家の中でじいっと視線を感じるのは中々の違和感で、想像以上に居心地が悪い。
 オフシーズンに入ったリョータは朝のロードワークに出かけて私が会社へと出かける前に一度戻ってくる。一緒に朝ご飯を食べて、そして見送られながら私は会社へと向かう。私が家を出た後、リョータはベッドのシーツを洗濯機に投げ、そして規定の量だけ洗剤を入れると洗濯機のボタンを押し込む。
 これが朝のルーティンだ。私が「これくらいは責任持ってやって」と言ってからは毎日せっせと洗っているようで、家に帰ると乾燥まで終わった状態のベッドシーツを洗濯機から取り出す。これは私の役割だ。
 これはここ最近のオフシーズン中の平日の話で、今日は土曜日だ。
 昨日は二人してしっかり酒を飲んだ訳だけどリョータはケロっとして、日課となっているロードワークに出かけている。昨日は確かきちんと寝たのは二時を過ぎていたような気がする。私の記憶のある範囲ではというだけなので実際はどうかは分からない……アスリートの体力は恐ろしい。
 結局昨日のうちにしておくべき事がなにも出来ていない事を思い出して、仕方なく九時を過ぎたあたりでベッドから起き上がった。ついでだからと起き上がったタイミングでベッドのシーツを剥いで洗濯機に投げ入れた。
「おはよ、もう起きたんだ?」
「ん〜、昨日色々サボっちゃったからね。」
「なんか手伝う?」
「ううん、へ〜き。」
 しゃこしゃこと歯ブラシを動かしながら半分寝落ちしそうになる。眠い。どうしてこの男はこうも変わらず朝からスッキリした顔をしているんだろう。昨日の自分の行いをまさか一度眠ったら忘れて回復する私とは違う生き物なんだろうか?
「ねえ、」
「ん?」
「今日どっか行く?それとも一日ゆっくりする?」
「ん〜〜、どうしよっかな。」
 うとうとしながら辛うじて歯ブラシを動かす手だけを止めずに考えていたら、お日様の匂いがした。ロードワークをしてきたリョータに染み付いた太陽の匂いだ。天気がいいのかもしれない。
 後ろから当然のようにぶらりと私の両肩に腕を垂らしているリョータは軽く私を揺さぶりながら尋ねる。鏡越しに見えた彼はなんだか子どものようにわくわくしている様子で、完全にそわそわしていた。
 そこだけを切り取って見れば可愛らしいけれど、肩から先に布を纏わないタンクトップスタイルは彼のゴツい二の腕をより強調している………ほんといつからこんなに筋肉でいっぱいな体になったんだろうか。
「フレグランス切れかかってるんでしょ?」
「あ〜、そうだ買わねえと。」
「じゃあデパート行ってきなよ?」
「……なに、俺ひとりで行く訳?」
「だって私色々やらないといけない事あるし。」
「じゃあ待つから。」
「ご飯作って待ってるから行ってきなよ。」
 仕事をしているとどうしても効率を優先させてしまいがちで、なんの意図もせずに言ってしまった後にほんの少し後悔する。さっき少年のようにわくわくそわそわしていたあの彼の姿はないような気がして、私は鏡を見る事ができない……返事がないので多分怒っている。
 しれっとコップを持って口を濯ぐ。
 タオルを手に取って口元を拭くついでにそのまま顔を隠したままリビングの方へと移動してみるけれど、亀の甲羅のように重たい筋肉が中々離れてくれない。
「……もしもし亀さん。」
「なに。」
「亀だって自覚はあるんだ?」
「うるさい。」
 随分と感情を拗らせた成人男性だ。一緒に住んでいるのだからデパートから帰ってくればいつでも会えるのにこのザマだ。随分と癖の強い亀だ。
 昨日晩酌をしたままになっている空いた皿とグラスをテーブルから運んで、キッチンへと持っていく。その皿を洗いながらリモコンのスイッチを押すとウィーンと音を立ててお掃除ロボットが動き始める。便利な時代に生きていて心底良かったと思う。少し奥からは洗濯機が回る音がしているので、今の時代、家事はもはや同時進行だ。
「あと何やったら終わるの?」
