捕まえる事の出来ない幻想を追いかけるを追いかけるその男も、同じように捕まえる事の出来ない幻想を抱き、追いかけた。追いかけているのかも甚だ理解に苦しむ程に、きっとそれは俄かに色づいた恋心に過ぎないのかもしれない。
「どうした。気分が優れないようだが。」
 廊下ですれ違ったに、彼は立ち止り、声をかける。気分がすぐれないというより、それは、何かを思い悩んでいるような彼女の姿であった。
「別に気分がすぐれない訳ではないんです。ただ、報われない世だなと、ふと、思っただけで、」
 振り返ったに、儚げな笑みが漏れた。いつから彼女はこんなにも儚げで、憂いを帯びた、まるで大人の女性のような表情をするようになったのだろうかと、改めて山崎は考えるに至る。去年、この屯所にやってきた頃は、何処を見渡しても子どもという文字しか見当たらなかったは、もうここには居なかった。
「本当に随分と唐突な話だな。」
 そうですね。また、一層女らしく憂いを帯びたの笑みが、夕焼けと相まって和らいで見えた。彼女を目で追うようになったのは、一体いつからであっただろうか。もうそれは、思い出せない。けれど、微かに抱きし、この淡い恋心にきっと間違いはないのであろう。この夕暮れと同じように、曖昧な色を漂わす程度の。
「斎藤さんが茶菓子を下さった。欲しければ、ついてくるといい。」
「山崎さん、甘いものお好きなんですか。」
「…嫌いではないな。何かおかしいだろうか。」
「いいえ、初耳だったものでして。」
 そう言っては先ほどよりも幼い笑みを塗りつけて、小さく微笑んだ。そんな些細な事すら、は知らない。山崎も、の事を知らない。何故そのような感情を抱くようになったのかさえ、曖昧なままに、ただ心だけがそちらを真っ直ぐに向いていた。
 山崎が茶菓子を用意している間に、は手際良く茶を汲み、湯呑を二つ取り出して急須の中身を丁寧に注いでいく。
「少し、聞いてもよろしいですか。」
 からの、初めての質問であったかもしれない。質問を重ねなければ理解出来ない程に、二人は互いを知らない。好意を抱くにはあまりにも無知であり、やはりその感情の根源を山崎自身ぼんやりと霞む程度にも想像に難い。
「山崎さんは何故新撰組に?」
「何故、というのは。」
「医家というご立派なであるお生まれを捨ててまで新撰組に入隊された事、どんな理由があったのかと、純粋に、そう、思ったのです。」
 医家の生まれである事に何も感じないと言えば違いなく白い目で見られるであろう。けれど、彼にとって医家というのは然程の価値もなかった。ない物ねだりと言われたらそれまでの、ただの贅沢であることも、彼は重々承知していた。
「俺は、武士になりたかった。」
 茶を啜って一息おいた山崎は、小さく呟く様にして告げた。こうしてありのままの本音を人前で晒したのは初めての事だったかもしれないと、言った直後に彼はたじろいだ。けれど、は構う事無くくすりと笑い、「野暮な事を聞いてしまいましたね。」そう言った。新撰組に入隊してくる者の願いなど、元を辿れば一つだけなのかもしれない。 「そういうお前は何故まだ此処にいようとする。」
 聞いて、はほんのりと色づいた肌に、目配せた。恋をする人間がこうも美しく見えるのは、酷く残酷なもののように彼には感じられた。
「野暮な事を聞いてしまったか。」
「……いえ。」
 の先にいつだって映るもの、それが山崎自身の憧れであり、目指すべきものであった。だからこそ、彼女を好きになったのだろう。理由は、それくらいしか考えられない。土方には不思議な魅力があった。表面上は鬼と恐れられる副長でありながら、本当は何処までも心の優しい人。そんな彼に、山崎は全信頼を置き、また、憧れとしていた。本物の武士とは、家柄や形なのではないと、それを具現化した様な山崎にとって絶対的な人間であった。
 そんな彼に好意の眼差しを向けるに山崎が気づいたのは、二月程前の事だった。それから自然と、山崎はへの淡い不確かな感情を抱きはじめる。きっと、目線の先にあるその人物が共通していなければ、抱く事のなかった感情だった。
「山崎さんは武士になって何をされたかったのですか?」
「…案外答えにくい質問だな。単純に言えば国の為だろうな。」
「確固たる信念を持っていらっしゃるのですね。」
 言った後、は皮肉めいて、微笑を浮かべる。言葉の意と全く連携しない、自身を嘲笑ったかのような、そんな表情だった。
「そんな山崎さんが、私は少し羨ましい。」
    私の求める物は酷く曖昧で、酷く自己中心的だから。  続けるようにして、の口が開く。「山崎さんと一緒で、平和なお国を望んでるのですけどね。理由が少し、不純なんです。」言って、また儚げに顔を崩した。それがより一層彼女を艶めいているようであった。
「もし私達が争いのない世に生まれていたらって。」
「それはないもの強請りというものだろう。戦のない時代など、未だ嘗てなかったからな。」
