生活とは日々の積み重ねである。
 これは特に偉人が残した名言ではない。私が今瞬間的に脳裏に浮かべたただの感想だ。生活に限らず、全ては蓄積していくものであって、突然それがどこかに消えてなくなる訳じゃない。大して気に留めないことが二、三回続いたところで大ダメージにはならない。けれど、それが百回繰り返されたら確実にストレスとして跳ね返ってくるだろう。
 分かりにくいので、例えてみる事にする。酔っ払って帰ってきて鍵を閉めずそのまま家に上がり込んで、もちろん気づくこともなくそのまま眠ってみてはどうだろうか。二、三度目までは「気をつけようね」で済んでも百回同じ事を繰り返したらこれは事案だ。ちなみにこれは私の話である。反省はしているが、酔っている私に直接言って欲しい気持ちもある。同一人物であって、酒を飲んだ後の私は別人格だ。不用心の天才だと思っている。
「今日はゴミ出しといてってお願いしたよな?」
「…ごめんなさい、言われました。」
「三日もこのゴミと生活すんの嫌じゃないの?」
「とっても嫌だね。」
「そうだよな。俺もとっても嫌だわ。」
 淡々とこうして叱られるのが一番きつい。団体合宿があるからゴミは出しておいて欲しいと言われたのはリョータが合宿に出かけるタイミング、今から二日前のこと。忘れっぽい私の事を事前に想定していたのか、テーブルにも“月曜の朝ゴミ!”と置き手紙が残されていた。普通こういうのってもっと甘いメッセージが書かれてあるもんじゃないだろうか。ちょっと古いトレンディドラマの見過ぎかな。
「リョータごめんって、」
「…反省してないっしょ?」
「してる、すんごいしてるほんと。」
「今日も鍵開いてたけど?」
 もちろんこの展開で私の口から反論が出てくることはない。念押し気味に頼まれたゴミ出しを失念し、いつもの如く鍵を閉め忘れて眠った私に反論できるだけの手持ちはない。それに大事な事を一つ言い忘れたが、ここは私の家じゃない。リョータと同棲する為一緒に借りた家という訳でもなく、リョータが自分で借りて一人暮らしをしているリョータの家だ。
「じ、自動で閉まるのに変えちゃおっか…?」
「自販に行って家入れなくなるな、お前は。」
「リョータもなるでしょ?」
「ならない。俺は絶対鍵持って家出るから。」
「え〜、ほんとに絶対?」
「そう、ゼッタイ。」
 やんわり許してもらおうと冗談っぽく言ってはみたが、驚くほど場の雰囲気は好転しない。流石に自分でもそろそろまずいと思っていたし、あと数年もしたら大学も卒業して社会人になる歳なので実際笑えたもんじゃない。自分で言った通りでしかないが、これは完全に事案なのだ。
「お願いした事くらいやってくれてもいいじゃん。」
「……別に悪意があった訳じゃない。」
「悪意がなきゃ何でも許されるの?」
 その一言で、今まで自分がどれ程リョータに甘え切っていたのかを思い知らされる事となった。
 リョータは大学の近くでアパートを借りて一人暮らしをしていて、私は大学から二十分程離れた実家に住んでいる。大学からも近く、私のバイト先からも近いリョータの家に、気づいた時には週の半分以上いるのが当たり前になっていた。
 学校から近くて楽だからうちに泊まればいいじゃん。付き合って間もない頃よくこんな事をリョータは言ってくれた。
 それでも実家に住んでいるのだから親が心配すると最初の頃は遠慮もしていたけれど、私が居酒屋のバイトを始めたのをきっかけに夜危ないからバイトの日はうちに来て!と語尾を強めて言ってくれたリョータと気づいた時には半同棲のような状態になっていた。
「それって俺ばっかり不利なんじゃない?」
「……それはそうだ、ほんとにごめん。」
 周りに恵まれて生きてきた方だと思う。気の利く子が友達には多かったし、一人っ子なことも影響してか割と過保護に何でも許されて生きてきた。こうして自立して生きているリョータを見ると、自分が如何に甘っちょろい中途半端な大人であるかがよく分かる気がする。
 自ら求めて私を呼び寄せてくれたリョータに、結局私は依存しきっていたのだろう。
「……とりあえず俺寝るから。」
 多分合宿終わりでリョータも疲れていたんだと思う。何度となく注意も忠告もされてきたけれど、ここまで確信的な事を言われたのはこれが初めてだった。合宿で疲労していたであろうリョータのその言葉はどう考えても本心で、今までグッと堪えてきたものが蓄積した結果でしかない。
 寝るからとベッドに向かったリョータの顔は少しだけ気まずそうで、こういう時はどうするのが正解なのだろうか。私にはその答えがよく分からない。
 物音なんかに割と敏感なリョータが、すうすうと寝息を立て始めたのはほんの数分後だった。よほど疲れているのだろう。私は最低限の身支度をして大学へ向かうため部屋を出る。一瞬忘れそうになって、ドアに戻って鍵をガチャリと一度回した。
 ドアに付属しているポストにそっと鍵を落とし入れると、想像以上に甲高い金属質な音が耳を劈いた。





