私たちは昔からの知人で、そして友人だ。生まれて、知り合って、友人になってとステップをそれなりに踏んではきたが、そこから先の進展性はなく止まってからざっと十五年くらいがたっただろうか。その先を求めるべきではないと何処かで諦めをつけながらも、たまにやってくる飴と鞭に私はその思いを捨てきれずここまでやってきてしまった。何事も長続きせず、忍耐の欠片もない人間だと自分の事を思っていたが彼のことに対してだけは忍耐強い人間と評価してもいいだろう。 彼が、慈郎が好きだった。そう思ったのはいつのことだったのか、今となっては明確な時期を思い出すことができないのにその思いだけは知り合ってからずっと変わらないのだから間違いなく私は重い女に違いない。隙を伺いながら攻めに転じても、いつだってふわふわとしたやさしいのか残酷なのか分からないその態度で交わされ続けてきた。そんな彼を酷いと少し思いながらも、あきらめることができない私が一番やっかいな存在でしかないのだろう。 ほんのりと色づいた感情は昔からあったが、本格的に自分の気持ちに確信を持ったのは高校生のときだった。中学の時に慈郎と仲がよかった事ですきなのか?と友人に冷やかされた事で徐々に思春期ということもあってその感情について考えるようになった。 氷帝のテニス部と言えば、誰もが知る有名人であふれているが慈郎以外にも女子の心を奪う人間がいたらしく、「、芥川くんなの?私は跡部様か忍足君がいいけどな。」という大半の女子を前に何を思ったかと言えば、それだけライバルが少なくてよかったという見当違いな事だった。誰が好きかというくだらない話で自分の価値観を人に知ってもらう必要性はないと思った。私は、そんな黄色い声援を送る彼女たちに大変な恋愛をする必要もないのに、と悪態ついてその野次馬に加勢することもなくただ只管に自分の気持ちだけは口外しなかった。 「おー、じゃん。」 「慈郎。部活の帰り?」 「そう、なんか寝てたら終わってた。」 そう言う彼に、私はまたかと少しだけ苦笑いを浮かべた。彼は高校に上がってもレギュラーの座にかろうじていた。そんな彼を快く思わない部の人間も多かったけれど、そんな彼らは慈郎の事をよく知らないのだろうなと思った。寝ていようが、部活に出ていなかろうが、強きがのし上がるのがここのルールなのだ。そんな彼に負けるのが悪いのだと、私はそう思っていた。文句を言うのであれば、彼に勝ってから言えばいいのに。いつもそう思っていた。 「一緒に帰ろうよ。」 「うん。いいよー。」 私はそんな断りようのない、他愛のないことで喜びを感じるのだ。誰が幼馴染と一緒に帰ろうと言われて、断るだろうか。彼女がいるか、用事があるか、余程嫌われていない限りその返事が肯定と分かっていながらも、こんな所でしか私は僅かばかりの幸せにすがる事が出来なかった。 電車に乗り込んで、一駅で目の前の席が二つ空く。迷うことなく慈郎はその椅子へと腰掛ける。つり革を握っている時から彼はひどく眠そうだったけれど、それでもかろうじて会話になっていたが座って間もなく隣から声はしなくなった。聞こえてくるのは、最寄の駅につくまで彼の健やかなる寝息だけだった。彼の柔らかな髪がこちらへともたれ掛かってこないだろうかと淡い期待を寄せたりもしたが、睡眠のプロである彼は綺麗に後ろの窓に頭をはめ込んで寝入っていた。 「慈郎、ついたよ。起きないと乗り過ごす。」 「…うん。」 「ねえ。慈郎ってば。」 「一緒に乗り過ごす?」 眠気眼でそう言ってきた慈郎に少し男を感じてどきっと胸を高鳴らせたが、そんな彼の言葉を許容してしまえば私はきっと終点の見知らぬ土地まで行ってしまうだろう。決死の覚悟で彼の頬を抓ると、制服の裾を握って見知った最寄り駅で彼と一緒に電車を降りた。 