私の記憶は安定しない。いつからこうなったのかは思い出せない。
 何度か私は何をしていたのかと義勇に尋ねたことがあった。鬼を倒していたのだと彼はそう言った。私にはその記憶がもぎ取られたかのように綺麗さっぱりなく、そもそも“鬼”とはどういう生き物なのかさえ分からない。その鬼を倒して、世の中が平和になったらしい。義勇の腕が一本足りないのはその平和の代償なのだと以前他の者に聞いたことがあった。
「義勇。どこか出かけようか、天気いいよ。」
「そうだな。」
 義勇の事はわかるのに、彼と何をしていたのかは全く思い出すことができない。どうやって出会ったのかも分からない。それは義勇だけでなく“鬼殺隊”と呼ばれる所で私が一緒に働いていた人間全てに当てはまることだ。名前と顔は一致するのに、その中身だけが綺麗さっぱり存在しないのだ。
「もしかしてここ、来た事あった?」
「複数回来ても差し支えはない場所だ。」
「そっか。その時の私は、どんなだった?」
 私はどんな人間だったのだろうか。どうして、記憶がなくなってしまったのだろうか。自分自身が何者なのかを掴みきれない恐怖がいつだって奥底に溜まっていた。
「何も変わらない。は今も昔もだ。」
「そっか。よかった。」
 そう言って義勇は優しく抱きしめてくれる。ない記憶を埋めるようにして補ってくれる。はっきりとした記憶がないながらも、きっと彼とは以前から恋仲にあったのではないかと思ったのだ。不器用で誰よりも優しい義勇の事がきっと私は好きだったはずなのだ。
「きっと昔の私も、義勇の事が好きだったんだろうな。」
 口に出す事で、それが事実になるような気がして言う必要もない一言を付け加えた。私が義勇に感じているこの気持ちは嘘じゃない。私は義勇の事が今も昔も好きに違いない。
 いつだって義勇の事が好きだと感じると、相反するようにそうじゃない感情が湧き上がる。義勇への気持ちは間違いがないはずなのに、釈然としないのだ。いつだってしこりのように違和感が残っていた。
「……そうだな。」
 普段なら大して気にもしないその妙な言葉の間が、その違和感をより一層強く引き立てていくようだった。
 私はきっと、一生正解に辿り着けないのだろう。



 鬼舞辻討伐直後、はなだれ込むようにして倒れた。極限の状況で皆が戦っていたし、その戦で死んだ者も多い。腕を失っていた俺は片手一本でを抱き上げることもできず、他の隊員に手伝ってもらいなんとかおぶって蝶屋敷へと辿り着いた。数日もすれば目を覚ますと思っていた。けれどは数日経っても、一ヶ月が経っても目を覚ます事はなく、結局が目を覚ましたのは鬼舞辻討伐から半年が経過してからのことだった。
「…義勇?その腕どうしたの。」
 目を覚ましたの記憶が一部欠落している事に気がついたのは暫く会話を交わしてからだ。辻褄があわない点も多く、確認をするとどうやら鬼殺隊にいた時の記憶が綺麗さっぱり抜け落ちているようだった。有名な医者に何度か見せに行った事もあったが、結局はっきりとした原因は分からずの記憶が戻ることもなかった。
 不思議なことにには記憶が欠けていながらも、その間に出会った人間の顔と名前は分かるようだった。俺もその一人だ。たまたま目を覚ました時にいたのが自分だったという事も重なり、は俺と恋仲にあったのだと勘違いしているようだった。
「義勇は何で半年も目を覚まさなかった私の側にいたの。」
「仲間だから当然だろう。」
 そうは言ってみたものの、本心は別のところにあったのかもしれない。長い年月を共に過ごしたに、淡い気持ちを抱いていた事は否定できない。けれど、それを伝えるつもりなど微塵にもなかった。
 が記憶を失ったのは恐らくは鬼殺隊での過酷な日々に関係していると考えていた。本来戦いを好まないにはあまりに過酷すぎる内容だったに違いがない。強く力をつける事でより過酷な現場に遭遇するようになったは、日に日に精神を病んでいるように思えた。自分が彼女を支えてやりたかったが、それよりも一歩先に動いた男の元では壊れそうな心に拠り所を作っていた。明確に何かを見た訳ではなかったが、なんとなく分かった。
 全てが終わったと同時に、何かの糸がぷつんと切れてしまったのだろう。目を覚ましたは何も覚えておらず、そして俺にとっては少し好都合な勘違いをおこしていた。
「義勇がいてよかったな。何にも覚えてないけど、義勇がいてくれたから生きていける。」
