私は彼の何でもない。隊士でもない私は表立って彼の仲間という訳でもないし、だからと言って恋仲にある訳ではない。赤の他人と言うには少し深くなりすぎた仲ではあったけれど、私と彼とを縛りつける物は何一つ、ここにはなかった。

 新撰組にとってかけがえのない存在であった人間が今、この屯所を去らんとしていた。その事実が彼らの口から告げられると皆の視線が一斉に私に集まり、少し時間を置いてから渦中の人物と見比べるようにして動く。嫌でも使われてしまう周囲の気遣いに目配せした私を、その人が呼びとめた。「青葉。」。嗚呼、この人から呼ばれるこの心地の良い自分の名前を聞くのも今日が最後なのだなと思い、私は俯き加減な顔を上げて返事をする。「はい。」。
「少し、話出来ねえか?嫌ってんならしょうがねえけど。」
「いいえ。お断りする理由がありませんので。」
 はっきりとした口調でそう告げると彼は少し悲しそうに「そっか。」そう言って歩き出した。私も周囲に群がる隊士に一礼してから彼の大きな背中を追って小刻みに足を前へと踏み出させた。
 彼が私に告げるのは別れの言葉だ。弱虫な私が少しでも悲しみを軽減出来るような、そんな言葉を彼は今から私に与えようとしているのだろう。過度の優しさは逆に私を追い詰めるだけだという事を、彼もきっと承知の上で。優しい事程罪なものはない、そんな言葉がこの時ばかりは正論に聞こえる気がした。
 彼の大きくて、力強く男らしい背中が人気のない場所へと踏み込むとふいに立ち止まった。
「……お前は本当に肝の据わった女だな。」
「それは…褒め言葉と受け取ってもいいのでしょうか。」
「言葉のままだよ。」
 彼の言いたい事が、その言葉が何を指すのか私も大まかには理解していたけれどあえてそれを口にする事はしなかった。唯一今の私を繋いでいる緒が、そうしない事にはいつ千切れて爆発するやもしれない。彼の言葉は、それをも踏まえた深い言葉だった。
「それとも俺の存在はお前にとってそんだけ小っぽけなもんだったのか、どっちかだな。」
 私は彼の言葉に何も言えなくなる。それを見越して、彼も言ったのだと思う。昔から彼は私を困らすのが得意だったから。最後まで、それを貫いてくれる優しさが今は痛くてしょうがなかった。
「青葉は昔から俺には本音を見せないからな。」
「……そういう性分なんです。」
「外見は文句なしに女らしいってのにその頑固な所が玉に傷だ。損、してるぜ。」
「変えられるものなら性分なんて言わないでしょう。」
「ま、そうだな。」
 いつになく彼の言葉が、私を射抜く。いつだって呆れるほどに私をほめちぎり、甘い言葉で満たすこの人の言葉とは思えない程に、刺々しく、そしてそれが何よりの彼の本音なのだろうと思った。
 女らしさの欠片もない私を見て困ったように笑う彼の顔が、視線を反らした今尚脳裏に焼き付いて離れない。
「……なあ青葉。俺は、強いだろ?」
 彼の言わんとしている意味が分からず、私は疑問符を口にした。
 彼が強い事など言わずも知れた事。何も今に始まった事ではない。今ここで今生の別れをしようとしている相手に告げるにはあまりに見当違いな言葉だ。
「俺は一人の男である前に戦士なんだ。このご時世だ、俺は男である前に戦士でなくちゃならない。分かるか?」
 分からない。分かりたくない。そう、言いたい気持ちとは裏腹に理解するしかない彼の正しすぎる言葉に私はやはり頷く事しか出来ない。彼の強さは世の中に必要とされている。私一人が彼を必要とするのとは比重にならないほどに、その規模は大きい。彼は、強いから。
 何かひとつでも線が切れれば今にも泣き出しそうな私の顔をのんびりと眺める彼の右手が私の髪を小さく揺らした。いつもしてくれていたように大雑把な撫で方ではなく、あまりに優しすぎるそれが余計と私の涙腺を緩めていく。
「なんて顔してんだよ。こんな時くらい我慢しないでもいいだろ?」
「……何の事で、すか。」
「ほんとうに青葉は甘えるのが下手だな。」
 彼の甘えに必死に抗っている私は誰がどうみてもただの意地っぱりでしかないのだろう。自覚がありながらも今この場を凌ぐために意味のない行為に私は時間を費やした。甘やかせてくれる彼の好意を、阻み続ける事だけに。
「お前を連れて行ってやる事は……出来ないんだ。まあ最も、頼まれてもいないがな。」
 的確な彼の言葉に私は益々目配せた。
 本当は言いたかったのだ。どうして連れて行ってくれないのか、どうして私を一人置き去りにしてしまうのかって。でも私の下らない自尊心がそれを口にする前に阻んでしまう。吐きだせば少しは気も紛れるかもしれないのに。でも、彼はきっと私が何を言った所で何を変える訳ではない。ならば私は最後まで聞き分けのいい女という肩書を守っていたかった。要らないと思ってばかりいた頑固な自らの性格がこんな所で役立つなど皮肉でしかないと共に感謝すべきものであるのかもしれないと思った。
 言葉が、見つからない。何を言えば私らしくあれるか、最早私には分からない。
「………私は、永倉さんに負けたのですね。恋敵が殿方とは夢にも思いませんでした。」
「おいおい。あんまり気持ち悪い事言うなって。」
 本当に気味悪がる彼に私は思わず笑ってしまった。笑みに緩んだ感情が、留めていた涙すらかんばせにぬりつけていく。私はしまったと言わんばかりにすぐに利き手でその粒を拾い上げて、もみ消した。
「私は大人しく引き続きこちらでお世話になるつもりです。それは別に貴方が気に病む事ではありませんし、例え私が死んだとて貴方に非はありません。
 ……ですから行って下さい、ご自分の信じた道を。」
 私は彼に守られる為に此処にいるのではない。彼は私に縛られる必要はないし、そんな存在でもない。女という一つの枠に嵌まってしまうにはあまりに惜しい人だから。
 彼には相応しい場所がある。私が彼の傍を相応しいと願う事よりも、もっと、相応しい場所が。
「……やっぱり青葉は誰よりも肝の据わった女だ。」
「…しつこいですね。」
 ああ。そう言って彼は表情を緩めた。私が知っている、どうしようもない彼の優しい顔が私の脳裏にあった彼のかんばせと、重なり合う。彼は優しすぎる。今も、昔も、きっとこの先も。悔しい程に。最後くらい、私を引き離す様な言葉や態度で示してくれた方が幾分も、心が軽くなるのに。彼はずるくて卑怯だった。
「こんな時まで聞き分けの良すぎるのも、俺としては残念で仕方ないけどな。」
 私は暫く何も言い返す事が出来なかったけれど、ようやく素直に言葉を吐きだした。最初で最期のごめんなさいを。この口で、自尊心も関係なく、嫌いな言葉を紡ぎだした。
 言ってやはり本音が口を滑りそうになった。彼の名を、呼んだ。
「原田さん   」
 私の言葉を遮るように彼は言う。「やっと、名前呼んだな。」どうでもいい、そんな事を。
 さようならと模る私の口を塞がんと、彼の右手がそれを軽く押し当てて止めた。私には別れの言葉を言う事すら、許されないとでも言うのだろうか。何処までも、本当に、優しい人。それは、私に希望を持たせる、罪人のような   
「行ってくる。」
 そして付け加えるようにして、もう一言。

