冷たい、みかんゼリーが食べたい気分だった。もしくはオレンジシャーベットでも構わない。とにかく柑橘系が食べたい。そんな気分の時はないだろうか。私はここ数ヶ月で、何度かその気分に陥ることがある。ちなみに、毎回後悔してばかりだ。
 中学から高校に上がった時のインパクトより、高校から大学へ上がった時の方がよっぽどインパクトが大きい。生活の軸が大きく変わる。私が柑橘系のサッパリしたものが欲しいと思う所以は、毎度同じパターンだ。
 大して酒に強くないと理解しながらもその場に流されがちなのは、私が自覚しているウィークポイントでしかない。目が覚めた瞬間、存在するのは後悔だけだ。一人暮らしというものは、こういう時ばかりは煩わしく人恋しくなる。まさか二日酔いだからと、親を呼び寄せる訳にもいかない。


 唐突に、少し昔の話をする。
 とは言っても、そこまで大幅な過去ではない。私が高校生だった頃の話だ。スポーツの強豪校と呼ばれる陵南高校は、私の母校だ。特にバスケットボール部は取り分け強く、そしてそこにはエースと呼ばれる仙道彰という男がいた。私の二学年後輩に当たる男だ。
さんも卒業か〜、寂しくなるな。」
「そう?言うほど関わりないじゃんうちら。」
「そこは寂しくなるね〜でいいかと。」
「そっか。じゃあ、そうだね。」
 ミーハーな友人に誘われ、一度だけ試合を見に行ったのが仙道くんと顔見知りになるきっかけだった。ただ、それだけの関係だ。それ以下でもそれ以上でもなく、学年だって違うのだから顔見知り以上、知り合い未満みたいな関係性だろう。事実、寂しいのかと言われたら大して寂しいとは感じなかった。
「大学もここから近いんでしょ?」
「ん〜、そうだね。遠くはないと思う。」
「全部濁すな〜、俺嫌われてます?」
「嫌いじゃないけど、多分好きでもない、かな。」
「俺のメンタル鋼だと思ってます?」
 正直に言おう。仙道くんのようなタイプはどちらかと言えば苦手なタイプだ。何を考えているのか分からない人は、一緒にいて疲れる。考える必要がないと分かっていても、無意識にその真意を考えてしまうからだ。そういう性分なのだから変えられない。
 決して女性に困り、飢えている訳でもない彼が何故私にこうして絡んでくるのか。結局、考える必要がないのに私はそんなことを考えてしまう。だから、仙道くんは苦手だ。
「連絡先くらい教えてくださいよ。」
「仙道くんってさ、用事ないと連絡してこなさそうだよねそもそも。そしたらいらなくない?」
「用事ないと連絡しないのは当たり。でも、さんには用事ありますから。」
 いかにも気があるこの素振り。これが在学中ではなく卒業手前の事で本当に良かったと思った。本人はあまり気にしていないようだが、ファンクラブまで存在するようなこの男に気に入られていると知られてしまえば、私の平穏なハイスクールライフはなかっただろう。
「違うか、用事は俺が作るんで。お願いします。」
 高身長の爽やかなイケメンにそう言われては断る理由もない。それに連絡先を渡したからと言って何か弊害がある訳でもないだろう。これ以上この意味のわからない会話を継続するよりはよっぽどいいのかもしれない。
 結局、私は卒業前に連絡先を彼に渡した。
 それから一年半、彼からの連絡はなかった。連絡が入ったのは、割と最近のことだ。“お久しぶりです〜”となんとも簡素な言葉と、彼のトレンドマークでもあるニコニコ顔を添えて。どこかのフレンチのコース料理みたいだ。
 返事に困るその短く要件のない連絡に、迷いながらも私も同じく“久しぶり〜”と何の感情も添えずに送信した。すると、そのすぐ後に高校三年間の夏が終わったのだと、彼は教えてくれた。感傷に浸っているのかと思えばそういう訳でもないらしく、“もう部活も引退なんでいつでも暇してます”と一丁前にアピールをかましている。
 そこで、やり取りは終了している。あたりまえだ。誘われるでもなく、自分は暇だとあくまで待ちのスタンスの仙道くんに対し、私がすることなんて何もない。いくら彼が大人びていると言っても二学年も後輩、それもまだ高校生の男の子に自分から誘いをかけるのは何だか気が引けたのかもしれない。





 唐突に少し昔の話をしたが、あくまでこれは昔の話だ。今、私は“もう部活も引退なんでいつでも暇してます”のやり取りで終了した文面を眺めながら頭を抱えている。この頭を抱えるという行動は恋煩いではなく、二日酔いによる行動だとあえて説明を追加しておこうと思う。
“今、なにしてる?”
