ピンチをチャンスに変えるという言葉を知っているだろうか。
 そんな言葉をふいに連想したのは人生で後にも先にもあの時だけだったのかもしれない。高校一年生の夏休み前、それは転機として突然私に降りかかった。沖縄を出たきり会っていなかった幼馴染との再会を三年ぶりに控えた夏の出来事だ。




 宮城リョータ。
 物心ついた頃から私の記憶や思い出の一コマには、いつも彼が当然のように存在している。そんな彼が沖縄を出てから三年が経っていた。家族ぐるみで付き合いの深かった幼馴染のリョータは、中学に上がって大して時間も経たない内に沖縄を出ていった。
「ミョウジさ〜ん。」
「ん?」
 そして今度は私が沖縄を出る事になった。高校一年生の秋から私は湘北高校に転入してきたのだ。
「また宮城くんが来てるよ。」
 引っ越しの話を聞いた時、素直に受け入れ難い話だと思った。十六年間生まれ育った馴染みのある場所から離れる事には抵抗しかない。旅行でさえもほとんど沖縄を離れた事がなかった私にとって、それは大きなリスクでしかなかった。こんな中途半端な時期から、知らない土地で誰も私を知らない環境に身を置くのかと。
「ミョウジさんって宮城くんと仲良いよね。」
「そう?」
「宮城くんってあんまり誰かと一緒にいるの見ないからミョウジさんは特別って感じ。」
「特別ねえ……どうなんだろ、ただ付き合いが長いだけかも。」
 リョータも沖縄を出る時、同じような気持ちだったのだろうか。
 沖縄に残るという選択肢がなかった訳じゃない。本気で拒めば祖母と一緒に暮らすという手もあっただろう。けれど私は結局沖縄を出たのだ。たった一つだけ条件を口にして、そこに大いなる自分の望みを乗せた。
 あの頃の私は、きっとこのピンチはチャンスに変わるのだとそう信じていたのだろう。
「付き合い長いってどれくらい?」
「生まれてから十三歳になるまでかな。」
「てことは宮城くんって沖縄出身?」
 必要以上の自己開示をしないのは相変わらずらしい。私が沖縄から転校してきた事は多くの人が知っているのに、リョータも同じく沖縄出身という事はほとんどの人が知らないようだ。
「ナマエ。」
 皆が私をミョウジさんと呼ぶ中で、私の事を名前で呼ぶ唯一の人。そんな彼は痺れを切らせているのか、廊下からこちらを見ている。一緒に帰る約束をした覚えはないけれど、いつもリョータは機嫌が悪そうだ。
「なに?帰る約束してたっけ?」
「違うけど別にいいじゃん。」
「いいんだけど、まるで私が約束忘れてたみたいな仏頂面で呼び出されるのは本望じゃない。」
 三年という期限付きの東京転勤だった。品川という駅に転勤先のオフィスがあるらしく、ネットで調べると比較的東京の中でも神奈川に近い場所だと分かった。私から両親に告げた条件は、たった一つだけだ。
「折角また同じ学校いるんだからさ、いいじゃん。」
 リョータの事が好きだった。好きだった、というと語弊があるかもしれない。こうして私の隣を歩くリョータを、今もとても好きだからだ。そしてそれは、嘗て私もリョータも同じであるとそう思っていた。
「今日原付は?」
「朝雨降ってたから置いてきた。」
「そっか、御愁傷様。」
 いつからリョータに対しての感情が特別な感情へと変化して行ったのか。私ですらその境界線をよく分かっていない。物心ついた時から家族も同然に生活をしていたリョータは私の生活の一部だった。
「そういうナマエは?」
「カッパ着て自転車で来た。」
「だっせ、」
「自転車ないと不便だし?」
 ケタケタとそんな効果音がついてきそうな笑い方に、少しだけ優越感を感じてしまう。けれどその優越感を味わえるのはほんの一瞬だけで、直後に正反対な感情に飲み込まれそうになる。リョータがこんな笑い方を見せるのを、私は私以外に見た事がない。
「ねえ、乗せてよ。」
「は?」
「いいじゃん、家の方向一緒なんだし。」
 彼にとって、数少ない心の許せる相手である事はきっと私の自惚れではないだろう。そうでなければこんな無防備な笑い方を見せる事もないだろうし、そもそも自転車に乗せて欲しいと言う訳がない。
「リョータさ、普通そういうのって女の子が言うんじゃないの?」
