馬鹿
 [名・形動]《(梵)mohaの音写。無知の意》

一 知能が劣り愚かなこと。また、その人や、そのさま。人をののしっていうときにも用いる。あほう。「―なやつ」
二 社会的な常識にひどく欠けていること。また、その人。「役者―」「親―」
三 つまらないこと。無益なこと。また、そのさま。「―を言う」「―なまねはよせ」
四 度が過ぎること。程度が並はずれていること。また、そのさま。「―に風が強い」「―騒ぎ」「―正直」
五 用をなさないこと。機能が失われること。また、そのさま。「蛇口が―で水が漏れる」→馬鹿になる

 突然だが、私はこの五つ全てに当てはまる完全無欠の、馬鹿である。彼に言われたこの言葉を電子辞書で調べると、それがただの私自身でしかなく、呆れを通り越してこみ上げたのは苦笑だった。彼の言う通り、私はきっと馬鹿に違いない。けれど、それでも尚、馬鹿を辞められない私は救いようのない馬鹿なのである。
 いかにして私が馬鹿になっていったのかを、話す事にしよう。
 これは、酷い、一種の笑い話である。




一、
 高校三年生の、秋。私には初めての彼氏が出来た。
 今までも告白された事がなかったわけではなかったけれど、付き合うには相手とのある程度の距離と接点が必要であると思っていた私にとって、彼はその条件を軽くクリアした初めての男だった。幼稚舎の頃からの知り合いである彼、名は芥川慈郎。性格は至って温厚。問題は、なし。
「青葉って何で誰とも付き合わないの。」
「なんでって、だって、好きでもないのに付き合ってどうするの。」
「付き合ったら好きになるかもしんないし。」
「えー、なんかそれって不純。」
 この頃の私は、至ってまともな人間だったと思う。所々馬鹿が部分的に存在していたにしろ、まだ全部が馬鹿に染まってしまう程の馬鹿ではなかった。私が馬鹿へと華麗に転身したのは、言うまでもなく、彼と付き合った事にある。慈郎が、私の全てを狂わせた。
「じゃなきゃ俺、青葉に告っても付き合ってもらえないじゃん。」
「…は?」
 単純に、私が聞きそびれた事に対する疑問符と捉えたのか、彼は首を横にかしげるように私を覗きこんで、もう一度同じ言葉を繰り返した。「青葉がそうじゃなきゃ、俺が告っても付き合ってもらえないじゃん。」私が聞きたかったのは、そういう事ではなかった。ただの会話の流れで、告白とも取れる愛の言葉が出てきたのが驚きだったのだ。けれど、不思議と、胸が高鳴った。
「いいじゃん。俺ら、付き合ったら絶対楽しいし。」
「何で断言できるの。」
「だって好きだし?好きだったら大切にするじゃん?そしたら絶対楽しいじゃん。」
「前から思ってたけど、慈郎って結構強引だよね。」
「そう?青葉は強引なのって嫌い?」
 私は一度冷静になって考える。強引なのは、嫌いじゃない。相手にはリードして欲しいという願望もある。けれど、強引すぎず、ある一定の距離を保てる、そんな人が理想だった。もう一度冷静になる。理想と、慈郎を重ね合わせた時、驚くほどにそれは重なり合った。
「…嫌いじゃない。」
 確実に、私の心は高鳴っていた。それが恋であると、気づいたのはこの瞬間であったけれど、それでも確かに、それは恋だった。
「じゃあ決まりね。」
 いともあっさりと、私は彼の要求を受け入れ、彼と恋人の関係を築く事になった。今思えば、このスタート時点から、彼に主導権を握られていたのかもしれない。
 それから一週間が経った頃、私と慈郎の恋は、可笑しなくらいに順調だった。慈郎の事だから、もっと自由奔放でほったらかしにされるのだろうと思えば、そうではなく、友達の延長にある恋の様に、それはどうしようもなく私を楽しくさせた。初めての恋が彼であって本当によかったと思いつつ、これが間違いなく恋であり、恋愛であるのだと幸せを噛みしめた。
「慈郎って女子と仲良いから、私、もっと嫉妬するかと思ったなあ。」
「だってそれは青葉と付き合ってなかったから。今は青葉が一番だし。」
 誰もが、照れて言えないような事を平然と言ってのける慈郎をすごいと思いつつ、やはりそんな言葉を数々受け取る身として、それはこの上なく嬉しい事だった。
