五条悟という男は、知れば知るほど分からなくなる。
 もうかれこれ彼との付き合いも十年を越えてきたが、私は五条の事が年々分からなくなる。学生時代の彼は、少なくとも今よりももっと分かりやすい人間だった筈だ。単純な性格に、気遣いというものを知らない唯我独尊、一言で言うと本当に分かりやすい男だった。多分、分かりづらいのは私や夏油の方だっただろう。遠い昔の事で、思い出すのに苦労する。
 どちらかと言えば欲望のまま生きている部類の人間であることには変わりないけれど、大人になった分だけそこに自制心が加わって今の五条悟は形成されている。こうして任務明けに、私の同意も得ずに勝手にファンシーなカフェに連れて来るくらいの強引さや身勝手さはまだまだ健在だ。
「で、何でこんな店に連れてこられなきゃなんないの。」
「君だって女の子だ、興味ないって訳じゃないだろ。」
 譫言、私がそんな“女の子“と呼べる年齢ではない事も、こんなファンシーな店に興味がある筈がない事もこの男はよくよく知っている筈だ。学生時代を共に過ごし、今も教員という形で付き合いが継続している中で、本当に私をそう思っているのなら彼の理解力は猿以下だ。だから、こうして私をおちょくっているのだ。昔からそういう所は変わらない。
「面倒事を避けるために利用してるだけじゃん。」
「なんだ、よくわかってるじゃないか。」
「だったらもっと違う人に声かけなよ。」
「なんで?いいじゃん、なら気使わないでいいし。」
「あんたが人に気を遣ってるところなんて見た事ない。」
 自分自身をグッドルッキングガイと認識している五条は、時折こうして都合よく私を使う。大人になれば彼の常軌を逸した甘味への執着も和らぐと思っていたが、今に思えば昔よりも多分今の方が甘味への依存度は高くなっているだろう。
 昔よりも今は甘味が楽しめる場所が増え、何でも“映え“を重要視する女子たちによってその場所はいつだって賑わっている。男というだけでも悪目立ちするのに、この顔立ちなのだからより目立つ。だからと言って普段のようにその綺麗な瞳を隠して入店すればそれ以上に目立つということもあって、こういう店へ入る時彼はよく私を利用した。女が傍にいれば、よほど頭の悪い女でなければ声をかけてくるというリスクを避けられるからだ。
「たまには気を遣ってちょうだい。」
「分かってないな、僕に甘えられるなんて結構レアだよ?」
「そのレアカード、転売したら幾らになるかな。」
「しんらつぅ。」
 私以外だと同期に硝子がいるけれど、私のように隙につけ込まれるような隙を五条に与えていないのと、そもそも彼女が術師として外の任務に出ることはほとんどない。だから、こうして彼の甘味へ付き合うのは自ずと私一人になる。
 その唯一のポジションがけっして嫌な訳ではないし、嬉しくない訳ではない。けれど、そのポジションは高専時代から今に至るまで変わらず、そして進歩しない。まるで私たちの関係性にこれ以上の発展がないと正面を切って言われているような気さえした。
 運ばれてきた今流行りのマリトッツォなる食べ物にフォークを入れた五条は、これでもかとふんだんに重ねられているクリームを取り込んでいる。対する私は、そんな五条を見ながら胸焼けがするような甘みを感じながらブラックコーヒーを流し込む。
「あんたさ、健康診断とか行ってる?」
 彼の甘味に対する執着と消費量はまさに常軌を逸している。成人が必要なカロリーをほぼ甘味で賄っているのではないかと思う程、彼は気にする事なく自由に甘味を食する。生まれた時から“特別“だった彼は、体の構造さえも常人とは異なるのだろうか。
「もう流石に身長も伸びてないだろうし、寧ろ必要?」
「そこなんだ、こんだけ食べてたら糖尿の心配とか。」
「あぁ、心配してくれてるんだね。ありがと。」
「あんたと会話しようとした私があほだった。」
 大人になってより彼の甘味への執着とその食する頻度が高まった事に、私には微かに心当たりがあった。言えば、考えすぎだと一蹴されてしまうかも知れないけれど、微かにしか抱いていなかったその疑念が自分の中ではっきりと形になったのは一年程前だ。
 表向きは生徒である乙骨くんが撃退したという事になっているが、夏油にトドメを刺して息の根を止めたのは彼の親友でもあった五条だった。私は、少し離れたところでその結末を一部始終、この目に焼き付けるようにしっかり見ていた。彼の甘味の過食は、ちょうどその辺りから始まったように思う。
「君は食べないの、マリトッツォ。」
