三っちゃんの部屋はあまり男子高校生感がなくて、いつも小綺麗に整頓されている。多分、バスケの事以外にあまり興味もなければ関心もないのだろうと思う。母親の趣味である可愛らしいうさぎの描かれたトールペイントやファンシーな作品が男子高校生の部屋の片隅に飾られているのは中々に違和感がある。
 けれど、どうやらそう思っているのは私くらいなもので、部屋の主でもある彼はなんの違和感も感じていないらしい。ロン毛の不良時代もこの部屋で何も思う事なく過ごしていたのだろうかと考えると随分と滑稽だ。
「三っちゃんさ〜、」
「あ?」
「大学どうすんの、そう言えば。」
「あ〜、」
 私は無駄にふかふかと質のいい三っちゃんのベッドにごろごろと転がりながら雑誌を読んでいる。手入れの行き届いているそのベッドからは時折くどくない程度に爽やかな甘い香りが漂っている。毎日汗に塗れながら泥臭くバスケをやっている男子高校生が眠っているベッドとは思えない。それを保っているのは三っちゃん本人ではないけれど。
「お前はどうすんだよ。」
「え、今更それ聞くの?私推薦だもん。」
「は?お前勉強得意じゃなかったろ。」
「高校入ってからは家庭教師つけてたから。」
「チートかよ。」
「いや、どこが?」
 三っちゃんの感覚はちょっと変わっている。悪気も悪意もないのが分かってるからいちいち腹を立てたりなんかはしないけれど、少しくらいデリカシーは持って欲しいとは思う。部屋の棚に飾られたファンシーな小動物のアートに違和感を感じないのはある意味で親孝行なのでいいとして、私が高校に入って得意じゃない勉強を頑張る為に家庭教師をつけていた事実を聞いてチートと答える人間は多分神奈川県で他にはいないだろう。
「いつまでも推薦とか言ってないで現実見なよ。」
「うっせえな、地雷踏みつけんなよ……」
「推薦の時期は終わったし内申アウトじゃん。」
「俺は諦めが悪いんだよ。」
「諦めが肝心とも言えるね、これに関しては。」
 バスケが楽しくて仕方ないのはよく分かる。それに二年のブランクという追加要素がある分余計になんだろう。そもそも何事にも無頓着で、あまり執着心のない三っちゃんにとって、唯一バスケだけが興味関心の対象だという事は私の目から見てもよく分かる。
 どれだけバスケを大切にしているのかも、大切にしすぎているからこそ戻れなかった過去があったことも。だから、今こうして私が三っちゃんの部屋のベッドでごろごろと雑誌を読んでくつろいでいるこの状況は多分誰も想像していなかった未来だっただろうと思う。
「バスケ強いとこに一般で入れば?」
「簡単に言ってくれるよな〜、こちとらほぼ丸二年ガッコ行ってねえんだぞ?なめんな。」
「ごめん、普通になめてるよ。」
 三っちゃんを初めて見たのは中学一年生の入学式だった。
 顔立ちがはっきりしている割にはどこか爽やかで、当時から背格好の良さもあって頭一つ分他の学生よりも目立っていた。かっこいいなと思ったのが第一印象だった。つまるところ、私とは縁のない人だろうと思っていたのだ。放っておいても各方面から黄色い声が集中しそうな彼に、私が関わることなんてまずないと考えた。
 入学式で早々に目立っていたその彼は同じクラスメイトで、そして私の隣の席だった。いくらこれからクラスメイトとして毎日同じ授業を受けると言っても初日は接し方に戸惑いを覚えるものだ。けれど、彼はなんの抵抗もなく隣の私に声をかけてきた。まるで昨日も話していたくらいに、当たり前のトーンで。それが三っちゃんだった。
 顔も背もバスケも全部かっこいいくせに、着飾らず誰にも分け隔てなくフランクな距離感で接する三っちゃんの事が、多分好きだったんだろうと思う。好きになるのが分かっていたからこそ、潜在的な意識を掘り起こす事をしなかった。未だに、今の現実を不思議に感じる時がある。時空の歪みがもたらした偶然なんじゃなかろうかと。
「んで、お前どこ行くんだよ。」
「ん〜、東京のガッコ。」
「なんだよ一人暮らしでもすんのか?」
「うん、そのつもり。」
「え、まじか………」
 なんだかよく分からない所で狼狽えていて、本当によく分からない。東京が隣県という事をまさか知らないのだろうか。高校に二年間行っていなくても流石にそれくらいは分かる筈だし、分かっていてほしい。雑誌のページを捲りながら少しだけ三っちゃんに視線を移すと、頭に右手をかざしながら小首を傾げている。何かを考えているらしいけれど、本当に何を考えてるんだろうか。
