ちょっとした、本当にちょっとした出来心だった。いかに自分がその場の状況の絆されやすいのかを思い知って、今になってうんざりして、ひどく後悔する。どうして私はあの時冷静な判断を下すことが出来なかったのだろうか。考えたところで今となっては後の祭りだ。
 ブン太と出会ったのは、二ヶ月ほど前の事だった。
 コロナが横行しているこの世の中で外にも飲みに行けず、大手企業に勤める私の会社はその従業員の多さに早い段階でコロナ感染者の社員が出てしまい在宅勤務になった。
 私自身コロナにかかるのは恐ろしかったし、素早い判断で在宅勤務に切り替えてくれた会社には少しばかりの感謝の念もあったが、一週間もする頃には慣れない勤務体系やスペースの確保が難しい自宅での勤務に腰も痛めば精神的にも辛くなった。
最近誰にもあってないから退屈でしょ。お酒持って遊びに行くよ。」
 きっかけは、私の一番の友人の一言だった。在宅勤務が当たり前になりつつある今のご時世でも、若くして課長に昇進していた私の友人はコロナでお金を使う機会もないのだからと言って高い酒を持って我が家へとやって来た。その時に彼女と一緒に来たのが、ブン太だった。長年使用していた電球が切れてしまい脚立もない我が家では私にそれを取り替える事は不可能で、相談していた所にちょうどいい友人を連れて行くと聞いていたものの、まさかこのタイミングで初対面の男を家に入れることになるとは思ってもいなかった。
「お前の友達って何、みんな金持ちな訳?」
の事?ってそんなに稼ぎよかったっけ。」
「…残念ながらいい方ではないね。ただ、家にいる時間長いし今は少し無理をしてでも背伸びして借りた家でよかったよ。」
「まじで超広。」
 彼は初対面で知らない女の家に上がり込むとというのに挨拶どころか自己紹介もする事なく、靴を脱いでずかずかと私の部屋へと上がり込んだ。
「で、ここの電球つければいい訳?」
「あ、うん。お願いします。」
 慣れた手つきで電球を握りしめてきゅっきゅと天井に続く差込口にねじ込んで行く。対して上背がある訳でもないブン太だが、いつも家でその任を任されているのか上手いことに壁やらそこら辺にあるものに足をかけて電球を付け替えた。本当に、あっという間の出来事だった。
 案外すぐに終わってしまった役割にも微塵に気まずい感じを出さず、一仕事終えたとばかりにリビングへと進んでいき、私のお気に入りのソファーに腰掛けた。
「ほら、終わったし早く酒飲もうぜ。」
「…うん。ありがとう。今グラス用意するね。」
 知らない男を家の中に入れることに抵抗がなかった訳ではない。ただその相手が私の一番の信頼できる友人であった事、電球を付け替えてくれるという役割を担ってくれた事、そして何より在宅勤務が始まってずっとひとりぼっちで孤独に少し弱っていた私には深く考える材料にはなり得なかった。
「名前は?私は。」
「おう、な。俺は丸井ブン太。こいつの幼馴染。」
 にかっと笑って、差し出したビールのプルタブを勢いよくあけた彼は仕事のあとのビールはうまいとばかりにごくごくと喉を通していた。私も彼女と顔を見合わせて少し笑ってから、電球を替えたことによって明るくなった部屋で同じくビールに口をつけた。
 そこからは本当にいろんな話をした。同世代の私たちには共通の話題が多い。今日初めて出会ったとは思えない程に盛り上がったのは、私の信頼できる友人の幼馴染という事もあったけれど、私はブン太の雰囲気が嫌いではなかった。気を張る必要もないラフな関係をこの年齢から築くことがいかに難しいことかを知っているからこそ余計と親近感が湧いていたのかもしれない。
 深夜二時を超えた頃、ブン太は床で転がるようにして眠り始めた。最近は外に飲みに行く機会もない為か私も夜更かしに体が追いつかずふわふわとした頭を必死に保つことが精一杯だった。
「そろそろ寝ようか。」
「ごめん。泊まりたい所なんだけど実は明日朝一で宅急便の受け取りがあるから帰るね。」
「…だったら終電で声かけたのに。」
「私も楽しかったし、何より盛り上がってから言いそびれちゃって。二千円もあれば帰れるしさ。」
