昼から個室の用意がある飲み屋は想像以上に少なく、いつも同じ店を贔屓にしている。この店を使い始めてからもう間もなく二年が経とうとしていた。先に着いた私はハイボールを一つ頼み、空席となっている正面手前を向きながら喉を潤す。
 数分後、その空席に腰を下ろすのは今やファンが多くついているプロのバスケットボールプレイヤー、宮城リョータだ。そして、彼は私の中高時代の同級生で親しい友人でもある。
「ごめんごめん、道渋滞しててさ〜ってもう飲んでるし。」
「自分だって先来たら飲んでるじゃん?」
「そうだったっけ?まあ気使う仲でもないし、いんだけど〜。あ、俺もいつもので!」
 案内された店員さんに慣れた口調でドリンクを頼む。昼間の営業はそこそこ空いていて、ドリンクの到着がすこぶる早い。くだらない会話をラリーする間もなく私と同じグラスに注がれたハイボールがリョータのテーブルに並んだ。
「なに、今日まさか車で?」
「あ、いや。全日本の召集でさっきまで三井サンと一緒だったから送ってもらった。」
「ふうん。」
 リョータとは先月も同じ店で同じハイボールを一緒に飲んでいる。先月だけでなく、先々月も、その前も……もう何年も前から毎月続いている恒例行事のようなものになっている。
 ハイボールに一口口をつけたリョータは着込んでいるジャケットを脱いでハンガーにかけ始める。変装しきれていない、どこからどう見ても『宮城リョータ』でしかないサングラスも外して見慣れた重たい瞼が私の姿を映し出している。
「てかそんな忙しいのに飲んでる暇あるの?」
「プロにだって休息くらいくれよ〜。」
「その休息を私と過ごしてるんだから暇人?それとも奇人?」
「シンプルに酷くね?」
 今やリョータは妻帯者で、愛妻家でもある。二十歳を過ぎても彩子一筋だったリョータの想いは結局通じることはなく、告白してフラれたと酷く落ちていた時にこうして一緒にやけ酒に付き合ったのも私だった。
「気張らなくていいから素でいれんだって。」
「そういうのって普通奥さんじゃなくて?」
「それはそれ、これはこれ。」
 乾杯すらする事なく私もリョータもハイボールを喉に通して毎回同じような話ばかりをしている。主には過去の思い出話が多い。過去の思い出は減る事もなければ、それ以上に増える事もない。それなのにずっと、過去の話ばかりだ。私とリョータの今と未来は、過去と違って交わることがないからなのかもしれない。見ている先が、違う。
「俺さ、結婚する時に一個だけ奥さんにお願いしたんだよ。」
「へ〜?珍しい。」
「だろ?俺もそう思うわ。」
 基本的に惚れやすいタイプのリョータは女の子に弱い。もう私たちの年齢で『女の子』というのも表現としては違和感があるが、リョータにとって好きな人は幾つになっても、シワやシミが出来て白髪になってもきっと『女の子』なのだろうと、なんとなくそう思う。
「女の子とは絶対に二人きりにならないし連絡先も誰とも交換しないから、ナマエとだけは月に一回でいいから会わせて欲しいって。」
 いつも何と言ってこの場に来ているのだろうと考えた事もあったが、言葉にして確認した事は一度もなかった。純粋に、そんな経緯があったのを私は知らなかったのだ。
「逆にそっちの方がヤマシイ気がするんだけど。」
「ヤマシかったらわざわざ言わねえじゃん?」
「……まあ、確かにそれはそうか。」
 見方を変えれば織姫と彦星のような逢瀬にもなるが、現実はそんな綺麗なものじゃない。織姫と彦星には明確にあって、私とリョータにはないものがあるからだ。
「だから奥さん公認ってワケ。」
「それはそれは……数年越しに知った事実だ。」
 有名なプロスポーツ選手ともなると目立って仕方がない。特徴的な髪型に、ファッション。どれだけ変装しても隠しきれないへの字を描いた眉。個室を選んで飲んでいるのにはそういった事情もある。