寝起きの慈郎はあまり機嫌がよくない。改札を出るあたりまではほとんど口数もなく、気だるそうに階段を下りていく。 慈郎は興味のあることに対しては異常なまでの執着を見せる。その一つがテニスだ。いつだって一定のテンションを保つ彼も、テニスという対称にだけは生き生きと輝いた瞳を見せる。他にも自分自身がテニスで尊敬している人間に対しては眠気を覚えることなく夢中になれる男だ。結局、私の隣ですうすうと寝息を立てて眠りこける慈郎にとって、私はそれくらいの価値でしかない。その先を、と長年望んでいる自分の果てしない夢のような出来事が意味がないと分かっているからこそいつだって虚しくなった。私は慈郎の興味の“対象”にはなれないのだ。 「寝たらなんかお腹すいちゃった。ラーメン食べて帰ろ、。」 「晩御飯食べれなくなるよ。そんな事したら。」 「いいじゃん。、ラーメン嫌いだっけ。」 答えは、「そんなことはない。」その一択でしかない。ラーメンが嫌いな訳でも、夕飯前に食べるほど好きな訳でもなく、答えの裏側に潜む本当の真実はただ慈郎と一緒に少しでも長くいたいという感情でしかない。ラーメンを食べる事で、少しだけでも彼にとって私という女が他の人間よりも特別になるのであれば夕飯がおいしく食べられないことも、無駄に千円弱財布から消えていくことも厭わないのだから。 「じゃあいこいこ。豚骨醤油食べたい。」 本当は塩ラーメンが食べたいな。 高校を卒業しても、大して生活は変わらなかった。氷帝のほとんどの人間は内部進学を果たし、大学になってから外部より来る人間も然程多くない。部活がサークルへと変わる、それくらいの小さい変化くらいだった。 高校時代に一生懸命テニスをしていた彼らは、誰もテニスサークルへは入らなかった。本格的にテニスを目指す人間は部活に入っていたし、かくいう慈郎も一度サークルの集まりに顔を出してはいたが今まで切磋琢磨してきたライバルたちがそこに居ないと楽しくないのだと分かるとそこにも寄り付かなくなった。部活も違うと、彼はどこにも所属することなく、中学高校の時よりも寝る事が多くなった。講義中、見ているこちらが不安になる程に綺麗に寝入っている彼はよく教授に怒られた。 社会人になった初めての春、奇跡的に慈郎も時を同じくして社会人になっていた。よくもあれだけ授業中に夢の世界をさ迷っていたのにきちんと留年することなく卒業できるなとも思ったが、それは私がテストの時期が近づくたびに彼に出題範囲を教えたり、ノートをコピーしていたからに違いない。それで少しでも私に対してありがたみを感じてくれれば、私は彼の特別になれるとでも思ったのだろうか。我ながら愚かな話だと思う。その愚かな話は、やはり実のところ愚かな話でしかなく、特別な効力を持たず私たちは態のいい友人のままだ。社会人になった、今も。知り合いから幼馴染にステップアップしたあの時から、何一つ変わってなどいない。 大学時代、一度だけ昔の仲間で飲んでいた時、私は慈郎に期待を持ってしまったことがあった。 自分自身の取り柄と言えば学生の頃から風邪も引かず、女子として少しくらい少女マンガのヒロインのようにクラリと貧血でも起こしてみたいものだったが、健康そのものであることだろう。万に一つのタイミングで、飲み会の後に体調を崩したことがあった。 近所に住む慈郎は心配してくれたのか、酒を飲んでいるにも関わらず一睡もせずに電車で隣に居てくれたのだ。なんとも理由が情けないとは思いつつも、心だけが満たされたことをよく覚えている。彼の興味の対象になった訳ではないと分かっていながらも、その時の出来事を未だに私は忘れる事が出来ず、社会人になっていた。 