ほんの軽い気持ちだった。就職も上手く行かず、不運か幸運かどちらとも取れないように卒業も出来なかった私は留年生となった。中学の頃からずっと同じ場所で先輩と後輩をやってきた光と私はついに同級生になってしまった。ついに光が私に追いついたのか、それとも私が一歩後退したのか、それは火を見るより明らかだった。 最初は留年する事に酷く抵抗を持っていたがやはり人間慣れに勝るものはなく、私は徐々に特別持っていた違和感を失ってしまった。留年する事によって自由が一年延びたのだと考え方を変えれば簡単に楽観主義になれた。私はそれなりに本来在る筈ではなかったこの一年を堪能していた。 自分だけが取り残されたような錯覚に陥るのは気のせいなのだろうか。否、違う。それは錯覚でなければ違わず私が本当に取りこのされているという事実でしかなかった。社会人になった同期を見る事によって私はようやく動きの悪い頭で理解した。世界が行き成り、私だけを放り出したような、そんな錯覚のようで本当の感覚が覆いかぶさった。 社会人になってから初めての集まりという事もあって、当然のように私も彼らの誘いの中にいた。自分だけがたった一人彼らと違う立場であるという事も自覚していようが私にとって大差ない問題だった。現状が違えど嘗て長い間一緒にいた間柄に勝るものはないと信じて疑わなかった。 その考えが所詮自分の中でしか生きていく事の出来ないまがい物であったと知ったのは懐かしい面子と顔を合わせてから間もない頃だった。私は酷い劣等感に苛まれた。これが数ヶ月前まで当たり前にあった光景とは到底信じられない程に、私だけが何も変わっていなかった。私が信じて疑わなかった光景は、そこにはなかった。 「の事見てると安心するわあ。何も変わってへんのやって。」 私が思っている事とまさに正反対の言葉が私の心を抉っていく。言葉の持ち主であった白石に悪気がないのが分かるだけに私は感じていたどうしようもないこの感情を留めておく他に手段を知らない。 「ほんまやな。お前見てると仕事の事忘れられるわ。」 そういって私の髪を柔らかく撫でる謙也に、また現実を感じた。嘗て彼が同じようにしてくれた時はもっと荒っぽくて、子どものような顔だった謙也が、驚くほどに立派な大人に見えて仕方がなかった。 嫉妬と言われたらそれまでだ。きっと彼らに対する嫉妬は私の中の大部分を占めているのだろう。それでも嫉妬という言葉一つで言い表す事の出来ない複雑な何かが私の中で渦巻いていたのだ。嫉妬とも、憧れとも違う、決してもう交わる事のない、それが。 「…光、私って皆が言うように変わってないと思う?」 この中で唯一私を対等な立場で見てくれる彼の言葉を求めた。きっと彼が言う言葉が本当の事なのだろうと思いながら。 「変わるんってそんなに偉い事なんすかね。」 「…時間は流れているのに何も変わらないっていうのも可笑しいものでしょ。」 「別に変わらんでもええんとちゃいます?」 光の言葉は私にとっての絶対だった。まだずっと若かった頃から、ずっと。彼の言葉はいつだって正しい。刺々しいまでに本音を突き刺して来る光だからこそ私は彼の言葉を信じていたのかもしれない。でも今、私は彼の言葉に素直に納得する事が出来ないでいた。慰めという言葉を知らない光が、あまりにもこの場に浮いている私を憐れんでいるんじゃないかって。 「この世の中は変わるもんが多すぎる。せやから変わらないものこそ貴重なんやって俺は思っとる。」 酷く説得力のある光の言葉だったけれど、私の心は音を立てて暗い海の底へと沈んでいくようだった。ほとんどのものが変わっていくこの世の中で、私だけが何も変わらずに取り残されているんじゃないかとそう思った。 私は不変のものを求めていた筈だった。白石や謙也や、ずっと一緒に居た仲間が昔と違わない形である<不変>を望んでいた。しかし不変なのはたった一人、私だけだった。他のものは全て可変していく。不変な私だけが取り残され、可変を求めながらに不変に縛られているような、そんな気がしたのだ。 「もうあそこに私の居場所、きっとないね。」 「意固地になっとるんやろ。」 「うん。そうかもしれない。でも事実かもしれない。」 「今日、来んかったらよかったとか思ってます?」 「うん、ちょっと。」 「…奇遇やな。俺もですわ。」 私と光は白石達から少し距離を取った所で彼らを見ていた。