私が過ちを犯したと気づいたのは今から二時間ほど前の事だ。完全にやってしまったと気づいたときには既に時遅し、今日になって気づいた時点で最早取り返しの付かないのだから仕方がないと言えば仕方がない。故意に過ちを犯している訳ではないのだからと、自分自身に言い訳をして落ち着かせるのが先決だった。


 今日は、金曜日。普段の私の華の金曜日のスケジュールは、ざっとこうだ。
 一週間の疲労が一番溜まっているだろう筈の金曜日は、同時にヘブンへの階段でもある。待ち受ける土曜日と日曜日という社会人の休息の前日、一番心が開放的になる瞬間は一週間の疲労すら感じさせないものがあろうだろう。きっと私だけではない。
 数ヶ月に一度会社の達成会やら懇親会やらで少しばかり気が揉まれる金曜日もあるが、基本的には自由に過ごすことが多い。何も考えず仕事終わりの彼と合流して、家でゆっくりと飲んだり、極々稀に朝まで外で飲む事もある。共通しているのは、何も制限される事のないその場のノリでなんとでもなってしまう、という点だろうか。
 要約すると、金曜日は宇髄と過ごす事が多い。それが通常運転の金曜日の過ごし方だ。極稀にある会社の飲み会は事前に決まっているし、入社年月を考えても幹事や店の予約を任される立場に多いのだから憂鬱になる事はあっても忘れる事はないだろう。
 一方で久しぶりに友人と会う約束をしていれば、それはそれで自分自身楽しみだから、これもまた忘れる事はないだろう。
 今回議題にあげたいのは、大して興味もなく、強いて言えば遠慮したい予定が入っている場合の話である。私にとってそのカテゴリーに分類されるのは、会社の中の所謂“女子会”と呼ばれる時間と口数だけが無限に続くキラキラと輝くアクセサリーを身に纏って“女子会”をしている自分に満足している“女子”が多くいるその会の事である。
さん、あんまりいつもと変わらないんですね。」
「……まあ、特別めかす必要もないですからね。」
「そうなんですか?私新しく服買ってきたのに。」
「今日なんか大きな商談でもあったっけ?私予定見落としました?」
 そわそわしながら辺りを見渡してみると、確かに着飾っている同性が多いなとは思ったが一体何だと言うのか。やたらドレッシーな装いが多いのは金曜日でデートを控えている人が多いのだろうか、と無縁の事のように捕らえていた時に稲妻のごとく神経が研ぎ澄まされた。
「何言ってるんですか、前から約束してた女子会じゃないですか今日。」
 急激に一ヶ月前の会話を思い出して、ぞっとする。
「まさか忘れてないですよね?いつも来ないから今回はって約束しましたよね。」
 彼女の言っている事に間違いはなく、私にはそれを拒絶する言葉を紡ぐことは出来ない。というか、その権利もない。他の誰でもない私自身が次回は参加すると渋々了承したのだから当然だろう。
 会社の飲み会と同じくらいのペースで誘われるこの女子会というものが私は心底苦手だった。気を使う事も多いし、何より考え方や価値観の違う人が多く共感できるところも少ないというのが大まかな理由なのだ。裏を返せば私が女子力に欠けているという事なのだろうが、そう感じてしまうのだから仕方ない。極力参加しない方向に話を反らして断り続けて約半年、流石に言い逃れるのも難しいと考えたまにはと思い了承していたのだ。
「だから皆お洒落してるのか。女子力高いなあ。」
 視線を泳がせながらそんな事を言ってはみたものの、最早言い逃れは出来ない。参加するしかないこの状況に、私の脳裏にはまた別の悩みの種が降りかかっていた。
 私の金曜日のルーティンを思い出して貰えれば既にお分かりだろうが、私は所謂ダブルブッキングを仕出かしてしまったのだとこの時理解して、話は冒頭へとようやく戻るのだ。
「……という訳で、ごめん。今日予定あったのすっかり忘れてた。」
「で?ランチに連れ出したって訳か。」
「まあざっくり言うとそういう感じかな。」
「ご機嫌とっておこうってそういう事だな。おかしいと思ったわ。」
「いやあ、面目ない。」
 宇髄とは同じ会社で働いている訳ではなかったが、たまたま会社の最寄り駅が同じという幸運に恵まれている。お互い外勤のある営業という属性上、ある程度自分の都合のいいように時間を作ることも出来る。それが今の状況を説明するには尤ものわかり易い説明だろう。
「前触れもなく“会いたい”なんて言葉が出てくる時点で概ねの想定はしてるっての。」
