肉か魚か、多分そんな話をしていた気がする。 多分という言葉にはふんわりとした要素が詰まっている訳で、その話をしていた!という明確な記憶が残ってはいないということを示している。敢えて回りくどく言っているのは、記憶がはっきりしていないだけでなく、それが恐ろしく下らないことであることは明確だからだ。 リョータと喧嘩をした。 三日前の出来事だ。 喧嘩をしたという事実は残っている(三日喋っていない)のに、その喧嘩をした理由はどこか曖昧になっていてはっきりと思い出すことができない。かなりの高確率でどうでもいいことには違いないだろうと思う。 二十度ほど首を横に傾けて考えてみて、肉か魚かどっちがいいという話になってテリヤキバーガーかフィレオフィッシュか、という話に発展してしていった気がするけれど、流石にそれが原因ではないと思いたい。 喧嘩は愚か、仮にディベートのテーマだとしても些か馬鹿げている。 ⌘ 十分休みの度に時間を惜しんで愛を囁き合うような関係ではないし(そんな関係はあまり聞いたことがない)、リョータはバスケ部のキャプテンとして結構忙しくしていたりもする。 だからだろうか、些細な事で喧嘩をする頻度が以前よりも増えたような気がする。お互いのことが見えていたクラスメイト時代と違って、見えない分だけ考えることだってある。 この感情がなんなのかなんて、分かってる。 「ねえヤス〜。」 「なに?リョータと喧嘩した話?」 「ネタの仕入れ早くない?」 「早くないよ、もう三日前からリョータすんごい機嫌悪いし。」 こういう時につい頼りがちなのがヤスの存在だ。もしかしたらヤスは私の運命の相手なんかじゃないかと思ったこともあったし、それを口に出して本人に勢い余って伝えたこともある。 結果的に返ってきたのは「仲の良い友達だとは思うけど運命ではないかな?」というとても冷静な回答だ。あまりにも衝動的すぎる自分の言葉に相反したように冷静なヤスの言葉が結構突き刺さった。 告白して失敗した感じに見えるかもしれないが、ちなみに告白をしたつもりはない。 ヤスとは湘北に入学してから一、二、三年と全学年でクラスメイトだ。更に驚くべきなのは、中学時代の同級生でもあるヤスとは中高の通算六年を同じクラスメイトとして過ごしてきた点だろう。 どうやらそれは彼の中では運命ではないらしいけれど。 「てか僕に声かける時っていつもそうでしょ?」 「そう?」 「そうだよ、まさか自覚なかった?」 「自覚もなにも…そんなことないでしょ。」 もっとヤスとは愉快な話をしていたつもりだったけど、思い返してみれば確かに喧嘩した時の話ばかりが浮かんでくる。強ち間違ってはいないのかもしれない。結局リョータのことを相談できる友達なんてヤスだけという結論にたどり着いた。 こんなに的確に知っている人は他にいないから。私のことも、リョータのことも、私とリョータのことも。 「ちなみにリョータもだけど。」 「……ふうん?」 「ふたりともよく似てるよ、ほんとに。」 「全然似てないってば。」 「よく言うよ、ふたりして同じこと言ってる。」 ヤスは困ったような顔をしてそんなことを言っているけれど、聞いているこっちも反応に困ってしまい無意識に口が尖っていく。「たこみたいな顔してるよ?」心の底から善人に見えるヤスの言葉はたまにド直球に飛んでくる。 「いじっぱりで、自分の恋人が好きで好きで仕方ないとことかね?」 なんだか急に追い詰められたような気がするのは何故だろうか。冷静に細分化していくと、それはリョータのことを話していて、けれど私がリョータと似ているというのであれば、それは私自身にも跳ね返ってくる言葉だからだ。 「……そんなことない。」 リョータと自分が似ているかどうかなんて実際考えたことはなくて、けれど自然と手に取るものが同じだったり、アルバムのマイナーな隠しトラックの曲が好きだったり、同じタイミングで笑ったり、苦手な教科が一緒だったり………ちなみに体育以外は全部苦手だけど。 