まさかこんな日が来るなんて夢にも思わなかった。皆が楽しそうにしているその中心に自分が居なくて、それを傍から見ているただの傍観者になろうとは。いつだって彼らの傍に用意されていた一つの席が、今は空席となって私を見つめているようだった。 「帰りましょ、先輩。」 私と光はそっと、その場を抜け出した。久しぶりの再会に湧く彼らがあまりにも自然に抜けて行った私達に気づく事はなかった。やっぱり私はもう、彼らと対等ではない。私は身に染みて実感に至った。 私は可変のものをこの目で見た。不変と信じていたものは結局のところ不変ではなかったのかもしれない。私が心のよりどころにしていた彼らは、可変のものとして変わってしまっていた。ただ一人、変わらない私を取り残して。私は不意に不変のものを心の底から欲した。その欲に釣られるかのように心よりも先に体が、私を懐かしい場所へと導いていた。不変の住む、この場所に。 「なんや。えらい辛気臭い顔してんなあ。」 「…オサムちゃんが能天気すぎる、の間違いじゃなくて?」 「あほう。口を慎めっちゅうねん。」 私が中学生だった頃から変わらない一人の教師の顔がそこにはあった。到底教師とは微塵にも感じさせないその風貌も私が知っているあの時のままに、視界に入り込んだ。彼はまるで歳を取らない不老不死のようにかつて私が時間を共にした頃から変わってはいない。私を、唯一の安心へと誘ってくれた。 「何しに来たんや?冷かしやったら要らんで。」 私が唯一可変出来る年齢という項目で、齢を経ても尚彼は私に特別だった事をしない。もう会うのは有に五年以上の年月を隔てているというのに、逆に不自然な程に、彼は私への態度を改めない。まるで昨日一昨日にでも会ってばかりとでも言いたげな、懐かしさの微塵も感じさせない、私の場所。 「オサムちゃんは私と似てるなって思い出したんだ。」 「俺とが?初耳やな。」 「そう?私もオサムちゃんも、何も、変わらない。ずっと時間が流れていないように、一緒じゃない。」 「何も変わらないなんてエラい言われようや。」 「…真面目なはなし。」 私がそう言えば彼の表情が一瞬センスの悪い帽子の中へと仕舞い込まれる。そして何かと見比べるようにして私に近づいてくるとまじまじと私の顔を覗いてみせた。 「俺からしたらお前かて十分変わっとる。」 想像にもしなかった彼の言葉に私は面食らったように言葉を失った。彼なら私の言わんとしてくれている事を理解してくれると思っていたのだ。昔から口にせずとも恐ろしいほどに私の心を透かして見ているようだった彼が、言った見当違いな言葉だった。私が、私だけが、変わっていないとそう思っていたのに。 「…オサムちゃんは何も変わっていないのに?」 「アホか。俺かて変わっとる。お前の目に見えんだけで、確実にな。」 彼が指さした先にあったのは一心不乱に黄色いテニスボールと向き合っている光だった。 光は変わらない。彼は不変的に私の後輩であって、その関係のままもう長い時間を共にしてきた。中学時代の彼と変わった事なんて何一つないのだと私は思っていた。けれどようやくそれが間違いである事に私は気づいたのだった。 今よりもまだ若かった頃にみた、彼のテニスコートでの姿と今の姿がどうにも一致しない。まるでそのテニスコートが窮屈と言わんばかりに大人になった光がそこには映し出されていた。 「もうここにはおらん。俺が知っとった頃のも、財前も、もうおらん。」 あの頃と変わらずに彼の口に茶色いフィルターが咥えられる。安っぽいライターを何度かカチカチと音鳴らし覗いた火がその煙草に引火する。私が中学生だった頃と何も変わらない光景だった。そんな彼が言った言葉だったからこそ、私は余計と何かを感じ取ったのかもしれない。 「それが分からんようじゃお前さんもまだまだ“あおい”わ。」 彼は時折肺からゆっくりと煙を吐き出しながら、一人テニスコートで球を打ちこむ光を見ていたけれど、その煙草を吸い終えると不意に何処かへと姿を消していった。 私は一心不乱に何かを打ち消そうとしている光に近づいた。 「 人一倍気配に敏感な筈の光に近づいたところで彼は気づいている素振り一つ見せず、私が彼の名を呼ぶ事でようやくその生意気な顔をこちらへと覗かせる。かつての母校で出くわすとは夢にも思わなかったとでも言わんばかりの表情で彼は私を見ていた。私も同じような状況だった。何故彼はこの場所に来る必要があったのだろうかと。 