湘北に転入して二年目の夏、あの会場で見たリョータの顔を思い出す。幼馴染の私にしか見せないリョータの顔がある反面、私には見せないそんなリョータの別の顔がある事をこの時初めて知ったような気がした。
 熱気に包まれた会場で、一人だけ冷静にコートの先の彼を見ていた自分に嫌気が差した。『幼馴染の私』というブランドを剥いだ時、何も残らない自分に気づいてしまったのかもしれない。それから試合を見に行く事は無くなった。
「試合見に来ねえの?」
「ん?」
「夏以来一回も来てねえじゃん。」
「あ〜、そうかも?」
「かもじゃないだろ。」
 当たり前のように見に行っていたけれど、リョータの彼女でもなければ、ただの幼馴染の私に見に行かなければならない理由もない。私がそんな風に思っている事を知れば、彼は私をどう思うのだろうか。
「普通見に来るっしょ?俺の晴れ舞台。」
「強気〜。」
「揶揄うなって。」
 湘北バスケ部への注目は日に日に高まっていて、あの夏からリョータはちょっとした有名人で英雄だ。強豪・山王工業に勝利した夏の栄光。今までバスケにもリョータにも興味がなかったであろう同級生が色づいている。
「応援してくれる人沢山いるじゃん?」
「ただのミーハーだろ。」
「うわ、ひど。」
「だってバスケのルールも知らないっぽいし。」
 それが一時的なもので、ただのミーハーだとリョータは言うけれど多分悪い気はしていないだろう。ただその表現が著しく下手なだけ。ここ最近照れくさそうなリョータの顔を見る機会が増えたような気がする。
「でもいいじゃん、勝利の女神がいるでしょ。」
 リョータが沖縄を出てからの三年間、私はその間の彼を知らない。
 彼の視線の先に映る彼女とは、私の知らない空白の三年間の中で出会ったのだろう。自分を納得させる為に作り上げた勝手な幻想は、事実を知った時の私の心をぺしゃりとへし折った。自分を納得させるには、あまりに残酷な事実だった。
「あ〜……まあね。」
 その存在の大きさにいつもちっぽけな私の心はぺしゃんと踏み潰されてばかりだ。踏み潰されるのに、結局私の隣にはいつもリョータがいる。共にいる事を望みながらも、それが自分を苦しめている矛盾にいつもなんとも言えない気持ちを抱えて、吐き出し場のない状況に逃げ出したくなる。
「で、結局来るの?」
「ん〜、ちょっと検討しとく。」
「暇だろ。」
「自由を謳歌するのに忙しい。」
 私には見せる事のない、とてもキラキラとした眼差しを向けるリョータがとても素敵で、そしてどうしようもなく私の心を抉るから。自分からそんな痛みを感じ取りに行く必要なんてどこにもない。




 コートを着込んでも寒い筈のこの季節に、相反するように会場の空気は熱気で溢れている。試合会場に足を運んだのは夏のインターハイ以来だ。リョータ本人には見に来ることを伝えてはいない。
 元々行く気はなかった。クラスメイトから声をかけられ断りきれなかったというだけの事。特別仲がいい訳でもない彼女たちが私を誘ってくる理由なんて簡単に想像がついた。私がいる事で、自分たちが試合をみにいく正当な理由を作りたかったのだろう。そんな思惑が分かりながら断れない私もどうかしている。
「ミョウジさん来てくれて助かった〜。」
「大袈裟じゃない?」
「ミョウジさんは宮城くんと仲良いからアレだけど、私達全然関わりないし、三井先輩にはもっと関わりないし。」
「あ〜、あの十四番の先輩?」
 彼女達はどうやらリョータを見に来た訳ではないらしい。時折リョータの口から溢れる“三井サン”が彼女達の狙いのようだ。夏のインターハイで引退せず、冬の選抜まで残った唯一の三年生だ。
「グレてた時は正直怖かったけどあんなにカッコいいとか思わないじゃん?イケメンだし、背も高いし、バスケまで上手いとか完璧すぎるでしょ。」
「は、はあ……まあ、そうかも?」