 様子を探るような文面を送りつけると、驚くほど早く彼からの返信がきた。
“なんも。いつでも暇してるって言ったじゃないですか”
 ならばと、私も事の経緯を思いっきり割愛し、自分の住所とみかんゼリーと柑橘系のシャーベットを買ってきて欲しいと送信した。こんな唐突な依頼に一度くらいは何事かと確認が入るかと思っていたけれど、続くようにして“了解です”とやっぱりニコニコ顔が添えられてすぐに返事が返ってきた。
 そして、今、二年ぶりに再会した仙道くんが目の前にいる。出会った時から海外のスーパーモデル級のような体型だったけれど、それにも磨きがかかっているように見えた。スーパーの最上級はなんだろう、ハイパーモデル級でいいんだろうか。
「折角の再会だしもうちょっと喜んで欲しいな。」
「それは誠に申し訳ない。」
さん、カタイカタイ。」
「多分それ、食べたらちょっと良くなるから。」
 コンビニの袋を持った仙道くんを招き入れ、ソファーに座らせる。友人が来客してもいいようにと二人掛けでも少し余裕がある筈のそのソファーは、仙道くんが座ると随分と小さく、そして窮屈そうに見えた。
「どうしたんです?今日は。」
 この状況をどう説明しようか。判断に迷う。「二日酔いです!」と言うのは如何にも簡単だし、まだ未成年の彼でも納得するだろう。しかし、よりにもよってそんな事を仙道くんに言うのは気が引けてしまう。遅かれ早かれわかる事とは言え、やっぱり気が引ける。
「取り敢えず熱はなさそうだし。」
「…なんでわかるの?」
さんなら熱っぽい時に呼んだりしないから。」
「そんなん分からないじゃん。」
「わかる。俺に移したら悪いってのが先行するはず。」
 確かに言われた通りだ。人を頼ったり、甘えたりするのはどこか苦手だし、本当に熱や風邪の症状であればまず声はかけない。そもそも熱や風邪じゃなくても、彼を呼ぶつもりなど毛頭なかった筈なのに、まだ私の酔いは確実に冷めていないらしい。
「差し詰め二日酔いとか、そんなとこだ。」
 彼の文面にいつも添えてあるニコニコ顔そのままのような笑みに、単純に答えに困る。こんな眩しい笑顔で二日酔いだと言われたことは未だかつてないが、一体彼はどんな気持ちで言っているんだろうか。
「俺のこと試したでしょ?本当に来るかって。」
 結局、やっぱり仙道くんが言う事は正しい。今この時だけでなく、昔からいつだって。私の事なんて大して知りもしない筈なのに、不思議と誰よりもよく知っている。あの時の口約束とも言えない、一方的な仙道くんの約束が本当なのか、そして今もその効力があるのか知るために私はこうして自分の二日酔いを道具にしたのだ。
「ゼリー食べたかったのは、ほんと。」
「さっきのことに対して特に否定しないんだ?」
「……デリバリー頼めばよかった。」
「そんなつれない事言わないで下さいよ。」
 仙道くんはハハハと、やっぱり大して困ってもいないくせに後頭部を押さえながら困ったなと言って笑っていた。機嫌を損ねた子どもをあやす様、コンビニの袋からキラキラと透明に光るゼリーを取り出してビニールを剥ぐ。
 きっと私が恥ずかしがると思って、あえて仙道くんならスプーンでそれを掬って私に食べさせるだろう。自分で食べれると、私が言葉とは裏腹に顔を赤くして照れているその様を期待して。
「みかんは要らない。ゼリーのとこだけ、食べたい。」
「お、そう?」
 プラスチックの小さいスプーンは、綺麗にキラキラと透明に光っているゼリーの部分だけを乗せて私の口の中へと運ばれた。そう、この味が欲しかった。
「案外素直に食べさせてくれるんですね。」
「看病するなら常識でしょ。」
「そりゃそうだ。」