「必ず、帰って来るから。」





 彼が新撰組を離れてから一体どれだけの時が流れただろうか。短いようでもあってやはりとてつもなく長い、時代の流れに私は目を瞑る。最早彼が帰って来ると言った場所<新撰組>も無くなってしまった。戦は、まもなく終わろうとしていた。
 私は彼の最後の言葉を思い出し、少し前の事を思った。
 彼は言った。帰ってくると。しかしそれは一体何処に、という意味だったのだろうかと今更にながらに考える。単に魔が差して言ってしまった、そんな言葉だったのかもしれない。
 私は新撰組の行く末を見届けると一度仙台へと身を移していた。この地で散った、新撰組を誇りとした二人に会うために。
 お骨も入っていない二人のお墓に花を添えて、私は目を瞑る。平助が、山南さんが、私の記憶の彼方で笑っていた。それはよく彼らが行っていた島原での酒宴を思い出すような、朗らかな笑顔だった。私の喉に、あの時の酒が蘇ったかのように甘い熱が広がった。苦く、甘美な思い出が、まるで走馬灯のように駆け巡る。私は死ぬのだろうか。そんな馬鹿げた事を考えた。
 ザク、ザク、砂を蹴る音がしてようやく私の意識が現実へと引き戻された。
「青葉。」
 ゆるゆると開く私の瞳が、数年ぶりに見る男を映し出した。まだそれが誰かを確認する前に、既に私の瞳が濡れていた。「有言実行、だろ?」懐かしい声が、耳元を滑っていく。
「今、帰ったぜ。」
 最後に見た彼の姿からは想像もつかない程に、あの下ろしたてで綺麗だった洋装が着崩されている。綺麗だった白い部分も、目を塞ぎたくなるような血の赤に染まっていた。それでも彼のその優しいかんばせだけは、何もあの頃と変わってはいなかった。
 身動きの取れなくなった私に驚いた彼は私の名を再び口にする。もう聞く事はないだろうと覚悟した、彼の心地のいい声が私の名前を呼び当ててくれる。
 私を、見つけてくれた。

 必死に動かした口から洩れる空気が彼への一言を言わせてくれない。小さく口を滑らせると、彼は声のない私の声に理解を示してくれたのか、得意げにニッと笑って見せた。
 おかえりなさい、
「ああ、ただいま。」



( 20110311 )