人を好きになるタイミングとは一体どんなタイミングなのだろうか。自分に置き換えて、一人だけ該当する男が頭の中に浮かんで、意図的に消し込んだ。
 バスケの試合を見にいくのはとても久しぶりで、何だか妙な緊張感がある。彼は気負わず来ればいいと言ってくれたけれど、バスケというスポーツにおいての知識が乏しい自分が浮いているような気がしてならない。バスケは、リョータがしているのをただ見ていただけだから。
 ダンダンダンと規則正しいリズムでボールを弾く時もあれば、ダンダダンと変則的に弾かれる時もある。それをドリブルと呼んで、そしてゴールネットに向かってシュートする。私が知っているのはそれくらいの誰でも知っている基礎中の基礎だけだ。
 彼のバスケをしっかり見るのはこれが初めてだった。バスケという競技に疎い私ですら分かる程、彼のバスケは素人目で見ても美しい。まるで精密な機械のように正確にゴールを決める。リョータとはまた違うバスケだと、そう思った。
「ミョウジさんだよね?」
 どこか聞き覚えのある、柔らかく優しい声。試合が終わって歩いている時の事だった。振り返った先には、柔らかく優しい声の持ち主としては相応しすぎる懐かしい顔があった。
「安田くん?」
「三井さんのとこと試合だから三井さんと会うってのは予想してたけど、まさかミョウジさんと会うとは思わなかったなあ。」
「全然気づかなかった。」
「うん、まあ僕試合出てないから。」
「……ご、ごめん。」
「ううん、むしろ変な気使わせてごめんね?」
 とても失礼な事を言った自覚があって一瞬それに気を取られてしまったが、次に何と言われるのかなんとなく想像が出来てしまって構える。出来れば安田くんには触れて欲しくない、そんな言葉が出るのを確信していた。
「もしかして三井さんと付き合ってる?」
 一言一句違う事なく紡がれた想像通りの言葉に、よく分からない感情が走り抜ける。それは何故なのか?安田くんの口から放たれたその事実は、今の私を救ってくれているのに。彼と付き合うようになって、感じたことがある。満たされるという事が、こんなにも心に余裕を生むのだと。
「なんで?」
「シュート決める度にずっとミョウジさんに合図送ってたし、なんではちょっと無理あるよ。」
「……そうだっけ?」
「気づいてないならそれはそれで罪だなあ……」
 そう言えばスリーポイントを決める度に目があったような気がする。周りの空気に圧倒されて、細かいところまで気が配れていなかったのだろう。
 きっと、私たちの付き合いにはこんな事が沢山ある。そんな私に気付きながらもきっと彼はそれをサラッと受け流してくれているのだろうと思う。そうでなければ今頃私は振られているに違いない。
「……やっぱりびっくりするよね?」
「びっくりはしたけど、でも三井さんすごいミョウジさんの事好きって見てて感じたしいいんじゃないかな。」
 きっと私はこの言葉をずっと待っていた。第三者から今の自分を肯定されるそんな言葉。彼と付き合った事がやっぱり正解で、私にとってこの道が最善だったと思える他人からの評価、アセスメント。それがずっと欲しかった。
 安田くんは言葉を一度切ってから、少し間を置く。先ほど私が欲しがった言葉が、まるでその後の言葉を放つ為の布石だったような、そんな言葉。
「でも、ミョウジさんはリョータと付き合うんじゃないかってちょっと思ってたから。」
 それはいつかに私が思い描いた壮大な夢だ。近い所にあるように見えて、どうしようもなく遠くにあって届かない。それが夢というもので、所詮夢は夢のままだ。そう自分に言い聞かせて蓋をした。
「冗談……私とリョータはそんなんじゃないよ。」
「そうかな?ミョウジさんといる時のリョータが一番リョータらしく見えたから、そうだったらいいのになって。そう思っただけ。」
 それを人は特別と呼ぶ。そんな事は知っていて、それが私を苦しめる。だからこそ何度も諦めるきっかけを失ってきた。もしかしたら?という淡い期待の後に待っていたのはいつだって絶望だったから。