 まずは最低限の事を最低限するのが目下の課題!とだけ勢いをつけて講義に出てみたけれど、結局途中からは授業の記憶はないし、ふわふわしていたような記憶だけが残っている。多分、間違いなく、船を漕いでいたんだと思う。
 どうしようもない事は事実変えられはしないけれど、きちんと遅刻する事なく講義を終えられた自分を褒める事にした。自分に甘いというのは理解しているので、徐々に成長していこうと思う。それこそ何事も積み重ねだ。

 何度か船を漕いだ気はするけれど、無事今日の全ての講義を出席という形で終えた私はバイト先へと向かう。いつもこの時間から活動しているリョータのサークルも、今朝合宿から帰ってきてばかりということもあってか今日は活動がないようで体育館はガランと静まり返っていた。

 まずは何から正していこうかと考える。
 考えてすぐに、考えるまでもないと気づく。不用心な私はまず鍵を閉めるところから始めないといけない。普段鍵を閉めずに寝るくらいなので本当に不用心でしかないけれど、急に冷静になった時私が人様の鍵を所有しているのはリスクでしかない謎の恐怖を感じて先ほど返却してばかりだ。
 まずは家の鍵を帰宅と同時に閉めるという当たり前の習慣がついた時、もう一度リョータから鍵を渡してもらおうと思う。
 あと最低限ゴミくらいは出せるようになりたいので、そこも反復して習慣づけるしかない。けれど残念ながら忘れっぽいだけでなく、低血圧でもあるので朝の私は誰がどうみてもバッドコンディションだ。ならば、前日の夜に出す習慣をつければ良い。
 考えればちゃんと自分を動かせそうなので天才なのかもしれないと思ったのは多分時間にしてレイコンマニ秒くらいだ。冷静に考えてルールを作らないと何もできない人間だと弱い頭で何とか理解した。

 取り敢えず明日学校でリョータに会ったらきちんと謝って、これからはちゃんと用心できるよう努めると伝えようと思う。明日の三限は幸い同じ講義だ。
 ゴミも出すし、鍵も閉めるように努力しますと言う事になるんだろうけれど、どうしようもなく間抜けな言葉だと思う。事実間抜けな事をしているし、これができなかったのだから私が間抜けである事は間違いがない。
 よくよく考えたら愛想を尽かされても全く可笑しくないのだと今更ながらに気づいて、リョータの懐の広さを知った気がした。言葉数が多い訳でもないし、とびっきり甘い言葉をかけてくれる訳でもない。でも、結構大切にされているのだとは思う。
 私のバイト終わりに合わせて迎えにもきてくれるし、朝が苦手な私を起こしてくれる。更には料理だって割と完璧にこなしてみせる。本当は彼女が手料理を振る舞うのが、世間の理りのはずなのに。
 改めて自分の愚かさと至らなさを自覚して、どれだけ自分が大切に大事にされていたのかを知り、考えさせられる良いきっかけだったと思う事にした。
 無駄に高い自己肯定感に、明日からはしっかり良い彼女になろうと決意してバイトからの帰路について、私は想像していない光景を見る事になった。





