なんでもっと早くこうしなかったのだろうかと、少しだけ後悔する。諏訪と付き合ってもう数年経っているのに、私たちは恋人らしい事をなに一つやってこなかった。けれど、その分思い出の密度は他の人よりもギッチリと密に詰まっているから全てが後悔でもないなと、そんな事を思う。よそ行きのワンピースを着て、時計台の前で待ち合わせる。きっと、こんな型にはまったようなデートらしいデートはこれが最初で最後だろう。
「なに、見惚れた?」
「どっちかって言うと見慣れねえ。」
「馬子にも衣装ってやつじゃない?」
「言葉の意味、辞書で引いてこい。」
 大きな時計台は正午を知らせる鐘をつきながら、私たちを見下ろしている。こんなに私が粧し込んで来たのだから、それなりに諏訪も反応してくれると思っていたが想像以上に反応は薄い。それもそのはずか、とある程度想定内の諏訪の反応に気持ちを切り替えて、今にもポケットの中のタバコに手が伸びそうな彼の右手を取って、そのまま強引に連れ歩いた。
「うわ、カッサカサ。」
「男がツルツルだったらそれはそれでキモいだろ。」
「確かに。ちょっと、キモい。」
 手を繋ぐという感じの繋ぎ方ではなかったけれど、諏訪とまともに手を繋いだ事もなかったのだと今になって気づいた。もう知らない事なんて何も無いくらいに彼の事を知り尽くしていると思っていたけれど、知り尽くす事なんてもしかすると一生ないのかもしれない。彼の手が乾燥でカサカサしている事を知らなかったように、私が知らない諏訪なんてきっと無限に存在するだろう。
 三門を離れるのは、一体どれくらいぶりだろうか。ボーダーに入ってから一度も三門を出ていなかった私にとって、三門以外の街というだけでキラキラと輝いて見えた。制限をつけられているからこそキラキラと綺麗なもののように見えているだけで、それ自体に価値がない事くらいは理解している。けれど、今日はそんな雰囲気に酔ってみたいと思ったのだ。わざわざボーダー本部に確認と、私の分と諏訪の分の外出希望届けを出して許可をもぎ取った。余程のことがなければそんな許可を本部が下すはずもないが、今回ばかりはどんな理不尽な理由であっても私には許可が出るという根拠のある自信もあったし、何をしてでも許可を出してもらわらなければいけない理由があった。
「諏訪も三門出るのなんて久しぶりでしょ?」
「まあな。つか基本、任務大学寝る飲む以外してねえのに出る必要ねえだろ。」
「ほんとそれ。私も、そう思う。」
「そんな無意味な事の為に本部と掛け合ってるお前も暇だな、まじで。」
「無意味じゃないよ、思い出作りじゃん。」
 暫く諏訪は肯定も否定もせず、ただ黙って私に腕を引っ張られながら歩いていた。私もそんな諏訪の腕を引いて歩くのが精一杯で、余裕がない。こんな時どんな話をすれば都合がいいか、適当な話題をいくつか事前に準備していたはずなのに、くだらな過ぎて既に忘れてしまった。普段は諏訪に少し黙れと言われるくらいいくらでも話題なんて湧き出てくるのに、肝心な時にお喋りな私の口は役に立たない。
「……帰らねえか、やっぱ。」
「許可書まで取って来たのに今更帰れない。」
「だって意味ないだろ、こんな事しても。」
 諏訪の言い分はきっと正しい。私は恐らく果てしなく意味のない事を、時間と労力を使って再現しているのだと自分でも分かっていた。諏訪との初めてのデートになった今日が終われば、私たちは別れる。これは二人で話し合って既に合意を得た決定事項だ。決して覆ることのない、事実として私も諏訪も理解しているつもりだ。
「未練残らないようにね。最後のお願いくらい聞いてよ。」
「お前最後のお願いこれで何回目だ。」
「ごめん。でも、これが本当に最後のお願いだから。」
 そう言えば、反論の余地を無くした諏訪もやはり黙り込んでしまった。この後別れることが決まっているのだから、言葉の通りそれは最後の私からのお願いになるだろう。そもそも、別れたいと言い出したのも私の方からだった。今にして思えば、付き合い始めてから今この瞬間まで、諏訪には私の我儘にばかり付き合わせてしまった。もっと丁寧にお詫びと、言葉にならないお礼をしっかりしたかったけれど、それは叶わない。諏訪が、それを拒絶した。
 “もうお前とは会わない“
 そう言われたのは、今から一ヶ月ほど前の事だ。はっきりと、躊躇なくそう言われて私自身も面食らってしまったくらい、迷いのない諏訪の言葉だった。私が嫌だと泣いてお願いしたところで彼の意思は変わらなかった。けれど、やっぱりこれも諏訪の言動の方がよっぽど正しいのだ。別れようと言った張本人である私が、嫌だと泣いてそれを止めようとするのは本当にただのお門違いだと分かっていた。
 明日、私は三門を出る。新しい人生を、諏訪とは違う地で始める為にだ。元々地方でスカウト組だった私には帰る故郷があった。都合よく帰れる場所があるのは幸運だったのか、それとも不運だったのか。どちらでもあるようにも感じるし、どちらでもないような気もする。今の私には分からないが、だとすれば明日の私には到底分からないことだ。
「もう会わないって言ったのに最後にお願い聞いてくれたんだから、頼むよ。」