「五条が食べてるの見てるだけで消費した気になるくらいもう既に胃が甘い。」
「あ、そう。見てるだけでいいなんて省エネだね。」
 五条が甘味を流し込む度に、私は胸焼けがする。それは彼の摂取しているそれをイメージして甘いと錯覚する感覚とは違う。その分だけ、五条が苦しみを消化しているように私には見えるのだ。だから私も、それを消化するために胸焼けを起こす。軽口を叩くこの適当な感じに振る舞っているのは、半分は彼自身の持ち前のもので、そして多分半分は自分の心の内を人に見せないための予防線だ。私には、五条の心が見えない。
 高専時代の五条は、誰よりも分かりやすく心の移ろいも見て取れるような男だった。機嫌が悪い事すら隠そうとはしなかったし、我慢という事を彼はあまりしなかった。だから、自分の感情のままに生きていて、面倒と思うことはあったけれどすぐに彼の変化には気づくことができた。
 夏油が私たちと違う道を選んでから、五条もまた変わった。徐々に、本当に少しずつ時間を重ねながら変わっていった。自分の心の移ろいをそのまま見せていた透明だった五条は、少しずつ可視化できないように色をつけていった。今は、その色が何色なのかも私はよく分かっていない。
神経質じゃん?ストレス溜まってる顔してる。」
「それ、喧嘩売ってるでしょ。」
「喧嘩なんて売らないさ、甘味はストレスを救うよ。」
「…ストレス、ねえ。」
 胃にダイレクトに流れ込んできたブラックコーヒーが少しだけ染みたような気がして、私は珍しくフレッシュをそれに流し入れる。ストレスの多い私に胃に、少しばかりは膜を張って労ってやれるだろうか。
 スプーンでカラカラと二、三度かき混ぜて口をつけると、先ほどよりも少しまろやかで胃にかかってくるストレスも少しだけ軽減されたような気がした。
 この男に対する特別な感情を抱いたのは、夏油が離反して以降の事だ。私は、この男のことが好きなんだと思う。
 大切なものを失っていく感覚を、知ってしまったからなのかもしれない。もし残ったのが五条じゃなく、夏油だったとしても私は夏油に同じ感情を抱いたのかもしれないし、やっぱりそれが五条だったから好きと思うことができるのかもしれない。どっちにしても、わからない。それぞれ違えてしまった道を戻る事はできないし、やり直しができるとしてももう夏油がいないのだから確かめようもない。
「五条にとって、甘味以外のストレス解消法って?」
 術師として生きていくことに、昔から覚悟は持っていた。元々術師の家系に生まれたという事もあって、自分が異質な存在であることを早くに自認していたのもその要因かもしれない。時には人を殺めることもあるだろうし、仲間が死んでいくことだってザラにあるだろうと、自分の中でそう割り切っていたつもりだった。
 けれど、現実はそんなに甘くはなくて、何かが失われるたびに私の心はひずみを生じて、どんどんと壊れていった。護衛対象の死、身近な後輩の死、親友の離反、事あるごとにそのひずみは溝を深くして、私を傷つけていった。
 いつか慣れる、これが日常になる日がきっといつかやってくると自分を励まし続けてなんとか今日も私は術師として生きている。多分、そんなギリギリの精神状態でも私が術師でい続けられているのは、この男の存在あってに違いない。五条がいなければ、とっくの前に私の強度の弱い糸はぷつりと途切れてしまっていただろう。
「“特別“を作らないことかな。」
 言われて、はっとする。この数年間彼に感じていた違和感と、その言葉が不思議と一致したようなフィット感を感じたからだ。バラバラに散りばめられているパズルのピースを重ねて、ちょうどぴったりと嵌った時のように全ての納得がいったような気がした。
「特別って?」
「何か特別のものを作らないってこと。」
「たとえば彼女とか、そういうの?」
「うん、まぁそれもそのうちの一つかな。」
 これだけ長く五条を見てきたけれど、彼に女の影を感じたことはあまりない。そもそも彼は特級呪術師として、そして教師として多忙を極めていてそんな事をしている時間など単純にないと言えばしっくりくる理由だ。
 特級ではないにしろ同じ術師として、学生時代から一緒に連んできた私がその存在になれはしないのだろうかと考えても見るけれど、それは私の一方的な願望でしかない。五条から私に対しての感情は、そんなよこしまなものは多分含まれていないだろう。だから、私はずっとこの生殺しのようななあなあな関係を継続してしまっている。
「生徒もいるし、も硝子だっている。僕にはそれで充分だし、そんなに欲張りって訳でもない。」
