意外にも、一緒に住まないかと提案してきたのは諏訪の方だった。
 諏訪とは付き合ってからもう長い。長いからこそ、何度も喧嘩して、別れる局面も何度もあった。私自身も気が立ちやすいタイプだし、諏訪もある程度は受け入れてくれるけれど度がすぎることに対しては容赦なくキレるタイプだ。
 正直ここまで長く付き合えると思ってなかった。喧嘩を繰り返すたびに泣いて、喚いて、もう別れると叫んでこの世の終わりのようになるのに、何故だかいつだって私たちは元通りに戻っている。好きだからこそ許せないと思うことも多いけれど、好きだからこそやっぱり許してしまうと言うのがその実なのかもしれない。如何にもという彼氏ではないけれど、私にとって諏訪は、大切な存在だった。
 ボーダーに入ってからも随分と長い時間が経過していた。もう私も俗に言ういい年齢になっていた。決してボーダーでの立ち位置が悪かったわけでもなければ、本部配属だって望めば無謀ではない望みだっただろう。私はボーダーにいたこの数年間、割と大きな功績を残した。私の階級がA級であったと言うことが、それをひとまずは説明してくれるだろう。
 私は、ボーダーを辞めた。
 考えれば、当然のことだと思う。A級で固定給をもらってはいたものの、階級が下がれば給料が保証されている訳でもないのに、常に英雄でいろと言うのは些か都合が良すぎる。ボーダーに入ると決意したのも私自身であって、今日までこうして続けてきたのも、私自身の意思でしかない。恐らく、私にとってここは居心地が良かったのだ。
 大学を卒業するタイミングで、その分岐点はやってきた。このままボーダーであり続けるのか、それとも普通の世界で、社会人として順応すべきなのか。実のところを言うと、相当悩んだ。
 もしボーダーがボーダーで在る必要がなくなった時の自分の立場だとか、そうなった後にどうやって生きていくのか等、どう考えても私にはボーダーを辞めるという選択肢しかなかった。感情だけで生きていけるほど、私には強い信念も、目標もなかった。世間体を、優先した。
「わざわざ会いに行くのも面倒だし、一緒に住むか。」
 辞める意思を自分以外の誰かに伝えたのは、かなり直前の事だった。きっと、誰も私が社会人になる道を選び、ボーダーを辞めるとは想像していなかっただろうと思う。実際、もう辞めることがしっかりと事実になって伝えた時、周りからは酷く反対された。能力があるのに、才能があるのに、なんで辞めるのかと。能力も才能も、全ては自分自身の努力で作り出されるものである事を知らないのかと、こう言われるのが分かっていながら呆れた。
 そんな中、諏訪だけが、私が辞めると言っても動じることなく受け入れてくれた。寧ろそれが当たり前であるかのように、息をするように受け入れた。
「…洸太郎は反対しないの?ボーダー辞めるなって。」
「それを決めるのは俺じゃねえし、お前がそう思ったんなら俺に覆す術はねえよ。」
 私のボーダーでの日々も、あっけない物だなと思う。辞めるという意思は誰から何を言われても曲げるつもりはなかったけれど、諏訪には少し引き止めて欲しい気持ちがあった。私が入隊して訓練生の時から、彼を飛び越してA級になった時も、全てを見てきた諏訪は、他の誰よりも特別だった。
「誰かに引き止められる事を期待してるようじゃ、お前もまだガキってこった。」
 諏訪が言っている事は本当に至極真っ当なことで、聞き返した自分が間違っていたのだと、気持ちを正される。私は別に、辞めることを引き止められたかった訳ではない。ただ一人、諏訪に、何かを感じて欲しかっただけだった。隊が同じだった訳ではないけれど同じボーダーという組織を通して身近にいた私たちの関係が、変わってしまう。それを恐怖に思うのが、私だけだと思いたくなかったのだ。
「お前が嫌じゃなきゃ、一緒に住むか?」
 思っても見ない言葉に、私は心身ともに、固まってしまった。寧ろ、私がボーダーを辞める事で、別れる方向に事が運ぶのではないだろうかとまで考えていたからだ。まさか、一緒に住もうと私が言うことがあったとしても、諏訪の口から出てくるとは夢にも思わなかった。