「三っちゃん調べた事ないから知らないかもだけど、神奈川ってあんまり大学ないよ。ほとんど東京。しかもちょっと奥地のほう。」
「は?なんでそんな不便なとこにあるんだよ。」
「敷地が必要だから山とか削って作るらしいよ。」
「お〜、お前結構物知りだな。」
「じゃあ世の中三っちゃん以外みんな物知りだ。」
 言葉の意味を理解していないのか、どういう事かを考えている三っちゃんから再び雑誌に視線を戻す。推薦とか一般とかセンターとかオープンとか、そもそもそれ以前の問題なのかもしれない。バスケが出来て彼を受け入れてくれる大学がどこかにあるといいなと、そんな親心のような気持ちになった。
「なら俺も必然的に東京になんのか?」
「どうだろう、選択肢は多いかもね。」
「でも通えばよくね?」
 実家から通学することも考えなかった訳じゃない。藤沢から都心へのアクセスは想像している以上に利便性が高く、そして路線の選択肢も多い。一時間も掛からず簡単に都心へ足を伸ばす事が出来る悪くない立地だ。
「社会人なる前にちゃんと自立しとかないと。」
「そ〜いうもんか?」
「三っちゃんは実家好きそうだもんね。」
「そっか?別にそんな事ないぞ。」
「洗濯も部屋の片付けも誰もやってくれないよ?」
 そう言うとまた三っちゃんは考え込んでいるようだった。本当にバスケ以外の事は何にも関心がないんだろうなと改めて思わされる。とても良い表現をすればケ・セラ・セラの精神なのかもしれないし、やっぱりそれはちょっと良く表現しすぎているのかもしれない。知り合ってから六年経っても、やっぱり三っちゃんはよく分からない。
「お前してくんないの?」
「なにそれ、超絶厚かましいね。」
「それくらいいいじゃねえか。」
「じゃあどんな見返りあんの?」
 本日三度目となる熟考の末、出てきた答えは本当によく分からなくてどんな意図があるんだろうかと逆に私が考えさせられる。けれど、不思議と三っちゃんっぽいなと思えるのが凄いところで、もっと言えばそれで許されてしまうのがこの男の魅力なんだろうと思う。
「試合でスリー決めまくるか?」
「掃除でそんなモチベ変わるの逆に問題でしょ。」
「お前のために頑張るって言ってんだろ〜が。」
 時折とても恥ずかしい事を真顔で言ったりしてくるので調子が狂う。無自覚なのがすごい。自覚させた瞬間とんでもなくあわあわし始めるのであえて指摘しないようにしている。指摘をした時、動揺している私に加えて三っちゃんまでもが火を吹く勢いで顔を真っ赤にし始めたので対応に困ったという過去からの学びに所以している。
「掃除しに行くの面倒だし一緒に住んじゃう?」
 しれっと言ってはみせたけど、実際のところかなり言うのに勇気が必要だった。冗談っぽく言って、ただ反応を見たかっただけなのに変に意識してまう。本気だと思われたらどうしよう、そんな事を考えながらも今更「なんちゃって〜」と付け加える勇気もなくてただ反応を待った。こういう時、体感以上に長く感じる時間の流れがとても苦しい。
「なんだよ、一緒に住みたいのか?」
「例えばの話じゃん。」
「お〜、まあそれもいいかもな。」
 三っちゃんは月間バスケットボールの雑誌のページを捲りながらそう言った。さっきまで色々考えているようだったのに、その言葉にはさらっとどちらとも取れる曖昧な返事を返してきた。でも、多分そんなもんなんだろうと思う。三っちゃんの頭の中を透かして見られるとしたら、きっとバスケのことでいっぱいだろうから。私はその隙間に挟まってるくらいでちょうどいい。こうなった時から、そう思うようにしていた。
「三っちゃん勉強は?」
「お〜、じゃあお前教えろよ。」
「他に聞ける人いないの?」
「そりゃ赤木とか木暮に聞けない事もねえけど……」
 母親同士が知り合いなこともあって、三っちゃんは時々こうして私を部屋に呼びつける。受験に向けて勉強するからという理由をつけてだ。それが実施されているのをまだ私は見たことがない。
 初めて三っちゃんに家へ呼ばれた時、それ相応の覚悟を持って向かったのを思い出した。まだ高校生という子どもではありながら、けれど何かがあってもおかしくはない年齢だ。大人でもない代わりに、完全にまだ子どもという訳でもない。備えあれば憂いなし。結局、備えるようなことは何もない。初めてここに来てから、今日までずっとだ。
「でもお前俺の彼女だろ?」
 彼女が勉強を教えるのが当然だという基準は一体どこからやってくるのだろうか。