 マンションのロビーの少し右側、駐輪場で原付に腰掛けるようにしているのがリョータである事は遠目からでも分かった。急に家の前まで来るなんてよほどの急用だろうか。
「リョータ?」
 その原付めがけて小走りで駆けていくと、普段はあまり見られないリョータのかんばせがそこにはあった。目を見開いて、まるまるとさせている。どちらかと言えば、突然実家の前にいるリョータに私の方が驚いているくらいなのに。
「何で出ていったんだよ。」
「え?いやだって今日大学あったし。」
「そうじゃなくて、鍵あれなに……」
「だって失くしちゃ怖いじゃん。」
「それ言うならまじで今更だろ。」
「今まで奇跡的に失くさなくてよかった。」
「…そうじゃなくて、」
 結局なんでリョータがここにいるのか、その要点を私はまだ掴みきれていない。いつも余裕のあるリョータが珍しく少し冷静さを欠いているように見える。できれば結論から話してほしいなと思う。自分でも理解力が乏しい事を悲しい程理解しているからだ。
「あれどういう意味って聞いてんの。」
「……どういうって、反省?」
「じゃあもう俺の家来ないって事じゃなくて?」
「え、行っちゃ駄目なの?」
「駄目じゃないし、寧ろ今から来て。」
 今日は久しぶりに実家に帰ると報告していた事もあって、また明日行くよと言ってもリョータが言葉を聞き入れてくれる様子はない。私の手首を握ってずんずん前へと進んでいく。さっきまで腰掛けていた原付はどうするのかと聞いても、それに対する回答はなかった。
「これからは鍵も閉めるし、ゴミの日は前日の夜にちゃんとまとめて出すようにするから。」
 やっぱりまだ怒っているんだろうか。握られている手首が痛い。そこまでしなくても逃げたりなんてしないし、きちんと今日の失態に対するお叱りも甘んじて受け入れるつもりだ。確実に私に非があるのだから。
「もうしなくていい。ゴミも鍵も。」
「いや、それは駄目でしょ。」
「全部俺がやるからいい、てかもう何もすんな!」
「ちょっと…え?」
 そこには、付き合って半年間で初めて見るリョータがいた。そのかんばせには明らかに余裕がなくて、でも必死に余裕を生成しようとしているように見えた。未だかつてこんな事は一度もなかった。私がどんな失態を犯しても、何だかんだ言いながら全てを受け入れ許しくれたリョータだったから。
 今私の手首を驚くほど強い力で握りしめている事を、リョータは気づいていないようだった。
「何もしなくて良いから突然居なくなんな……」
 少しずつ紐解いていって、ようやくお互いの誤解が解けた。





 私が思っている以上に、リョータはデリケートだったらしい。もしかすると、私の知らないリョータの一面はまだ他にもあるのかもしれない。妹が一人いると聞いていたので、私の中には何だかんだ言いながらも面倒見のいい兄であるリョータが勝手に出来上がっていたのだろうか。
 面倒見のいい兄のようであって、甘え上手な弟のようにも感じられるのだから不思議だ。今この瞬間まで、そんなリョータを私は知らなかった。
「鍵の件はごめん。ちゃんと今後は相手にどう捉えられるか考えてから行動するよ。」
 何に対して不安に思っているのか、あの後一つずつ紐解いていって、ようやくリョータの思考に辿り着いた。確かに言われてみればそうだなと私自身納得できてしまったけれど、それでもそこまで過剰になるものなのだろうかと、少しだけまだ疑問が残る。
 私が鍵をポストに入れたのは、私が自分との決別を選んだからではないかと思ったのだとリョータは言う。あんな理由で?考えれば考える程、冷静にありえない判断だ。ゴミ出しを失念してちょっと怒られたからといって別れるほどしょうもない付き合いをした覚えはない。もちろんそんな事は言える訳がないので、心の内に留めておく。


