昔に一度だけ、たった一度だけ、私は間違えてしまった。彼氏と些細なことがきっかけで言い合いに発展して、別れるつもりなんて微塵もなかったのに勢い任せに別れると言えばその場が丸く収まると一瞬でも思った私が浅はかだった。答えは、なら別れようという簡単な返事だった。本心ではなかった私でさえ、言い出したからには後に引けなかった。
 絶望にも似た気持ちで任務を終えて、ラウジンで一人になった時ようやく冷静になり、感情がぐちゃぐちゃになって、泣いた。感情に任せて泣いたのは随分と久しぶりだった気がする。人間、本気で泣くと酸欠状態になるのか、酷くくらくらして、そしてほんのりと頭が痛い。人が少なくなっていたボーダーの一角で私を見つけたのは、隠岐だった。
「なんで、泣いてるんです?」
 えぐえぐと泣く私を、取り敢えずは場所を変えた方がいいだろうからと彼は誰もいない生駒隊の作戦室に私を通してくれて、可愛いマグカップに暖かいミルクティーを入れて渡してくれる。まるで私の方が年下のようだけれど、彼は私より二学年したの後輩だ。大学三年生が、大学一年生の未成年に慰められている図式は、結構恥ずかしい。
「そんなに泣くって、めっちゃしんどいって事でしょ。」
 彼が親しみやすい人間である事はよく知っていたけれど、私は彼の事をよく知らなかった。イコさんとは大学も歳も同じで話すことはあるけれど、隠岐と話したことは今までほとんどない。時折イコさんの口から間接的に彼の事を聞くくらいの接点しか持ち合わせていない。
「…こういう時は、ほっといてくれた方が心が楽。」
「あんな所でわんわん泣いとってよう言いますわ。逆にほってたら俺が悪もんやん。」
「別にそんな事思ったりしないよ。こんな顔、人に見せたくない。」
 ぐずぐずになった私の顔を、よく知らない年下の男に見せるのには抵抗があったし、そんな世話をしてもらう義理もない。それもまさか、喧嘩をして自分から勢い任せに別れると言ったら本当に振られて泣いてるだなんて死んでも知られたくない。
「先輩、彼氏と喧嘩したんと違います?」
「……何で隠岐くんがそんな事知ってるの。」
「今日大学の食堂で先輩、見かけたんで。」
 隠岐が私に声をかけてきたのは半分の親切心と、私の今の事情を予め理解した上での半分の好奇心だったのだろう。時に、人は怖いもの見たさに悪戯に行動するものだ。彼にとって、彼氏に振られたという私は興味の対象に上がってきたのだろう。
「そんな悪い彼氏、忘れましょ。」
「私は忘れたくない。」
「二度あることは三度ある言うし、これ初めてじゃないでしょ。」
「隠岐くんは、悪魔だね。」
 どうすれば復縁できるか、そんな事ばかり考えて縛られている私に彼はそんな男との関係は早々に終わらせるべきだとキッパリと言い切った。確かに彼の言う通り、これが初めての喧嘩ではなかったし、今日と同じような大きな喧嘩も二度ならずとも片手で収まりきらないくらいには経験してきた。きっと彼とは縁がないという事なのだろうけれど、それでもいつだって元の鞘に戻ってきた。今回だって、どうにかすれば元に戻れるかも知れないと言う希望に縋りついていた私に、隠岐はトドメを刺してきた。
「なら、なんでそんなに悲しいんです?なにが悲しいんです?」
 この質問に何の意図があるのだろうか。私には隠岐の考えが、分からない。分からなさすぎて、逆に怖いとすら感じる。いつだって笑みを崩さないその綺麗なかんばせは、大して知りもしない女を前になにを考えているのだろうか。何故、こんなに執拗に絡んでくるのだろうか。それは慰めと言うよりは、尋問に近い。
「…だって、好きだから。」
「ほんなら新しく好きな人作ればええんやないですか。」
 結局、私は差し出されたミルクティーに口をつける事なく、生駒隊の作戦室を出た。突然なにを言い出すのだろうかと思えば、酷く突拍子もないそんな言葉を紡いだ彼は、少し楽しそうにすら見えた。その日から、隠岐を嫌でも意識せざるを得なくなった私ですら、もしかすると彼の計算の範囲内だったのかも知れない。




