、あまりにも愛おしくて、彼の中にあった昨日までの考えは、綺麗さっぱり覆される事となった。この女は、殺すには、あまりにも惜しいと。いつまでも手の届く位置に置いておきたくなる、そんな彼女の偉大さを噛みしめながら、幸村はラケットを握った。待ちかまえるテニスコート<戦場>へと、誘われた。

三百六十度の世界
( 2011'09'30 )