 沖縄から出る事を躊躇っていた筈の私は、気がついた時には不安よりも期待の方を膨らませていた。思春期と呼ばれる多感な時期を経ても、自分の気持ちが変わらず続いていた事を自分の中で受け止めたのはその時だった。
 私がたった一つ出した条件、それは彼のいる神奈川に住む事。理由を作るのは想像以上に簡単で、親戚すらいない未知の土地で母親も不安だろうから家族ぐるみの付き合いをしていたカオルさんが近くにいる方が安心だろうと。そして、それは自分も同じである事を加えて伝えると、あっさり私のたった一つの条件は叶えられる事となった。
「俺が漕ぐからさ。」
「やだよ、二人乗りとか捕まる。」
「そんなんで捕まんないでしょ。」
「え〜、」
 確かにクラスメイトが言ったように、私とリョータは仲がいいのだろうし、きっと彼にとって私は特別なのだろう。だからこそ、私たちの関係性においてそこが上限になっているような気もして、心がベコっと潰れそうになる。
「てかこんな所見られて良いの?」
 自分の心に負荷をかけると安易に分かるのに、結局どこかで可能性を探ってしまう自分にほとほと嫌気が差す。沖縄で最後に二人で話をしたあの時とはもう状況が違うと頭では分かっている筈なのに、欲という存在だけは誰よりも己に忠実なものらしい。
「なにが。」
「なにがって……勘違いされたら困るでしょ?」
「誰もそんな勘違いしないっしょ。」
 自分に期待を持たせて、いつも返ってくるのは後悔だけだ。確かに私はリョータにとっての特別でありながら、けれどそれ以上にはなり得ないのだと突きつけられているのも同然だ。私以外の女の子とは、あの子に勘違いされると困るからと必要以上に気にするくせに。
「だって皆知ってるじゃん、俺とナマエが幼馴染だって。」
 リョータの言っている事はただの事実でしかなくて、その事実が鋭利な刃物のようになって突き返される。何の反論もできない事実こそ、一番残酷な気がしてならない。
「そっか、そうだよね。」
「なに?」
「ううん、それもそっかって思っただけ。」
「半分家族みたいなもんじゃん?」
 リョータの言葉の一つ一つに、棘で傷をつけられるような感覚を覚えるようになったのはいつからだろう。家族のような存在という言葉をネガティブに捉える日が来るとは夢にも思わなかった。こんな事を言ってもらえるのは、恐らく世界で私ただ一人だけなのに。
「んで、どこ寄る?」
「なんで今部活ないか分かってます?」
「別に今更勉強したって変わんない。」
「変わんないだけマシでしょ、下がるよりは。」
 当然のように自転車に跨ったリョータは、後方を指さして早く乗ってよと告げる。複雑な気持ちを持ちながらも、その言葉の通り後ろに腰掛ける。大昔にもこうしてリョータの漕ぐ自転車の後ろに乗った事を思い出して、その背中の大きさに改めて感じるものがある。私の中でリョータは友達でも家族でもなく、しっかりと異性であるという事実。
「……たこ焼き。」
「なんだよ、しっかりサボる気満々じゃん。」
「リョータと違ってサボりじゃなくて息抜きだけどね。」
「言い方違うだけで一緒だろ。」
 リョータの特別になりたいとそう思っていた筈の私は、その特別に結局振り回されてばかりだ。期待して、傷ついて、また期待をする。その繰り返しは想像している以上に心を損傷させる。
 連鎖を断ち切りたいと思いながらも、私たちの関係性がそれを断ち切らせてはくれない。ピンチをチャンスに変えるどころか自分で自分の首を絞めているこの状況はどこまで続けば私を許してくれるのだろうか。
「そういや昔タコほじくってたけど、もう食えんの?」
「よく覚えてるねそんな事。」
「たこ焼き食べる時ナマエのタコ処理させられてたの俺じゃん。」
 自分の記憶の中に存在する多くの思い出の中にリョータが存在している。私にとって掛け替えのない記憶で、今の私を支えるものでもある。けれど、それが私を今も尚縛り付けているのであれば忘れられた方がいいのに。最近はそんな事をよく考える。
「リョータそういうの嫌がりそうなのにね?」
「他の奴なら絶対嫌だけど、まあナマエだし?」
 突き放されて、少しだけ引き寄せられる。一生この繰り返しだ。この先に待っている結末を私はよく知っている筈なのに、学習能力が乏しいのか期待を浮かべる。期待をするから辛いと、分かっているのに。