「なんだ、安田か?」
「三井さんお久しぶりです!」
「お前あんま変わってないな?」
 一言二言話をしている二人を見ていると、その三言目は自分に向いていた。久しぶりに再会した高校時代の後輩がすぐそこにいるのに?そう、違和感を感じる程早く向けられたその言葉が、私が誰なのかを自覚させる。
「ナマエ。」
「………」
「早く着替えねえと汗で冷えるんだよ。」
「え、あ、はい。」
 いまいち反応がしっくりこない私に、先程綺麗な弧を描いた大きな手が私の手をやや強引に掴み取って、大股で進んでいく。安田くんとしてはもう少し彼と話をしたかったに違いない。まさかこんなにも早く話を切り上げられるとも思っていなかっただろう。
「なんだよ、行くぞ?」
「でもさっき汗冷えるから着替えるって……」
「んなヤワじゃねえよ。」
 大きなジャージを羽織るとそのまま歩き始めた彼に戸惑いを感じていれば、逆に彼の方が「ん?」とよく分からない顔を私の方へと向けている。時々……否、常々私は彼が何を考えているのかを分からないでいる。
「宮城の話されんのキツいだろ。」
 彼の優しさはよく知っている。ずっと顔見知りになってから彼は優しい。けれど、それは私の想像を上回っているのだろうと思う。どうしようもなく優しくて、とても私に寄り添った優しさだ。自分の気持ちを抑えた上で、私への感情を何よりも優先してくれるから。
「寿さんはいつも私の事ばっかだね?」
「あ?」
「自分の事は二の次じゃん。」
「そうでもないだろ。」
 どうすればそこまで人に優しくできるのだろうか。その優しさが一点集中して私だけに注がれているという自覚があるのに、きっと私はその数千分の一すら彼に返せるものがない。
「……こちとら嫉妬くらいするんだよ、アホ。」
 大して痛くもないゲンコツが一発、触れる程度に私の頭上を揺らす。一度親指が微かに頬を滑ってから、再び私の手を握る。普段と違って、指と指の間を埋め尽くすように密度高く。
「アホって。」
「普通にそれくらい察しろって。」
「分かりやすいのか違うのかよく分からないね?」
「なんだよ、全部分からせてやろうか?」
「心臓に悪そうだからやめとく。」
 しっかりと私を離すまいとぎゅっと繋がれたその指先からだけでも、私には過剰な幸せだから。喜怒哀楽、そのどの感情も悟られまいと気づいたら平気なふりばかり得意になって、素直に今のこの気持ちを表現できない自分が酷くもどかしい。不器用すぎる自分を歯痒く思いながら、それが彼に伝わっていればいいなとそう思う事くらいしか出来ない。
「でもそういうとこ結構スキ、かな。」
 何事も一方的だと心が疲弊する。私自身、よく知っている事だ。人間とは欲深い生き物で、きっと無意識のうちに見返りをものめる生き物だから。それが彼の欲を満たせるのかどうかなんて私には分からないけれど、今まではっきりと口にした事がなかった気がしたのだ。
「……あんまそういう事言うな。」
「え〜、全然想像と違う回答なんですけど?」
「安売りすんなって言ってんだよ。」
 少しばかりは喜んでもらえるだろうかと、そう思っていたので正直かなり驚いている。普段あれだけ私に優しい彼からは想像がつかない反応だ。
 彼はよく相手の目を見る人だ。しっかりと相手の言葉を理解しようと努めるように、ぐっと瞳の奥をとらえてくる。彼を知らない人であれば、何かを勘違いしてしまいそうになる程に近い距離で目が合うのだ。
「……んな事言われたらもう手放せなくなる。」
 ぎゅっと心臓を掴まれたようなその言葉に、この時ばかりは平気なふりが得意な自分に感謝をした。一呼吸置いた後、「手放すつもりなんですか?」揶揄うようにそう言って、赤く染まった彼の顔がようやくこちらを向いた。