卒業して、私は銀行の営業になった。慈郎は印刷業の営業だった。慈郎が営業なんて想像にもしていなかったけれど、彼が内勤業務が出来る訳がなかったのだと気づいたのは就職してからすぐの事だった。 私は地元を離れ、都心へのアクセスがいい場所で一人暮らしを始めた。慈郎は、実家のままだった。 「慈郎も引越しなよ。私たちもう社会人だよ?」 「だって別に出る必要ないしさ。」 「そうだけどさ。もう子供じゃないし、親離れしないと。」 「は大人だなあ。えらい、えらい。」 慈郎は愉快そうに言って、自分自身が恥ずかしくなった。大人になど、なれていない。家を出ることが大人になる事だと言っている自分がひどくちっぽけに思えたのだ。元々都内出身の私たちにとって、一人暮らしは必須項目ではない。そう、分かっている慈郎の方が余程利口なのかもしれない。家を出たというその一点で、大人になったと思っていた自分の方がよっぽど子供じみて思えた。 「俺料理も出来ないし、掃除だって得意じゃないしさ。」 「料理なんて料理サイトみたら誰でも出来るよ。」 「えー、まじ?、すごい。」 「慈郎だってやろうと思えば絶対出来るよ。」 「俺まだ全然大人になれそうにないやー。やっぱは昔からすごいな。」 それがほめ言葉ではない事を分かっているからこそ、返答の言葉に困った。料理が出来ないのであれば料理しに行ってあげるのに、本当はそんな言葉を紡いでみたかったけれど、それを言えば面倒な女と思われる事は間違いと分かっているから言えなかった。きっと私以外にも慈郎を好きになった事のある女はいるのだろうけれど、彼にかける言葉が何が正解の意味を持つのかが分からない。間違いなく一番付き合いの長い私が分からないのだから、きっとどの女も分かるはずがないのだと言い聞かせた。 「一人暮らししたいとか、ないんだ。」 「うーん。別にないかな。それに、家がどこでも寝てたら着いちゃうし。」 「確かに慈郎はそうかもね。」 「はほんと昔から自立しててすごいなって思うよ。」 久しぶりの面子で開かれた酒宴で、またも自分が彼の“対象”になり得ないのだと、絶望した。きっと彼は、私のことが嫌いではない。どちらかと言えば好きだろうとも思う。よく言えば、無二の親友であて、幼馴染だ。私は、遣る瀬無いその気持ちを酒に流し込むしかなかった。珍しく酒に飲まれて、軽く記憶を飛ばした。 社会人二年目になった時、久しぶりに私は実家へと帰省するタイミングで慈郎と出くわした。別に実家に帰らずとも慈郎と会う事はそう難しいことではなかったけれど、偶然にばったりと会えたことに少し気持ちが弾んで、帰省も悪いものではないなと単純な考えに至った。私は、慈郎が好きである自分の気持ちに気づいてから、ずっと愚かなのだろう。悲しいことに、自覚はあった。 「慈郎はどうして営業になったの。」 「えー、何でだろ。そういうは何で営業?」 「うーん。何でだろうね。」 「じゃあ、俺たち一緒じゃん。何でなんだろうな、ほんと。」 慈郎はふわふわとしていて、何処か抜けている人間のように見えるけれど、実は要領がいいのだと幼馴染の私はよく知っていた。そんな彼にとって、外回りの営業とは打ってつけの仕事なのかもしれない。取引先へと向かう移動中は睡眠で鋭気を養い、しっかりと短時間でやるべきことをして成果を成していれば食べていくことのできる仕事だ。しっかりとコツコツ事前準備をしないと、何の成果も残せない私とは違う。 「なんか懐かしいなー。こうやって一緒によく帰ったよなあ。」 「そうだね。私もこの道、最早懐かしい。」 「とこの道歩いてると、昔と変わらないなって思うし。」 「そう?変わったよ、もう社会人二年目だよ私たち。」 