 三っちゃんと付き合う事になったきっかけは、私にとって少し苦い思い出として記憶されている。こうして付き合うことになったという結果だけを切り取ってみれば全てが悪という訳ではないけれど、人間の軽はずみな勢いとノリは恐ろしいと心底思う。

 三年三組、最終学年で三っちゃんと同じクラスになった。始業式からほとんど姿を見かけた事はない。ただ、学校自体には来ているようで遠目に中庭で見かけることがある程度だ。髪が伸び切っている三っちゃんとは話しをした事がなかった。

 そんな三っちゃんが突然教室にやって来た。髪をバッサリとスポーツ刈りに揃え、そして顔に絆創膏や隠しきれない青たんをこさえてだ。ついでに罰の悪そう顔をしている。中学の時もこれくらい髪を短くしていた時期もあった筈なのに、なんだかその頃とは違うように私には見えていた。バスケと向き合うためのケジメなのだろうと、なんとなくそう思った。

 クラスに馴染めるだろうかと心配していた私を他所に、持ち前の近すぎる距離感と高いコミュニケーション能力を持つ三っちゃんは、数週間もすれば二年間のブランクを感じさせない程自然にクラスに溶け込んでいた。
 そして、私も久しぶりに話したのがちょうどこの頃だ。
って三井と同中だっけ。」
「え、うん…そうだけど。」
「三っちゃんとか距離感やばくない?」
「別にやばくないと思うけど。」
 どうでもいい世間話の類だ。どうせひょっこり現れた三っちゃんに絡みたいが故に、私に絡んでいるだけなんだろう。クラスメイトと言っても、全員と仲がいいという訳じゃない。明らかに私をきっかけにしようとしている下心がよく見て取れた。そういえば、中学の時にも同じようなことがあった気がする。
「あ、三井〜!」
 案の定、廊下から教室へと戻ってきた三っちゃんに声をかけたその集団は彼をこちらの輪へと呼び寄せる。どんな話が展開されるのかも、なんとなく大枠は分かってしまってとても気が重い。自分自身女子でありながらも、こういうノリはあまり好きでも得意でもない。
と三井って昔から仲良かったの?」
「あ〜?ま、同中だし普通には仲いいだろ。」
「そうなんだ?なんか意外かも。」
「少なくともお前らよりは仲良いと思う。」
「ふ〜ん?」
 その言葉自体を切り取ってみれば嬉しい言葉に違いないけれど、それは時と場合によって変わるものでもある。この場では正に望ましくない言葉だ。けれど彼にとってそれは嫌味でもなく、当然悪意がある言葉でもなく真っ当な事実でしかないのだろうと思う。だからこそ、恐らくは受け取った側の私への印象はよくないに決まっている。
って三井の事好きだったりして?」
 想像していた展開とほとんど相違のない現実が目の前で繰り広げられている。三っちゃんの言葉とは違って、彼女のそれには悪意しかない。私をダシに使おうとして、都合が悪くなれば私を貶めるなんて随分といい性格をしているものだ。
 こういう時は否定をしても肯定をしても事はうまく運ばない。ならば第三の選択肢を選ぶのが得策で、「さあね」とどちらとも取れる言葉を言い残して逃げるのが正しいのだ。計画通りの展開に、事前準備していた“さあね”を告げようとした数秒前、三っちゃんが先に口を開いた。
「なんだよ、お前俺の事好きなのか?」
「……は?」
 彼女たちへの言葉は準備できていても、この奇想天外な彼の言葉には準備もできていなければ対応できるはずもない。そもそもこの状況で、張本人がそんな事を言うものなんだろうか。少なくとも私の想像能力は優に越えている。
「なら俺ら付き合うか。」
 ついに私と彼女たちは同じ言葉を呟いている。この男、何を言っているんだろうか。やっぱりまるで分からない。
 好きなのかどうかという本人からの謎めいた質問に回答を得ていない状態で、何故か付き合う事を提案してくるのは一体どういうメンタルなんだろうか。しかもこのニュアンスだと、ほぼ付き合うことは決まっているような言い草だ。この男はどうかしている。
「なにこの展開………」
 ついに本音を溢した彼女たちに、私が一番尋ねたい。
 軽はずみなクラスメイトの一言で、私は三っちゃんと付き合うことになった。しかもクラスメイト全員が見ている状況下で、私は三っちゃんの彼女になったらしい。急にクラスメイト全公認のカップルになった訳だが、本当に一体どういうことなんだろうか。
 私が三っちゃんの事を好きだから、という前提があったというのは些か気に食わない部分がある。けれど、それを強く否定するだけの理由がないのがもっと気に食わなかったのを覚えている。