 付き合って二週目に差し掛かった頃、初めて手をつないで帰った。そっと絡んだ手に驚きを隠せずに彼を見上げると、彼は照れている素振りもなく、ただニカっと太陽のように眩しい笑顔で答えた。恥ずかしがっているのが自分だけであるのだと知ると、より一層と恥ずかしくなった。
「青葉って案外照れやさんだよね。」
 そんな事を言われては余計と顔を上げられなくなる事をこの男は分からないのだろうか。いや、分かる筈がない。この男に恥ずかしいという感情はないに違いない。だからこそ、顔をあげたら私の負けな気がするのだ。いつだって、私ばかり、そんな思いが勝手に勝ち負けの世界へと私を誘う。けれど、結局は彼に心底惚れている私は、その真っ赤な顔をあげてしまうのだ。
「可愛いじゃん。」
 悪魔の様であって天使の様なその笑みが向けられたと思えば、すぐ後にその顔面が私に近づいた。彼にとっては数ある内の一つのキスであって、私にとっては正真正銘の初キスだった。
「うわ、顔!青葉真っ赤。」
 この余裕が、憎らしい。けれど、私はそんな彼に、振り回されつつも、べた惚れているのだ。
「あ、そういえば!今日母さん外食で遅いんだって。ウチおいでよ。」
 この笑顔に、私は弱い。首は、縦に揺れた。
 慈郎とは友達だった頃も、今も、基本的にはあまり変わらない。もちろん友情が恋愛に発展した事には違いなかったけれど、それでも私は彼をあまり男として意識していなかったのかもしれない。だから、何の迷いもなく彼の言葉をうのみにして、部屋へと上がり込んだのだ。
「うわあ。慈郎の部屋すごい久しぶり。十年ぶりくらいかなあ。」
 十年前と大差のない彼の部屋で純粋にはしゃいでいたのは私だけで、すぐに彼の異変に気づく事になる。そっと抱きしめられたかと思えば、耳元で吐息まじりの慈郎の声が響いた。
「青葉、俺、シたいんだけど。」
「…そんな事言われても。だってまだ、私達付き合ってばっかりじゃない。」
「好きだったら早い遅いとか関係ないし。」
「でも、心の準備とか、…あるし。」
 ありのままの本音、けれど、慈郎の表情は明らかに曇っていた。私の知らない、男としての慈郎の顔。身の毛がよだつような寒気が、体中を走り抜けていった。
「なんで?青葉は、俺の事嫌いなの?」
 そんな訳がないのに。彼はずるい。私がそんな事を言う筈もないと分かっている癖に。もちろん、私は首を横に揺らすと、「俺も。好き。大好きだよ。」なんて、甘い言葉に曖昧にされたかのように、制服の下から手が伸びてきた。
「慈郎…。」
「大丈夫、絶対に痛くしないから。優しくするし。」
 結局私は頷くしか手段がなく、なされるままに、ただ彼に身を委ねるしかなかった。指先が下の方へと移動していくまで、然程時間はかからず、先ほどしてばかりのキスとは違うそれが、手の動きを誤魔化す様に、私を攻め立てているようだった。
 ベットに倒れ込むと、引き出しにあるコンドームの箱を、慣れた手つきで取り出す慈郎にも、私は余裕のなさから、何とも思う事無く、彼に処女を捧げる事になってしまった。
 優しくすると言った彼は、酷く動物的で、荒々しいまでに本能の赴くまま、私の体を弄んだ。とても初夜とは思えぬほどに、強引で、独りよがりなセックスだった。



二、
 付き合って一カ月が経った頃、慈郎と私の対等だった関係は、徐々に崩れていった。体の繋がりを機に、慈郎はどんどんと変わっていった。あれだけ優しかった彼は、酷く冷たく、私を突き話しているようで、結局体の繋がりを持ってしか、彼は私に構ってくれないようになっていた。
「何?構って貰いたいからってそうやってすぐに俺に抱かれてるの?お前ってサイテー。」
 そう言いながら、彼は笑って私を抱く。けれど、私はそうでもしないと彼に振り向いてもらえない事を知っているからこそ、反抗する事もなく、彼に抱かれ続ける。一日に、何度も。酷く理性の弱い慈郎は、時と場所を選ばない。昼休みや放課後だけに留まらず、授業中なんてこともザラだった。黒板を突くチョークの音をバッグに、何度彼に抱かれた事だろう。私達は、一か月前と、何もかもが変わってしまった。