「社会人になっても別に俺たちの関係なんて変わらないでしょ。」 そう言って、笑いかけてくるものだから、期待してもいいのだろうかなんて考えてしまう。私にとっては少しばかり嬉しさを齎したその言葉も、裏を返せば私たちには幼馴染から進展しないのだと告げているだけに過ぎないのだ。少しばかり舞い上がっていた私には、そこまで言葉の意味を汲み取ることが出来なかった。 「、またね。」 そう言って、彼は私の実家よりも駅に近いその家へと、入っていく。学生の頃とそれは同じように見えて、何処か私を寂しくさせた。 実家に気まぐれな帰省をしてから僅か、数日。数年ぶりにその時はやってきた。期は、熟した。 慈郎から一通のメールが届いた。ちょうど私は風呂を終えて、これから少しばかり暇をつぶすためにテレビを見て寝ようとしていた時だった。基本的に彼は不必要なメールをしてくる人間ではないし、私に用事などない人間だ。そんな彼が私に連絡を入れてくるというのは、何かしらの理由があると物語っていた。内容を見る前から、通知に彼の名前が表示されて柄にもなく胸が高鳴っていた。 内容は、寝過ごして終電を無くしたというものだった。幼馴染だから、泊めて欲しいと言えばすぐにでも返事を返すのに、「終電無くしたー。」とだけ送ってくる慈郎はずるい。自分から言ったという言質を取らせないようにでもしているのだろうか。 一瞬、慈郎の言葉を深読みしておきながらも数分後にはその事も忘れて、私は溜まらず既読をつけて、返信を打つのだ。 三十分もしない内に、私の住むアパートの前に一台のタクシーが止まる音が聞こえて玄関を出て行くと、眠気眼を擦りながら、欠伸をする慈郎がそこにはいた。 「眠いや。あ、おはよう。」 「おはようって時間じゃないよ、慈郎。」 「あ、そっか。ごめんごめん。」 一通の私の家の少し先の道路で慈郎と落ち合って、半分ねかかっているスーツにリュックを背負う彼を連れて家へと帰った。ふわあ、ともう一度大きく欠伸をした彼のリュックを預かって、それをソファーへと置いた。 「やっぱってちゃんとしてるね。部屋も綺麗だし、ちゃんと自炊してるって感じのキッチンだなあ。」 「そんな事ないよ。職場の子達はお弁当とか作ってるけど、私はそこまでしてないし。」 「なんか想像したらお腹すいちゃった。ずっと寝てたから何も食べてなかったし、何か作れる?」 彼女の家へと終電を逃して帰ってきた甘えん坊の彼氏のようなシチュエーションに、素直に嬉しかった。普段は料理サイトを見ながらたまに料理をする程度だったけれど、簡単に私の口はペラペラと言葉をつむいでいるのだから自分でも驚いた。そうだ、私はずっと、慈郎にこうして甘えられたかったのだと気づいた。 「何食べたいの。」 「なんだろ、あったかくて美味しいもの食べたい。」 大してレパートリーもないけれど、唯一作れる白だしを入れた出しまきを振舞うと、慈郎は「美味しい。いいお嫁さんになるね。」なんて殺し文句を言うものだから、どうしようもなく幸せを感じた。レシピを見ないで作れる私の唯一の得意料理が、それであった事をこれ以上の褒美と思うことは二度とないだろう。 食べ終えるとすぐにソファーでそのまま船をこぎ始めた慈郎を洗面台へと連れて行って、戸棚から来客用にとって置いた新しい歯ブラシの封をあけて手渡した。 「は準備いいよね。ほんと、しっかりしてる。」 「私要領悪いから、無駄に準備だけはいいのかも。」 「めちゃ助かるやつじゃん。」 一緒に洗面台で歯を磨いて、顔を洗うと二人でリビングへと戻った。無駄に準備のいい私の家には来客用の布団があり、クローゼットからそれを取り出そうとすると、慈郎の言葉で私の眠気はすっかり覚めた。 「えー、俺布団じゃなくてベッドがいいんだけど。」 