俺の周りに人は絶えない。いつだって俺は輪の中心にいた。何をするにしても一人になる事がなければ、案外人生なんて簡単に自分の思い通りに動いて行くものである。勉強をしない割には成績も悪くなく、努力をしたと言っても好きで始めたテニスはスペシャリストと呼ばれる域にまで達した。そんな俺に叶わないものなんてよくよく考えてみても、今まで何もなかったかもしれない。全てが自分の思うように、都合良く動いていたような気がする。ブン太はいいな、なんてよく聞いた言葉を今更ながら他人事のように納得してしまった。 「…ブン太?あれ、部活は。」 「何言ってんだお前。今テスト期間で部活ねえじゃん。」 「そういえばそうだった。」 お前は何の部活にも入ってない帰宅部だからな、なんて冗談じみたように言えば、少し機嫌を悪くしたように「それはすみませんね。」そう言った後に、青葉は表情を綻ばす。彼女とこうして二人きり、なんて事無い会話を交わすのは一体どれくらいぶりの事だっただろうか。最後にこうして話したのはもっと、ずっと、昔のような気がしていた。今のようにどうでもいい、薄っぺらい会話ではなく、もっと圧し掛かる様な重たい会話を最後に、青葉とは話していない。 偶然を装っておきながらも、俺と青葉がこうして二人きりになったのは必然であり、俺はその必然に付け込んでいた。仁王と一緒に日直当番である青葉が、一人黙々と日誌を書いているであろうことなど想像に容易い。 「珍しいね。ブン太が放課後何もしないで教室いるなんて。」 「別にいいじゃん。気まぐれってやつ。」 「知ってる。」 青葉は大して驚く事もなく、慣れたように日誌とにらみ合う様にこちらを見る事はない。それが気に食わず、俺は何かと口を開く。いつだって自ら口を開く事すらせずとも、話題に困る事のなかった筈の俺の口は、騒がしいほどに留まるところを知らない。 「御汁粉飲みたくね?」 「うん。」 「でも冬に食うアイスも捨てがたいよな。」 「うん。」 「取りあえず何か食いたい。」 「うん。」 「…お前俺の話なんて欠片も聞いちゃいねえだろい。」 「そうだね。」 青葉の視線の位置は、未だ日誌と平行線に、動きはしない。前はこうではなかったと、俺の中でその言葉が木霊する。俺が暇を持て余す間もなく、青葉のあの甲高い声が響き渡る日常。それが今は少し懐かしく、もどかしい感情を沸き立たせた。過去と現状は、見事に比例せず、立場は逆転してしまっていた。 「久しぶりに話してんだからいい加減こっち見ろよな。」 「ちょっと待ってよ。日誌書いてるの。」 揺らぐ事のない青葉の視線の先に、俺はようやく諦めたように喋りたがりの口を閉ざし、青葉の前の席に腰かけた。ものの数分黙っていただけで、何だか酷く居心地が悪かった。前はこの沈黙も悪い物ではなかったけれど、今はどうしようもなく、何かを紡がなければと焦る唇が、何度も何かを紡ぎそうだった。 「それで?待ち伏せしてまで私と話したかった事って何?」 ようやく視線が流れるように俺を向けば、得意げな青葉の顔が、俺を射抜いた。酷く強気でありながらも、どこかそれを演じているような青葉のかんばせがそこにはあった。俺が偶然を装った必然を、完全に読まれていたと把握した俺は、先ほどまで黙る事を必死になって覚えていたくせに、言葉に詰まって柄にもなく適当な言葉を連想出来ずにいた。 「お前、自意識過剰。いや、自信過剰。」 不意に口から飛び出た言葉は、皮肉。思えば、いつだって青葉との会話に困った時は皮肉が口を飛び出るような気がする。今も昔も、変わらずに。 「ブン太程じゃない。」 「ブン太って子ども好き?いや、好きか。」 「何だよ突然。そりゃあまあ慣れてるってのもあるしな。」 夕焼けの差し込む教室に、時折ぽつりと、方向性の分からない会話が刺していく。青葉の言葉は、脈絡もなく、俺に突き刺さる。今になって何を聞いてくるのかと思えば、そんな分かり切った今更聞く必要すらない、疑問にすらなり得ない事を口にした。