「ぼけっとしてんじゃねえよ。嫌なら嫌、良いなら良いって言え。」
 彼にしては珍しく結論を急いでいるようで、私は少し可笑しくなって笑ってしまう。私の答えが、彼にとって都合の悪い方向に転がることはないと理解できないのだろうか。寧ろ、私がこの提案に喜んでいることを、彼は知らないのだろう。
「…洸太郎、好き。」
 長く付き合ってきた中で、彼に対して一番ときめいたのはこの時かもしれない。



 ボーダーをやめて、私は無職になった。ボーダーをしながら就職試験を受けることには随分と無理があって、辞めてからしっかりと受けようと思っていた。そんな時に、同棲をしないかと言われて、とりあえず就職の前に引っ越すことにした。
 実家住みとは言え、実質寝に帰っているだけの諏訪は特別家の間取りや条件に口を出すことはなかった。私がこれがいいと言えば、いいんじゃねえか?とそう言って、あとは煙草を咥えるだけだ。大して興味がないのだろうと思う。
「希望の条件とかないの。」
 唯一、諏訪と喧嘩したのは家を決める直前のことだ。基本的に私が理想に思う部屋をいくつか内覧したけれど、全てに大して同じ感情で「あー、別にねえからお前決めろよ。」という諏訪に、誠実さ感じることができず、私は盛大にキレた。言い換えれば、全ては私の思う通りにことは進んでいて、それに諏訪が付き合ってくれる形だった。それが理想と思いつつも、二人のことなのにとどこか無責任なような気がして腹がたった。
「他人事じゃん。」
 私一人が舞い上がっているようで、何だか惨めになった。諏訪は一緒に住もうと言ってくれたけれど、ただ手持ち無沙汰で言っただけなのだろうか。何を言っても、彼は否定する事はない。全て、興味がないのだと思う。
「お前がいいならそれでいいだろ。」
「なんでそんなに投げやりなの。」
 不動産屋で、私は酷く怒って諏訪を始め周りの人間に迷惑をかけたと思う。私と一緒に住もうと言っておきなながら、どうでもいいなんて言葉はあんまりだと思った。一緒にいたいと思うからこそ、一緒に住もうと言ってくれたのではないのだろうか。私がワーワーと言うのを辞めた瞬間に、諏訪が確信をつく一言を述べた。
「お前と住むのが俺の目的だし、部屋とか興味ねえわ。」
 言われて、冷静になる。確かに彼の言う通りだし、こんな不意打ちな殺し文句はないと思う。打ち手を無くした私は勢いを失くして、それ以降黙り込んだ。結局、予算的な部分のみ諏訪と少し擦り合わせて、最初に内覧した部屋に決めた。不動産屋に戻ってすぐに審査の紙を出して、三日もすれば審査が通過したと連絡が入り、私たちはゆっくりと荷物を移動させながら、同棲を始めた。諏訪は、通勤が楽になったわとボソッと言ったけれど、本当にここで良かったのだろうかと、私はいまだに思い悩んでいた。
 幼い頃から何でも器用に熟せることが多かった。人よりも労力を使わず、最短のルートでゴールできるのが私の利点だと分析していたが、就職活動は想像以上に難航を極めた。就職活動を甘く見ていたというのが、私に仇となって跳ね返ってきた形だ。
「なんだ、もう帰ってたのか。」
「うん。夕方面接予定だった会社が急用でリスケ依頼してきた。」
「んじゃ、この食材は明日使うか。」
 ここ最近、慣れない事をしているせいかひどく疲れやすかった。食事当番なるものを当番制にしてみたものの、最近は結局諏訪が適当に何かを作って、簡単に済ますことが増えていた。料理ができるようになりたいからと大きめのカウンターキッチンのある家を選んだ筈なのに、理想と現実は改めて違うものなのだなと痛感した。
「ごめん。言えばよかったね。」
「謝んなよ。元々今日のメシ番お前だし。」
 諏訪は、一緒に住んでから少しだけ変わった。以前から私が理不尽に怒って喧嘩になることが殆どではあったけれど、色々と大雑把にそんな私を以前よりも容認してくれるようになった。不器用ながらではあるが優しい人だった諏訪は、簡単に言うともっと優しくなった。嬉しくない訳ではないけれど、ちょっとした違和感として私の中では引っ掛かっていた。