 そう言えばリョータからの口からも『三井サンの癖に』という言葉が時折漏れていたような気がする。実際彼女達に限らず、三井さんは人気があるのだろう。これだけリョータの近くにいながら、私はリョータに近い人の事でさえ知らないのだと痛感させられる。そして、それが何を意味しているのかをまた自覚する。
「ミョウジさんはいないの?そ〜いうの。」
「そ〜いうの?」
「話の流れで好きな人の事って分かるでしょ。」
 思えばこんな話をここ数年していなかったような気がする。誰が好きかとか、何が好きかとか、いつからなのか………十七歳という一番青春を謳歌しているであろうこのタイミングに?自分でも苦笑してしまいそうになる。
「……二人は三井先輩なの?」
「え〜、三井先輩は憧れ!好きとはまた別かな。」
「へ〜、そういうものなんだ。」
「だってミョウジさんも宮城くんと仲良いけど違うでしょ?好きとは。」
 グサっと鋭利なナイフで急所を突かれたような衝撃が走り抜ける。一番聞きたくないその言葉は、自分が想像していた以上にダメージが大きい。
 仲の良い友人、そして幼馴染。純粋にその関係だけで満足できる自分がいたらよかったのに。神奈川に来てからずっとそんな事を考えていた。リョータを好きでい続ける事は、あまりにも私のメンタル面を抉っていく。
「……まさか。」
 誰が好きなのか、誰にも漏れ伝わっていない事を喜ぶべきなのか否か。中々複雑なところだ。でもきっと、私が彼女達のように俯瞰的に自分を見てもきっとそう思うだろう。リョータの視線は、私ではなく真っ直ぐに別の方向を向いているのだから。
「だよね、宮城くんは彩子一筋だしね?」
 何万回とそんな事実を飲み込んで自分にも分からせているのに、それでも心が痛むのは何故なのか。リョータを好きでいる自分を辞められる訳でもなく、だからと言って彼から離れられる訳でもない私は一体どうするのが正解なのだろうか。
「でもちょっと分かるんだ。」
「なにが?」
「リョータが何で彩子ちゃんを好きなのかって。」
 見た目の好みや、彼女の持ちえる美しさもきっとその要因にはあるのだろう。けれど、本質的なところはもっと別にあると思うのだ。一本芯が通ったとてもとても真っ直ぐな所、それがリョータの心を突き動かしたんじゃないだろうか。本人に確認した訳でもないのに、不思議とそうに違いないと確信している自分がいる。
「自分に自信がある人ってかっこいいから。」
 私とはまるで違う、正反対の存在だ。太陽と月、陰と陽、まるで違う。けれど、自分にないものに人はきっと惹かれるものだろうから。リョータが彼女に惹かれるのは至極真っ当で、とても納得できるものがある。
「私とは全然違う。」
 話を遮るように鳴り響いた試合開始のブザーで、ちょうどそんな言葉は彼女達の脳裏から都合よく消えていったのかもしれない。でも、それでいい。それ以上話が続けば自分が惨めになるような気がしたから。
「なに、どこ行くの?」
「ごめんトイレ。」
 試合も佳境に差し掛かった頃、私はその結末を見届ける事なく壁を隔てた少し遠くから試合終了のブザーを耳に通した。
 これもいい機会だったのかもしれない。自分が望む未来は、今後も現実になる事はないとはっきり分かっているのにだらだらと希望を持ち続けていた自分にもそろそろ休息を与えていい頃だ。
「あ、」
 男らしくとても低く響いたその声の方向へと振り返ると、つい先ほどまで十四番を背負ってコートを駆け抜けていた男が立っている。クラスメイトの“憧れ”の存在である三井先輩だ。
「最後まで試合見てなかったのか?」
「え?」
 まるで元からの知り合いだったように話しかけられ狼狽える。私の記憶が欠落しているだけで、実は話したことがあったのだろうか。それ程に自然で、さも当然のように声をかけられる。
「お前宮城の事好きなんだろ?」
 突然話しかけてきたかと思えば、話す内容すら唐突だ。私の事を認識している事でさえ驚きなのに、その上どうして今リョータの話になるのだろうか。クラスメイトにすら全く勘付かれる事なく過ごしてきたというのに、何故初めて話をする学年も違う男にそんな事実を言い当てられているのだろう。