 自分が誰の彼女なのか、そんな当たり前の事を考える。何処かに出かける時はいつもしっかりと手を繋いで、私を彼女として扱ってくれる。私がずっと、憧れていた事だ。そんな些細な事でこうまで満たされるのかと、改めてそう思うのだ。
「なんだよ、お好み焼き嫌いだったか?」
「ううん、普通に好きですよ。ソース系の料理全般。」
「じゃあやっぱ食いに行きゃよかっただろ。」
「たまにはいいじゃないですか、おうちご飯も。」
 部活以外の時間でバイトもしている彼は想像以上に忙しい。そんな中でも、しっかりと週に一度は私との時間を作ってくれる。それも、極力私の時間が取りやすいタイミングで、だ。
 付き合っているから、恋人だから、その言葉に尽きると言われたらそうなのかもしれない。けれど、付き合った今になっても何故私はここまで丁寧に大切に、彼にとって何よりも最優先に扱われる存在なのだろうか、それが腑に落ちた訳ではない。
「だって毎回奢ろうとするでしょ?」
「男なんだから当然だろ。」
「お金かけなくても美味しいものは食べれるし。」
 スーパーで魔法の粉を買って帰ってきた。後はキャベツと卵。豚肉と鰹節は家にあるらしい。彼の家に行くのはこれで二回目だ。とても整っていて、物が少ない部屋。初めて訪れた時、男の人の部屋だなあと当たり前の感想を抱いたのを思い出す。どうやら簡単な料理は自分で出来るようだ。
「本当にお酒買わなくてよかったの?」
「なんだよ、ナマエは俺に酒飲んで欲しいのか?」
「別にそういう訳じゃないけど、普段は飲むでしょ?部活の打ち上げとか、友達とか。」
「まあ飲むっちゃ飲むけどよ。」
 私よりも一学年年上の彼は既に二十歳になっていて、私と違い法律の上でお酒を飲んでも何ら支障はない。大学にいても、お酒が飲めるようになると飲みたがりが多いようで、事ある毎に酒を飲んでいる連中をよく知っているのでいつも不思議に思っていた。
「飲んでもいいよ?」
「んなもん一人で飲んでも楽しくないだろ。」
 そういうものなのか。まだ二十歳を控えている私にはあまりにも未知のもので、正直なところよく分からない。皆お酒が好きなのか、その場が好きなのか。きっとその両方が重なった時に真の力を発揮するのだろうけれど。
「お、そっち焦げてっぞ。」
「あ、ほんとだ。」
 彼の家の一口コンロは火力が強くて、ヘリの小麦粉の塊をジジジと焦がしている。フライ返しで厚みのあるお好み焼きをひっくり返すと、ちょうどいい焼き具合をした狐色が見える。
「お〜、マジでお好み焼きだ。」
「何が出来ると思ってたの?魔法使いじゃないんだけど。」
「分かんねえけど……なんか、ねるねるね〜るねみたいなやつ。」
「それ本当に魔法使いのやつじゃん。」
 お好み焼きができる過程を見た事がないのだろうか。粉とキャベツを卵と混ぜて、それを火にかけるとお好み焼きになるという当たり前は万人に共通するものではなかったらしい。
「ちなみにたこ焼きも同じ原理。」
「粉もんってそういう事か!」
「え〜、今更?」
「知らねえよ。何の授業で習うやつだ?」
「なに、笑わせにきてる?」
「あ?」
 狭いキッチンで思わずちぐはぐな会話に笑ってしまう。彼は優しいけれど、それと同じくらい私の理解を超えた面白い事を言う。本人にその自覚がないところが、その面白みをより強調している。
「今度ホットプレート買うか。」
「その方がお好み焼きは作りやすいかもね?」
「たこ焼きもできんだろ。」
「あ〜、」
 たこ焼きが好きなこと。けれどもタコが嫌いなこと。たこ焼きを食べる時、それは必ずリョータが隣にいる時だったこと。私が嫌いなタコを食べてくれるリョータがいたこと。彼が知らない、私の歴史。
「やっぱいいよ、フライパンでもお好み焼きできるし。」
「たこ焼き出来ねえだろ。」
 彼と付き合ってからリョータの事を考える時間が少なくなった。それは私が望みながらも、ずっと叶わなかった事だ。彼は、そんな私に時間の猶予と優しさを与えてくれた。今すぐに心の中から追い出す必要はないと、そう言って救ってくれた。
