「……なんでいるの。」
 自分の声が僅かに震えているのが分かって居心地の悪さを感じる。ここ最近感じていなかった、そんな感情だ。卒業以来一度も会っていなかったリョータは、珍しく髪を下ろした状態で私の前に現れた。彼にとって髪型をセットしない事がどういう意味を持つか知っている私にとって、それは驚きでしかない。
「幼馴染に会いに来んのに理由なんている?」
「……だとしたら会いにくるの遅すぎでしょ。」
 いつからだろう。リョータと話をするのに、数手先の状況を考えながら話をするようになったのは。ただの幼馴染だったあの頃、何かを考えて言葉を紡ぐことなんてなかった。多分それは、異性としてまだ彼を意識していないただの幼馴染だったからなのだろう。
「私誰にも住所教えてないんだけどな。」
「……お前の母ちゃんに聞いた。」
「だったら教えた事娘に言ってくれてもいいのにね?」
 自ら連絡先を確認するアクションを起こし、トレードマークになっている髪型さえもセットしないこの現状が普段のリョータからは感じられない必死感を纏っている。
 こういう時、本心を隠して目一杯平気なふりができる自分に感謝せざるを得ない。こんな所で動揺を見せても、何もいい事はない。もう期待する事にも、絶望する事にも些か疲れてしまった。確実に私に向いている感情を一身に受ける幸せを知ったのだから、神経をすり減らす必要もない。
「三井サンと付き合ってんの?」
 想像通りの言葉だった。何も驚くことはない。きっと安田くんからなんとなくの状況を聞いたのだろうと思っていたから。安田くんに付き合っている事実が割れた時点で、リョータの耳にもそれが伝わるのは理解していた。
「だとしたら何?」
 久しぶりに会った幼馴染に対して随分と素っ気ない態度をしている自覚はある。何事も状況によるものだ。何かの悪戯で本当に偶然再会したのであれば、もっとにこやかな再会を果たす事もできたのかもしれない。けれど、これは違う。リョータが何を確認しにきたのか、分かっていたからだ。
「……聞いてんだけど。」
 きっと安田くんからきちんと付き合っていると聞いている筈なのに、それでも断定する事なく確認してくる意味は一体何なのだろうか。
「付き合ってるよ。」
「……なんで?」
「なんで?別に誰と付き合ってもいいでしょ。」
 こうしてリョータに強い口調で返事をした事があっただろうか。或いは沖縄時代の、私の中でまだリョータが純粋にただの幼馴染だった頃にはあったのかもしれない。ここ数年、記憶のある中でこれ程にも否定的に強い口調で感情のままを伝えた事はないような気がする。
「それともなに、ダメな理由でもあるの?」
 言いながら自己嫌悪に晒されていく。ものすごく嫌な女だと、自覚してさらなる自己嫌悪に陥る負のスパイラル。あれだけ言い聞かせてきたくせに私はまだ絶望を味わいたいのだろうか。期待の先にあるものなんて、碌でもないのに。
「なんで三井サンなの?」
 折角三井さんの事を好きになれたのに。折角幸せを手に入れたのに。どうしようもなく好きだからこそ、どうしようもなく報われない恋を終わらせた筈なのに。何故こうもリョータは私の心をいつも掻き乱すのだろうか。
「リョータ知ってるかもしれないけど、三井さんってすごく優しいから。」
 卒業後に再会して付き合ったけれど、高校時代の三井さんもとても優しかった。面倒見がよくて、少し大雑把に見えて実はしっかりと気を配ってくれていて、何よりも私を安心させてくれる。私がずっと欲しかった、得ることのできなかったものを与えてくれたから。
「……私だけを見てくれる。」
 私がリョータから欲しかったものは、ただそれだけだったのに。
「俺………」
 ずっと私が欲しかったもの。少し間を置いた沈黙の後、欲しかった言葉が出てくるのかもしれないと、そう思った。このタイミングで私の前に姿を現したのも、何かを言い淀んでいるのにも辻褄が合う。
「私だけを見て欲しかったんだと思う。」
 苦しむ必要のない、私に優しい世界。ようやく自分自身の本当の幸せを手に入れたような気がしていた。今まで何度となく途方もない片想いを終わらせようとして、結局終わらせることが出来ない私だったから。
「高校卒業してからずっと考えててさ、どんな理由があればナマエに会えるかって。考えてる内に余計その理由が思いつかなくって、時間ばっかり経ってさ……」
 聞きたくないと耳を塞ぎそうになる一方で、自分が長年リョータに求めてきた言葉を連想して感情の整理が追いつかなくなる。どうしてこのタイミングでそんな事を言おうとしているのだろうか。折角私が前を向いて歩き始めた、このタイミングで。
「このモヤモヤした気持ちが何なのか確証持てなくて……でもヤスから聞いてそれが確証に変わった。」
 その先の言葉は私が嘗て期待し続けた言葉。何よりも一番欲しかったもの。私がどう足掻いた所で、私自身にはコントロールできないリョータの気持ち。嬉しい反面で、どうして今なのかと悔やむような気持ちを抱えながら、自分の正しい感情を掴みきることが出来ない。
「……俺、」
「彩子ちゃんがいるでしょ。」
「アヤちゃんは………好きだし大事だけどナマエに持ってる感情とは違うから。」
「……そんな簡単に言わないでよ。」
 私がどれほどリョータの事見ていたか知らないくせに。私がどれほどリョータの視線の先に映る彼女の事を見て、自分を納得させてきたのか知らないくせに。絶対にリョータのその視線が私に向く事はないと思いながらも、リョータの些細な言動から勝手に希望を持って、そして絶望してきた事を知らないだろうから。
