昨今、男性も子育てに積極的なケースも増えている。女性だけでなく男性にも福利厚生で育児休暇がついたりもする世の中だ。うちの場合に限っては少しばかり訳が違うけど、家事や子育てに協力的である事は喜ばしい。しかし、それが故に困る事も世の中には存在している。
 アメリカから帰国して半年が経過していた。
 日本での住まいを見つけるのも、プロチームの所属先との交渉も動いてくれたのは三井さんだった。とんとん拍子に話は進んでいき、リョータの所属先も日本での転居先も決まって帰国した初日、私はそのカラクリを知る羽目になった。
「アンタまた来たの?」
「飯は大勢で食った方が美味いだろ〜が。」
「……それ少なくともこっちが言う事あってもアンタが言うべき事じゃないんスけど。」
 最初のうちは渋っていたリョータも、それがこれだけ当たり前に継続されると抵抗すらしなくなった。何より三井さんは面倒見がよく、我が子もとても懐いている点も大きいのかもしれない。
 同じマンションに住む三井さんとは、割と家族ぐるみの付き合いをしている。最早家族以上と表現した方が正しいかもしれない。
 先日開催された幼稚園の運動会、リレーでスマートフォンを横に固定しながら大きな声で我が子を応援して動画まで撮っていたのは三井さんだ。ちなみに彼は独身で、もちろん子どももいない。うちの子どもの運動会の話をしている。
 プロ選手としてコマーシャル契約もしている三井さんはとにかく目立つ。あんな大声で叫ぶ人もいないだろう。しかも人の子の応援で。それも幼稚園の。遠征中だったリョータが不在だったのもあって、流石に遠征から帰ってきたあと飛び蹴りをされていた。かしこ。
「は?」
「……いや、は?と言われましても。」
「なんで?」
「いやだから今説明したでしょ。」
 実家の母の看病のため一週間程地元に帰省する事がつい先程決まって、それをそのまま伝えたらこの反応だ。逆に私の方が「なんで?」と聞きたい。実際のところなんでですか。
「俺も一緒に行くって言ってんの。」
「オフシーズンでも一週間も離れられないでしょ?それに母さんもリョータ来たら張り切っちゃうだろうし。」
 看病と言えば少し大袈裟かもしれない。大病という訳ではなく、腰を少し痛めたらしい。名をぎっくり腰という。安静にしていれば時間が解決してくれるものだ。最近日本で見つけた仕事は有難い事にリモートで対応できるのでノートパソコン一台あれば何処でも仕事ができる境遇だ。
「ムリほんとマジでムリどうやって生きてくんだよ、」
「……仮にも子を持つ親が言う台詞ではないね?」
 幼稚園児の方がよっぽど聞き分けよく、「がんばれ〜」とこちらに向かって手を振っている。どっちが子どもか分かったものじゃない。若くから異国で一人暮らしをしていたリョータは家事にも積極的に参加してくれるし、簡単な料理であればサクッと作れる腕前だ。私が一週間いないからと言ってどうって事はない筈だ。この世の終わりみたいな顔をしているけれど。
「ちゃんと一週間分の料理作り置きしていくから。」
「…………」
「リョータの好きなもの作るよ、何がいい?」
 事情が事情なのもあってようやく無言という形で私の実家帰省を受け入れたリョータが、子どもが駄々をこねるようにぎゅうっと両手を一周させて私を閉じ込める。おとなげな〜いと三歳児に言われる始末だ。我が家は色々と逆転している。
「……今日一緒にお酒飲もっか、リョータ。」
「え?」
「ね、飲もうよ。」
 一度パンパンに膨れ上がった筋肉質な腕から私を解放して、そして少し驚きながらこちらを見ている。こんな表情をしているので、お酒を飲むという言葉の裏に隠れている本題をなんとなく察知しているのだろう。一度疑問符を口にした彼に念を押すように繰り返すと、この表情だ。
「おとなげな〜い、」
「……酒飲めねえお前よりは大人だろ。」
 どこでそんな言葉を覚えてきているのか時々驚かされてしまうけど、三歳児と張り合っているお酒の飲める精神年齢・幼児の大人にも驚かされるのを飛び越して時々ため息が生成されてしまう。贅沢すぎる苦悩とため息である事は凡そ自覚している。彼に怒られない程度には。
「ほら、公園連れてってやるから行くぞ。」
 手のひらを返したように私を手放して、リョータは家でゆっくりしたいと何故か三歳児らしからぬ事を言う我が子の手を強引に引いて早々に玄関を後にしている。散々外で体力を消費させる算段なのだろう。そうする事でお酒を飲む時間は早くなり、そして物理的に夜が早くやってくるという訳だ。
 アメリカに住めばもっとオープンにアメリカナイズされるものとばかり思って自らの成長を待ってみたけど、どうやらそれは性格や性分の問題らしい。リョータの有り余る愛をダイレクトに受け入れられる程私は甘え上手ではない。
 唯一お酒を飲んだ時だけは小指一本分くらいはいつもと比較して甘える事ができるので、お酒を飲むと言うのが一種のサインになっているのは否めない。リョータのさっきの顔を見ればそれは一目瞭然だろうけれど。
「もう寝たけど?」
 たった小一時間でどうするとぐっすり眠った状態の三歳児をおぶって帰ってくる事になるんだろうか。プロアスリートによって実施される“遊び”には恐ろしいものがある。少なくとも私は耐えられる自信がない。