驚いた顔を覗かしたと思えばすぐにいつもの睨みつけるような、いかにも不機嫌な光の眼差しが私を射抜く。「…なんやねん。あんたストーカーか。」なんて悪態ついてくる事も忘れないのは最早彼にとってのお約束だった。 「私、ここに来れば変わらないものを見つけられると思った。」 光に隠し事は通用しない。それに加えて私は思った事が顔に書かれているのではないかと疑う程に嘘をつくのが不得意だった。だから、ありのままの本音を彼にぶつけることにした。私は変わらない何かを見る事で自分だけが孤立しているのではないと思いたかったのだ。酷く下らなく、幼稚な、私欲に満ちた、たったそれだけの為に。 「…奇遇やな。俺もですわ。」 数日前に聞いた彼の言葉が再び私の耳元を通り過ぎていく。見上げた先にあった光の顔が、いつもの棘を残したようなものではなく幾分もさわやかで彼本来の姿のような、酷く穏やかなものだった。 「ここに来れば私の居場所、まだあるかと思ったんだけどなあ。」 それがあの頃の残像に囚われているのだと私はようやく知ったのだ。過去にしがみ付いて離れようとしなかった私には所詮白石達と同じ舞台に上がれる筈もなかったのだ。 「居場所?」 「そう。居場所。私は今、それを探してる。」 「へえ。そうですか。」 「まるで人ごとだね。」 「まあ、そやな。」 本当にさも興味なさげにタオルで汗を拭う光に私もテニスコートに腰を降ろした。久しぶりに鼻元を漂った焦げたようなアスファルトの匂いが何だか心地がいい。かつて自分の居場所であったこの場所が、その人たちが、簡単に脳裏へと浮かび上がった。 そんな私を見て、光も同じように腰を降ろした。こうしてきちんと向かい合ったのは記憶を辿ると本当に久しぶりのことだったかもしれない。珍しく力の籠った彼の瞳に吸い込まれていくよう、私はそこから目を離せずに彼を見ていた。 「ここに来れば変わらないものを見つけられるって思った。」 光が私の言葉をそのままに繰り返す。私がどうしたのかと尋ねる間も持たせず、彼は次の言葉を口にした。 「それがこのテニスコートであって、監督やって思っとった。」 光は私と同じ行動をして、結局私と同じ結論に至ったのだと知った。やはりここに私達が求めたものはなかったという事に違いない。私が絶対的な信頼を寄せる光が出した答えでもあるのだから、きっと間違いない。 けれど光はその後から私とは違う結論に至ったのだと言う。「何が。」そう尋ねれば、私の耳元に不思議な言葉が掠めた。 「けど、アンタがおった 私は言葉の意味を知った。見落としていた事を、彼はちゃんと拾ってくれていた。一人ぼっちで蚊帳の外のような私を、見つけてくれた。不変のものを求めていながらも酷く可変のものに惹かれていた私が、少しだけ考えを改めた瞬間だった。こんなにもちっぽけで何の力も持たない私を見つけてくれる人が、いた。 「変わらなアカンものもあるけど、アンタは変わらんでええ。」 「…嫌だなあ、私、一生成長出来ないって事?」 「そうやってアホみたいな事ばっかり言うどうしようもないんも、そのままにしとけばいい。」 「…随分な言われようね。」 今にも感情のままに零れ落ちそうになるものを堪えるのに必死な私の顔はきっと相当に酷いものなのだろう。自分でもその歪みように大方の予想が付くほどの酷さであると。案の定、光はそんな私を見て可笑しそうに笑い声を上げた。それでも不思議と私の中に苛立ちや焦りは生み出されなかった。 「居場所なんて案外すぐに作れるもんやと思うけどな。」 そう言ってすぐに彼は私から視線を反らした。私にはその言葉だけでもあまりに暖か過ぎて、堪え切れずに涙が伝った。不器用な光の言葉が私の居場所になってくれていると思えるほどに、とても優しかったから。私達は暫く背中合わせに夕暮れを待った。 「 違和感満載なその呼び名に私は振りかえる。いつもの私達にはお約束な掛け合いを、するために。 「光に呼び捨てされる覚えはないんだけどな。」 そう言えば彼の皮肉口が開いて私に伝える。「それは留年して俺と同学年になったアンタが悪いんやろ。」って。違いない理由に私はそんな自分自身に呆れながらも笑った。背中から伝わる振動が彼も小さく笑っているのだと私に教えてくれた。 日が完全に暮れた頃、私達は立ちあがると自然と手を繋いで、声をそろえた。 私達は、まだまだ青い。 あおい |