「慈郎。たまには普通にデートしたりしようよ。」
「普通って?何?」
「買い物いったりとか、カラオケとかさ、前は行ってたじゃん?」
「いや、タリーし。」
 もはやデートでも何でもない、ただのセックスフレンドの様なこの関係に、私も正直うんざりとしていた頃だった。顔を会わせば、今日はいつ抱かれるんだろう、そんな事しか思えなくなっていた。数ヶ月前の、あの、キラキラと眩しく輝いていた慈郎の笑顔が、私には思い出す事が出来ない。
「お前だってセックス嫌いじゃないじゃん。いっつも気持ちよさそうな顔してるし。」
「…そんな。」
「今だって、そうやって青葉が誘ってくるような目してるから。」
 結局はどんな話をしたところで、論点はそこへ移り、私は彼の性奴隷の様に彼に体を弄ばされるのだ。いつだって独りよがりの慈郎のセックスは、私には辛かった。前戯もろくになく、自分のタイミングで絶頂に達する慈郎のセックスに、私も限界を感じていた。
「何が気に食わないんだよ。」
「気に食わないんじゃなくて、たまには違う事もしたいって言ってるの。」
「ふーん。じゃナマでやろっか。」
 私の言葉など、彼には届かない。きっと、慈郎は私の事をセフレとでも思っているのだろう。もしかしたらそれ以下かもしれない。
「慈郎やめてよ。」
「いいじゃん。気持ちいいんだし。」
 そうやって、彼はまた私を弄ぶ。私に拒否権など、存在しないかのように自分の意志ばかりを突きとおして、私の中に突き立てた。その行為の途中、ずっと考えていた事がある。次会った時、彼との関係を、終わらせよう、と。



三、
 土曜日と日曜日を挟んだ、翌週の月曜日。私は、意を決して教室へと歩みを進める。一応辺りを探しては見たけれど、彼の姿はない。朝の内に全てを終わらせたかった私にとってそれは残念な事に違いなかったが、慈郎が朝の早くに教室にいる事などありえないと知っていた筈の私も、実に頭が残念だったのだと思う。案の定、彼はチャイムが鳴り終えた後に、眠気眼を擦りながらやってきた。
 疲れでも溜まっているのだろうか、休み時間も彼は起きる事はなかった。いつも長い休み時間にもなれば「Hしよ。」なんて言って来る慈郎なだけに、今日はタイミングが悪い。全てを放課後に懸けるしかなかった。
「慈郎、見た?」
 帰りのホームルームが終わり、トイレに行っていた隙に、彼はどうやら部活に行ってしまったようだ。珍しい事もあるものだなと、そう思った。けれど、今日中にケリを付けると決めたからには、彼の部活が終わるのを待つより他ない。私は、教室で慈郎の帰りを待つ事にした。

 :

 ふと、気が付くと、時刻は夕方を過ぎていた。景色は暗い。どうやら、気づかない内に眠ってしまったみたいだ。もしかすると、慈郎は帰ってしまっているかもしれない。半分諦めかけたその瞬間、ガラン、と勢いを付けた教室のドアが開いた。そこには、放心したような、まるで私の知らないような、でも確かに、慈郎が立ちつくしていた。
「慈郎、どうしたの?」
「………。」
「…慈郎?」
 問いかけても慈郎はそこから動く事は愚か、何も喋ろうとはしない。ただ、立ちつくしていた。取りあえず椅子から腰をあげた私に、慈郎は行き成り私の元へと飛び込んできた。
「俺、やっぱ青葉しかいねーわ。」
 ぎゅっと私を抱き寄せた慈郎は、私が知っている昔の慈郎のようでありながらも、それよりも弱弱しい。まるで、甘える子どもの様に私に縋った。
「俺の事、待ってたの?」
「…うん。」
 話を聞けば、部活で色々とあったらしい。放課後は部活にも行かず、もっぱら私とセックス三昧だった慈郎は、練習不足の結果、負けるはずもない相手に負かされたのだという。それが、まるでこの世の終わりの様な、そんな彼の表情だった。
「ねえ慈郎。私達、もう別れよう。」
「なんで?これからはもっと優しくするし!」
「友達に戻ろう。」
「ごめんって!やっぱり俺には青葉しかいないし、青葉なしとか考えられないから。今までごめん。俺達、やり直せるでしょ?」