 わざわざ昼間に飲んでいるのは、彼の奥さんに対する配慮によるものだ。夜よりは昼間の方が何かと不安材料が拭えるだろうからと。そして、夜は色々と家事の手伝いをしたいと言うのだ。まさに絵に描いたような理想的な旦那だろう。私とこうして昼間から飲んでいるという、その一点を除いては。
「マスコミに今まですっぱ抜かれてないのが奇跡じゃない?」
「まあな〜、でもそれは困るし。」
「奥さんもいい気しないもんね?」
「それもあるけど、ナマエに会えなくなるじゃん。」
 リョータの言葉はとても心地が良く聞こえて、私の肉を抉るような鋭さで私を突き刺してくるのだ。いかに私がリョータにとっての特別で、唯一無二なのかが分かるから。分かるからこそ、どうしようもなく残酷だと思った。
「なに、ガチ恋?」
「いやいやいや普通に奥さん大好きだし愛してるし!」
「知ってます。」
「デショ?」
 彩子に振られた後、驚くほど早くリョータは結婚した。あれよあれよと言う間に話が進んで、付き合ってからではなく知り合ってから結婚に至るまで僅か半年程の出来事だ。バスケのプレイスタイルに限らず、全てにおいて電光石火という言葉が彼を表現するには相応しい。
「まあでも実際考えた事ないってワケじゃないけど。」
「なにが?」
「ナマエと付き合ったらって……あ、コレおかわりクダサイ。二つね。」
 そんな初出し情報と一緒についでのようにハイボールを頼まないで欲しい。でもきっとリョータからすればそれくらいのノリのもので、所詮は過去の事という意味なのだろう。過去の事だからと割り切れないのは、私一人だけだ。私だけがあの頃からずっと時が止まったように、何もかもが前進しないのだ。
「ナマエがそんな顔してんの珍しいね?」
「そりゃそんな初出し情報来たらびっくりするじゃん……」
「でも実際言われた事あんじゃん?周りから俺ら付き合ったらいいって。」
「そんな事もあったね。」
「普通にあれだけ言われてたら考えない方がおかしくね?」
 リョータから新しいハイボールを手渡されて、落ち着く意味も込めてすぐに口をつけた。いつだって真新しさのない昔話をツマミに飲んでいた私たちの日常とはまるで違うこの状況に鼓動を高鳴らせている自分を落ち着かせたかったのだ。期待するなと。
「それもいいかな〜とか考えながら、でも俺思ったんだよ。」
 そこには恥じらうようなリョータの表情はなくて、過去の事だからと潔さまで感じる程淡々としているリョータがいて、口どりは軽やかだ。
「友達ならさ、絶対に終わらないって思ったんだよ。」
 それは捉え方次第では、最高の賛辞なのかもしれない。私との関わりを末長く続けていきたいと思っているという表れに他ならないのだから。どれだけ自分がリョータにとっての大部分を占めているのかを目の当たりにしながらも、同時にやはり残酷だと思ってしまう。
「……なにそれ。」
「中年になってさ腹出てきたな〜とか?白髪増えてきて俺らも年だなあって言い合ったり、老後の話とかしてる相手はナマエ以外に思い浮かばなかったんだって。」
 もはやそれはプロポーズなのではないか?そんな言葉を、リョータはハイボールで流しながら胡瓜の浅漬けでシャキシャキと消し去っていく。シャイなリョータがこうも堂々と、何の気兼ねもなくそう言っているという意味を考えて、この感情の名前を私は探していた。
 私にとってはずっと恋であったその感情は、リョータにとっては一体何という感情なのだろうかと。
「恋仲になるとやっぱり喧嘩したりもするだろうし、その先には別れだってあるかもしれない。でも友達ならそんな事にならないんじゃないかって思ったんだよね。」
 私はリョータと喧嘩もしてみたかった。喧嘩して、仲直りして、その度に絆を深めて、もっと好きになる事を自分の日常にしたかった。誰よりも素の自分でいられるだけでなく、リョータに一喜一憂される存在でいたかった。それが例えどんなに苦しい事だったとしても、きっと耐える事ができただろうから。
「だから暇人とか言うのやめてよね?普通に俺にとっては大事な時間。」