 彼女は私の家へと遊びに来るときは泊まって行くことがほとんどだった。今日も間違いなくそうなるであろうと考えていたからこそ、私は終電の時間にも特に気を回すことなく呑気に飲んではいたが、一気に酔いと眠気が冷めるようだった。その次に続く言葉を、おそるおそる紡いで見ると想像通りの言葉が帰ってきた。
「じゃあブン太君も一緒に連れて行くよね?」
「だってブン太寝てるし。朝になったら追い出してくれればいいから、よろしく。」
 彼女はそう言って私の答えを待つことなく慌てて鞄を肩にかけて玄関へと進んで帰って行ってしまった。こんな事になるなんて夢にも思っていない状況だった。今日初めて知り合ってばかりの男が私の部屋にいる。眠っているとはいえ、私もブン太も大人の女と男だ。なんとなく、悪い予感がしていた。
 彼女が帰ってしまった事でどうしようもなくなった状況に一度冷静になって、クローゼットの中からいつも彼女が寝ている掛け布団を取り出してブン太の体の上にそっと乗せた。
「……なに、俺寝てた?」
「うん。風邪引くから布団ちゃんとかけて寝てね。」
「あー、うん、じゃあおやすみ。」
 そう言ってブン太は再びすやすやと健やかな寝息を立てて床で眠り始めた。微塵にも期待などしていなかったけれど、私に手を触れて来る事もないのだなと思うと複雑な気持ちに陥った。私はそこまで女として魅力がないのだろうか。そんな本当にどうでもいい事を考え始めれば都合がよく再び眠気が襲ってきて、私は自分のベッドへと静かに潜って眠りについた。




 昨日眠りについたのは三時前くらいだろうか。久しく夜更かしというものをしていなかった私は、九時を過ぎても中々起き切れないでいた。そんな中でもこの時間に起きたのはブン太があまりにも自然に、自分の家にでもいるかのよう私に話しかけてきたからだ。
早く起きろよ。お前寝すぎ。腹減ったし。」
「…今日仕事休みなんだからもう少しゆっくり寝たい。」
「お前本当にぐうたら女だな。」
 あまりにもうるさく横で喚くブン太に諦めた私はまだ眠い目をこすって起き上がる。久しぶりにハメを外して飲んだ酒が、大いに体内に残っているようだった。高級なワインは翌日に残らないと言い始めたのは一体誰だろうか。
 腹が減ったという彼に根負けした私は冷凍庫に入っている讃岐うどんをふた玉取り出して、レンジに放り込む。その間に白だしと調味料を加えて出汁をつくり、最後に電子レンジから取り出したうどん玉と少しばかりの具材を入れ込んで卵を割る。それを大雑把に盛り付けてブン太に差し出すと思いの外彼は美味しそうにつるつるとうどんを吸い上げていた。
「何これめっちゃうめえじゃん。」
「こんなの誰だって出来るよ。」
「ちゃちゃっと作れるあたりが結構ポイント高め。」
「そりゃどうも。」
 彼はおかわりと言ってもうひと玉うどんを要求する。再び冷凍庫からうどん玉を取り出して電子レンジで解凍したものをそのままダイレクトに丼に投げ入れると再びうまいと言ってすぐに平らげてしまった。たいした料理で気が利かない自分に引け目を感じていた私も、ある程度気分がよかった。
 結局彼は腹が膨れた後は、退屈なテレビのチャンネルをしばらくランダムに替えていたけれどそれにも飽きて眠気を感じたのか私の断りもなくベッドへと転がって布団に足をかけて開放的な体制で私を呼び寄せる。
「何見てんだよ。もこっち来いって。」
 少しためらったあとに、寝不足であった事を急に思い出した私の体は吸い寄せられるようにベッドへとたどり着いた。そこに待っているのはもちろん安眠ではなかった。期待していた訳でもなかったけれど、期待していない訳でもきっとなかったのだと思う。
 私は何も悪くないのに、酷く自分の友人に対しての罪悪感が生まれていた。けれどそれがより背徳感のあるもので、私の気持ちを触れさせていたのかもしれない。少しだけ、ブン太が好きだと感じた。
彼氏とかいるの。」
「…いてこんな事してたらとんだビッチじゃん。」
「なあんだ。いないのか。よかった。」