 いつになく下手に出る慈郎が不気味でもあったけれど、これだけ私の事を欲してくれているなら、とも思った。これを機に、彼は私という存在を考え直してくれるかもしれない。やり直せるのかもしれない、そんな思いが、過去の幸せだった頃の思い出と重なって蘇って来る。
「本当に私の事、まだ好き?」
「好きに決まってる。」
 私は結局、その言葉が欲しかったのだ。その言葉一つで、私は彼の今までを許してしまうのだ。あれだけ私に対してサディスティックだった慈郎がこうなれば、先は望めるんじゃないかって。そう、私は思ったのだ。自分の馬鹿に、気づく事無く。
「ほんとに、絶対に、大事にするし。」
 いつになく真剣味の帯びた慈郎に、私はいとも簡単に頷いてしまった。私は別れたかったのではなく、もしかすると彼に自分が必要であると引きとめられたかっただけなのかもしれない。酷く安易でずるい、そう思ったけれど、やっぱり私は慈郎の傍を離れられるはずがなかった。冷たかったり、放っておかれたり、乱暴であっても、やっぱり彼が好きなのだ。
「…嬉しい。」
 それは、違いなく、私の心の底からの言葉だった。必要とされている自分が、何よりも嬉しかった。
 冬の、夜の教室。当然の様に、慈郎は私を机に押し倒す。けれど、私は今日は抵抗せずに彼に身を委ねた。いつもと違う、優しさを感じたからだ。いつだってろくに前戯もなくそのまま挿入する慈郎ではなく、私を気遣う様な時間をかけた前戯をしてくれた。きっと、初めて。
「青葉、気持ちいい?」
 明らかに私を気遣うその言葉が、何よりもたまらない。優しい言葉と、優しい前戯が、私の全神経を研ぎ澄ませたかの様に、私は達してしまった。まだ本番ではなかったけれど、私は生まれて初めて、本当のセックスをしたような気になった。
「慈郎。」
「なあに。」
「好き。」
 普段、こんな事を言う柄ではないけれど、この時ばかりは勝手に口が動いたとでも言わんばかりに、感情が飛び出た。
「俺も。」
 ようやく、本当の恋人同士になれた気がした。もうすぐ、真冬も近い。下着が剥き出しになった私の素肌を温めるように、慈郎が抱きしめてくれた。たったそれだけの事で、私は今までの慈郎の行為を全て忘れられた。私の頭の中には、慈郎は優しいという、付き合う前にあった彼のイメージが再び舞い戻った。きっと、私はどうしようもなく単純なのだろう。自分の憂さを晴らすために私の体を利用しているのではないか、そんな疑念すら抱かなかった私は、酷く滑稽だ。



四、
 本当の恋人同士になれたと思った、その翌日。慈郎はいつもと何変わらぬ態度で私の前へと現れた。昨日の彼は、私の幻想であったかのように、昨日に見た慈郎は微塵も見受けられない。
「ねえ、慈郎。今日カラオケ行こうよ。」
 そう言えば、彼はあからさまに面倒くさいとばかりに顔をしかめたけれど、言葉で嫌と言う事はなかった。それだけでも、私は彼が気遣ってくれているんだと、ささやかな喜びを感じてしまう。他の人だと何とも思わない様な事でも、慈郎がしていると、全てが気遣いに見えて仕方がない。私の世界は、徐々に慈郎だけになっていく。
 授業が終わり、私達は街へと歩いて行く。会話は、特になし。バイトをしている訳でもなく、万年金欠の私達にとってカラオケはちょっとした贅沢だった。
「慈郎何歌う?」
「お前歌えば?別に俺はいいし。」
「せっかく来たんだし歌いなよ。」
「めんどくさ。」
 彼はそう吐き捨てて黒いソファーに転がってしまった。そうまでして、何故彼はカラオケに来たのだろうか。やっぱり私への気遣いなんだろうか。最悪の状況の中で、私は最善を考える。いつからか、そんな要らない知恵が私についていた。
「ねえ、慈郎ってば。」
「あーもーうーるーさーい。」
 慈郎にそう言われてしまったら、私は黙るしかなくなる。慈郎の言う事が、私にとって全てで、正しく聞こえるのが不思議だった。私は何の疑問も抱く事無く、慈郎に従っている。
「あ、それともヤる?」
 拒否権はなく、私は結局彼の気の向くままに、振り回されているのだ。ただ、私はそれに気づかずに、彼には私が必要だからと、正論ぶった自分なりの真実を自分に押し付けて、なんとか堪えていたのかもしれない。