 そう言ってにっこりと笑うに気持ちが加速していくのと同時に、どこか隠しきれない罪悪感が並走していた。この状況を作り上げたのは自分ではない。そうなるように意図的に誘致した訳ではなかった。結果的に自分の都合がいいように事が動いただけで、他意はなかった。そもそも多くの記憶を失っているは、自分にしか支える事ができないのだからと無理やり理由をつけて並走していた罪悪感を打ち消していた。今があれば、それでよかった。
「それは俺を買いかぶりすぎだ。」
「そう?じゃあ義勇も私がいるから生きていけるのか。」
「随分と都合がいい解釈だな。」
 きっとこの状況に救われていたのは俺の方だろう。多くの記憶を失ったとはいえ、やはりだ。気持ちが揺らぐ事はなかった。片腕がないこの体でを守る事ができるだろうかと一度立ち止まったが、世の中は平和にもどったのだ。全ての戦いが終わってから一年以上が経過していたが、見事なまでに平和な世が続いていた。この世であれば、一本足りていない腕でもを守って生きていけるかもしれないと思った。
「過去の事を気にする必要はない。無理に思い出さなくていい。」
「そっか。じゃあそうする。」
 有名な医者に診せにいったこともあったが、過酷な鬼殺隊での日々を思い出す必要もないだろう。にとっては今のこの状況の方が幸せなのかもしれない。思い出してもいい事など何もないはずだ。そして、それは自分にとっても不都合だ。今と未来だけがあればよくて、過去は必要ないと思った。
 時折自分の消えた記憶に思い悩むを見てきた。自分が何者であったのかさえ定かでないのだから、不安に思うのは当然だ。過去の記憶がない事に加えては記憶力が著しく落ちていた。一度言った言葉も、忘れることが多かった。記憶が安定していないらしい。だから俺はめげる事なく何度もに言って聞かせるが、それでも時折狂ったように泣くのでその度に抱きしめてはなんだから他の何者でもないと言い続けた。泣き疲れて眠ってしまったを見ると、記憶がない事に苦しむ気持ちも理解できたが、やはりあの過酷な日々をわざわざ思い出させる必要もないのだから言う事はしなかった。柱として逃げ出す事の出来なかったの気持ちを考えると、こちらまで辛かった。
「私、ずっと義勇と一緒にいれる?」
「ああ。」
「迷惑じゃない?」
「当然だろう。」
 時折狂ったように泣きわめく事を後ろめたく思っているのだろう。俺にとって、そんな事は微塵にも苦痛ではなかった。寧ろの苦しみを一身に受けることができるのであればそれでよかった。泣きわめくが無意識につける爪痕も、自分が今のこの状況を利用しているというどうしようもなく後ろめたい気持ちを考えれば大した事でもなかった。
「お前は何も心配しなくていい。」
 何があっても守り抜きたいと思った。俺にとっては全てだ。手に入れられるとは思っていなかったけれど、今はもう手放す事などできない。残量のわからない自分の限られた命は、を守る事で使い切ることができれば本望だろう。そう思うくらいには今の生活は充実していて、俺が望むものに限りなく近かった。
「不安になるんだ、たまに。義勇が好きだった私に、今の私はなれてるのかなって。」
「ずっと言っている筈だ。は今も昔も何も変わってはいない。」
「ならいいんだけど。なんせ過去の自分がどんなだったか今の私は分からないから。」
 いつだって消えた過去の記憶にはもがき苦しんでいた。思い出してもそれは辛い記憶の方が多いから思い出さない方がいいと他の人間が言ったところで、その記憶がないには言葉のままを受け入れることができなかったようだ。過去の自分と今の自分を比べて、苦しんでいた。記憶がないのだから、比較する必要などどこにもないのに。そう思いながらも言えなかったのは、あまりにもそれがにとって残酷だと分かっていたからだ。もうこれ以上を苦しめる必要もないだろう。
「じゃあ義勇の優しさに甘えようかな。甘えすぎて引かないでね。」
の好きにするといい。可能な限り俺はそれに応える努力をする。」
「こういうのは軽く流してよ。義勇は硬すぎる。」
 何かの疑念を打ち消すようにして、は俺に抱きついてくる。たまに思うことがあった、本当のところの記憶は戻っていて全てを分かった上で俺と一緒にいるのではないだろうかと。そう思うたびに違うと言い聞かせて、を強く抱きしめた。今という時代に縛られている俺は、を縛り付けているのかもしれない。勘違いから始まったこの関係がいつになれば確実で正式なものになるのかいつも考えていた。いつだって過去の何かが俺を追い詰めるようにして、迫り来る感じがあった。
「お前こんな所に移住してたんだな。目覚ましたって聞いたから見舞いにきてやったぞ。」