 話をした事だってそんなに多い訳じゃない。一度試合を見に行った時と、まだ私が在学中にすれ違って何度か声をかけてくれたくらいだ。挨拶と二言、三言話しただけで特別会話が盛り上がったという記憶はない。だからこそ、不思議しかなかった。
「仙道くんって嘘つきだよね。」
 自分から連絡する用事を作ると言っておきながら、蓋を開けてみれば会うのは概ね二年ぶりだ。二年も経てばいろんなことが変わる。それは私だけでなく、仙道くんも。だから、仙道くんは変わったのだろうかと、そんな事を思った。それとも、そもそも私が揶揄われていただけなのか。
「他に言いたい事あります?」
「自分で用事作るって言ったくせに。」
「あ〜、あれね。確かに言った。」
 まるで悪びれることもなく、やっぱりいつもの余裕の笑みを貼り付けて。でも急に、キリッとしたその眼差しを私に向けて。仙道くんはいつもこうだ。人が油断した隙を狙ってか、こうして緩急をつけてくる。
「用事、作るよ。さんと同じ大学行くから。」
「なにそれ、聞いてない。」
「だって、言ってないから。今言いましたけど。」
 夏が終わった報告をするのももちろん大事だ。仙道くんにとってのバスケは何よりも優先度の高いことだろう。しかし人に連絡先を聞いておきながら、あまつさえ連絡しないでしょ?と聞いた私に、自ら用事は作るので教えて欲しいと言ったのは仙道くんだ。夏が終わった報告よりも前に言ってくれてもいいものじゃなかろうか。
「おちょくってる?」
「なんで?全然、そんなことないんだけどな。」
「先に言ってもいいでしょ。」
「仮に言ったとして、さん振り向かないでしょ。大学生が高校生好きになったら犯罪じゃんとか言って。」
 天才の考えることは、非凡の私には理解できない。今まで、彼のよく分からない言動をそう理解することで処理していた私にとって、こうまでぐうの根が出ない正解が出たのは意外でしかない。一言一句、私が言いそうな完璧な私の思考だ。天才は、先を読む力もすごいらしい。
「ほら、図星だ。そういう顔。」
「…………うるさいよ。」
「なんかそういうとこ、猫みたい。」
「ストップ、やめてやめて!」
 これでは仙道くんの思う壺のような気がして、勢いをつけて黙るように言ってみたけれど、次の策は持ち合わせていない。自分が弱っている時に気まぐれに甘えたくなっているこの状況を猫と言っているのであれば、顔から火が出る案件だ。二日酔いがぶり返すだけでは済まない。けれど、もし彼の言っていることが事実であれば、それは二年という壮大な計画だったという事なのだろうか。
「それに気になったでしょ、連絡来ないの。」
「…笑顔でひどい事言うね、仙道くん。」
「これからは用事、沢山作りますから。」
 だから許してください、仙道くんは再びゼリーを掬って私の口元へと運んだ。ここで拒否するのもやっぱり負けた気になるので、これでもかというくらい大きな口を開けたら笑い声が聞こえて、暫くすると甘いゼリーの味がした。この時点で既に私の負けは確定しているも同然だ。
「ところでさん、今日の褒美ってなに?」
 私が猫なら、この男は間違いなく犬だ。褒美を求め、尻尾を振る大型犬。しかも愛くるしいやつ。私はようやく、彼の人間性と、彼の真の姿を知ったのかもしれない。狙った獲物に対しての彼の執着心は、きっととてつもない。
「具合悪い人に褒美求めないで。」
 それが何故私であるのか。それは今も尚壮大な疑問の一つでしかないが、今日は褒美の代わりにそれは聞かずに受け入れることにしよう。それを問いただすのは、次の機会でいいのだから。
「これ食べたら良くなるんじゃなかったっけ?」
「…すぐ言質とる。」
 今度は私の方から用事を作って、連絡してみる口実にしてみようと思う。


イージーノウ / Easy Know
( 2023’02’08 )