 結局、慈郎はマイクを握る。彼は酷く気分屋なのである。何が彼をそうさせたのかは私には分からない。かったるそうに寝そべっていたかと思えば、ヤる?なんて聞いてきて、数分後にはノリノリでカラオケを満喫しているのだから分からない。けれど、私はそれで満足だった。慈郎が楽しそうにしてくれている事に、どうしようもない安心を抱いたからだ。
「青葉も入れなよ。あ、これ一緒に歌お。」
「いいねえ。歌お歌お。」
 友達の時のノリに戻った気がした。楽しい。いつもこうだったらいいのにと思う癖に、それでもいつもが嫌だと思わない私は一体何なのか。訳が分からない。慈郎の言う事が全てで、私には慈郎が全てで、きっと慈郎にとっても私が全てで。そう、思わないとやっていけなかった。
 翌日、慈郎の機嫌はいつになくよさそうだった。けれど、それは途中までの話であって、信じられないほどに、彼は機嫌を悪くしたみたいだった。理由は分からない。聞いてみたけれど、もちろん彼は答える訳もない。あまり追求しすぎても彼の逆鱗に触れてしまうかもしれない。私は、腫れものに触れるように、慎重に彼の傍で黙っていた。
「お前何黙ってんの。意味わかんない。」
「…だって、聞いたら慈郎怒るでしょ。」
「は?何?俺がそんなに短気だと思ってんのかよ!まじむかつく。」
 彼の目つきが変わる。やっぱり、何も言うべきではなかったのだと後悔する。こうなった時の慈郎は、止められない。私はただひたすらに謝り続ける。
「慈郎ごめんね、本当にごめん。もう言わないから、ごめんなさい。」
 移動教室の為、徐々に人が減っていく。慈郎が怒鳴り声を上げ始めた頃には、私達だけが教室に取り残されていた。ただ只管に怒っている慈郎に、私は泣きながら謝る。そんななんの変わり映えもしない会話とも呼べない会話を繰り返し、結局彼は私を押し倒す。自分の強さを誇示するかのように、慈郎は私を抱くのだ。自分が正しいのだと、私に言いつけるように。
「慈郎ごめんって、授業始まっちゃうよ。」
「お前煩い。黙って。」
 慈郎、ともう一度名前を呼べば、煩いと口を塞がれた。苦しい。私がそう言うと、慈郎は笑った。怖いという恐怖の感情はあったけれど、それでも私は慈郎と別れようとは思わない。あの日以来、一度も。



五、
 数日後の放課後、私は自分の彼氏が自分以外の女とキスをしている現場に出くわしてしまった。もちろん私は、怒りに身を任せて慈郎を問い詰める。すると、彼は大して悪びれた様子もなく、淡々と語った。
「たまには青葉以外の人とチューもしたいし、ヤりたいじゃん。」
 私には到底見当もつかない感想が耳を過って、意識が遠のいて行く気がした。どうして平然と悪びれた感じもなく、彼はこんな事を言えてしまうのだろうか。彼は余すことなく話す。キスだけでなく、他の女とセックスもしたのだと。淡々と、顔色一つ変える事無く。
「それって浮気じゃない!ひどい!」
「本気があるから浮気なんだろ?いいじゃん、本気なのは青葉なんだし。」
「そんなのってない!あんまりだよ。」
 彼はあくまで私が本命である事を伝えたけれど、それでも尚納得のいかない私に逆に驚いているようだった。いつだって慈郎に順応だった私だから、今回もどうにかなるとでも思っていたのだろうか。そして、彼は思いついたように、口を開いた。
「じゃあ別れよ。じゃあね、バイバーイ。」
 息もつく間もなく、慈郎は手を振って行ってしまう。先ほどまでは慈郎に対する怒りが私の全てに違いなかったのに、今は泣いて謝って縋ってでも彼を引きとめたかった。私が悪いような気になってきたのだ。
「慈郎、ごめんね?もうあんな事言わないから、捨てないで。お願い。」
 泣いて縋る私に、慈郎はかったるそうに振り返る。先ほどまで怒りに任せて発狂していた私は、何故今こんなにも謝りながら必死に彼についていっているのだろうか。自分でもよく、分からない。とにかく、私は何が何でも慈郎と別れるのが怖かったのだ。慈郎が全てで、慈郎を失ったら私は、全てを失うと思ったから。けれど、やっぱり彼の口からは奇想天外な言葉が飛んで出る。
