義勇は、本当に私にとって完璧な恋人だと、そう思う。
 言葉数こそ少ないけれど、その分一つ一つの動作全てに私を思いやる、暖かさが凝縮されたように、ぎゅっと詰まっている。これが愛されているという事だと思うし、きっと世間から見ても、私は恋人にとても大切にされている幸せな女に映っているのだろう。私自身、そう自覚しているのだから。

 休みの日になると、義勇は私の家へとやってくる。特に何かを一緒にする訳でもなく、ただ一緒の空間にいるだけで他には何もない。適当な料理を作って一緒に食べたり、テレビを見たり、本当になんて事のない日常を、私は彼と共有している。特質して言うほどの惚気はないにしても、私の日常は静かで、そして穏やかだ。
「来週私が義勇の家行こうか。毎週くるの大変でしょ。」
 さして近隣に住んでいる訳でもないのに、彼は文句一つ言う事なく毎週せっせと電車を乗り継いで、私に会いにくる。
「気にするな。それに、俺の家には何もないから難儀するだろう。」
「確かになあ。義勇の家、本当にものがないもんね。」
「男の家とはそういうものだろう。」
 そう言って、私の隣に腰掛けて、一度だけこちらを覗き込んでくる。私が不思議そうに、視線を合わせると、感情の読めないそのかんばせで更に私を見てくる。そんなに見られては、どうしていいか分らないと言えば、すまないと小さく呟いて、彼は視線をテレビへと移す。
 私には、前世の記憶というものが存在している。義勇は、この事を知らない。私が、言っていないからだ。
 前世の私は、今と同じく義勇の隣にいた。関係性も今と同じく、恋仲だった。けれど彼は、若くして私の傍から消えてしまった。鬼殺隊としての役割をしっかりと全うして、痣者としての運命を受け入れて、死んでいった。
 私たちは鬼殺隊に入る前から、同郷の出身で、幼馴染だった。彼の姉が鬼に殺された事をきっかけに、私たちは二人で鬼殺隊の門を叩いたのだ。物心ついた時から、私の隣にはいつも義勇がいて、そしてそれが当たり前の光景だった。そして、その当たり前が崩れた時、私も精神的に崩れていった。自分も痣者であれば、残される辛さを味わうこともなかったのにと、考えても無駄なことが脳裏に浮かんで、精神的に落ちていった。
。」
 きっと、こうして彼が私を異常なまでに大切にしてくれるのは、無意識のうちに前世でそばに居る事が出来なかった事実に基づいているのでは無いだろうかと、最近はそう思う。自分自身が一緒にいる事の出来無かった時間を、取り戻し、埋めるように私のそばに居るのではないだろうか、と。
「なに、義勇。」
 そっと私の肩に触れて、控えめにキスをしてくるだけで、彼はなにも言わない。私が甘えるように、彼の肩へと顔を傾けると、どうかしたか?と聞きながらも、優しく私の髪を撫でてくれる。返事がなくとも、私たちの会話は成り立ち、そして関係性も成り立っているのだ。
「…具合でも悪いか。」
「ううん。私、幸せだなと思っただけ。」
 彼に過去の記憶があるのかどうか、私は知らない。あえて確認しないのは、彼に過去の記憶があったとしても、無かったとしても、私たちの関係性はなにも変わらないのだから、特別それを知ることに意味がないと考えているからだ。
「そうか。」
「うん、義勇は優しいから。安心する。」
 その言葉は私の本心であって、紛れもない事実だ。だからこそ、私は時代を超えても義勇と一緒にいるのだから、そこに疑念は微塵もない。本当に大切で、今度こそずっと一緒に居たいと思える、ただ一人の人だ。
 私が言葉のままに彼に甘えれば、迷う事なく応える様に彼は私を存分に甘やかす。どうしようもなく大切なものを扱うように、とても繊細に、優しく私をもてなす。それが心地がいいようで、彼の本心なのだろうかと、少し疑念に思う部分があるのもまた事実だった。
「…体が冷えているな。風呂を沸かそう。」
 私の家の勝手を、きっと私以上によく理解している彼は、立ち上がって風呂場のスイッチを押しに行く。自分の体が冷えていることに気づかなかった私は、彼の体温に触れる事で、自分自身の体が冷えている事に気づいた。彼は、私以上に私を気にして、そして大切に扱ってくれる。
「どうして義勇はそこまで私に優しくできる?」
 単純に疑問に思うのだ。もし、彼に前世の記憶があるか、もしくは無意識ながらに何か感じるものがあるのだとすれば、彼はその責務にかられて、こうしているだけなのではないだろうかと。自分自身の感情よりも、彼ならばその責務を優先しそうな事を、私は知っている。前世を含めると、きっと彼との付き合いが一番長いのは、私なのだから。
「迷惑だったか。」
「そんな事ある筈ない。」
「なら、何故聞く。」
 核心的な部分を突かれているようで、時折彼の言葉にはヒヤリとする事がある。何故聞くのか、と言われたら、私が疑念を持っているからだ。義勇が好きという気持ちに嘘はないが、彼にこうまでして大切にされていいのか、私は疑念を抱かずには居られないのだ。
 ―――私が、彼にここまで大切にされる義理は、どこにもないからだ。
「こんなに幸せでいいのかなって。世の中の女子から、嫉妬されちゃうね。」
 半分事実であって、半分が言い逃れのその言葉を発した頃、ちょうどいいタイミングで風呂が沸いたリズムが私たちの鼓膜へと届いた。