 そう言ってから、リョータは伸びをするように両手をあげて「やっぱナマエと飲む時間サイコ〜」とそう言った。これをこの上ない幸せと捉えるのか、生ぬるい地獄と捉えるのか。それは私次第で、そして私の勝手だ。
「変な話だね?」
「そう?どの辺り?」
「普通それだけ思ってたら付き合いたいってなるでしょ。」
「かもな?俺変わってんだわ、多分。」
 多くのものを失ってきたリョータにしか分からない感覚なのかもしれない。彼の家庭環境の事は、私も長らく知らなかった事だ。話を聞いたのは二十歳を超えてからだった。ポツリと、酔っ払いの戯言のように言ったのだ。
『もう大事なモンが自分から離れていくのは嫌なんだよ……』
 今になって点と点が線になったような気がしていた。私はもっと自分に自信を持っていいのかもしれない。一度たりともリョータの視線を向ける事ができなかったと嘆き続けていた自分に、報いてやってもいいのかもしれない。
「取り敢えずあと十年したら中年太りの話しね〜とな?」
「リョータが、でしょ?私は太りたくないし。」
「好きなモン一緒だし普通に俺らメタボ予備軍でしょ。」
「道連れにしないでって。」
 彩子に振られた時、とても浅はかで姑息な事を考えた自分を私は心底嫌っている。弱っているこのタイミングでなら、リョータの視線をこちらに向ける事ができるんじゃないかって。私なんかよりも、リョータは私の事を大切にしてくれていた事実に胸がちくりと痛む。
「でもさ、やっぱりそれってガチ恋じゃない?」
 どんな言葉が返ってきたところで、きっと私の心が満たされる事はないのに。二杯目のハイボールを空けて少しだけ酔いが回っていたのかもしれない。
「ハハ、かもな〜。」
 聞いても自分を虚しくさせるだけの結果に終わってしまった。
 リョータは私と今の関係を何年も何十年も続けようと思っているようだが、私は果たしてあと何年この状況に耐えられるのだろうか。きれいごとを唱える自分と、心のままに醜い感情を持つ自分と、今はかろうじてその天秤が均衡を保っているだけなのだ。崩壊はいつ訪れてもおかしくはない。
「ナマエもさ、絶対家族作った方がいいって。」
「そうなの?」
「うん、俺今すっげ〜幸せだもん。」
 家族以上の絆がそこにはあるのかもしれない。終わらせない為にリョータが作り上げたこの境遇が語られた今日というこの日。それはとても幸せであって、相反するように何度もナイフで突かれるような痛みを伴う。
 誰よりもリョータの近くにいる自信と自負があった。それはまるで間違っていないと証明されたのと同時に、私を地獄へと突き落とすのだ。私の初動が違っていれば、リョータにとって私は『異性』になれていたのだろうか。もう何もかもが過去のあったかもしれない話でしかなくて、これからどう足掻いても未来はきっと変えられない。
「幸せな家族と、一生涯の友達に恵まれて幸せだよ。」
 リョータを好きになって、何年が経ったのだろうか。私はずっと生ぬるい地獄を見てばかりだ。幸せと辛さは表裏一体で、漢字でも示されているように一本何かが掛け違えているか否かなのだ。私はどこで何をかけ間違えてしまったのだろうかと後悔しつつ、けれど一方でこれが最善の未来だったのかもしれないとも思う。
「……変なリョータ。」
 けれども私も大概の奇人なのかもしれない。
 自分を苦しめるだけと分かりながらも、この生ぬるい地獄から抜け出す事などできないのだから。誰よりも真っ直ぐで一途なそんなリョータがやっぱり誰よりも好きなのだ。
 感情に逆らいながらも、私はきっとこれからもリョータとこうして月に一回の逢瀬を続けるのだろう。それは織姫と彦星のようなものではなく、しっかりと白黒ついた友人として、ずっとだ。
「そんな俺に付き合ってくれるナマエも変だろ。」
「それは言えてる。」
 結局、好きというこの気持ちはどんな状況でも私の中でかき消すことの出来ない事実なのだから。それだけは過去も今も、そして未来もきっと変わらないたった一つの真実なのだろうと思う。



アネモネ
( 2024’02’18 )