意図が、見えない。 「初めて家行った時案外弟たちの面倒見良くて吃驚した。」 「当然だろい。俺様にかかればちょろいちょろい。」 「いや、そうじゃなくってね、私ずっとブン太って一人っ子か年上の兄弟の中の末っ子かと思ってたんだ。」 「…なんか何となくお前の言いそうな事予想ついてすげえ腹立つんだけど。」 「え?そう?まあ、自覚してないよりかはいいんじゃないかな。」 したり顔の青葉は、満足げに笑っていた。きっと俺が我がままだと言いたいのだろうと、聞かずとも理解出来た。それは、俺自身そう自覚している部分もあるからなのかもしれない。 「私ね、ブン太の彼女じゃなくて弟になりたかったなって嫉妬した事あったなあ。」 あまりにも意外すぎる言葉が青葉の口を不意に飛び出た。何の構えもしていない俺の顔はきっと隙だらけだろう。 「…へえ、お前がねえ。変われば変わるもんだな、人間。」 「どういう意味。」 「いや、別に。」 そう言えば、青葉は聊か納得がいかないように、「そう?」なんて首をかしげていたけれど、次の瞬間には最早頭の中から消えてしまったように、また新たな話題を口にする。 「あれだ、なんかブン太って子煩悩になりそうだよね。」 「え?そっか?」 「うん。パパでちゅよー、みたいな。」 「ねーよ。」 「そういう事言う人に限ってそうなんだって。」 一向に意見を曲げようとしない青葉は、何故か楽しそうに見えた。俺と付き合っていた頃よりも、酷く魅力的に笑っているようにさえ見えた。青葉と付き合っていたあの頃、果たして彼女はこんな風に何に囚われる事無く笑う事はあっただろうか。俺には、それすら思い出す事が出来ない。傍にいて当たり前だった青葉の存在に、心底安心しきっていて、そしてそれが当然だと信じて止まなかったから。 「ねえ、彼女でも欲しくなった?」 俺は言葉を閉ざした。欲しいと言われたら否定はしない。けれど、そういう訳でもなかった。俺自身何がしたくて、そして青葉に何を望んだのか有耶無耶な所で中ずりになっていた。ふいに、青葉を求めた事以外に、何も自覚症状はなかった。 「私、当てようか。ブン太が何考えてるか。」 ドキリと胸が高鳴った。自分ですら何を考えているのかを理解しきれていないくせに、心音だけは一人前に鼓動を上げる。今になって思うのだ。青葉には、何もかもを透かして見られているような気がしてならないと。 青葉と別れたのは、半年ほど前の事だった。きっかけはよく分からない。俺は明確な理由を告げられる事無く、青葉との恋人関係を解消した。そんな俺も、明確な理由を青葉に問い詰める事はしなかった。その後の事はどうにでもなると、そう思っていたからなのかもしれない。人生とは、俺が望むように動いてくれるもの。俺が追わずとも、人生がこちらへと歩み寄って来る。そんなどうしようもない考えが、いつだって頭の中を往復していた。 そして今、こうして俺は何事もなかったかのように青葉の前にいて、会話をしている。ちょうどほとぼりが冷めた頃と言えば頃合なのかもしれない。けれど、それにしてはあまりにも自然な会話だった。 「ブン太は自分の思い通りにいかなかった事、ないでしょ。」 的確な言葉が、俺に差し込んだ。 「例えば 違う?と、尋ねてくる青葉のかんばせが、震えているように見えた。ふいに、伸ばしそうになった手を、途中で引っ込めた。青葉はきっと、俺自身よりも俺の事を知っている。俺が自分に向き合っていない以上に、俺と向き合ってくれていた。今更それに気づいたところで、もう遅いという事も頭では分かっているつもりだった。 「私に彼氏が出来たって聞いたから、わざわざ用事もない教室にいたんでしょ。」 青葉に彼氏が出来たと聞いたのは、日を遡る事、わずか一日前。別れた時ですら何も感じなかった俺は、どうしようもない焦りを感じ取った。別に彼女が浮気をしたという噂を聞いたわけでもなく、血縁関係ですらない青葉はただの他人でしかない。