 思っても見ないブン太の言葉に、少なからずまた期待が膨らんだ。久しぶりに疑似恋愛のような、得体の知れない感情を感じる。好きと断定することはできないけれど、居心地が悪くないというだけでこの年齢になれば十分な気がしていたのだ。
「どうせ暇してるんだろ。」
「なにそれ。色々と語弊のある言い方が癪に触る。」
「また来てやってもいいって言ってんだよ。」
 酷く上からのその言葉に一度むっとしたが、嫌とは感じなかった。久しぶりの人との接触も、肌を重ねた事も、いまの私には少しばかり大きな意味を持っていたのかも知れない。私はその場の感情だけで、彼に自分の合鍵を渡してしまった。つくづく頭の悪い判断だったと思う。その時々の感情で動くことが年を取ると此れほどまでに恐ろしいことなのだと気づいたのは、しばらく時間が経過してからのことだった。




 梅雨入りするかしないかの境目で、東京の緊急事態宣言は解除された。まだ街が元どおりにもどったといえるレベルには到底到達していなかったけれど、私は二ヶ月ぶりに会社へと出勤する。
 あれだけ毎日嫌だと感じていた通勤ラッシュも、以前ほど混んでいないせいもあってか気分は悪くなかった。久々に人と会えるのかと思う気持ちの方が幾分も優っていた。この二ヶ月間悪いことばかりではなかったけれど、きっと人と会っていないことで色んな事が麻痺をしていたのだろうと思う。
 週に二回ほど不定期に出社して、それ以外は在宅で仕事をするようになった。無い物ねだりとは言ったもので、ずっと出社していた頃は家で仕事が出来ればどれほど楽だろうかと思ったものだったが、それも週に二回は出社する事が決まっていれば残りの三日も快適に在宅で仕事ができた。私にとって程よい環境だった。
 ただ一つ程よい環境とは言いがたいのは、在宅期間中に私の弱った心が誤った判断を下してしまった彼の存在だけだった。
「あ、おかえり。適当に惣菜買って来といたぜ。」
「…来てたのブン太。」
「なんだよ。来ちゃ迷惑なのかよ。」
「そんな事言ってないじゃん。」
 口でそう言いながらも、酷く自分の快適な部屋が居心地の悪いものに感じられる。確かにあの時はそんな事は思いもしなかったのに、その場の感情を軸に動いてしまった私は自分の空間を失うことになってしまった。あの時ブン太に感じた不確かな感情は、間違いなく私にとってプラスではない方向へと作用していた。
「いや、まじでこの家いいよな。テレビもでかいし、ソファーもふかふかだし、の料理うまいし。」
 料理がうまいと褒めてもらった事に少しながらも喜びを感じたあの時、私は世の中が正常に戻った時の事を考えてはいなかったのだ。今はそんな彼の甘い言葉でさえ何も気持ちを動かされることはない。どうやってこの関係を終わらせて、いかに自然な理由をつけて合鍵を返してもらうかしか私にはなかった。
 追い討ちをかけるようにブン太の友人であり私の友人でもある彼女からのメッセージが届く。社会復帰おめでとう!なんてそれらしい一文を添えておきながら、すぐに後を追うように到着したメッセージにはあの後私がブン太とどうなったかを気にしている文面だった。言葉は直接的ではなかったけれど、なんとなく理解ができた。きっと彼女はブン太のことが好きなのだろう。
 いつも彼女は自然な形で自分の男友達を紹介してくれた。いつだって、彼はどうかな?と引っ付けるような仕草だって見せた。そんな彼女が唯一ブン太と私の関係性を気にしている。ならばあの日、宅急便など気にせずうちに泊まればよかったのに。このご時世再配達という便利な機能がある事を知らないはずがないのだから。親友である私を試したのだろうか。
「久しぶりに出社したから疲れちゃった。明日はゆっくりしたいな。」
「なら俺が癒してやるじゃん。」
 私の言葉の本質を理解してくれないブン太も、私を試すような事をした友人も、緊急事態宣言があけた今私にとっての重荷でしかない。きっと私は人と会わない事で弱っていただけで、そこに来た二つの誘いに弱い心が負けただけなのだ。
 世の中が正常へと戻りつつある今、同じく正常へと戻りつつ私の精神はどうしようもない過ちに気が遠くなりそうになるのだ。


ダウト
( 2020'06'10 )