部屋の片隅で雑誌を読む私と、十回に三回ほどしか畳まれていない布団の上で胡座を作って雑誌を読むリョータと。そこに特別会話がある訳でもなくて、私がペラっと一枚ページを捲るとリョータも続いてページを捲っていく。興味のないページはペラペラと飛ばしがちな私に比例せず、リョータは時間をかけてゆっくり一枚を読み込んでいる。 時を戻そう。 私がこの部屋に来た経緯まで遡ろうと思う。 毎月一日に発売される雑誌を、私は決まった本屋で入手する。今を時めく高校生なので流行には敏感だ。時めくと言っては見たもののそんな大層な言葉を用いていいのか不安になってきたので、“今時の高校生”と訂正しておく。ただし、字面はあまり変わっていない。 毎月発売日にせっせと雑誌を買うほどファッションに興味があるという事でもなく、当然ファッションリーダーという訳でもない。最低限の流行に乗り遅れないようにという表面的な理由と、本当の理由は私ともう一人だけが知っている。所謂、協業関係というやつだ。 「リョータく〜ん。」 「なに。」 「雑誌読み終わって暇になっちゃった。」 「そう。俺まだ読んでる。」 「夢中になるほどエッチな記事でも?」 「一緒にしないでもらえる?」 三十分と掛からず雑誌を読み終えた私はリョータの大して使われていないであろう勉強机の椅子に移動して、くるくると回転する椅子で暇を持て余している。これは一種のアピールだ。別に雑誌が読みたかった訳じゃなくて、なんならほとんど内容は覚えていない。ほとんど読んでいないと、こういう事になる。この雑誌は、私が毎月リョータと会う口実だ。 「アンナは?」 「学校のお友達と遊んでくるって出かけた。」 「アンナと遊ぶために来たんじゃないの?」 「お話したよ、クッキー二枚分。」 話しの単位にクッキーが出てきた事に一度突っ込もうとしていたようだったけれど、何かを察したのかリョータは「……そう」ため息を飲み込んでふぅと吐き出してから落ち着いて返事をしてきた。そして、再び読みかけの雑誌に視線を戻す。私のライバルは総じて月刊バスケットボールだ。 「女の子来てるんだけど気使わない?」 「ここ男子高校生の部屋なんだけど気使わない?」 「何かが隠せそうな棚裏は見ないようにしてる。」 「頭ん中下ネタしかない訳?」 手持ち無沙汰になって口数の多くなった私に観念したのか、リョータは立ち上がって部屋を出ていく。扉の奥の方でカチャカチャと陶器が重なり合う音が響いていて、暫くすると透明なグラスいっぱいに注がれたオレンジ色の液体がリョータの勉強机に置かれた。 「これ飲んで時間潰して。」 「私の好きなオレンジジュースとは気が効くね?」 「そりゃど〜も。」 リョータは一先ずはオレンジジュースで私を黙らせにかかってくる。オレンジジュースは私の好物だ。それは今までにも何度もリョータに言ってきていた事実で、リョータがそれを認識していてもなんら不思議はない。寧ろ特筆すべきは、今日というこの日にオレンジジュースが事前に用意されているという事だろう。 「これリョータが買ってくれたの?」 「ん〜、そう……だっけかな、多分ね。」 「絶対そうじゃん。」 「母ちゃんが買ったかもしれないだろ。」 「往生際が悪いなあ。」 私がそう言えば、特に反論はない。強く言い返してくる訳でもなく、でも肯定する訳でもなくて。私たちは中学で出会ってからもう数年単位でこんな関係から進展していない。高校が離れても尚、こうして定期的に会っているにも関わらずだ。進捗は芳しくない。でも、そんな時間も嫌という訳じゃないから不思議なものだと思う。むず痒いようなこの関係性が、なんだか焦ったい。 「今月号の付録、ティッシュケースだって。」 「たまには自分で使えばいいじゃん。」 「あんまり付録には興味ないもん、あげる。」 「それを押し付けって言うの、知らない?」 「ひど〜い。」 酷いとは思ってない。口から出まかせを言っている私の方がどちらかと言えば酷いと思う。私が毎月置いていく雑誌の付録を、リョータが使ってくれているのを私は知っている。捨てるのは勿体無いからと言ってポーチやコインケース、今月に至ってはティッシュケースを置いていく。女物の小物を持っていて欲しいというのは、違う高校に通ってリョータの学校での生活を見る事のできない、私なりの印だ。 リョータが雑誌を読んでいる間に、私は机の上に置かれていたポケットティッシュを手にして、ピンク色の生地に真っ赤な糸で刺繍されたティッシュケースにそれを埋め込んでいく。そして、普段リョータの愛用しているスクールバックにぽとんと落とし入れた。 「まだ読みおわんないの?」 「……ジュースまだあるじゃん。」 「たまには話したいじゃん?」 「別にいいけど、なに話したいの?」 「え、う〜ん?」 いつだか新作のリップを買って、リョータのこの部屋で塗ってみせた時の事を思い出す。グラスに直接口をつけるとその都度リップが色移りしているのを気にしていた私に、リョータはコンビニでもらって保管していたであろうストローを私に差し出した。以降、彼の持ってくる私用の飲み物にはストローが刺さっていて、今日も例外ではない。 「雑誌の特集に出てくる恋バナとか?」 「それガールズトークでしょ。」 「そう、それそれ。」 「残念だけど俺ガールじゃないんだわ。」 多分。多分だけれど、きっと私のリョータに対するこの気持ちを、リョータはなんとなくわかっているだろうと思う。そもそも私がリョータにこの感情を抱き始めたのは、リョータから感じたほんのりとした私への好意がきっかけだったからだ。 