「……なんですか、突然。」
「突然もクソもねえだろ?見てりゃ分かるっつうの。」
「うそ?」
「ほんとだって。」
 バスケ部の練習を見に行った事もなければ、試合も遠くの方から数回見にいった程度しかないので疑問しかない。何故彼は私の事を知っていて、そしてリョータへの気持ちを見抜いているのか。
「宮城って一人でいる事多いだろ?」
「え?」
「まあ、いたとして安田くらい。」
「ああ、うんまあ……そうですね。」
「だからお前も記憶に残ってたって訳だ。」
「あ〜、それで。」
 ようやく話が見えてきて、思わず納得してしまう。私を知っていたというよりは、リョータを見かける時に一緒にいるという認識だったらしい。それならば辻褄も合う。一瞬全て解決したような気になりながら、彼の言っていた言葉をもう一度思い出す。
「で、それがなんでリョータを好きって事になるんです?」
 誇れるものかどうかは別として、誰にも悟られないように生きてきた自信はあった。本人に勘付かれる事だけは避けたかったのだ。最悪の結末が思い浮かんで仕方がなかったから。
「だったら安田くんもリョータが好きって事になる。」
「あいつは男だろ。」
「時代は多様性です。」
 多様性という言葉を知らなかったのか、クエッションマークを浮かべて一瞬首を傾け考えていたようだったけれど、考えても答えが出ない事を悟ったのか急にこちらに向き直る。
「お前全然楽しくなさそうだったから。」
 目から鱗とはまさにこの事なのかもしれない。言われるまでそんな自分に気づく事はなくて、けれど言われてみればまさにその通りでしかなかったからだ。好きな人と一緒にいるという事実がありながらも、いつもそこに介在する感情は陽ではなかったから。
「じゃあ何で一緒にいんのかなって気になって考えたらよ、好きだからって理由以外俺には考え付かなかった。」
 何も考えていないように見えて、とても物事の本質を見ている人なんだとそう思う。柔らかく無防備な部分にぐしゃりと矢を突き立てられたような、そんな的確さがある。
 いくら中学時代の栄光があったとて、二年のブランクを乗り越え今もこうして活躍しているのも何となく頷けるような気がした。とても鋭い人だ。
「そんな事言われたの初めてです。」
「否定しないって事は当たってんのか、俺の予想。」
「どうなんですかね。」
 試合を終えて自販機に飲み物を買いに来た三井さんと初めて話をした日だった。それからも構内で顔を合わせると話しかけてくれたり、時間に余裕のある時は飲み物を買ってくれたり色々とよくしてもらった。
 三井さんの凄さをどこで感じたのかと言えば、私と初めて話をしたあの瞬間、彼の高校バスケが終わっていたという事だ。接戦だったその試合、敗れたのは湘北だった。つまり、三井さんの引退が決まった瞬間だった。
「叶うといいな。」
 なんとなく持っていた大まかな三井さんに対するイメージは、この日を境にガラリと変わった。




 もう間も無く最終学年になろうとしていた在る日の事。ふと、これからの事について考える。高校を卒業した後の事だ。まだノープランと言っていられる状況ではない。就職をするにしても、進学するにしても凡その決断を迫られる時期になっていた。
 配られた進路希望の紙を見つめながら、本当にぼんやりと先の事を考える。
 父の東京赴任の任期も高校を卒業して間も無く終わる予定だ。両親にとって、沖縄に帰らない理由はない。元々私が卒業するのと同時に沖縄に帰るというのが家族としてのプランだった筈だ。そして今の私は、それが最善だと考えるようになっていた。
「進路どうすんの?」
「一番決まってなさそうなリョータがそれ聞く?」
「それ偏見やっし。」
「久々にリョータの方言聞いた。」
「真面目に聞けよ。」