 受験も終わると、私たちに残されているイベントは少ない。あとは合格発表と、卒業式くらいなもので比較的自由度の高い時間が流れている。私の推薦入試はとっくの前に終わっていて、残すは三っちゃんの合否のみだ。全落ちしていなければ、彼も四月からは東京の大学生になる予定だ。
「三っちゃんの部屋もう読むものないね。」
「マキバオー読んだか?」
「うん、この間全部読んじゃった。」
「北斗の拳読んでねえだろ。」
「それは遠慮しとこうかな。」
 受験勉強が終わった今、三っちゃんの部屋で過ごす理由が見当たらない私は居心地のいいベッドで少し窮屈な気持ちになりながら、でもやっぱりごろごろしている。今に始まった事ではないけれど、三っちゃんはよく分からない。漫画の趣味もちょっとよく分からない。
 もう付き合ってから随分経つけれど、果たしてこの状況を付き合っていると形容していいのか正直なところよく分からない。三っちゃんの母親が創作する頻度に応じてファンシーなトールペイントと小動物のアートが増えていくこの部屋で、私と三っちゃんの関係は比例せずなにも変わらない。
 キスは愚か、ハグもされた事がない。ティーン向けの雑誌の恋愛特集に書いていた、手を繋ぐというお付き合いの第一関門と呼ばれるそれすら達成されていない有様だ。私が潜在的に三っちゃんを好きだというその気持ちだけの為にボランティアで付き合っているのだろうかと、そう思ってしまう進展のなさだ。同棲なんてあと何回関門を潜り抜けても到達しない気がする。
「三っちゃんさ〜、」
「なんだよ。」
「私たちって付き合ってんだよね?」
 重い女の代名詞とも言える科白を言ってしまって少し後悔する。けれど、三っちゃんは特別気にしている様子はない。これは重い女にも対応でき得るスペックを備えているからなのか、それとも聞き流す程度にしか気に留めていないからなのか。
「超付き合ってんだろ?」
「超付き合ってるってなにそれ。」
「部屋くんのお前だけだし。」
「それを超付き合ってるって言うんだ?」
 それは初耳だ。理由もきちんと聞いたけど、やっぱりよく分からない。御免なさい。これは私が悪いんだろうか。取り敢えず私と付き合っているという自覚はあって、しっかりと私は三っちゃんの彼女ではあるらしい。
 ならば何故、付き合ったその日から今日までまるで進展がないのか。付き合っているという事実があるだけで、やっぱり私に然程の興味もないんだろうか。色んなパターンを想定して見ても、最終的にはその理由に辿り着く。平々凡々な思考パターンしか持ち合わせていない私にはそれくらいしか選択肢が浮かんではこない。
「私たち付き合ってどれくらい?」
「八ヶ月くらいか。」
「残念、九ヶ月でした。」
「お〜、もうそんな経つんだな。」
「そう、そんなに経つんだよ。」
 もう九割型言いたいことは遠回しながら伝えているし、伝わっている筈なのに三っちゃんはいつもと変わらない。私が先週読み終わったマキバオーを手に取ってパラパラとページをめくっている。違う、今マキバオーを読む空気感じゃないんだよ。
「キスとかしないの?」
 マキバオーよりも見るべきものはある筈だし、今で言えばそれは私だろうし、悪意がないからと言って全てがそれで許される訳じゃない。悪意がない事こそが、逆にタチが悪いとさえも思う。
「なんだ、キスしたいのか?」
「……え?」
 付き合うきっかけになった日のことを思い出した。同じような会話をしたような気がする。俺の事好きなのか?と聞いてきたあの時とまるで同じだ。キスするのも許可制というか申告制だったんだろうか。
 三っちゃんを見るとさも不思議そうにこちらを見ているけれど、私がおかしいのだろうか。世の中の常識がぐしゃぐしゃ崩れていく音が聞こえる。少なくともティーン雑誌の恋愛特集にそんなQ &Aはなかったはずだ。三っちゃんのせいで何が常識が分からなくなった私にとって、雑誌の恋愛特集は最早バイブルになっている。
「もっと早く言ってくれりゃいいのに。」
「申告制なんです?」
「お前がしたいと思ってねえのに勝手にしたらデリカシーなさすぎだろ。八ヶ月……九ヶ月だっけ?ずっと待ってた。」
 三っちゃんはそれが常識でもあるかのように堂々と言い放っているけど、彼はどういう常識を生きているのだろうか。そんな常識が罷り通っている世界は知らないし、ドラマでも見た事がない。男子高校生の読む雑誌には“キスは彼女が強請るまで待たれよ”と謳っているのだろうか。まさか月間バスケットボールじゃないだろうな?