 諏訪の中にもまだ私の我儘に反応するだけの、何かしらの感情が残っているのだろうと思う。自惚れていると自覚はしながらも、私と諏訪の関係がそんなに薄っぺらいものではないという自信があった。皆から憧れられるような恋人ではなかったかもしれないけれど、私にとって諏訪と過ごしたこの数年間は間違いなく人生で一番充実していて、そして大切だった。
「お前の我儘にはほとほと疲れた。」
「我儘はたくさん言ったけど、その分私と付き合ってて楽しかったでしょ。」
「どの口が言ってんだ。そっくりそのまま返すぜ。」
 三門を離れているのに、結局思い出すのは三門で諏訪と一緒に過ごした記憶ばかりだ。少しでも過去の思い出を塗り替えようと見知らぬ街へと出て来たのに、そうした事でより強調されているかの如く強く私の中で再現された。
 任務明け朝まで飲んだ居酒屋で二日酔いになるまで飲んで二人して大学をサボった事、私の我儘に耐えかねた諏訪がキレて派手な言い合いをしてボーダー内でギャラリーを作って周りを騒がせた事、そんなどうでもいいようで、何よりも大切なこの記憶すら、明日には綺麗さっぱり消えてしまうと思うと恐ろしい。覚悟はしていたつもりだけれど、耐えがたかった。だから本当に最後だからと、もう会わないと言われた諏訪を呼び出して、こうして一緒にいる事で恐怖を和らげようと思った。
「私の卒業式なんだから、もっと私に気使ってよ。」
「呆れるくらいには自己中だな。」
「そんな私が好きだったくせに。」
 ボーダーを辞めることは、三ヶ月ほど前に決めた。もう間も無く控える大学の卒業とともに、一般人に戻る選択肢を選んだのだ。ボーダーに残って就職するという手も考えなかった訳ではないけれど、地元をわざわざ離れて三門でこんな仕事をしている事を心配している両親からの希望も強かった。スカウトされてボーダーに入る事になった時も、高校を卒業したらボーダーも辞めるからと言って更に四年、私はその期間を引き伸ばした。理由は、諏訪と離れがたかったからというのが恐らく複数ある理由の中で最も大きかった。
 古参メンバーとしてやれる事は全てやってきた。時には命を受けて暗躍行為も働いたし、鳩原の一件に関わってしまった私はどう考えても幹部勢に取って、そのまま辞めさせるには多くを知りすぎている都合の悪い人間である事は理解していたけれど、事は私が想像していた以上に残酷だった。
 一つは考えを改めボーダーに残ること。これはきっと上層部の意向も含まれていていただろうけれど、そもそも辞めたいと直談判しに行っている私にその選択肢はないのだから、自ずともう一方の選択肢を私は選ぶしかないのだ。
「もっと楽しそうにしてよ。私もそうするから。」
「べそかいてる奴に言われても説得力ねえよ。」
「最後だし、それくらい聞いてくれてもいいじゃん。」
「最後最後って、お前が最後にしたんだろ。」
 ボーダーに長くいすぎた私がボーダーを辞めるには、記憶封印措置が取られるというのが条件だった。その事を諏訪に言うまで、二ヶ月ほどかかった。私自身受け入れ難く、そして諏訪にそんな事を伝えるのも心が潰れてしまいそうだったからだ。
 色んな可能性を考えた。記憶がなくなったとしても、今の関係を続けることはできないかと思考したけれど、きっとそれは諏訪が傷つくだろうと思った。二人の記憶が抜け落ちた別人の私を相手にするのは辛いだろうし、私が彼の事をもう一度好きになる保証など何処にもない。二人で最善策を考えていたけれど、ついにはそんな案は出て来る事なく別れることになった。
「だって、これが諏訪の記憶に残る最後の私なんだから。」
 何もかもを犠牲にして、親すら裏切ってボーダーに残ると言えない自分の弱さがどうしようもなく憎い。最後まで私と別れずに済む方法はないかと必死になって模索してくれた諏訪も、私にボーダーを辞めるなとは言わなかった。それもまた諏訪の優しだと分かっていたからこそ嬉しくもあって、一方で引き止める言葉を待っていたのかもしれない。それで結果が変わる訳ではなくても。
「駆け落ちでもするか。」
「……そんな事したら二人して記憶封印措置されるだけでしょ。」
「確かに、違いねえわ。」
 本当に駆け落ちでもできればいいのにと思って、ただの願望として消えていく。今日までのこの記憶が、明日には綺麗さっぱりボーダーに関する記憶だけ抜け落ちたように私は別人になるのだ。
「だから今日はしっかり諏訪の彼女するんだ。」
 絡ませるように諏訪の腕に自分の腕を絡めると、彼のモッズコートから嗅ぎ慣れた煙草の匂いが鼻に通った。あれだけ煙草臭いと罵ったこの彼の匂いも、明日になれば全て私の記憶から抜け落ちるのかと思うと愛おしく感じられた。
「やっぱ駆け落ちするか、俺ら。」
「だからしないってば。」
 明日私は全てを失い、そして新しい人生を始めるのだ。
 彼と共に過ごした長い長い時間を跡形もなく忘れて、そして彼にだけ私の記憶を残したまま。

痕かたもなく
( 2022'02'02 )
soundtrack
One more time,One more chance