「リョータは彩子ちゃんの事が好きだし、仮にもし私の事が気になるならそれは私が急に三井さんの彼女になったからそう思ってるだけ。」
 好きでいる事がこの上なく辛かった。その感情が報われないと分かっている先に、明るい未来が見えなかった。いっその事嫌いになれたのなら手っ取り早いのかもしれない。けれど感情や思考なんて自分で捻じ曲げる事など出来ないのだ。
「暫く使ってないオモチャでも他の人が使い始めると急に魅力的に見えるアレと一緒。」
 今の自分を正当化する理由が欲しかった。リョータの口から出てくるであろう言葉を鵜呑みしない為の、私にだけ都合のいい理由が欲しかった。無理にでも理由を作っておかなければ、自分の立っているこの地面すら真っ直ぐに立てないような気がしたから。
「だからきっと気のせいだよ。」
「…………」
「そうだって……そう言ってよ。」
 リョータの口からそうだと言われたら全てを受け入れる事ができるだろう。もうこんな気持ちを抱き続ける自分から卒業する事が出来る。そう思っている時点で、自分のリョータへの感情がどんな物であるのかを再認識しておきながら。
「駆け落ちするかナマエに聞いた時の事、覚えてる?」
 リョータと再会を果たしてから三年以上が経過して、お互いこの事を口にする事はなかった。リョータはこんな事を既に忘れていると、どこかで勝手にそう思っていたのかもしれない。
「“希望なんか持っちゃうとそれに縋りたくなるから”って……その通りすぎて何も言えなかった。」
「…………」
「女の人の方が男よりも大人だなって、そう思って子どもでしかない自分を恨めしくも思った。」
 その先のリョータの言葉を聞くべきではないと思う自分に一度立ち返る。何故聞くべきではないのか?それは、今も尚そのリョータの言葉を待ち望んでいる自分を捨て切る事ができないと分かっているから。駄目だと言い聞かせながらも、その言葉に希望を見出してしまう自分がいる。
「でも今は違う。自分の意志で道を選択する事ができるから……だから今ならちゃんと言える。」
 リョータの瞳に、こんなにもしっかりと自分の姿を見たのはいつ以来の事だろうか。もしかすると、今までもほとんどそんな経験はなかったのかもしれない。自分の感情を人に気取られるのが昔から苦手なリョータだから。
「ナマエじゃないとダメだ、俺。」
「……リョータの言葉はいつも私に釘を打つ。」
 とても短い言葉なのに、私にとってはあまりにも意味の大きすぎる言葉に変換される。その言葉自体に私を拘束する力なんてない筈なのに、リョータの言葉一つ一つに自分の心が動かされて仕方がないのだ。
「今そんな事言われても私が何も言えないの知ってるくせに。」
 何よりも渇望したその言葉が今度は私に牙を向く。イエスもノーも言えなくて、その二択のうちのどちらも選ぶ事など出来ない。こう言えば私が困る事を知っているリョータのその言動こそが、彼の意志なのかもしれない。この感情を、世間では何と呼ぶのだろうか。
「今も私はリョータの事が好きだし、リョータからこんな言葉をかけてもらう未来があればいいなってきっと今でも期待してたんだと思う。」
 複雑な感情が混ざり合うと、人は笑ってしまう生き物なのかもしれない。そして、その表情に反比例するように涙が伝っていく。喜怒哀楽のどの感情なのかを、私自身がしっかり要領を得ていない。どうすべきで、何が最善なのかを口にするのは想像の何十倍も心に負荷をかけていく。
「でも今は三井さんが好き。」
 最初は違ったかもしれないし、リョータを諦めることがきっかけだったかもしれない。優しい先輩と好きな人が必ずしもイコールになるとは限らないし、少なくとも私の場合そうではなかった。
「言葉がストレートな分、裏表なくて安心できるんだ。」
「…………」
「それに……誰よりも私だけを見てくれる。」
 心が弱っていた時、私を否定する事なくありのままを受け入れてくれた彼の優しさが次第に私の気持ちを動かしていったのだろう。違う事なく真っ直ぐ私だけを見てくれる力強いその瞳に、心の底から安心させられる。
「俺にはそんな事言う権利もないかもしれないけど……それって本当に三井サンが好きな理由なの?」
「え?」
「安心できるとか、自分だけを見てくれるって………付き合う理由にはなってもその人が好きって理由にはならないんじゃないかな。」
 自分自身の口から溢れた理由を拾い上げるように再び体の中に戻していく。咀嚼をするように意味を考えて、リョータの言っている事の整合性に気づいてしまった。あまりにも自己中心的で、私に都合のいい世界を作り上げていたのだと。私が勝手に彼をその世界の登場人物にしてしまった。
「三井サンが優しいってのは俺もよく知ってるし、自分が卑怯なやり方してる自覚もある……でも、」
 その最後の一言を聞いてしまうと、簡単に自分の意志が揺らいでしまいそうで怖くなる。一歩後退りすると、今度は一歩リョータの体が近づいて力強い手のひらで私の腕を離さない。
「手段を選んでられないくらい、俺にはナマエが必要だから。」
 イエスでもノーでもない宙ぶらりんな答えをぶら下げたまま、私の口からは何も出てこなかった。感情をあまり表情に乗せることのないリョータの取り乱したような必死な顔が、ずっと脳裏に焼きついて離れない。