 実のところを言うと、私の引っ越しはまだ完了していない。大方必要なものは手伝ってもらいながら運んだけれど、細々したものを後回しにしている。あと一週間もすれば完全退去をしないといけないので、ここ最近外出ついでに前の家から荷物を持ってきては、部屋の隅の方に寄せて、片付けずに物が増えていく。
 諏訪は一日で引っ越しを終わらせた。元々実家を出ただけなので荷物が少ないというのもあったけれど、必要最低限のものだけを提げてやってきた。本当は沢山持っている本を持ってきたかっただろうに、必要な時は家に帰ればいつでも持ち出せると言って、私に多くスペースを譲ってくれた。
「今のうちに片付けしとくから飯は頼んだ。」
 任務を終えて帰ってきてばかりで自分も疲れている筈なのに、諏訪は率先して家事をやってくれているし、私が引け目を感じないように極力“やってる感“を出さない。面倒見がよく、性格もいいのはもちろん知っていたが、ここまで気遣いができるのかと時々尊敬してしまう。でもそれが、やっぱり違和感として引っかかってしまうのだ。
「ご飯、できたよ。」
 部屋の中は、私の荷物がほぼ占領していて、つまりは諏訪は概ね私の物を片付けている、ということになる。よく、毎日文句も言わずにせっせとやってくれているなあと、不思議に思う。
「私に足りないのって何?就職できる気がしない。」
「エース様でも難しいって訳かい。そりゃご苦労さん。」
 私がいつも何かに思い悩む時は、諏訪と喧嘩になる事が多かった。私が理不尽な事をきっかけに八つ当たりをするケースが多かったけれど、不思議と同棲を始めてからまだ一度も喧嘩をしていないのだ。同棲をする事に何か懸念があるとすれば、喧嘩が多くなるのではないかという心配が大きかった。けれど、私たちの同棲生活は老夫婦のように穏やかで、安泰だ。
「洸太郎ってさ、そんなにマメに掃除とかするタイプだったっけ。」
「…あ?人並にはやるだろ、普通。」
「だって毎日少しずつ私の荷物出して、片付けてくれてるじゃん。」
「そうしねえと物で部屋埋まんだろ。増えてんだから。」
 当たり前のように言うけれど、多分同棲する前の諏訪だったら、片付けない私に片付けろと言っていたと思うのだ。それが、私がここ最近違和感として感じている大枠なのかもしれない。
「ゴミ屋敷にもしたくねえし、そんな下らない事で喧嘩もしたくねえしな。」
 缶ビールに手をつけた諏訪が、ボソッとどうでも良さそうに、そう言った。その一言で、何となく覚えていた違和感の正体が、少しだけ分かったような気がした。喧嘩しても私たちには別々に帰る家があった。けれど、同棲をすればここ以外に帰る場所はなくなる。つまり、その先にあるのは破局だ。以前は気ままにその時々の気分で話して、怒って、喧嘩して、泣いて、喚いて、別れると言っても一日か二日離れていたら元に戻っていた。それが、同棲をすることによって、できなくなると諏訪は考えているのではないだろうか。
「それって遠回しなプロポーズ?」
「行き詰まって頭狂ったか、どうしたらそうなんだ。」
「喧嘩しないように、大切になされるなあって思って。」
「どんだけ自己都合な解釈してんだ。」
 けれど、すぐに視線を逸らして、それ以上は否定しない。プロポーズは置いておいたとしても、概ねの内容はきっと当たっているのだろう。彼の視線が戻って来るのはいつだろうかと、じいっと見つめると、観念したように一度罰が悪そうなかんばせで、私をみた。
「……あんま見んな、あほ。」
 そうすれば私の腕をとって、荒っぽく一度だけ軽いキスをする。これは、諏訪のパターン化されている行動で、キスをするきっかけを作るのが、私の役割だ。もう一度強請るように視線を突き刺すと、ため息が聞こえて、すぐにビールの味がした。


同棲生活
( 2021'12'12 )