「今日の“女子会”で女子力の勉強してきます。」
 クルクルとパスタをフォークに巻きつけながら、時折彼の表情を確認しながら口へと運ぶ。お互いいい大人なのだから、憤慨している訳ではないが超絶ハッピーな筈もなく、会社に言ってから気疲れで生きた心地がしない。自分のスケジュール管理不足でしかないので自業自得だ。商談でもこれだけ気を使う事はないかもしれないと、一週間分の疲れもあって余計と疲れを感じた気がした。
「明日天元が行きたい所に出かけようよ。」
「明日、大雨。キャンプでも行くか?」
「……今後の改善点として“天気の確認もする”を項目に追加しときます。」
 悉く裏目に出て泣きたくなる。そもそもこうして彼のご機嫌をとっている事の方が彼からしてみると気分がよくないのかも知れない。宇髄の性格を考えればそうに違いない。少し考えればわかる筈なのに、冷静な判断を失った私はヘマばかりを踏む。そもそもこんな事をしなくても怒るような小さい器ではないと知っていた筈なのに、この無意味な言動には後悔せざるを得ない。
「ちょうど急ぎの案件が昨日入ってきたところだ。あんま気にするな。」
「そっか。ありがとう。」
 結局昼食をとり終えて、私はこれから外出の予定がある彼を最寄の東京駅改札まで見送って、また明日と別れた。ただでさえ気が重いのに、業務後に待ち構える“女子会”の事を思うと尚更重量を感じるように肩に圧し掛かってくる。ずっと仕事をしていた方が気が楽に感じるのはこの時ばかりだったかもしれない。



 “女子会”が始まってから二時間半。ようやくここまで何とか乗り切った。
 通常の飲み会と言えば二時間で切り上げてまだ飲み足りない人間だけを集めて早々に二次会へと移動するものだが、“女子”という生き物は飲み会の場よりも店の雰囲気や、置いてある飲み物へのこだわりの方が強いらしい。ご丁寧に“女子会パック”なる三時間コースを予約しているのだから抜け目がない。
 ラストオーダーというその一言に人知れず喜んだのは恐らく私一人で、残りの多くは「もう時間?早いね。」と言いながら運ばれてくるデザートに手をつける。アルコールと甘味を同時に食す事が出来たのはどれくらい若かった時だろうかとどうでもいい事を思った。
「あ、雨降ってる。雨の予報明日の朝からだよね?」
 お洒落なガラス張りの店から東京駅の立派な佇まいを見ていると、誰かが言った通り雨が降っているようだった。明日が雨という情報は事前に宇髄の口から聞いて知ってはいたが、何もこんな時に前倒ししてやってくる事もないだろうにと今日が厄日であるのだと確信していた。
 揃いも揃って今日の面子は女子力の高い集団なのだから、長財布の一つでも入れてしまえばその容量を使い切ってしまいそうな小さな鞄からは色取り取りの華やかな柄をあしらえた折り畳み傘が出てくるが、もちろん私のパンパンに詰まった大きな鞄からはそんな気の利いたものは出てこない。こんなにも小さな鞄で会社に何をしに来ているのかと少し軽蔑を感じるものの、こんなにも大きな鞄を持って折りたたみ傘の一つも出てこない自分のほうがよっぽど機能性に欠けていると思い複雑な心境に陥った。
   明日、どうする。
 静かに鞄の奥でマナーモードがノートパソコンに振動して見てみると、宇髄からのメッセージが来ていた。
   私は何時でもいいよ。疲れてるだろうしお昼過ぎにしようか。
   お前の貧弱な体力と俺の体力を一緒にするな。
 何を言っても不正解なような気がして、あと三十分もしない内にとり合えずこの場から開放されて、家で一週間の疲れを癒すことが出来るのだからとあともうひと踏ん張りしてみる事にした。甘ったるい飲み物ではなく、家に帰ったら大好きなビールで喉を潤すことを精神的なゴールと定めた。いかにも写真映えしそうな綺麗な色をした横文字のドリンクがファーストオーダーで多方面から聞こえてきて自分だけ三十路のおじさんが焼き鳥屋で頼みそうなその黄色い飲み物を口にするのは躊躇われた。やっぱり女子会は疲れる。飛んでいくのは日頃の鬱憤でもなく財布の中身だけだ。
   そう言えば雨降ってるから傘持って会社出た方がいいよ。
 返信するうまい言葉も思いつかず、昼間のように気を使って何か言っても今日ばかりは失敗しそうな気がして無難に天気の報告をするに留める事にした。
   お前それ、傘持ってないってアピールか?