 と付き合って、二年程が経つ。この二年で分かった事と、分からなくなった事がある。と付き合うようになってから、前世の記憶が少しずつ自分の中に流れ込んでくる感覚があった。生まれた時から、そういう類の夢をよく見ることもあって、特別受け入れ難いこともなく、すぐにそれが自分の前世での出来事であるのだと理解した。
 と付き合う前に、俺にはその記憶がないのだから、を選んだ事にそれは関係がないと思っていた。けれど、全てを知ってから彼女と向き合うと、以前よりも増して大切な存在に思えた。俺にとって、は唯一の癒しだったのだと思う。―――それは、今も、昔も。
 現世で彼女と出会った時、誰よりも、何よりも大切にしようと思った。そして、記憶を取り戻してからは、大切にしようではなく、大切にしなくてはならない存在だと認識するようになった。
 行き先が短いと分かっている俺に、最期のその時まで懸命に務めてくれた女だからというのもあったが、俺はそんなを愛おしいと思っていた。
「どうして義勇はそこまで私に優しくできる?」
 そう言われて、俺との関係性に認識のずれが生じているのだろうかと、不安になる。時折、彼女は俺に対してどうしてそこまで尽くしてくれるのかと聞いてくる事があるが、その度に得体の知れない不安が、俺の中で生み出される。
「迷惑だったか。」
「そんな事ある筈ない。」
「なら、何故聞く。」
 今、自分の腕の中にあるの存在が、知らぬ間にどこかへと消えていくような感覚が、いつまで経っても拭う事ができないからだ。彼女は口に出して、自分は幸せ者だというけれど、例えばそれが、俺にそう思わせる為の言葉だとすれば、先に待ち受けるものは一体何なのか、それは考えたくもない。
「こんなに幸せでいいのかなって。世の中の女子から、嫉妬されちゃうね。」
いつもと同じようなの言葉が、俺の元へと入ってくる。いつも通りの決まりきった、俺たちのやり取りだ。が言うように、彼女は本当に誰もが羨む程の幸せな女と、自分の事を思えているだろうか。もしそうなのであれば、何か目に見えて確証出来るものがあればいいのにと、そんな無駄な事を思った。
「お前は自分の感情に控えめだな。今も、昔も。」
 今度こそは、先に逝く事なく、の傍で、彼女と一緒に居たいとそう思う。例え、前世で俺が死んだ後、彼女がどんな人生を辿っていたとしてもだ。それは俺が今も尚、を好きでいる理由とは全く関係がなくて、そしてどうであったとしても俺がから離れるという理由にはならないからだ。
 万が一にでも、が何かに負い目を感じているのであれば、俺はこの記憶を持っていると悟られない方が、いいと思った。それは、にとっての心の負担が少しでも減るのであれば、という真っ当な理由が半分で、それをが知ったのなら、俺の前から姿を消すのではないかという、保身半分の理由だ。