「だったらもうセフレでよくね?そしたらお前も悲しまないで済むじゃん。」
 彼の言葉に驚かされたけれど、一体私が彼と付き合っていた数カ月と、そのセフレと、何が違うのだろうか。違いを一生懸命考えたけれど、何の違いも分からなかった。
 結局、慈郎にとって私は、それだけの女だったのだ。
 そんなの嫌だと、泣いて懇願する私を見て、慈郎は言う。酷く私を見下げたように、面倒くさそうに。
「お前面倒くさいからもういいや。」
 私は、捨てられた。



六、
 慈郎に捨てられてから、半年。私も内部進学を無事果たし、大学生になっていた。慈郎も同じ内部進学ではあったけれど、大学ともなれば高校などとは規模が違う。学科も違う私達は、顔を合わせる事もほとんどなかった。
 私は未だに、慈郎を引きずっていた。何人かに告白され、その傷を癒そうと片っ端から付き合って見たけれど、なんだかしっくりこないのだ。慈郎よりも数段優しくて、私の事を大切にしてくれて、セックスだって独りよがりなんかじゃなく、私を優位に考えてくれる優しいセックス。けれど、どれも慈郎に比べて色あせて見えた。他の男を知れば知るほど、慈郎が良く見えて仕方がない。
 付き合っては別れ、付き合っては別れ、毎月同じサイクルを繰り返していく内に、付き合うのが面倒に思えてきて、徐々に私が散々嫌っていたセックスフレンドに、私はなっていた。恋愛など、極論で言えばセックスなんだと、そう思うようになっていた。
 丁度そんな底辺な生活をしていた頃、私は一人の男と久しぶりに付き合う事になった。氷帝学園では知らぬ人など居ない、跡部景吾という有名人のような男だ。
 跡部とは昔から気が合った。育ちや見た目で勘違いしやすいが、彼はこの上なく気さくで気遣いの出来る人間だ。そんな彼の事だ。きっと、性にふしだらになっている私を気の毒に思い、助けようとしたのだろう。それが発展して、彼と付き合う事になった。
「景吾はさ、もっと私を抱きたいと思わない?」
「…お前昼間っから何言ってんだ。頭は平気か。」
「いや、素朴な疑問。」
 私はようやく、自他共に認める事の出来る本当の幸せを手に入れた。これが、付き合うという事で、これが本来の形なのだと思った。跡部と付き合う事でようやく、慈郎の可笑しさに私は気づく事が出来たのである。
「だってあんまりそういう事しないじゃん。景吾って。」
「誘ってんのか。」
「ううん。ほんとに、ただの疑問だよ。」
 慈郎の事を、久しぶりに思い返す。彼は、私の体を求めない日などなかった。それが、好きの証拠だと私自身も思っていたから何も不思議には感じなかった。逆に、跡部を疑問に思うのだ。彼は、本当に私を好きなのだろうか。時々、そう思うのだ。
「だってセックスって相手が好きだからするんでしょ?あんまりしないって事は、あんまり好きじゃないのかなって。」
「お前がそんなに頭が悪いとは思ってなかった。馬鹿か。」
 慈郎と初めてセックスをしてから別れるまで、私は一日たりとも慈郎の下の世話をかかしたことはなかった。ほぼ強制的だったのもあるけれど、それが当たり前になりすぎていて、何の疑問もなく彼の言いなりになったように抱かれた。今日は無理、と言ったところで帰って来るのは「大丈夫?」の一言ではなく「じゃあ、しゃぶって。」そう言って当然のように彼は私の口の中にねじ込んだ。当たり前なのかもしれないけれど、跡部は私にそういう事をしないのだ。
「昔の事は忘れろ。」
 この人は、私の事をよく見てくれていると思う。私自身よりも私の事を知っているのかもしれない。慈郎との事を知っても跡部は何も言わないし、詮索もしない。けれど、私を受け止めてくれた。どうしようもなく、心地がいい。何かに怯えるようにして付き合う必要も、跡部には必要なかった。
「ありがとう。好き。」
「バーカ。」
 おでこを小突かれた、その人差し指が愛おしい。私は、れっきとした幸せの中に居た。



七、
 大学三年生になった。私は、今も跡部と付き合っている。付き合いは順調だった。私は満たされていた。