   何それ。逆に皮肉ですか。
   ろくに天気予報も確認しない女が折りたたみ持ってる筈もないだろ。
 あまりにも正確過ぎるその言葉に少々苛立ちを覚えながらも、その通りすぎてまたも私は返信に悩む。好きな男子との連絡をしていて思い悩んでいる中学生でもないのに、何故いちいちこんなにも考えなければいけないのだろうか。日頃の自分の準備の悪さを恨むしかない。結局私が悪いのだ。自覚がある分、悲しい。
 結局話しかけられた事もあり、スマホを置いてなんとなく会話をしていると、返信も待たずに再び振動が伝った。
   どこの店にいる。
   いいよ。駅近いし、コンビニで買う。
   質問に答えろ。GPS入れるぞ。
 半ば脅迫じみた短文を目にして、立てかけてあるメニュー表に示されている店名を読み解こうとするも、あまりにお洒落な崩された書体の横文字がうまく解読できない。恥を忍んでメニュー表を写真に撮ると「食事とか撮ってなかったのにメニュー撮るんだ?さん斬新!」なんて奇異の目で見られて余計に恥をかいた。皆がパシャパシャと写真と撮っていた横でぼうっと甘ったるいドリンクを喉に流しいれていた私は、明らかに奇人だろう。これもまた自覚があるから、恥ずかしい。死んでしまいたい。
 意を決して、今度また来たいなと思ったから名前覚えておく為にと乾いた笑いと共に伝えて、ヤケクソな気分のまま写真を添付して宇髄へと報告を投げた。
 時間を少し過ぎた所で、店の人間からさりげなく時間が過ぎているという遠まわしな言葉でようやく彼女たちも立ち上がって帰り支度を始めた。どんちゃん騒ぎをして中々退店してくれない金曜日のサラリーマンも性質が悪いが、今日ばかりはその方が幾分もかわいらしく見える。声をかけられるまで全く気づかなかったと言わんばかりの表情を浮かべる彼女たちは、口紅をさっと塗りつけて、何時の電車に乗るのか予め確認しているのだから恐ろしい。酒に酔っているようで全く酔っていないその様が私には質の悪い人間に見えた。―――結局、今日も女子力を学ぶことは出来なかった気がした。
さん傘持ってないの?」
「今日折りたたみ忘れちゃって。でもそこのコンビニで買うので先に帰って下さい。」
「それくらい待ってますよ。」
「電車とかもあるだろうし、全然お気遣いなく。」
 大人しく宇髄を待って先に彼女たちを帰してしまった方が楽だと思いそう言ったすぐ後に、人が多い東京駅でも一際目立って背の高い男が視界に映し出された。
 最悪だ。まさかこんな展開になるとは思いもしなかった。意図せず、傘を忘れて彼氏に持ってきてもらい皆に見せ付けるといういかにもあざとい女が偶然を装ってやりそうなシチュエーションになってしまった。本当についてない日はとことんついていないらしい。
さん、知り合い?」
 知り合いであることは間違いがないし、折角傘を持ってきてくれた彼にも失礼にならないよう、どうすれば最善に事が運ぶのかを瞬時にして考えていると、ふっと宇髄の笑うかんばせが見えた。
「いつもがお世話になってます。」
「もしかして彼氏さん?」
「まあ、そうですね。」
 一度軽く会釈をすると「…帰るぞ。」と一言だけ呟いて、私も彼の大きな背中について歩いていく。予定外の雨だから仕方がないとは言え、一本しか傘がないのもあざといポイントを稼いでいるようで気が引けたけれど、仕方なくその傘の下に入り込んだ。
