犬飼は、あまり特別な事をしない。彼を知る友人からは絶対に嘘だと言われるけれど、これは恐らく私の勘違いではなく、事実だ。もちろん彼は人並みに優しいし、特別な事をしないと言っても、普通の恋人として尽くしてくれている。去年のホワイトデーは結構なお金を注ぎ込んで、大きな縫いぐるみをUFOキャッチャーで取ってくれたし、誕生日にはとてもシンプルであまり目立たないけれどスタイリッシュなシルバーのブレスレットを贈ってくれた。
「犬飼くんって彼女自慢とか物凄いしそうだし、牽制もしそうじゃん。」
 私も、彼と付き合うまではそう思っていた。事実、周りが言うように彼にそのようなイメージを持っている人間は多いだろう。もしそんな事をするような男であれば、こんなシンプルなアクセサリーも贈らないし、キラキラとして可愛いネックレスやペアリングを買うだろう。けれど実際のところ、犬飼はそうではない。
「お疲れ様。邪魔しちゃった?」
「ううん。そろそろ帰ろうかって言ってたところだから。」
「そっか、じゃあグッドタイミングだ。」
 友人に手を振って、いつもの帰り道を帰る。毎日一緒に帰っている訳ではなく、彼はボーダーの隊員としてそこそこ忙しい生活を学生生活と兼業しながら、私と付き合っている。意図的に講義を合わせて取ってみたり、一緒に大学の学食でご飯を食べることもしない。
 私がそう言えば、彼を知っている人間は大抵驚く。私の知っている犬飼澄晴という男は距離感が近く、そして女の対応に慣れている男だった。彼がベタベタと私を飼い慣らす事を期待していた訳ではないけれど、当初は少し気構えていた分拍子抜けもした。
「どうしたの、何か浮かない顔してるけど。」
「そう?結構この顔、デフォルトなんだけどな。」
「うわ、想定外の切り返し。」
「ごめん、可愛くなくて。」
 我ながらもう少し可愛げのある返事をしてみてもよかったなと思う。今だけに限らず、日々彼と一緒にいる時に思う事だ。けれど元々私はどこか冷めているのか、周りの同じ年頃の女の子のように彼に甘えることが出来ない。そもそも、そうしたいとは思わない。きっと、それをこの男は私が言わずとも理解しているのだろう。
 そもそも彼が私を好きになった理由も、実の所私にはよく分からない。きっとそれは犬飼にとっても同じだろう。私が彼と付き合った理由をぼんやりとしか理解していないと思う。ぼんやりとでも分かっているだけでもすごいのかもしれないけれど。
「いいよ、別に。そんなんで拗ねたりしないし、俺。」
「そんなんで拗ねる男だったら、付き合ってない。」
「珍しくが惚気てくれた。雨でも降るんじゃない?」
「何それ。国によっては私、女神になれるやつじゃん。」
 犬飼と付き合うようになって、もうかれこれ一年半が経つけれど、私たちの関係性はこうしてずっと平行線だ。突然何かが膨れ上がって情熱的になるような事もなければ、急に何かが冷めて終わりへと向かう事もない。こんな関係性が、もしかしたら私にとって居心地がいいのかもしれない。
「まじで雨降ってきたけど、雨乞いでもした?」
 まるで仕組まれたように、予報外れの雨に私たちは降られ、建物へと逃げ込んだ。久しぶりに、犬飼と手を繋いだような気がした。




 ずぶ濡れになった衣類を脱衣所で脱いで、真っ白に除菌されているバスタオルで濡れた髪と体を包んだ。適当に置いてあるヘアクリップの袋を歯で品なく開けて、髪を束ねる。着る物が他にないのだから仕方がないとは言え、こんな髪型でバスローブを巻いていれば如何にもこれから抱かれようと意気込んでいる女のように見えて、我に帰ったように素になった。
「なんだ、もう着替えちゃったの。」
「風邪、ひくでしょ。」
もいけずだな。少しあのまま楽しみたいじゃん。」
「そういうの楽しむタイプだっけ、澄晴って。」
 結局、予報外れの大雨に打たれた私達は雨宿りと称してホテルに入った。もちろんビジネス的な方ではなく、妖艶な蛍光色が燦々としている方のそれだ。彼とこうしてこんな場所に来たのは、果たしてどれくらい前のことだろうかと思い返す。
 こんな所へ来ておいて今更何をと言われても仕方がないが、自分の濡れた服から透ける下着を犬飼が楽しげに見ているのが少し癪に触って、私は早々に脱衣所に行ったというのが先程までの流れだ。彼は、私が使っていたよりも少し小ぶりなタオルで髪についた水滴を拭っていた。
「やだな。俺これでも正常なDDなんだけど。」
「…DDって、誰でも抱けるの略?」
「雨で透けてる下着で興奮する、正常な男子大学生ね。」