「あんまり好きじゃないんだ、たこ焼き。」
「まじかよ?」
「まじまじ。」
 思い出す必要のない思い出だと思った。まだ綺麗な昔の思い出として語るには早くて、整理しきれていない感情がそこには詰まっている。自分にとってやっぱりリョータは特別で、唯一無二である事を思い出してしまうような気がした。事実として、物心ついてからの記憶全てに存在しているリョータが唯一無二であることは今後も変わる事がないのだから。
「私も早くお酒飲めるようになりたいな〜。」
「なんだよ藪から棒に。」
「だって一人で飲んでも楽しくないなら、二人で飲めば楽しいんでしょ?」
 キッチンの収納から適当なサイズの蓋を見つけて、被せるように蓋をする。二人分を一枚に詰め込んだ分、分厚いそのお好み焼きにしっかりと火が通るように応急処置だ。
「お前やっぱりアホだな。」
「え、また?」
「重要なのは酒じゃなくて、お前と一緒に二人でいる事の方だって分かってねえの?」
 けろっとした顔でそんな事を言われたものだから調子が狂う。世間ではこういった類のものは惚気というジャンルに分類されるのだろうが、彼に恥ずかしいという感情や照れ臭さというものは存在しないのだろうか。けれど、この間の試合後の事を思い出すとまるっきりその感情がないという訳でもなさそうだ。
「分からせるぞ。」
「うわ、タンマタンマ。」
「マタン!」
「ちょっと!」
 フライ返しとフライパンを両手に握り締めている私を大きく包み込む。とてもとても大きくて、そして温かい体温だ。体温の低い私には、より一層とその温度差がじわじわと浸透するように溶け込んでいく。
「たまには甘えろよ。」
「なに、藪から棒に。」
「藪でも棒でもないだろ。」
「新しいタイプの切り返しだね?」
 程よい距離感で私を扱ってくれる。私にとって一番心地のいい距離感を、多分彼は知っているのだろうと思う。近すぎると、私が罪悪感を感じるんじゃないかって、多分そんな事を思っているのだろう。何もわかっていないようで、何もかも分かっている人。
 だから、私は彼の事を好きになったのだろうと思う。
「その点では酒にはちょっと期待してる部分あるけどな?」
「なにそれ、私多分そんなお酒弱くないと思うよ?」
「そこは否定しなくていいとこだろ。」
「はあい。」
 彼といると心がとても軽い。疑心的になる事もなければ、欲しい言葉や行動を余すことなく私に与えてくれる。過去の自分が如何に、無意識の内に駆け引きをしていたのかがよくわかる。期待の先にあるのは、絶望だと誰よりもよく知っていたのに。
「案外甘えたいタイプ?」
「……わりいかよ。」
「別に全然悪くはないけどちょっと意外だったから。」
「お前が甘えてこないからだろ……」
 珍しくしょげた声が聞こえてきて、なんだか妙に面白くて笑ってしまう。それが逆効果になるかと、一度自分の口を押さえ込んで振り返る。そこにあったのはしょげた顔ではなく、何だか妙に満たされた様子の彼の顔だった。
「もっとムスっとした顔してるかと思った。」
「まあ、笑われんのは心外だけどよ……この間も思ったけど、やっぱお前は笑った方が可愛いな。」
 彼は私の想像の斜め上の言葉をよく浴びせて、何度も私に自覚をさせるのだ。私が今誰と付き合っていて、誰を好きなのか。そして、自分が以前よりも遥かに笑うようになっているというその事実を。
 それを生み出してくれたのは、全部彼だった。それが事実で、それが全てだ。
 人並み以上の幸せを噛み締めながらコンロの火を止めて、珍しく自分から背の高い恋人に甘えてみることにした。


 そんな幸せな日が平和に続くと思っていた三日後、既に神奈川を離れている私とリョータが再会する。それはいずれかの意志がないと実現しないことだ。期待と絶望を繰り返してきた私は、もう間違う事は許されないのだ。
 高校を卒業してから、リョータと会うのは初めての事だった。