「…じゃあ私が布団で寝るよ。」 「何で?一緒に寝ればいいじゃん。昔、お泊り会した時一緒に寝たし。」 その頃とは状況が違うと言う私にも構わず、一刻も早く眠りにつきたい慈郎は私の言葉など聴くこともなくベッドに飛び込んで、布団に潜り込んだ。断る理由もない私も、少し間を置いて戸惑いつつも同じふとんに身をくるんだ。 「昔から体温高いね、慈郎は。布団があったかい。」 「おやすみ、。」 就寝の合図と共に、彼は簡単に眠りへと誘われていた。そんな彼をどうしようもなく愛おしいと思いつつ、少し体制を変えようとして私も寝入ろうとした時、その体をしっかりと抱きとめられて、余計と眠れなくなった。 私も、そっと彼の首筋に腕を伸ばして、覚めたはずの眠気を幸せな感情に預けて眠った。 明日は、金曜日だ。 寝返りをすることもなく綺麗に眠る慈郎がいる事に気づいて起きた朝は、幸せそのものだった。普段は低血圧で苦手な朝も、何かの錯覚からか何の苦痛もなかった。アラームが鳴る前に目覚めたのは、本当に久しぶりの事だった。 昨日褒められてばかりの出し巻きを作りにキッチンに向かい、生まれて初めて自分で朝ごはんに味噌汁を作った。好きな人と朝にこうして一緒にいれば、私の低血圧も治るのだろうかなんて暢気で幸せな仮初に打ちひしがれていた。 「慈郎、起きて。」 「…眠い。」 「そんな事言ってると会社遅刻するよ。」 私の家に泊まっている事など忘れているのだろう、すやすやと綺麗な寝顔で彼はまだ目覚めようともしなかった。昔、通学していた時によくしていたように慈郎の頬を抓ると、ようやくその綺麗な眼差しが私を捉えた。 「おはよう、慈郎。」 「…そっか、俺昨日の家に泊まったんだっけ。」 「そうだよ。早く支度しないと遅刻するよ。」 昨日封をあけてばかりの歯ブラシに歯磨き粉をつけて、再び彼に渡すとやはりまだ完全に目覚めていない彼は目を瞑りながらシャコシャコとそれをゆっくりと横に動かしていた。 昨日脱ぎ捨てていたワイシャツにハンディーアイロンをあてて、彼に手渡して袖を通させた。「、奥さんみたい。」そんな言葉で、彼は私に飴と鞭を打つ。 二人で、私の作った出し巻き卵と味噌汁を啜って、同じホームから電車に乗った。学生時代にやっている事とそれは然して変わりのない事なのかもしれなかったけれど、それ以上の優越感が私を取り囲んでいた。彼と寝た訳でも、告白された訳でもないのに。 「ありがとう。昨日はまじで助かった。」 「ううん。幼馴染として当然でしょ。」 「ほんと優しいなあ。出し巻き、美味しかった!」 ニカっと笑って、乗換駅で降りていった慈郎を見送って見ていたけれど、向かい側の電車に乗り込むと案の定彼はすぐに窓枠に綺麗に頭を嵌め込んで夢の中へと逆戻りしていた。そんな姿ですら、小さく声を漏らしてしまうほどに可愛らしくて、どうしようもなく愛おしかった。 今なら、一歩を踏み出せる気がしていた。無意識ながらに私を抱きしめてくれた彼は、私のことをどう思っているのだろうかと、初めてそんな思想にたどり着いた。今まではそんな先を夢見ることすら出来なかったけれど、私には僅かばかりの根拠のない自信が芽生えていた。 金曜日という事も相まって、私はご機嫌だった。これだけ幸せな気持ちで、仕事も捗ったのは初めてのことかもしれない。いつだって入念に何時間もクライアント先の下調べをして、事前準備をしないとまともに商談も出来ない私にとって、今日は商談すら満足のいくものだったのだから、恋というものはプライベートだけでなく仕事においても最強の特効薬なのかもしれない。 珍しく、二日も続けて彼からの連絡が入り、私は人生で一番浮かれていたのだろう。周りの同僚からも、何かいい事でもあったか?