「何それ、引く。」
 別に、彼とそういう関係が全くないのかと言われたらそういう訳ではない。もう付き合って一年半経つのだから、ない方が可笑しいだろう。けれど、だからと言って付き合いたてのカップルでもないのだから頻繁に盛ったりもしない。たまに、お互いの利害関係が合致した時にそうなるくらいで、絶対的に必要な行為という訳でもない。
は嘘つきだね。俺に引いてるなら、君はこんな所へは来てないだろ。」
「澄晴が強引に引っ張ってきたんでしょ。」
「だとしてもだよ。もし本当に嫌なら、鞄の中にある折り畳みだすでしょ。」
 犬飼の言葉があまりにも的確に突いてきて、私を黙らせる。私とて、鞄の中に折り畳みがある事を失念していた訳ではない。けれど、それを見抜かれている方が今のこの状況よりもいかんせん恥ずかしい事のように感じられて、私も何か対抗できないかと言葉を捻り出す。
「澄晴だって、今日これから防衛任務だったじゃん。」
「こんなびしょ濡れで行ったら、風邪引いて逆に迷惑かけるでしょ。」
「トリオン体ってのになればいい。」
「何で知ってるかなそんな事。」
「二宮さんって人に怒られるんじゃないの。」
「シフト代わってもらったから何とか。でも一回は睨まれる、かな。」
 お喋りな彼にしては少し珍しく、喋り飽きたのか、しばらくの沈黙を貫くと、私の肩に腕を回してベッドへと沈めていく。髪を拭いただけの犬飼の体はまだ暖まりきっていなくて、ひんやりと私の方へもその冷気を伝わせる。
「それくらいと居たいって事なんじゃないかな。」
「……都合がいい男。」
「そんな俺が、結構好きなくせによく言うよ。」
 本当に彼の言う通りなのだろう。きっと、私は自分で認識している以上に彼を好きなのだろうと思う。分かっているからこそ認めてしまうのは何だか癪で、首は絶対に縦に振らない。けれど、それでもそんな私が彼と付き合えているのは、彼が犬飼だからに違いない。
 結局のところ、私はこの男に支配されているのだ。器用な犬飼は、私にとって居心地が悪くないようにしているだけなのだろう。きっと私がもっとベタベタした如何にもな恋人ごっこを望めば、躊躇う事なく願い通りに順応するだろう。私がこうして深く干渉されたりする事を嫌っているから、こんな関係性を作り上げているだけで、実の所操作されているのは私の方なのだ。
「好きな子くらい、たまには抱きたいけどな。少なくとも、俺はね。」
 犬飼と付き合ってみて、一つ明確に分かったことがある。彼はとても欲深い人間なのではないかと思っていたけれど、まるでその逆だと気づいた。いろんな事を器用にこなす事ができる分、固執する必要がないのだ。固執せずとも、そこまでの労力をかけずに手に入ってしまうからだ。笑顔が張り付いているのは、きっとそんな自分自身に仮面をつける為なのではないか、そう勝手に思った。
「その余裕綽綽なの、なんか気に食わない。」
「さっき言ったじゃないか。俺これでも正常なDDだって、余裕ないよ?」
「この局面でそんな事言うなんて余裕でしょ。」
「それを言うなら、だってそうだろ。」
 だからこそ、余裕のないを見てみたくなる―――その言葉に続いた、この言葉こそが犬飼の仮面を取った本性に限りなく近いような気がしてならないのだ。私がこうして、彼のように余裕を貼り付ける事でしか私は彼と対等になれない。彼が固執する対象から、漏れなくこぼれ落ちるような気がして、気が気でない。
 それは多分、お祭りの屋台にある射的と似ていて、的を射抜くまでは何度も資金も労力も時間も費やすけれど、いざど真ん中を射抜いた時、人はどうなるか。真ん中を射抜いた快感を元に、快感を得る為もう一度射的をやる人間はきっと少数派だろう。多くの人間は、真ん中を射抜いた時点が既にゴールになっているのだ。だから、もう一度とは思わない。目的としていた商品を手にして、終わりだ。あくまで射的は欲しいものを手に入れる手段でしかないのだから、手に入れた時点で人の欲求はある程度満たされてしまう。
「ずっと着けてくれてるよね、それ。結構そういうの地味に嬉しい。」
 右手を掴まれて、そっとそこに口付けて、よりそのアクセサリーに自分自身の存在感を植え付けるのは、彼の戦略なのだろうか。きっと犬飼に聞けば、考えすぎだと高い声で笑われるだろうけれど、実際のところ、どうなのだろうか。彼が私を好きになった理由がわからないからこそ、私は未だ、その無謀な賭けに出る事ができない。
「澄晴は、私のどこが好きなの。」
「どこって結構大胆な事を聞くね。強いて言うなら、全部好きだよ。大好きだ。」