 つい先日、久しぶりに慈郎を見かける機会があった。私とは似ても似つかない可愛い女の子を連れた慈郎は幸せそうに見えた。私と付き合っていた頃よりも、ずっと。高校時代の友人に聞いてみると、どうやら二人は付き合って数年になるらしい。まるで、付き合ってばかりの頃の自分と慈郎を見ているようで、まさか付き合って数年経っているとは思わない。二年経ってもあれだけ仲が良いのは、一体なんなのだろうか。それだけ彼女の事を慈郎が大事にしている。答えはその一択だけれど、私はそれを選べない。だったら、私は彼にとって一体なんであったのか。考えたくもなかった。
 慈郎の事を考える時間が、また長くなっていた。これではいけない、何度もそう言い聞かせて慈郎の事を忘れようとしたけれど、そう思えば思う程に慈郎が頭の中を占めていく。たまらず、私は跡部に電話をした。
「景吾、今から家、行ってもいいかな。」
 抱かれる為に、彼に電話をかけた。跡部は口数は多くなかったけれど、私に何かあったのではないかと心配してくれているようだった。やっぱり彼は優しい。慈郎よりも、私はこの人に大切にされている。間違いなく、私は幸せなのだ。
 お屋敷のような豪邸を前に、私はチャイムを鳴らす。慌てた顔で出迎えたのは、跡部本人だった。何も言わず、彼は私を部屋へとあげてくれた。
「ひでえ顔。」
「そんな事ないよ。景吾に会うために、ちゃんと化粧してきたし。」
「そういう事じゃねえよ。」
 一刻も早く、慈郎の事を頭から消したかった。その為には、一刻も早く、跡部に抱かれる必要があった。私は跡部の隣に腰かけ、彼の腕にもぐりこんだ。手っ取り早くその気になってもらうために、太ももをさすった。我ながら、娼婦のようだと思った。
「どういうつもりだ。」
「…駄目?」
「聞いてんだ。」
 彼は自分に強い人間なのだなと、そう思った。私の誘惑なんてどってことないように問い詰めてくる。そういう芯の強い所が彼の良い所で、私が最も好きな彼の部分ではあったけれど、今ばかりはその芯の強さが仇となってしまった。
「抱いて欲しい。だから、来たの。」
 理由は聞かないでほしい、その想いが通じたのか、ゆっくりと私はソファーに押し倒されていく。忘れる為に今こうしているのに、また慈郎の事が頭をよぎった。自分の弱さにセックスを利用するなんて、私が最も嫌っていた事のはずだった。これでは、私は慈郎にされていた事をそのまま跡部にしている事になる。私は、最低だ。
 跡部には何度も抱かれたけれど、抱かれてる途中に、違う人を思い浮かべたのはこれが初めての事だった。いつもだったら目を開けていられるのに、罪悪感でまともに目を開けなかった。目を堅く瞑りながら、慈郎の事を思った。
「自分から誘っておいて緊張してんのか。」
「…ううん。」
 優しくなぞられるボディーラインがこそばい。ゆっくりと時間をかけた前戯が始まった。私の目は、相変わらず開かない。優しい前戯で、いつかの慈郎とのセックスを思い返す。慈郎が初めて私を気遣ってくれたあの日の事。
「青葉。」
 名前を呼ばれて、ふと我に帰る。あの日の慈郎のセックスと、似ているような気がして、勝手に一人で興奮していたと言えば、跡部は呆れるだろうか。口が裂けても言えないと思った。再び、目を瞑る。もし慈郎が跡部のようにいつも優しいセックスをしてくれていたのなら、こういう感じだったのだろうか。そう思えば、いつもよりも敏感に感じるような気がした。
 数年ぶりに、慈郎に抱かれたような感覚を胸に、心は不思議と満たされていた。



八、
 慈郎を久しぶりに見かけてから暫くが経っても、私の脳内を慈郎が占拠していた。それをもみ消す為に跡部に抱かれていた筈の私は、いつの間にか、忘れる為のセックスではなく、慈郎を想うセックスに変わってしまった。慈郎に抱かれている、そんな錯覚すらあった。
 何度も何度も誘ってくる私に跡部もきっと不思議がっているに違いないけれど、彼は何も言わずに私を抱いてくれた。とても丁寧に、優しく。いつだって私を気遣ってくれる。
 とある日、補講講義が時間外に行われ、授業が終わると時刻はもうすぐ九時になろうとしていた。その授業を受けていた生徒以外に姿はなく、私はとぼとぼと歩きはじめる。正面から眠気眼を擦りながら向かってくる青年を見つけ、立ち止まる。