「でも、それでもそういう世であればと願わずにはいられないのです。」
「それは違いないな。」
 言い終えて、二人同時に茶を啜った。日は暮れた。彼女は、炊事場へと動きはじめる。自分に出来る唯一の仕事であるのだと、炊事場で働くが何よりも輝いて見える。土方を前にしたあの時と、同じくらい。きっと、彼の事を思い浮かべているから。
 先ほどと八合わせた場所を思い出す。下げられた湯呑の中身にはほとんど量の減ってはおらず、それを切なげに見つめる彼女は、確かに土方の部屋の前で佇んでいた。きっと、あえて突き放す様な態度を取られたのだろう。土方歳三とは、そういう男であると、山崎は知っていた。優しさは、甘美な言葉は、相手にとっていずれ心の傷になってしまうのだと。
「あのお方は自分に厳しい。君が傍にいて気が和らぐ事もあるだろう。」
 立ちあがり歩みを進めていたの驚いた表情が、くるりと山崎の方を見据えた。慌てながらに、そして諦めながらに、頬を染めるを、どうしようもなく愛おしく感じている自身に、彼もまた自嘲にも似た笑みを浮かべた。
「そのお方と君が平和な世で幸せにになれるよう、俺も努める事としよう。」
「誰とは言ってません。」
「今更聞かずとも、皆知っている。知らないのは君くらいだろう。」
 きっと彼女は、この国に不満を持っているのだろう。それは戦が憎いのではなく、意中の男がこちらを向こうともしてくれない事にあるのだろう。このご時世、恋愛などご法度に近い事なのかもしれない。恋愛感情など、所詮は邪魔にしかなり得ない。辛さは、いずれは自分の身に降り注ぐものだ。報われないのであれば、しない方が得策なのである。この戦さえなければ、彼が武士でなければ、もっと違う形があったのだと彼女は儚い幻想を抱き続けている、山崎にはそう思えて仕方がなかった。
「…そんな世になるといいな。山崎さんに、託しますね。」
 一度は慌てながらに挙動不審になっていたも、ようやく観念したのか、まだぼんやりと赤みの残る頬を残しながらも彼の方を向いて、そう告げた。そのかんばせに映るものに、自分が居ないと確信しながらも、彼は自分の心が和らいでいく不条理を、抱きながら。





 山崎は目を覚ます。見上げた天井に見覚えはない。ゆらゆらと蠢くようで、酷く気分が悪い。それだけでは足りないとでも言いたげに体全身に表現しようのない痛みが包み込んでいた。
「山崎さん。」
 未だ曖昧としている記憶の中で、の声が聞こえた。もう一度彼女の呼ぶ声で、今度は確実に目を覚ました。状況を理解するのに随分と時間を要したが、ようはそういう事かと、山崎はおぼつかない表情で苦く笑った。こんな時には相応しくもない、独占欲と優越感に浸ったのだ。
「どうしてあんな事したんですか。」
 目を閉じたら今にも事切れそうな曖昧の視界の中で、ぼんやりと浮かんだのは涙声のの声と、怒りを露わにした彼女のかんばせだった。最後まで、彼女の笑顔やあの切ない顔を占領することは出来ないのかと思うと同時に、感情をそのままにぶつけてくるを嬉しく思った。
「俺は…約束は守る性質だ。、君が理想の地で想い人と過ごせる国を。」
「それでも山崎さんがこうなっては、何も意味はないのに。」
「そこにあのお方が居ないと、何も始まらないだろう。俺は所詮手足でしかない、代わりは幾らでもきくはずだ。」
 少し喋り過ぎたのだろうか。酷く、眠気が襲った。
「貴方はもっと自愛するべきです。」
「俺は後悔などしていない。俺は、副長の手足になれた。そして、君にもだ、。」
 これこそ自らが望んだ事であり、その結果であるのだと、彼は自らに言い聞かせた。武士として潔く死ねるのであれば、それもまたいい。満足のいく死にざまだと自分のことながら彼は笑った。
 けれどただ一つ、悔いが残ると言えば目の前にいるの事だった。目指す物、目指す人が同じだから、彼女の想いが自らの憧れである土方に向いているから彼女を好きになったのだと、ずっと思っていた。けれど、それは違ったのだと今になって思い知る。こんな皮肉は、きっとないのであろう。
「君には戦は似合わない。平和な世で、幸せになってくれ。」
 幸せになった彼女の隣が、自分ではない事を少し悔しく思いながら。想像ですら、その場所に自分はいない。けれど、それはそれでいい。自らの好いた女と、どうしようもない程に憧れた男が幸せになるのであれば、それも一つの幸せの形な気がしたのだ。
 最早おぼろげにしか見えなくなったのかんばせを必死に映そうとする山崎の瞳に、の熱を持った涙が零れ落ち、彼のそれと重なりあった。
「俺は少し眠る事にしよう。酷く、眠いんだ。」
 満足に言葉も紡げないその言葉を紡ぎ切った後、山崎は目を閉じた。優しくゆるい眠りが、がいつだって望んだ、戦のない平和な国に誘っていく。


どこにもない国
( 2011'11'10 )