「デリカシーの概念がずれてない?」
「俺デリカシーないってよく言われるから自分なりに考えたデリカシーだよ……、いちゃもん付けんのか?」
「いや、付けるだろうよ。」
 概念が不思議すぎるけれど、よくよく考えたら三っちゃんってそういう人なのかもしれない。妙な納得感と共に腑に落ちて一気に体の力が抜け落ちた。到底これからキスに挑むだけの気力は残っていない。
「あ〜、そういや家の事なんだけどさ。」
 突然思い出したように話を切り替えた三っちゃんは、ゴソゴソと机の引き出しを漁り始めている。感情の引き出しも多い人だなと思う。切り替え能力が高すぎる。
「家ってなんのこと。」
「一緒に住むかって話してただろ。」
「え?あれ考えてたの?」
「たりめ〜だろ。で、これなんだけどよ……」
 三っちゃんは紙の束を取り出して、ベッドの上に一枚ずつ並べていく。大きな紙で神経衰弱でもやり始めるんじゃなかろうかと思うほどの枚数を並べ切った後、さも当然かのように一枚ずつ指を指しながら特徴をペラペラと話し始めた。
「これは間取りが良くてリビングも広いからお前が欲しいって言ってたでっかいソファーが置けるけどセキュリティーが甘いから微妙で、こっちは都心へのアクセスは良いがお前の学校から遠くなるから微妙で、こっちは………」
 三っちゃんはこちらを見る事なく、やっぱり一枚ずつ不動産物件の紙を指さしながら説明を続けていく。彼にしてみれば物件の特徴をただ述べているだけなんだろうけれど、私にはその一枚一枚が自分への愛のプレゼンテーションに聞こえて仕方がない。全て、私の条件や理想を元に選ばれている部屋だったからだ。
「どっか妥協しないといけないっぽいんだけど、お前どれがいい?」
 長きに渡るプレゼンテーションを終えた三っちゃんはようやく私の顔を見て、そして状況をまるで掴めていないのか急に狼狽始めていた。
「……なんで泣いてんだよ。」
 私が泣いている理由すらも分からないのか。大馬鹿野郎だ。どういう理解能力してるんだろう。本当にどこかの大学には合格しているだろうかと心配になる。
「なんでだろ、なんでもかな。」
「そんなに嫌だったか?」
「三っちゃんは馬鹿だな、ほんとに。」
 嬉しい感情と、そして三っちゃんが純粋に私を想ってくれているその気持ちを少しでも疑ってしまったという後悔の感情と、二つの感情は相反しているもののはずなのに、結果として同じものとして排出されているのだからとても不思議だと思う。
 三っちゃんのデリカシーの基準はやっぱりよく分からないけれど、彼なりの概念で最大級に私は大切にされていることだけはよくわかった。
「男は黙ってぎゅっとするんだよ。」
 ようやく私の涙を拭った三っちゃんのゴツゴツした大きな手が私を引き寄せて、そして包んでくれた。落ち着いたタイミングで少しだけ体を離してみる。三っちゃんの綺麗な瞳を見つめると、九ヶ月間まるで察してくれなかった三っちゃんとは思えない程の察知能力で私は高校卒業間際で唇に初めての感触を覚えた。

 あと数ヶ月もしない内に、三っちゃんの洗濯物を畳みそして掃除をする私の未来があるのだろうと思う。見返りは先に頂戴しているので、暫くは文句を言わずにせっせと邁進するつもりだ。



育むものと知ってから
( 2023’04’07 )