「…宇髄さん?」
 鬼殺隊本部のあった場所から少し外れた場所へと居を移していた事もあってか、その男が訪ねてくるのは初めてのことだった。酷く懐かしく、本来であれば柱として共に戦った戦友に違いなかったが隠しきれない動揺が走っていた。が何かを思い出すのではないだろうかと、得体の知れない不安が渦巻いていた。
「私一緒にいた時の記憶がないの。名前と顔は分かるんだけど、記憶がないんだ。ごめんね。」
 花束を持った宇髄は面食らったように立ち尽くしていた。時期にが情緒不安定になり、発作のように泣き狂い始めて宇髄には帰ってもらった。その後もずっと大丈夫だと言いながら強く抱きしめたが、一本しかない腕では物足りないとでも言いたげなは収まることがなかった。暴れる事はなくなったが、ずっと泣き通しだった。俺には慰めの言葉をかけ続ける以外に何も手段を持ち得ていない。
、落ち着け。どうした。」
「…私は裏切らないよ。」
「何のはなしだ。」
「だってずっと私を看病して、側にいてくれたのは義勇だもん。私には義勇しかいない。」
 は泣きながら俺へと縋り付いてくる。俺が抱きとめてぎゅっと抱きしめ返すと、より一層声を上げて泣いていた。確実に宇髄がきた事での心が壊れているようだった。何故そうなったのかは、あまり考えたくない。他の隊員が何度かを見舞って訪ねてきた事はあったが、がここまで情緒不安定に陥る事は一度もなかった。宇髄だからこそ何か特別な意味があるのだろうかと考えると、どうしようもない気持ちに陥った。
 元々は宇髄の継子だった。師として尊敬している気持ち以外にまっすぐに伸びる気持ちがあるのは見れば分かった。だからこそが幸せなのであればそれでいいと、自分の気持ちに蓋をしたのはそれに付随してのことだった。の視線は俺ではなく、確実に宇髄へと向いていた。
 記憶のない筈のが、何かを思い出しているのではないかという疑念に俺は陥る。だからこそ、こんな事をあえて言っているのではないだろうかと。
「私は義勇が好き。だからずっと義勇の側にいたい。」
「分かっている。お前はずっと俺の側にいろ。」
 呼吸も定まらず泣きわめくに言ってやれる言葉など、そう選択肢はない。それが全てを思い出しているなのだとしても、今まで通り記憶がないなのだとしても、俺のこれからの対応は変わらない。ただずっと彼女の側にいるという変わらない事実がそこにあるだけだ。を好きと思う気持ちだけが何がおきても揺るぐ事のない事実なのだから。
「お前の側にいるのは今も昔も俺だ。安心しろ。」
 半分は嘘であるその言葉を紡いで、を抱く力を増した。宇髄の事など思い出す必要はない。宇髄の事を思い出せばきっと全ての過去を思い出すだろう。にとっての鬼殺隊とは多くの部分で宇髄が絡んでくることなのだから。
「…私どうしてこうなっちゃったんだろ。」
は誰にも迷惑をかけていない。お前は何も悪くない。」
 やけに冷静になったを見て、もう一度こちらへとたぐり寄せた。本当は救って欲しいと強く願っているのはではなく、自分なのかもしれない。依存しているのは俺の方なのかもしれないと思うと自笑した。いつだって余裕を見せていた側の自分が、本当のところ一番余裕がなかったのかもしれない。
が好きだ。お前はずっとこれからも俺の側にいて欲しい。」
 揺るぎのない自分の真実だった。どれだけとのこの関係に至るまでの環境が偶然だったとしても、それは違いのない俺の気持ちだ。が何より大切だ。もう宇髄に渡したりなどはできない。俺だけのものでいてくれるのであれば、どんな犠牲を払ってでも尽くそうと思えた。
「義勇は優しいな。ありがとう。」
 その言葉が全てを思い出した上での言葉なのか、何も分からない上でのものなのか、そのどちらとも分からない俺の脳内で繰り広げられるは、一生続くであろう葛藤なのだろう。
 手に入れたこの幸せを、本物の幸せへと変えるにはどうしたものなのだろうか。それを叶えるまでに、俺は寿命を全うして死ぬのではないだろうかとふと思う。
「結婚しよう。大切にする。」
 こうする事でしか、自分の気持ちを納得させられなかった。万が一が記憶を取り戻していたとしたら、俺には時間がない。今のうちにと思った事は否定できない。が勘違いしたまま自分のものになることを願った。それがどうしようもなく汚く自分を哀れにする方法と分かっていたいた。
「…やっぱり義勇は優しいな。」
 この言葉の真意は、きっと一生分かることがないのだろうとそんな事を思った。


駄目になる覚悟
( 2020'06'15 )