 彼氏と喧嘩をして別れると言っていた私たちは、気づいた頃にはまた元の鞘に戻っていた。こんな事はもう、何度目だろうか。最初のうちは自分が望んだ通り復縁できた事を心の底から喜んだけれど、付き合うことが目的であって、冷静になった時彼の何が好きでそんなに固執していたのかが分からなくなった。
先輩、お茶しましょ。」
「私今日防衛任務だから。」
「まだあと三十分もありますやん。その間だけでいいんで。」
「本当に、時間までね。」
 あれからと言うものの、隠岐と私の距離感は以前よりもかなり近くなった。仲がよくなったという訳ではない、隠岐が一方的に事あるごとに私の周りにいる事が多くなった。あの時の一件を知られているという弱みを持つ私も、あまり彼の事を無碍にできず、お茶くらいならと一緒にいる時間も増えた。
 ボーダー内でも屈指のイケメンで、彼に仄かな恋心を抱いている女性隊員も多いが、何故そんな男が私のような平々凡々な女に興味を持っているのかが、私にはいまだによく理解できない。分不相応な待遇だと思いながらも、それをどう受け止めればいいのか分からない。
「で、先輩いつ別れるんです?」
「隠岐くんしつこいね。復縁したって、何回も言ってるじゃん。」
「えー、でももう好きちゃいますやん。」
「私そんな事一言も言ってないよね?」
 隠岐は、私と話す時に必ず同じ事を繰り返した。いつ別れるんですか?と、いつだって別れないと答えているにも関わらず、めげる事なく挨拶のように私にそう尋ねてくる。だからと言って私を口説くのかと思えば、別にそういう訳でもない。ただ、私が別れる事に期待をしている素振りを見せるだけだ。
「前ほど好きって感じせえへんもんなあ。」
「私の元々をそもそも隠岐くんは知らないでしょうが。」
「まあ、それ言われたら結構しんどいっすわ。」
 彼は一体どうしたいのだろうか。こうして私の気を引くことに、何の意味があるのだろうか。一種のゲームのように、自分に惚れさせるのが目的なのかも知れないとも考えたが、流石にそこまで性格の悪い男のようにも見えない。その行動の真髄が分からなくて、余計と私は意識せざるを得ない。
「でも先輩、俺の事警戒しとる。意識してるって事でしょ?」
「隠岐くんは都合いいね、ほんとに。羨ましいよ。」
先輩やって自分の感情にもっと素直になればええのに。」
 彼が言うように、自分の感情にもっと素直になれば、私はどうなるのだろうか。今まで考えたくなくて、考えないようにしてきたけれど、確実に私は彼の事が気になって仕方ない。大して興味のなくなった彼氏と別れていないのは、隠岐に流されそうになる自分を繋ぎ止める為という理由でしかない。得体の知れないものに、人は魅力を感じるものなのだろう。スリルよりも安定を求めていた筈の私は、そのスリルに多分片足を突っ込んでしまっている。
「素直に生きてるよ。だから、今も付き合ってるじゃん。」
「頑固やなぁ。でもそんなとこも、結構好きですよ。」
「別に隠岐くんに好かれてもね。他の子から攻撃されそう。」
「いやいや、先輩が思う程俺モテませんから。」
 結局のところ、この得体の知れない隠岐と言う後輩の男が私は気になって仕方がない。それは異性としてなのか、それとも彼からそう仕掛けられているからなのかは分からない。けれど、こうして言い寄られる事自体気分が悪いはずもない。けれど、この男の真の目的が分からない今、私も慎重にならざるを得ない。
「折角モテるんやったら、モテたい人からモテたい。」
 こうやって、程よい距離感で私に詰め寄ってくる隠岐は計算高いとそう思う。
「隠岐くんでも叶わない事、あるんだね。」
先輩ずるいなあ。俺の気持ちなんてどうでもいいん?」
 こうやって私を揺さぶりながら、じわじわと距離を詰めてくる隠岐に、私はすっかり気持ちを持っていかれているのだろうと思う。この男にハマる事は、もしかすると自分をより疲弊させる結果になるかも知れないと分かりながらも、沼へと足をはめてしまった。
「どうでもいいかって言われたら、多分どうでもよくない。」
 テーブルの下で、彼の足をコツンと蹴って、絡ませた。  

泥に沈む宝
( 2022'02'13 )