 どうすれば、本当の意味で、俺はを満たすことができるのだろうか。




 風呂を出て、バスタオルで髪についた雫をゴシゴシと拭き取っていく。冷蔵庫を開けて、グラスに麦茶を注ぎ、呼吸をせずに二口連続で喉に通した。喉の潤いを満たした後、まだ髪から滴る水滴をタオルで包み込みながら、私はリビングへと戻る。
 自分の飲みかけの麦茶をテーブルに置いて、同じグラスに注いだものを彼にも渡した。欲しいと言われた訳でも無かったけれど、先ほど、風呂に入る前に言われた一言がどうにも心につかえて、なんと声をかけていいのか分からなかったのだ。
「それとも、お酒の方が良かった?」
 彼がそれに賛同しないと分かっていながら、私はさして聞く意味のないそんな言葉で、その場を何とか凌ごうとしている。今の私は、第三者から見て、痛々しく、場を取り繕っている女のように見えているだろうか。
「そうだな、の髪を乾かしたら飲むとしよう。」
 そう言って、彼は私をソファーの下へと座らせ、そしてバスタオルを私から奪っていく。自分で水滴を拭うよりも優しく、髪にも摩擦が生じないよう、ふわりとした手触りが少しだけ心地が良かった。
「いいよ、髪くらい自分で乾かせる。」
には大雑把な所があるからな、乾かし漏れがないように。」
 本当に彼は、私のことをよく理解しているのだと、改めて思い知る。それもその筈なのかも知れない。私が物心ついた時から、義勇は私の傍にいて、兄弟のいない私に兄のように、静かに世話を焼いてくれた。
 ぼうっとしているように見えて、実は用意周到で、誰よりも周りを見ている義勇に、私はいつも世話を焼かれていた気がする。しっかりしているようで、お前は少し大雑把なのか玉に瑕だと、そう言われた事を何となく覚えている。やはり人というものは、生まれ変わり時が変わっても本質的な部分は変わらないのだろうと思う。
「なに、義勇にとって私って妹か子もどなの?」
 少しはぐらかすようにそう言えば、答えは返ってこなかった。代わりに、ドライヤーの轟音と、心地のいい熱風が私の頭を覆う。美容室に来た訳でもなければ、彼は美容師でもないのに、私はここまでの待遇を受けてもいいのだろうか。
の髪の毛は、柔らかいな。」
「そう?義勇の髪の方が綺麗だと思うけど。」
「男と女の髪質は、ずいぶん違うからな。」
 私の長い髪を、一本一本丁寧に手櫛で溶かしながら乾かしていく義勇は、一体何を考えながら、こうしているのだろうか。誰よりも大切で、好きと感じている事実の一方で、私には義勇が分らない。それは今だけでなく、以前からそうだったのかもしれない。
 こんなにも尽くしてくれて、私に愛を注いでくれる彼を、何故私は信じ切ることができないのだろうか。私自身、義勇と共に在る事を望み、それを幸せと感じられるほどに、彼が好きなはずなのに。
「義勇ありがと、髪ツヤツヤになったね。」
 一本一本綺麗に手櫛された髪は、自分が普段髪を乾かすよりも随分と手触りが良く、サラサラと指からこぼれ落ちていく。義勇に溶かしてもらった綺麗な髪の束を自慢げに見せつけるようにすれば、義勇はもう一度私を正面に向かせて、いつかに買って手をつけなかった椿あぶらを手に取って、私の髪に塗りつけた。
「椿油は、髪にいいと聞く。」
「よく見つけたね、こんなの。買ったのすら忘れてた。」
「お前には、そういう所がある。」
 彼の言葉のいう通りである自分を自覚しながら、私は髪を触りながら、冷蔵庫へと向かう。ビール缶を二本取り出して、私は珍しく酒を飲むと言った義勇へそれを持っていく。どういう風の吹き回しなのだろうか、純粋に気になった。
「義勇がお酒飲むなんて珍しくない?どうかした?」
 彼は下戸でもないし、必要に応じて酒は嗜む程度に飲める人だ。私だって、彼が飲んでいるところを見た事がない訳ではない。けれど、家の中で彼が酒を飲む事は今まで一度もなかった。私が飲もうとしても、それをただ見ているだけで、文句も言わず自分は酒に興味を示さなかった。
「どうもしない。俺が酒を嗜むのは、そんなに突飛か。」
「そんな事はないよ。普通に、一緒に晩酌できるの嬉しいなと思っただけ。」
「そうか、ならばこれからは俺も飲むことにしよう。」
 お互い、腹の探り合いをしている気がするのは、気のせいだろうか。こんなにも義勇の事が好きで、その好きという感情は紛れもなく真実のものなのに、どうして私はこんな不安定な気持ちと共存しないといけないのだろうか。
 どうすれば、私は何の負い目もなく、彼の真っ直ぐな気持ちを、純粋なものと捉えることができるのだろうか。前世からもう一度人生をやり直せば、それは叶う事なのだろうか。だとすれば、もうそれは既に手遅れだ。
「…ねえ義勇、どうした?」
 義勇からこうして縋るように、求められるのは酷く珍しい。いつだって私が不安に押しつぶされそうになって、義勇を縋って、存分に甘やかしてもらっていたのに。
「もう、酔ったの。」
「そこまで下戸ではない。」
「じゃあ、どうしたの。」
 一度だけ、私は今の状況と似たような、近しい場面を記憶している。鬼滅隊が解散となってから数年経った頃の事だ。とてもゆっくりとした年月をかけて、義勇は少しずつ体力を失って行った。人間誰しもが、自分が死に向かって生きているとわかりつつも、その時期が明確に定められていると不安になるものだ。
 何を言われた訳では無かったけれど、一度だけ、義勇が縋るように私を強く抱き寄せたことがあった。やり残した未練だとかそんなものではなく、恐怖だったと思うのだ。迫り来る死が、確実に自分の身で感じられる恐怖はきっと私が想像する以上のものだったと思う。
 だからこそ、思うのだ。義勇は今、何に怯えているのだろうか。
「自分の感情に素直に従ったまでだ。」
 あきらかに、私へと向いているその愛の言葉が嬉しくもあって、そして、辛くもある。これが幸せと純粋に思えない私は、一体どこから道を違えてしまったのだろうか。そう考えながら、自分が臭いものに蓋をしている事を、ついに私は認めざるを得なくなる。