「…慈郎?」
「青葉じゃん。何してんの。」
「慈郎こそ。」
「俺は六限で寝てたらこんな時間なってた。」
「私は補講授業。」
 久しぶりという事もあって、慈郎は真っ暗になったラウンジに私を連れて行った。久しぶりに会う事で、そこそこ会話は弾んだ。こそこそとするよりも、こうして面と向かって慈郎に会う事で、彼の事をすっきりとふっきれるような気がしていた。
「彼女、いいの?私が一緒にいるのばれたらヤバくない?」
「あー、今あいつオーストラリアに留学してるし。」
 一応気にかけているようで、本当に慈郎は今の彼女を大事にしているのだと窺い知れた。私の時は、きっとこうではなかった。それは、慈郎が変わったと考えるよりも、私が彼にとってそれだけの価値しかなかったのだと考える方がしっくりとくる。
「てかさあ、お前まじでいいトコに来てくれたわ。」
 この展開を、私はよく知っている。遠慮のない突き飛ばし、背中に当たる冷たいテーブルの感触、慈郎の私を見下す目、どれもが私が彼と付き合っていた頃によく知っていたものだ。
「留学行ってもう一週間も経ったから溜まってんの。ヤらせろよ。」
 私の許可など彼には必要がない。返事を聞く事などなく、彼は無許可に私の体に進出してくる。ブラウスの中を上って来る右手も、強引に託しあげるその腕も、全て私が知っていたもの。それがどうしようもなく、興奮へと誘っていく。まるで、この瞬間を待ちわびていたように。
「お前抵抗しないの?少しは抵抗されないとヤりがいないんだけど。とんだビッチだな。」
「………。」
 何も言わない私に苛立ったのか、慈郎は強引に私の前髪を掴んで、ドンと壁にぶつけた。暫く慈郎は私の反応を見ていたけれど、それも最早飽きてしまったのか、早々にズボンのチャックを降ろした。私の体の事など何一つ考えずに、昔のようにするのだろうと簡単に予想が出来た。
「締りねーのな。お前ほんとビッチ。」
 ズボンの中から出てきたそれを見る事もなく、それは私の中に突きつけられる。痛い、と声を漏らすと、慈郎は可笑しそうに私を見ていた。
 慈郎は好き放題私の体を弄んで、何度も私の腹の上に自分の欲望を吐き出した。私は、ふと違和感を覚える。昔から彼のセックスは乱暴で独りよがりではあったけれど、今確実に違う事を見つけてしまった。
「…キス、してくれないの?」
「は?お前何言ってんの?」
 慈郎のこの反応は、きっと正しいのだろうと思う。けれど、私は思ってしまったのだ。昔は乱暴でも、キスはしてくれていたのに、と。今のこの状況は、間違いなく、自分の欲望を吐き出す為だけでしかないと気づいてしまったのだ。そこに愛は、必要ないとばかりに。私が慈郎の彼女だった頃なんかからは到底想像もつかないほどに、きっと今の彼女は大切にされているのだろうと嫌でも分かった。
「じゃあさ、キスしてやったら中で出していい?」
 私は、馬鹿だと思う。首が縦に揺れたからだ。跡部という立派な彼氏がいながら彼の友達に性奴隷のように使われた揚句、私は跡部を裏切ってしまった。あれだけ私が欲しいと望んだものを持っている完璧な跡部は、私のちっぽけな欲望の前で崩れ去った。
「いいよ、キスしてやるよ。」
 数年ぶりに触れた唇が、どうしようもなく恋しかった。離すのが名残惜しくてずっと付けていたけれど、慈郎はすぐにそれを離してしまう。私の表情を見て、遊んでいるようにも思えた。
「俺、お前みたいな女はセフレ以外無理だわ。マゾと馬鹿は紙一重だな。てか、お前浮気サイテーとか言ってたのにこういう事しちゃうんだ、サイテーだな。」
 そう言って、彼は再び私の中で己を突き立てる。いつになく興奮した私は、慈郎の首筋に両手を回して、おそらく初めて、同じタイミングで慈郎と達した。
 何度私の気持ちを彼に伝えた所で、きっとこの想いは成就することはない。分かっているからこそ、ムキになっているのかもしれない。けれど、思わずにはいられないのだ。

    こんなに、好きなのに。

愛する覚悟
( 20121130 )