けれど、不思議と付き合っていた時以上に迸るものがあった。 「俺結構子煩悩なるぜ。パパでちゅよー、みたいな。」 「あれ、さっき違うって言ってたよね。」 「あんま堅い事言うなって。今からでも変われるだろい。」 自分ですら何を言っているのか分からない。俺は、一体何をしたかったのだろうか。こうする事で、青葉の気を引きたかったのだろうか。 「ブン太、私は賭けに出たの。ハイリスクでしかない、賭けを。」 青葉と付き合ったのは、まだ中学の時の事だった。成り行きは、周りからの冷かしだった。元々仲はよかった。毎年行われるクラス替えも、不思議と毎度顔を合わせていた。お互い一緒にいる時間が自然と増えていき、周りからの冷かしで勢い任せに告白して、付き合ったのを思い出した。きっと今まで付き合ってきたどの女よりも大切にしていた。それに応えるように、青葉も俺の傍にいた。けれど、暫くすると好きという感情を残しつつも、何だか全てが面倒になっていった。望めば、青葉は何だってしてくれるという、そんな感違いが俺をそうさせていたのかもしれない。 「私これでも本当にブン太に惚れてたんだと思う。だから、同じように私にも振り向いて欲しかった。だから、別れるって言ったらブン太が焦って止めてくれるって、そう思ってた。自惚れてるでしょ?」 自嘲じみた笑みを浮かべた青葉は、大きな瞳を細めて、過去を思い出しているようだった。青葉がそんな事を思っていたとは、今の今まで俺は知らなかった。どうしようもない何かが、襲いかかって来るように、ずっしりと重しをつける。 先ほどまでは、確かに青葉の言う通りであったかもしれない。使っていない玩具を取り上げられる事によって、それを欲しがるような、そんなものに近かったであろう。けれど、今はそれが違うと分かっていた。分からなければ、もっと楽であったのに。 「結果はハイリスク、ノーリターンだった。」 「今からでっかいリターンがあればそれでいいじゃねえの?」 「期限切れね、それ。」 都合が良い脳内では、懐かしくて、キラキラと輝くような青葉との記憶が駆け巡る。まるで死ぬ間際に見る、走馬灯のように、鮮やかに。なくなってから気づくという言葉も、案外嘘ではないらしい。俺は、初めてどうしようもない喪失感に恋焦がれた。かつては俺の傍にあったその根源は、いくら恋焦がれたところで、もう俺の元へと手繰り寄せる事は出来ない。 「青葉頼むって。お前のおっぱいが忘れらんねえ。」 「何言ってるの。貧乳貧乳って煩かったくせに。」 「俺は美乳派なの。青葉結構美乳だったぜ。」 「だから、タイムリミット過ぎてるんだって、ブン太。」 今にも泣きそうな青葉に、俺はこうして品のない口説き文句を言う事くらいしか出来ない。これ以上ない程に青葉に恋焦がれておきながらも、もう俺には青葉を手繰り寄せる事は出来ない。自分の罪に、溺れた。もう、許されないのだと。青葉の大きな瞳から零れ落ちそうになっているそれを拭う事すら、もう出来ない。伸ばしかけた右手は、再び行き場なく彷徨った。 「……もうそんな賭けしなきゃなんない奴とは付き合うなよ。」 そう言えば、笑った青葉のかんばせが崩れ、涙が流れ去った。泣きたいのはこっちの方なのに、その言葉を奥底に仕舞い込んだ。その泣き顔が、どうしようもなく愛おしくて、泣きそうになった。 俺は何だって欲しい物は手に入れてきた。口では言っておきながらも、苦労した事など本当はなかったのかもしれない。その環境が幸せというものであると人は口にする。けれど、今になってその環境を俺は悔やまざるを得ない。何だって持っていた俺は、本当に欲しいものだけを、自分の手で取り逃してしまった。目の前にありながら、見落としていたものこそが、俺が一番望み、欲していたものだったと、ようやく気付いたのだ。 「お前は、本当にドン臭いからな。」 皮肉で始まった言葉は、皮肉で幕を閉じた。 2011'12'02 |