「お先に失礼します。また来週もお願いします。」
 傘の中に入って、振り返って口早にそれだけを告げてただ前だけを見た。後ろは振り返らない。振り返ってはいけない。もしかしたら彼女たちはこの餌をツマミにもう一軒ハシゴしようと話しているかもしれない。知ってはいけない。そんな事を知る必要はないと言い聞かせて、早速来たる月曜日が憂鬱に思えた。



 私の葛藤と苦悩を理解してくれていたのか、宇髄も私を刺激するような言葉をかけずそっとしてくれていた。
 金曜日の電車は愉快な人が多い。逆に私もそこまで愉快に酔っていればこの状況は今よりもマシなものだったのだろうか。今更考えたところで全く意味のない生産性のない思考が渦まいていた。
 結局自分の家の最寄ではなく、少し手前にある彼の最寄駅に電車が到着すると、当然のようにぼうっとした私の手を引いて彼はホームへと降り立った。
「何だその顔。傘持ってないから来たんだ、ここで解散したら意味ないだろ。」
「ああ、まあ、そっか。確かにそれはそうだね。」
 慣れ親しんだ駅の改札を潜って、また二人して一本の傘の下を歩いていく。ようやく私に平穏な時間が戻ってきたのかもしれないと思える瞬間だった。今日は一日通して疲れる出来事しかなかった気がする。今日が金曜日で明日からがヘブンなのだけが唯一の救いだ。
「ありがと、傘。」
「よかったな。GPS入れられなくて。」
 営業たる者、日々の振り返りが何よりも重要だったりする中でどうしても性分として考えてしまう。振り返るだけでも疲れがどっと押し寄せてくるような内容でしかないが、よくよく思い返してみると違う感情が浮かび上がった。
 あざとい事を意図せずやってしまったのは痛手ではあったものの、本当の所気分は悪くなかったのだ。東京駅の立派な駅を背景に彼が視界に映し出された時、ちょっとした優越感があったのだと今になって気づく。ようやく冷静になった、という証拠だろうか。
「優越感が顔に出てやがるぞ。」
「出てないよそんなの。」
「自慢の彼氏が迎えにきちゃ、そうなって当然だな。」
 そんな事を言われてしまえば反発したい気にもなるけれど、実際彼の言葉には誤りがなく、ずばり的確なところを突いている。トップセールスを取る男はさすがとしか言いようがないだろう。的確であって、本髄へとたどり着くのが早い。感心している場合でもないけれど、今日ばかりはそんな彼の少し皮肉めいた言葉も受け入れられる気がしたのだ。
「じゃあ私も女子力発揮しちゃおうかな。」
「何だそれ。」
「天元と飲むビールが誰と飲むより美味しいな。」
 そう言って、わざとらしく腕を絡ませて足取りを軽くすると、ニっと笑って高い位置から私を見下すように言うのだ。
「で、何がお望みな訳。」
「二次会所望します。」
 結果的に見ると女子力の欠片もない私の言葉を皮切りに、いつも通りの私たちの金曜日が幕を開けようとしていた。
 どうせ明日も雨が止まないのだから、夜更かしをしても問題はないだという理由まで取ってつけて、歩幅の大きい彼にあわせるように私は地面に跳ね返る雨粒のように軽やかなステップを踏んで、彼の隣を歩いていく。


甘く陥穽して完成
陥穽=おとしあな。人をおとしいれるはかりごと
( 2020'11'18 )