「早く仲直りしたいんでしょ?」 「……そんなんじゃない。」 「ほんと素直じゃないとこもそっくり。」 ヤスは部活に行く準備をしているようで、荷物を鞄に詰め込んで完全にながら聞きだ。私がリョータと喧嘩する度に同じような似た話を聞かされているからか私の扱いに長けている。というより慣れ過ぎている。 今頃になってなんだか少し恥ずかしい。多分遅いけど。 「最近リョータすぐ怒る。」 「それはちゃんも一緒でしょ?」 「………………」 「今思ってること、多分リョータも同じこと思ってるよ?」 ヤスにそう言われるとなんだか不思議といつも冷静になって言葉を飲み込むことができる。言われてみれば最近些細なことが引っかかっているような気がした。 去年の夏のインターハイ、無名の公立高校でしかなかった湘北の名は全国に広く知れ渡りスタメンの五人は一躍時の人となった。 それからというもの、やたらとリョータの女子人気が高い。多分本人も満更でもないだろうから当然良い気はしないし、何を今更?とリョータの良さをバスケや知名度でしか図ることの出来ない周りの人間に対しても何だか腹立たしい。 そして最終学年に上がった今、クラスが離れ、常にリョータが近くにいる環境がなくなってしまった。見えない分、見えない事を勝手に想像して敏感になる。 その感情が何なのかは知っているけど、素直に認められるほど可愛い甘え方を私は知らない。 「ほんとに私のこと好きならもっと優しくしてくれたっていいじゃん?」 言ったそばから緩やかな後悔が始まる。 大事にされてない訳じゃないし、優しくされてない訳でもない。きっと私自身が上手くリョータに甘えられていないんだろうと思う。 結局ヤスに話しかけることで、リョータと仲直りするきっかけを探している自分がいる。自分から謝ればそれで解決するとても簡単なことが、私には少し難しくて遠回りが必要らしい。 「今週の土曜部活休みだけど約束してないの?」 「喧嘩する前に約束してたけど……」 「待ち合わせ何時?」 「……確か一時。」 土日休みも関係なく常に日常にバスケが組み込まれているリョータにとって、丸一日の休みなんて相当珍しい。何処で何をするか一緒に決めていた時のあの高揚した気持ちを思い出すと胸がきゅっとする。 「そしたら十二時に待ち合わせした場所に行ってみるといいよ。」 ヤスの言葉の意味がいまいち理解できない。 その言葉が何を意味しているのか、そこに行けばリョータがいるという意味なんだろうか。まだ仲直りどころか喧嘩してから一度も話してもいないのに? 「なんで?」 「きっと行ったら分かるから。」 「なにそれ……」 そもそもリョータが待ち合わせの場所に来ることすら決まってもいないのに、一時間も前にそこへ行って何があるんだろう。何度かその後もヤスに真相を確かめてみたけれど上手く交わされて、彼はついに部活へ行ってしまった。 仲直りもしていないのに自分だけ一時間も前に待ち合わせ場所に行くのは何だか少し癪で、けれどあんな意味深でしかない言葉を残され行かない訳にはいかない。 いまいち腑に落ちず不本意ながらもヤスの言葉の意味を確認すべく、私の足は藤沢駅南口へと向かっている。 土曜日の正午、憎らしい程の快晴だ。 ⌘ 限界を感じて一度財布と相談してから、そのクロワッサンを鞄に仕舞い込んで、正面の某ドーナツ店で一番安い小さなドーナツを購入して駅のロータリーが見える席を陣取って時間をかけてちみちみ食す。 ⌘ まだ待ち合わせに来たのか、それともただふらっと藤沢まで買い物をしに来たのか判断がつかない。暫く声はかけずに私はリョータをじいっと監視する。周りのテーブルから「あのお姉さんどうしたの?」と幼い声が聞こえて必死になっていた自分に居た堪れなくなってパクりとドーナツに齧り付く。 ⌘ 時々辺りを見渡しながら時計を見て……そんな行動が二回三回と繰り返されて最早ルーティンのようになっている。