 五条自身も多くのものを失って、手放して、そういう思想に至ったのだろうと思う。私の名前と硝子の名前がでているのに、そこに夏油の名前が連なっていないのが不思議にも思えて、そして素直に寂しい。多分、今の五条を形成したのは夏油の存在が大きいだろう。
 唯我独尊で俺様だった五条は、その根底にあるベースこそは今も変わらないけれど少しだけ雰囲気を変えた。一人称も変わったし、口調も少し穏やかになった。言っている内容は卑劣だったり相変わらずだけれど、社会に適応するように少しずつ変わっていった。
「じゃあ、私は特別だね。」
「うーん、そうだね。君は特別だ、それも格別に。」
「…特別は、作らないのに?」
「特別って取り消しできないから。だから新しく特別を作るのはやめたんだ。」
 自分が彼にとっての“特別“である事は、私自身がしっかりと体感している事実だ。間違いなく彼のことを一番知っていて、今もなお一番近い距離にいるのは私だ。昔から今に至っても、私にとって五条は“特別“だし、それは彼にとっての私もそうなんだろうと思う。だから、今もこうして近い距離感でいる私を許容してくれているのだろう。
 よく知りすぎて、距離が近いからこそ逆に五条が見えなくなっているのかもしれない。彼が本当のところは何を考えていて、どんな気持ちでこの世界を生きているのかを私はわからないのだ。どうでもいい事はいくらでも話してくれるのに、いつかを境に彼はあまり自分の話をしなくなった。
「だから君はずっと特別なんだ。」
 苦楽を共にしてきた私たちだからこそ、五条と私だからこそ分かり合える事なんて沢山あるはずなのに。私にしか分かってあげられない苦しみもあるはずなのに。私たちは同じ境遇を生きてきて、そして同じ傷を共有している筈なのに。
 どうして私は五条にとっての特別なのに、それ以上になる事ができないのだろうか。
「普通特別だったら、もっと近い関係性を求めるんじゃないの?彼女にしたいとか、独り占めしたい、とかさ。」
「彼女なんて終わったら“特別“じゃなくなるだろ。」
 あぁ、確かになと思う。色恋沙汰の含まれた関係性に一生とか絶対とかの確約はない。今の彼にとっての特別である私の方が彼女にする事よりもよっぽど価値が高いのだろう。この男が私を彼女にしない理由がしっくりときて、妙に納得してしまう。そもそも女として興味がないという理由だったら、泣きそうだけれど。多分、そうじゃないだろうと勝手に思った。
「僕は少ない“特別“を大切にして生きていくよ。」
 一生という言葉は存在はしているけれど、実在はしない。人はよっぽどのことがなければ同時に死ぬなんてこともないしそんな約束は不毛だ。始まれば、何でも必ず終わりが来るのだと、続けるようにして彼はそう言った。
「だから申し訳ないけど、君の彼氏にはならないよ。」
「お願いもしてないんだけど。」
「あれ、違った?てっきり彼女にして欲しいのかと。」
「自意識過剰、そろそろ治そうね。」
 もし五条が離反して、夏油が残る未来があっても、やっぱり私は夏油に同じ感情を抱いただろうなと思う。私にとって五条も夏油も同じく特別だからだ。
 けれど、やっぱり五条だから好きなんだろうなとも思う。ストレートな物言いをするくせに、掴みどころがないような五条を私はもう何年も追いかけ続けている。誰にでも器用にコミュニケーションを取る五条こそ、多分不器用なのだ。自分の感情に甘えたり、人を頼ったり、簡単にできるような事をできる器用さを持っていない。だからこそ私は彼を支えたかったのだろうと気づいた。好きという感情と共に、頼って欲しかったのかもしれない。けれどもう、彼女にしてもらうよりもよっぽどの言葉をもらってしまったのかもしれない。
 もう私たちは、お互いを失うことは出来ない。唯一無二の存在として、この先も私たちだけはずっと特別でなければならないのだ。一生なんて言葉は存在しないと彼は言うけれど、特別が継続することだけは一生であればいいのに。
「私にとっては充分、あまい。」
 別に彼を支えるのであれば、そこに新たな関係性は必要ない。私は彼にとっての“特別“で、彼が失うことを恐れるくらい大切にしてくれている存在なのだから。
 自惚れないでねと聞こえてきそうで、それを口に出すことはしないけれど、どこかすっきりとした気分になった。小さなフォークを手に取って、五条のマリトッツォのクリームを掬って含むと口全体に甘みが広がった。
 もう胸焼けは、なかった。


愛に傷はつきもの
( 2022’03’20 )