 遥々沖縄から神奈川にきて一年と半年が経とうとしている。私とリョータの関係は再会したあの日からなにも変わらない。変わる事ばかりを望み続けてきたけれど、でもそれは当然のことなのかもしれない。私がどれだけ望んだとして、それ以上はきっとないだろうから。
「リョータはどうすんの?」
「質問返しかよ。」
 物理的に遮断するしかないと、そう思ったのだ。それ以外に手段があるのなら、もうすでに実践している。結局離れる事でしかこの恋を終わらせる事なんて出来ないのだろう。沖縄に帰れば、また色々と変わるはずだ。
「そりゃやっぱバスケ推薦できたらいいじゃんね?」
「推薦?」
「大学行く金なんてないし、推薦で奨学金かなって。」
「随分ハードな目標だね。」
「流石に自覚くらいはある。」
 大学へ進学するつもりがあるのは正直意外だった。恐らくリョータの性格なら家計の事を気にして自分から大学に進学したいと申し出ることはないと思っていたからだ。実業団を探してバスケを続ける選択肢をなんとなく想像していた。
「実業団たってちゃんと実力ないと取ってくんねえし……これから先もバスケを続けるには俺にはまだ向き合う時間が必要なんだよ。」
 何故リョータを好きになったのか。その言葉で久しぶりにそれを思い出した。それはどこまでも真っ直ぐで、自分の信じたものに対して果てしなく一途な所。だからきっと、私は彩子ちゃんを真っ直ぐ一途に好きなリョータが好きなんだろう。とても矛盾しているようで、自分の中でひどく腹落ちした。
「なんだ、ちゃんと考えてるじゃん。」
「まあ出来るかどうかは別だけどな。」
「ソーちゃん喜ぶんじゃない?」
 物心ついた時、いつも皆んなを引っ張ってくれる存在だったソーちゃんが好きだった。安心感があって、何でも器用にこなす彼がとても輝いて見えたから。多分それは私だけじゃなくて、多くの人が彼に抱いていた感情に違いない。
 冬の選抜を見に行った時、クラスメイトが言った言葉を思い出していた。
 憧れと好きは別物だと。あの時は全くもってしっくりしていなかった癖に、今自分ごととして考えてみると、ずっと探していた最後のピースが埋まった時のように気づいてしまったから。
「で、ナマエはどうすんの?」
 自分の感情を自覚しながらも、しっかりとリョータに向けている感情がどういうものなのかを改めて認識したような気がする。私は今、叶わない恋をしているのだと。ただの事実でしかないそんな事を、急に突きつけられていた。
「俺も言ったんだから言ってよ。」
「だってまだ全然決まってないからさ、」
「どうしたいとかはあるでしょ?」
 沖縄に帰る事が最善なのかもしれない。改めて自覚させられたリョータへの感情を相殺するには、きっとそれしかないだろうから。もう期待をする自分を終わらせよう。誰の為でもなく、自分の為に。
「沖縄に帰ろうかなって。」
 リョータが沖縄を出ていく直前、最後に話をした浜辺。全てはあの時に終わらせておくべき事だったのだろう。実際に、一度終わらせた私たちだから。
「は?なんで帰んの?」
「なんでって……親も沖縄戻るし私がこっちいる理由もないじゃん。」
 なんとなくリョータの反応を予測していた自分がいた事に気づく。もっとあっけらかんとして、そうなんだの一言で片付くものだと思っていたのかもしれない。目を丸めて驚いた様子のリョータが視界に映り込むとは夢にも思わない。
「こっち居ればいいじゃん。」
 バスケ以外の事でリョータのこんな顔は久しぶりに見た。それは私に神奈川に残って欲しいという意味で言っているのだろうか。もう一度リョータの顔を見る。いつになく真剣な表情がそこにはあって、弱い私の心は結局その一言で全てを持っていかれるのだ。
「てか、居てよ。」
 どれだけ強い意志を持っていたとしても、結局リョータの一言で私の人生は簡単に決まってしまう。こうして私は諦めるタイミングを失っているだけなのかもしれない。
 これがラストチャンスだと、自分に言い聞かせて。