 私を迎えにバイト先に向かおうとドアを開いた時、カランと金属質な音が引っかかって鍵を見つけたリョータは私が家を出たと思ったらしい。
 客足が悪いからと早上がりをさせられた事もあり、リョータがバイト先に到着した頃にはタイミング悪く私は既に居ないという状況だったようだ。そして、原付で私の家までやってきた、という経緯らしい。
「リョータの勘違いって分かったでしょ?」
「言い切れんの?」
「言い切ってるじゃん。今、まさに。」
「………信用ならねえ。」
 信用ならないと言われても、私はこれ以上何を証明すればいいのだろうか。百パーセント私に非しかないのに、私がそんな状態で無言で家を出て別れる筈などないのに。何度言っても、今のリョータは私を一向に信用しようとしない。私自身も後先考えず鍵を返却した後ろめたさがあるので、あまりこの現状に強く口を出せないでいる。
「一緒に帰ってきたのが何よりの証拠でしょ。」
「いつ脱走するか分かんないじゃん。」
「そんな、犬や猫じゃないんだから。」
「……犬猫の方がまだいい。繋いどける。」
 夕方頃に目が覚めたんだろうか。私と同じ匂いのするシャンプーが、リョータからふわりと漂う。きっと目が覚めてシャワーを浴びて私を迎えに行こうとしていたんだろうと思う。セットもされていないリョータの髪が時折私の首筋をゆらゆらと掠っていく。
「今日はちゃんといるから。」
「…明日は?」
「いるよ。聞かれるだろうから先に言うけど、明日も明後日もいるし、家帰る時はちゃんと事前に報告する。」
 ようやくリョータが何を不安に感じているのかが分かったからか、私も先を見据えた言葉を紡ぐことができた。理解力に乏しい自分にしては相当な進歩だと思う。足りない頭でしっかりと考えないといけない程にリョータを不安にさせた、私の罪だ。
「……ん、」
 ようやく言葉に整合性を感じ取ってくれたのか、背中に乗っかった重圧から少しだけ解放された。強引に連れ帰ってこられてから、ずっと私の背中にはリョータの温もりが重なっていて、離すまいとぎゅっと両手で私を閉じ込めた。部屋に一歩足を踏み入れた、その瞬間から今までずっと。
「明日は缶ゴミだから夜のうちに出しとくね。」
「いいって、まじでやめて。」
「いやいや、私の成長機会奪わないでよ。」
「成長なんてしなくていいじゃんか。」
「そんな事言われたら一生甘ったれじゃん。」
 後ろから回されている腕の圧は少し弱まっただけで、実際はまだ私の肩にはリョータの顔が手乗り文鳥のように綺麗にはまり込んでいる。まるでリボンを結ぶように、ここ最近気になっている私のお腹の近くでリョータの両腕が緩く重なりあっている。実質まだ拘束状態は解けていない。
「一生甘ったれてろって言ってんの。」
 今日のリョータは私の知らない一面だらけだ。スキンシップはそれなりにするし、仲の良い恋人だとは思っていたけれど、ここまでベタベタという効果音がつきそうな程にリョータが私にムキになっているのはとても珍しい。
 どちらかと言えば、私が擦り寄るように甘えてそれを静かに受け止めてくれる余裕のあるリョータのイメージが強い。私が甘えれば、存分に私を甘やかすようにぎゅうっと包み込んでくれるあのリョータが、今は言葉では納得している筈なのにそれでもやっぱりまだ余裕がないように私の肩に顔を乗せてゆらゆらと左右に私ごと揺さぶる。
「駄目な大人になっちゃうね、それ。」
「駄目だったら俺の事必要でしょ?」
「……うわぁ、」
「何その感情。引いてんの?」
「いや、めっちゃ愛されてるなと思いまして。」
 優しい人だという事はよく知っていたし、リョータを好きになったきっかけも優しいところだったり、意外と紳士的だとか、大切にしてくれそうだなとか、守ってくれそうだなとか……何から守ってくれるんだ?命を狙われる要人じゃないけど、そう思ったのをよく覚えている。
 でも、今この瞬間ほど大切に、とっても特別に想ってくれていると感じた事はないかもしれない。つまり、この感嘆は負の感情ではなく、私がこの半年間で一番多幸感を得たという事を示している訳だ。
「……居なくなられるより五億倍は良い。」
「比較対象よく分かんないけど五億倍はすごい。」
「分かったんなら噛み締めとけって。」
「ん〜?うん、そっか。そうしとく。」
 言葉だけでは結局伝わる気がしなくて、私はリボンのように体に重なっているリョータの腕を一度剥がして、くるりと正面を向く。散々言い慣れてもいない言葉を言ったからか少し気まずそうに泳ぐリョータの視線が、何だか私までくすぐったい。
「もう暫く駄目な子でいよっかな。」
 今度は私の方から首筋に腕をかけて、柔らかい生地のパーカーに顔を埋めた。リョータの匂いが鼻いっぱいに広がって、酷く安心させられる。私も自分で想像していた以上に、リョータの事が好きらしい。この感情をもっと的確に表現する言葉があれば良いのに、とてももどかしい。好きという言葉は何だか薄っぺらいような気がして、その分首筋に回す腕をぎゅっと深く握りしめて密着すればいつものようにリョータの右手が私の髪を優しく揺らしてくれる。
「ずっと駄目でいろよ。」
「え〜、それは流石にね。」
「ずっと駄目なくせに……」
「うるさい。」
 結局、リョータが私を駄目な人間にするくらいに甘やかすので、私はずっとこのまま成長が出来ないのかもしれない。耳が捥げてしまいそうなこんな言葉を聞いてはそれも仕方がないだろう。リョータは私を駄目にする天才だし、人たらしならぬ私たらしだ。でも、今この瞬間だけはこの状況があまりに幸せなので、彼の言葉に甘えてみる事にする。

 自力で歩かずともリョータが拾い上げてしまう私の踵は、硬いエナメルに囲われガードされたようにずっと柔らかいまま、ふにふにと甘やかされている。
 でろでろに甘やかされるというのは、きっとそういう意味なのだろう。


エナメルの踵
( 2023’03’02 )