こうなったら最早別の誰かと待ち合わせをしているんじゃなかろうか。彼にとっては久しぶりの完全なる休日なのだから。 何度かそんな彼のルーティンを見ていて不思議に思う。 リョータがそこで立ち止まってから五十分近く経っているのに、様子が一向に変わらない。五十分も同じ場所で何もせずただ立っていても楽しいどころか退屈でしかない筈なのに。それに反してリョータの顔には妙な落ち着きがあった。 ⌘ 徐に髪を触り始めて、前髪を気にしているようだ。向かいの旅行代理店の窓ガラスに映る自分の姿でセットを直しているようだった。服の着こなしなんかも軽く見ているようだ。明らかに先ほどまでとは様子が違う。 ⌘ ヤスの言葉をもう一度思い出して、急にリョータの動きとリンクしたような気がしたのだ。 もしこれが私の盛大な勘違いでなければ──、恐らくそうでなければヤスがあんな意味深な言葉を敢えて残すとは考えにくい。とても自分に都合のいい理由が思い浮かんで、一気に体感温度が上昇する。 一時間前からリョータが待ち合わせ場所に来ることを何故ヤスは知っていたのか。きっとそれはヤスに未来予知の特殊能力があるからという突飛な理由なんかじゃなくて。 私と待ち合わせをする時、リョータが一時間前に来ていることは今日だけでなく“今まで”もずっと当たり前のように継続されていた事実だったんじゃないだろうか。 だとしたらそれは何故か? いつだかリョータの練習試合が終わったタイミングで待ち合わせをした事があった。 午後五時、いつものように藤沢駅の南口ロータリー前。リョータではない他の人に話しかけられて困ったこと。 さらっと交わすことは簡単で、けれどそうなると連絡手段のない私たちは落ち合うことができない。何とか粘り、その場に居続けて後から来たリョータに怒られたことがあったのを思い出す。 もしリョータがたまたま出会しただけであろうそんな事をずっと気にかけていたとしたら? 急に心臓の音が煩くて、体を伝って耳元までぴくぴくしている気がする。 ここまで自分に都合の良すぎる解釈をしてもいいものか否か。万が一それが間違っていたらとても恥ずかしい。けれど、何度も下らない事で喧嘩をしても自分の定位置はリョータの隣じゃないと駄目なんだと、そう思う明確な理由を把握してしまった。 一向に体感温度が下がる気配はない。 たまらずトレイを戻してロータリー目指して小走りでかけていく。 私に気づいたリョータは、なんてこともない顔で私の方を向いてポケットに手を入れている。待ち合わせの時に見慣れた、“いつも”のリョータだ。きっとそれが答えで、ヤスの残した言葉の意味なんだろうと思った。 「……お〜。」 「……うん、」 「遅かったじゃん?」 「うん、ごめん。」 喧嘩をしてから数日喋っていない分やり取りは少しぎこちないけれど、しっかり私に会いに来ているリョータが確かにここにいる。ヤスが言うように多分私たちは相当ないじっぱりなので簡単にごめんなさいを紡げない。 言葉が出ないその分、今日に限っては素直に行動に移せたのかもしれない。 「…わっ、なに?」 「久しぶりの感覚だなと思って。」 「そうなの?」 「うん、だから堪能しとく。」 「そうですかい、それは存分にど〜ぞ。」 ヤスの言葉は偉大だと思う。 きっとこうしてこれからもヤスの言葉に私たちは救われるのかもしれない。けれど自惚れではないその事実に、暫くは私もおとなしくすることになりそうだ。噛み締めて、咀嚼して、でもとても消化しきれない大きな感情を抱えながら。 結局喧嘩の原因は何だったんだろうか? 一瞬そんな疑問が脳裏に浮かび上がって、そしてすぐに消えた。反応があった私の右手の感触に、最早そんなことはどうでも良くなっていたのかもしれない。 気怠そうなリョータの声に反して、握られた手は力強く私を捕らえていた。
3,600秒 / 2023’05’17
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