 義勇が近い未来、自分の傍から居なくなるのは分かっていた。私も端くれながら、鬼殺隊員であったし、彼から何を言われた訳でも無かったが、先が短いことも理解していた。だからこそ、彼との時間を精一杯に過ごそうと、自分にとっても悔いがないようにと、彼と一緒に過ごす事を決めていた。
 何を失ってでも、義勇に隣にいて欲しかった。私にとって、彼以上の存在は、金輪際現れないとそう思っていた。
 実際に、義勇を失って、私の自我は崩壊した。鬼殺隊としての役割が終わった時、私はただの女に戻ったのだと思い知った。私にとって義勇が全てで、代わりになるものなんて、何も無かった。
 義勇が戻らない限り、自分の心の痛みは解消されないと分かっていた。何か逃げる道があるだなんて思っても見なかった私の前に現れたのは、嘗て柱として従事した、唯一生き残った男だった。絶望にも近かった私の心は、少しずつ救われて、平常を取り戻していった。




 都合よく、いらないところだけ、記憶をなくせたのであれば良かったのにとそう思う。さすれば、私は義勇から真っ直ぐに伸びるこの気持ちを、純粋に受け止めることができるのに。
 そう思いながらも、これは私自身の咎であって、忘れてはいけないものなのだとも思うのだ。
「やっぱり私は、誰よりも幸せものだなあ。」
 その言葉に偽りはなく、そして、いつまでも私の咎が義勇への気持ちと共存するのだ。きっと、それが私にとっての本当の咎で、逃れることのできない、宿命なのだろう。暖かい義勇の腕に抱かれながら、私は相反する何かを感じていた。

フェイク
( 2021'11'28 )