と聞かれるくらいの、浮かれようだったらしい。 二、三通慈郎とメールを続けて、私はどうしようもなく卑怯な事を思いついて、卑怯と思いつつも賭けに出て見ることにした。 いつだか、大学生だった頃に私が体調不良を起こしたときの事をふいに思い出したのだ。そうすれば、慈郎は今日も私のところに来てくれるのではないだろうかと、浅ましいことを考えた。 心配してもらう価値などない自分の健康体に申し訳なさを感じながらも、私は心配してもらえている事に、彼にとって私が特別であるのだとそう思ってどうしようもなく心を弾ませていた。まさしく、背徳感というものを具現化したような黒い感情だった。私を心配して、うちに来てくれたらいいのにとあらぬ事を期待していた。 午後八時を超えて、仕事も終えて家へと戻っても、慈郎からの返信はなかった。既読がついている自分のメッセージを見続け、気が遠くなるような長い時間を過ごしていた。 ずっと願っていた、その音を耳に聞きつけて、私は玄関へと走る。すぐに開けてしまっては、それが仮病だと悟られてしまうと思い、少しばかり顔を作りこんで、インターフォンを覗き込んで、想像していた人物とは違う男が視界に入って頭が真っ白になった。 インターフォンで応答することなく、体調不良を作り上げたその表情も取っ払いドアを開けた先にいたのは、嘗ての同級生だった。 「久しぶりやな。元気か。」 「…なんで忍足が来るの。」 「ああ、そうやったな。お前、元気じゃない設定なんやったな。」 皆目検討も付かない状況に、私は可愛げも何もないいつもの私に戻る。別にこの忍足という男を嫌っている訳ではない、何だかいやな予感がしたのだ。 取りあえず彼を部屋へと上げると、コンビニの袋を彼は昨日慈郎が座っていたソファーへと置いて、少しばかり黙っていた。 「具合悪いんやろ。酒、買ってきたで。」 「…何、それ。」 「慈郎から言われてな。が具合悪いらしいから、様子見に行ってくれって。」 忍足の遠まわしな言葉で、全ての道筋に合点がいったような気がした。慈郎が何故彼に声をかけたのかも、そして彼が何故具合が悪いと聞かされている私に酒を買ってきたのかも。全ては、悪循環の方向へと既に進行しているのだ。 「具合が悪い女に、お酒の見舞いなんて聞いたことないけど。」 「にとっては今一番必要な薬やろ。」 忍足は、それ以上何も言わなかった。正確に言えば、何も言わないで居てくれた。彼は優しい。学生の頃からそんな事は知っていたけれど、その優しさがひどく自分を惨めに陥れていくようだった。 せっかく黙って缶チューハイを差し出してくれた忍足に、私は自分から傷口を抉りに行く。聞いたところで、自分が救われる要素など微塵にもないと分かっているのに、私も心底変わり者なのかもしれない。 「慈郎って、彼女いるんだ。」 「さあ。どうやろな。俺も知らんわそんなん。」 「そんな残酷な嘘つくなんて、忍足も人でなしだね。」 「…あいつやってアホやない。お前の気持ちには気づいとる。」 そんなどうしようもない真実を突きつけてくるほうが残酷でしょと自嘲的な笑いを零せば、「お前も難儀なやっちゃ。何でそんな不幸な道を自分から選ぶねん。」私自身が一番分かりきった事実を告げてくる。 あの時、昨日ベッドで一緒に寝た時、きっと私を抱きしめたのは本当に無意識のことなのだ。安心できる相手だからという無意識ではなく、きっと、彼女と間違えたのだと直ぐに察した。 その後忍足を困らせるだけだと分かりながらも問いただして、中高時代の大して目立ちもしない平々凡々と言う言葉が似合う温和そうな女と慈郎が付き合っているのだと知って、私が二十年近く着々と積み上げてきたドミノが崩れていく音が耳を劈いた。 ドミノ倒し |