 筋肉がやたらと発育している大きな子がこれでもかとぐりぐりと甘えてくるのを背中に感じながら、金平牛蒡とひじきを作る。今日は三井さんは遠征中と聞いているので、環境は整ってしまったのだ。
「まだ作りおわんないの?」
「残念ながら。」
「……一週間分必要なんだから早く終わらせてよ。」
 一週間分という言葉が食事以外のことを指しているのに気付きながらも、気づいていないふりをする。レンコンと唐辛子を炒めて金平牛蒡を作る事に意識を集中させた………顔が熱く感じたのは少しばかり火加減を誤って強火で金平牛蒡を炒めていたからに違いない。





 というのが今から五日と二十二時間程前の話であり、私の回想だ。何故回想しているかと言えば、想像していない状況が起きたからだ。
 毎日決まった時間に鳴り響くスマートフォンから彼の様子は把握できていたし、普段一人では絶対に飲まないお酒を飲みながら嘆いている夜もあったけれど………きちんと滞りなく生活ができている事に私は安心しきっていたのだ。だからこそ現実を知った時のギャップは私の心を酷くすり減らす。
「……あ、あの何かあったんですか?」
 久しぶりの幼稚園へのお迎えは、少しだけ騒がしい気がする。騒がしいだけならまだしも、何故かその視線は私に集中している。注目されるような突飛な格好もしていないし、平凡という文字を辞書から切り取ったような女と自覚しているが、視線を感じるなんてきっとただの恥ずかしい自意識過剰に決まっている。誰も私なんぞに注目するはずはない。
「宮城さんの旦那さんってその……」
「はい。」
「なんて言うかその………イケイケですね?」
「イケイケ………ですか?」
「それに三井選手も今週交互でお迎え来てましたが一体どういう……」
 全てを察した気がした。これは私の自意識過剰ではない。自信を持って言えるものだ、視線という視線を掻っ攫っているのは間違いなく私だ。そんな自信なんて持ちたくない。
 三井さんとは何度か一緒にお迎えに行った事があり、園としても顔が知れているので迎えに行く事に問題はないが、まさか今週交互に行っているとは思わない。帰国して初めてのオフシーズンという事もありリョータがお迎えに行くのは今回が初めての事だ。まさかとは思うが、そのまさかがしっかりと現実になっているという事なのだろう。
 スポーツ選手好感度ナンバーワン、スポーツ選手コマーシャル契約本数ナンバーワン、抱かれたいスポーツ選手ナンバーワン、全てのナンバーワンを総なめしている三井さん(声はデカい)との関係性も謎だろう。リョータがプロ選手である事は知られた事実だろうけど、三井さんとの関係性はかなり不明瞭だ。とんでもない女と思われているのかもしれない。
 おそらくゴリゴリの上腕筋をむき出しにするようなピタピタなシャツあるいはタンクトップを身につけ余す事なく小麦色に染まった肌を露出して、愛用しているゴツいネックレスで首元を飾り、サングラスをかけ、幼稚園教諭が“イケイケ”と表現せざるを得ない初めましての旦那と、好感度ナンバーワンの三井さんが交互できていればそれは視線も集めるだろう。控えめに言って最悪だ。
「リョータ!」
!」
 怒り心頭に約六日振りとなる我が家の扉を開ける。私にしては珍しく語気を強くして彼の名を呼ぶと、リョータからも感嘆符付きで私の名前が呼ばれている。感情の内容はまるで違うけれど。まるで違うのに、先ほど想像した(仮)の彼の服装は寸分の違いもなく一致している。一致するという言葉をこんなにも悲観的に使ったのは初めてかもしれない。
「そんな格好でお迎え行かないでよ……!」
「は?」
「誰も私に寄り付かなくなる。」
「いいじゃん、変な虫つかなくて。」
「私が既婚者って知られてる時点でそんなものつかないでしょ?」
 この格好には明確な彼の意志がある事を感じ取って、気が遠くなる。それだけでも頭が痛いのに、三井さんの事も頭痛の追加種だ。不良と呼ばれる時代があったにしろ、根本的に育ちのいい彼は世間的に好感度が高い。先生への対応も丁寧なのに、我が子と接する時は素の三井寿が漏れ出ているのかそこに見事敗北している人間が多いらしい。今の時代に信じがたいが、今日だけで「三井選手に渡してください」と預かった連絡先は一枚ではない。
「お迎えも仕事しながらだと大変でしょ?俺今オフだしこれからは、」
「お願いだから行かないでください後生なので。」
 そうは言ったものの、私自身もこれからこの事実を背負いながらお迎えに行く事を考えると逃げ出したくなる。兎に角早急に長袖が必要な時期になってほしい。リョータの筋肉は無駄に目立つ。アスリートとしては全然無駄ではないのだろうけど。
「お〜い、ピザ買ってきたから食おうぜ。」
 合鍵で我が家に家族同然の顔をして入ってくる三井さんに、この騒がしい面子だ。生まれ育った故郷・日本での生活はアメリカでの生活以上に前途多難でしかない。
「アンタ許可なしで勝手に来ないでくれる?」
「あ?いいだろ別に。飯は大勢で、」
「一週間振りの再会なんだから気つかえよ!」
「なんの?」
 兎にも角にも、我が家は騒がしい。



疑心のプラネテス
( 2023’09’12 )