アンナちゃんと結託して毎月一日に本屋で待ち合わせをしている事、間違いなくそれに気づきながらも気づいていないふりをしている癖に私の好きなオレンジジュースを用意している事、良く見られたい気持ちで買ったリップを気遣ってストローをつけてくれる事。これが盛大な勘違いではないと信じたい。 付き合うのか付き合わないのか微妙なあの駆け引きのような時間が、私たちには数年単位で継続されている。毎月一日にこうして理由をつけてリョータに会いにくる私を、リョータは毎月受け入れてくれる。けれど、そこから先の進展がない。中学生だったあの頃の私たちから、何も前進していない。 「月バスって恋愛特集とかないの?」 「そういう不純な特集はない。」 「恋愛って別に不純じゃなくない?」 「…………」 リョータが読んでいる月刊バスケットボールに目線を合わせるように、両肘をついて私も足をぶらぶらとさせながら反対側から見てみる。雑誌だといまいち躍動感がなくて、中学の頃に見たリョータのバスケの方がよっぽどかっこいいとそんな事を思った。 「不純なんだよ。」 「ん?」 「恋愛って綺麗な事ばっかじゃないでしょ?好きの先には下心だってあるし、頭ん中下ネタでいっぱいになる時だってあるって知ってんの?」 どうしたら、いつになったらリョータは私を好きだと言ってくれるんだろうか。いつだってそんな事を考えていた。一緒にいた中学時代よりも、高校生になって学校が離れてからもっと強くそう思った。リョータが毎日会える存在じゃなくなってから、リョータの事を考える時間が増えた。気づいた時には、たいして興味もない雑誌に毎月お小遣いを叩いてまでリョータと会う口実を作っていた。アンナちゃんを、味方につけて。 いつかその待ち望んだ言葉が聞けると思って耳を澄ませていた。でも、実際に耳に飛び込んできたのはもっと余裕がなさそうなリョータの本音だった。人間の感情をたった二文字に集約することは、もしかすると非現実的なことなのかもしれない。ずっと余裕を装っていた私も、丸裸なこの言葉にすぐに言葉は出てこない。 「……それは私に言ってる?」 「……他に誰もいないでしょ。」 まだ、私が当初想定していた言葉は聞こえない。けれど、このリョータの言葉はそれ以上のインパクトがあって。ずっと余裕を装っていた自分が今リョータにどう映っているのかが不安になる程動揺していて。思い切って顔を見上げると、そこにはようやく月刊バスケットボールから視線を外して私を見ているリョータがいて、今日初めてしっかりと視線が交差した。 「この状況に普通でいられると思ってた?」 言葉自体はとても熱を帯びていて、そして心の中身をそのまま映し出したようにとても必死に聞こえるのに、リョータはそんな言葉とは裏腹にとても落ち着いて見えた。まるで私がひとり単独で取り乱しているような恥ずかしさを感じさせる程には。 「なんか私ばっかり焦ってる。」 「そんな事ないでしょ。」 「リョータ顔いつもと一緒じゃん。」 「俺の特技、バスケと平気なふり。」 もう数年の付き合いになるけれど、リョータのバスケ以外の特技は今初めて知った。どんな時でも慌てず騒がず、歪んでいる眉毛を少しだけぴくりと動かすだけで平然としているリョータがいつも平気じゃなかったとしたら? 「いつも心臓バクバクだし、じゃなきゃ三日前に買って読み切ってる月バスをもう一回読み直したりしないし。」 リョータの部屋に来るとなかなか会話が弾まないと感じることがある。中学時代に学校で話していた時とはなんだか少し違っていて、でも付き合いが長くなるというのはそういう物なんだと勝手にそう思っていた。それが雑念を飛ばす為のリョータなりの施策だったのなら、そしてその雑念が私に対する感情だったのなら。 「棚の裏は覗かない方がいいって事?」 「別になんもないよ。でも、近しい事は想像しない訳じゃないから……」 急に年相応に思春期な男子高校生になったリョータに、私はどう行動に出ていいのか分からない。まだ告白の言葉は直接的に聞いていないし、そして私も言えていない。けれど、長年焦らされた事もあってか色んな工程をすっ飛ばして固く目を瞑った。 視覚情報がない分、嗅覚や触覚が発達するものらしい。リョータの両手がそっと私の両腕を捉えて、ふわりとリョータの香りが近づいてくる。アンナちゃんは気を利かせて外出、カオルさんはまだ仕事から帰ってきていない。シチュエーションとしてはまたとないタイミングだったのかもしれない。 「………やっぱだめ。」 気が抜けたリョータの声に、私は左側を薄目に開きながらリョータを視界に捉える。手のひらで自分の顔を覆っているリョータにはその続きをするつもりはないらしい。 「なんで?」 「これ一生記憶に残るやつでしょ。」 高校二年生の春、甘酸っぱい恋の記憶、初めてのキスの思い出。それがリョータが本来畳んでいるべき布団の上でとなってしまう事を彼は気にしてくれたのだろうと思う。それはきっと自分の為じゃなく、私の為に。 「とにかく部屋はだめ!」 「じゃあもうタイミングないじゃん………」 そう言った反面、本当は少しほっとした自分がいたのを感じ取って脱力した気分になる。けれど、そんな私に再びぴりりとした緊張感を与えたリョータは、私の手をぎゅっと握って少し前のめりになりながら私にこう言うのだ。 「今日帰り送っていく。」 その言葉が、色んな意味を含んでいるようで私の脱力した体はやっぱり程よい緊張感を覚えながらも、リョータから欲しかったものをしっかりと捉えられた充足感で満たされていた。きっと、あの言葉を聞く日も近いような気がする。
カミングスーン |