 きっと、丸っ切り全てが嘘という訳ではないと思う。現に私は犬飼の彼女として大切にもされているし、私に合わせるようにペースや距離感もすり合わせてくれているのだから、わざわざ嫌いな相手にそこまでしないだろう。けれど、彼がそこまで私にしてくれる理由がわからない限りは、私も賭けに出ることはできない。
「じゃあ逆に聞くけど、は俺のどこが好きなの。」
 一瞬、彼の言葉をそのままそっくりおうむ返ししてみようかとも思ったけれど、私が“全てが好き“なんて言ってしまえば、彼と同じその言葉と対比してより誇張されるような気がして、言うのを辞めた。
「……絶対、言わない。」
「“好き“って事は否定してないからある意味立派な理由だよ、それ。」
「いちいち人の揚げ足取らないでよ。」
「ごめん、ちょっと意地悪したくなっちゃった。」
 酷く苛立ちを覚える一方で、きっとしっかりと私の取扱説明書を理解しているのも、この男しかいないのだろう。私にとって、犬飼は初めての彼氏なのだから今現状で比較することはできないけれど、もう今更別の男に乗り換えられるかと言われればそれも出来ない。
 性に対する欲は、彼が言うように正常な男子大学生である犬飼の方がよっぽど強い筈なのに、いつだって彼のセックスは私に限りなく寄っている。犬飼は自分の快楽以上に、私の反応を見たり、自分だけに見せる特別な表情を自らが作り出していることに対して興奮する質なのかもしれない。だとすれば、異質な変態だなと思うけれど、結局の所は私を思いやったその行為が私自身も嫌なはずがないのだから何も言う事はできない。
 ぐったりとした体を横たわらせると、背中の下に腕を通して、私を胸の内側へと持ってくる。まだ乾き切っていない私の張り付いた髪を綺麗に剥がして、子どもあやすように重力に逆らわず落ちていく髪を撫でて行く。
「疲れただろ。ゆっくり寝ていいよ。時間になったら起こすから。」
 おやすみと、少し特徴的な彼の声を耳に入れると、すぅっと私は眠りに落ちた。寝ているような気もしていて、一方で寝れていないような気がするこの何とも言えない空間にしばらく私は彷徨っていた。外で雨の音が聞こえているのは、夢ではなく現実であると何となく認識していた。雨は、いつ止むのだろうか。気になって目を開けて、やっぱりこれは夢でなく現実だったのかと眠気まなこを擦る。
 擦った眠気まなこの先に映ったのは、寝る前と全く変わらぬ体勢で、ずっと笑みを浮かべながらこちらを見ている犬飼の姿で、一気に目が覚めていく感覚を覚える。
「おはよう。まだ、寝ててもいいのに。」
「…ずっと見てたの?」
「いいでしょ。寝顔見るのは、彼氏の特権だろ。」
「だったら私も彼女の特権、やってみたい。」
 実家暮らしの彼は、時折一人暮らしの私の部屋へと泊まりに来たりもするけれど、私は彼が眠っているのをみた事がない。一年半付き合って、一度たりともだ。いつだって今日のように、私の視界が開いて飛び込んでくる一番最初の風景は、犬飼の整った綺麗なかんばせだった。
「それはどうかな。だって俺が寝てる間に、逃げちゃいそうだから。」
 これが彼の本心で、私と同じく不確かな何かに不安を感じているのであれば今すぐにでも言葉にして、プライドも意地も何もかもをかなぐり捨てて彼に縋れるのに。何の確証もないこの言葉に、私は今日も動けない。確証を持てない私が捻くれているのかもしれないけれど、そうさせたのはこのカメレオンだ。色を変えて、どうとでもなるこの男が分からないと思いながらも、私は離れることができない。
「お陰でと一緒にいると俺は万年寝不足だよ。困ったもんだ。」
「大して困ってもないくせに、よく言う。」
が俺から逃げないって分かったら、俺だって安心して寝れると思うけどな。」
 結局、この言葉の真意を計りかねない私は最終的にゲームに負けてしまう。自ら彼の色素の薄い髪へと手を伸ばして、ぐうっと力一杯に、彼の胸板に自分の顔を押し付ける。甘えているのかどうかさえ側から見ればよく分からないそんな状況でも、彼はしっかりと理解を示す。
「はいはい。甘えたいんなら、ちゃんとこっちおいで。」
 私は、そのカメレオンに触れて、色を変えていく。尻尾を切り落とそうとしたところで、ノーダメージであるかのように、すぐに再生するその尾っぽを、私は一生追い続けるのだ。きっと、彼に操られてではなく、自分の意思で。
「私ばっかり好きにさせて、ずるい。」
 カメレオンは、私を優しく撫でて、笑った。


カメレオン
( 2022'01'05 )