「神奈川ってどこ?東京?」
 沖縄の海は夜になっても透明度が高く、キラキラと輝いている。それが海の姿として当たり前だと生まれた時から思っていた私は、それが特別だった事を引っ越してきてから知った。昔はしょっちゅう海で遊んでいたのに、この時はとても久しぶりにリョータと海に来たような気がしていた。
「いや、神奈川は神奈川でしょ。」
「遠いの?」
「ん〜、分かんねえけど多分遠いんじゃん?」
「へえ。」
 砂浜に座り込んで、さらさらと拳の中から滑り落ちていく砂を眺めながらそんな話をしていた。私にとってはあまりに唐突な話で、きっとリョータにとってはしっかり飲み込まれた話だったのだろうと思う。
「いつ行くの?東京。」
「だから神奈川ね。」
「で?」
「ん〜、明日の朝。」
 唐突な話ながらも、どこかそれを変えられない事実として既に受け止めている自分がいた。予兆があった訳じゃない。でも、それは絶対とは言い切れない。彼を取り巻く環境がこの数年でガラリと変わったのだからそこまで不思議ではなかった。
「夜逃げじゃん。」
「違うけど、まあそうじゃないって言い切れない。」
「そこは違うって言ってよ、冗談だったのに。」
「だって誰にも言ってないし他の人はそう思うだろ?多分。」
 自分だけは特別なんだと、その時初めてそう思って優越感を感じた。何故それが優越感として私の中に降りてきたのかを考えて、その感情が確信に変わった。ずっとリョータを好きだと感じていた自分を、私は気づかないふりをしていたのだと。
「そっか、お小遣い貯めても会えない距離か〜。」
 行って欲しくないと喚いたところで、その事実を変えられる訳じゃない。事実を捻じ曲げるには私もリョータもあまりに子どもだったから。
 ずっとやんわりと気付きながらも、気づこうとしなかった感情が確信に変わった瞬間、形になる事なく終わったんだと思った。だったらそんなみっともない姿を最後に見せる必要はないだろう。心と体がバラバラに動いているような、そんな感じがした。
「じゃあ駆け落ちする?」
「なにそれ、誰と誰が?」
「俺とナマエが。」
 波の音が、突然止まったように静寂に包まれる。そんな言葉がリョータの口から出てくるとは夢にも思っていなかったからだ。照れ臭いこんな科白を軽々しく口にできる人じゃないことは私が一番知っていたから。
「うわ〜、今年のお年玉全部使っちゃったよ。」
「ロマンもクソもない回答じゃん。」
 だからこそ、そう答える事にしたのだ。リョータが言うように、本当にロマンも何もないそんな酷い言葉で話の収束地を見つけようとした。
「だってさ、希望なんか持っちゃうとそれに縋りたくなるでしょ?」
 自分がまだ十三年しかこの世を生きていないというただの事実が、こんなに恨めしく思える日が来るとは思ってもみない。私自身に選択肢が持てるくらい、大人であればよかったのに、と。幼い自分にどうする事もできないもどかしさと、悲しみが胸に棲みついていた。
「そんなのしんどいよ、リョータ。」
 ずっと近くにいた筈のリョータを、一番近く感じた夜だった。恋人になった訳でも、キスをした訳でもない。いつものぶっきら棒な感じはそのままに、けれどもとても優しく抱きしめてくれた。たった十三年しか生きていないこの人生はリョータで溢れていたのに、こうして彼をこんなに近くで感じたのは生まれて初めての事だった。




 情に絆される、そんな言葉がある。あの時は言葉がなくても同じ気持ちでいた事を確信していた。けれど、今はそうじゃない。あの時のリョータがただ情に絆されていただけならば?あり得ないと言い切る事なんて、無論できるはずもない。
「うわ、こここんな坂だっけか。」
「これくらいで。原チャ勢はひ弱だねえ。」
「最弱のお前には言われたくね〜し。」
 落ちないようにしっかり捕まっておけとそう言ったリョータはなんの抵抗もなく私の腕を受け入れる。ぴたり、と背中に顔をつけても何も変わることはない。こんな光景、誰が見ても勘違いされるに決まっているのに。それだけ私がその対象として見られていないという、そんな残酷な事実が今も尚私たちを繋ぎ止めて離さない。
 近すぎる私たちの関係は、私にとってどうしようもなくリョータを遠ざけているような気がした。