「トイレ掃除と、あとは……麦茶作って、天気いいから布団と枕も天日干ししたいし、観葉植物に水やりと、あとは……」
「どんだけあるんだよ?」
「探せば結構無限にあるかも。」
 それに平日分の食事を作り置きしておかないといけない。料理が得意という訳ではないけれど、苦手でも嫌いでもない。基本的にオフシーズン中は自主トレがメインとなるリョータにとって、食事は重要だ。私が日中働いている間は近くのジムでトレーニングをして、昼には一度家に戻ってくる。
 仕事が終わった後に中々料理をする気力がない分、おかずの作り置きは土日に課せられた重要なミッションだ。家事を進行しながら、冷蔵庫から適当な材料を出して何品か作ってタッパーに保存する。
「…………」
 多分三歳児でも五歳児でもこんなにじいっと眺めてくる事はないだろう。この上なく作業がしづらい。ずっと突き刺さるような視線がソファーの方角からひしひしと飛んできている。折角つけているテレビは誰にも見られる事もなく、リョータはソファーの背凭れに両手をついてじいっとこちらを見ている。
「リョータさん、あのですね?」
「いつ終わるの?」
「……言う前に自分の質問挟まないでくれる?」
「だって全然おわんないじゃん……」
 公園に連れて行って欲しい子どもでももう少し聞き分けがいい気がする。子どもと生活したことはないから分からないけれど、少なくとも私が子どもだった時はそんな事は言わなかったはずだ。
「じゃあそこの観葉植物に水あげてくれる?」
 水の入ったポットのようなものを差し出すと、リョータがソファーから立ち上がってそれを受け取った。どれくらいあげていいのか分かっていないのか、恐る恐るちょろちょろと観葉植物に水を与えているのが何だか妙におかしかった。
「結構豪快に入れちゃって平気だよ?」
「そ、そう?」
「うん、大丈夫。」
 ゴツい体でちみちみ水を入れている様は何だか滑稽だ。豪快に入れても大丈夫と言っているのに、リョータは様子を見ながら継ぎ足すように水を入れている。いくつかある観葉植物への水やりはものの数十秒で終わる仕事だけど、リョータにとっては分単位の作業になるらしい。
 中身を空っぽにしたリョータがポットを手渡してくるので、少しばかりは機嫌をとっておこうと休日モードの彼の髪をくしゃくしゃと犬のように撫でた。バカにすんなと怒られるかと思ったけれど、満更でもないらしい。
「……他のも手伝う。」
「いいよ、折角のオフなんだし。」
「いいから!次どこ?」
「え〜なんだろ、トイレ掃除とかやってみる?」
「やる!」
 何故か意気揚々としながら肩を揺らしてトイレへと消えて行ったけど……何かを覚えたての子供のような背中だ。ゴツいけど。
 普段尋常ではない程に体を酷使している彼にはあまり家事全般をやってもらう構想はなくて、今までシーツを洗う事以外の家事をそう言えば頼んだことがなかったのを思い出す。今まではこうして日中家にいる事もなかったので、こんな場面はなかった訳だけど。
「棚の上にトイレブラシの替えあるから!」
「うい〜。」
 リョータも長い間アメリカで一人暮らしを経験している。トイレ掃除くらいは普通にできるだろうと特別心配する事なく私は洗い物を洗い終える。フライパンで炒まっている具材を時折木べらで移動させながら、冷蔵庫を開ける。
 キューブ状のチーズを一つ手に取ってくるくると開封すると、パクリと口に入れる。昨日のつまみで食べた分の残りだ、普通に美味しい。
「トイレ掃除終わったよ?」
「リョータくん優秀じゃん。」
「…ん、」
 言葉でしっかりと褒めてみたけれど、どうやらそれでは納得がいかないらしい。首を傾げてしばし考える。私が考え終わる前に、リョータが両手を使って私の腰を引き寄せていた……唇を尖らせて。
「……ご褒美ないの?」
「へ?」
「トイレ掃除のご褒美。」
 本来ご飯の時間ではないのにたまたま手元にあったお菓子を分け与えてしまった犬のような感じと言えば全世界に伝わるだろうか?新しい喜びを覚えてしまった犬のように従順な彼は、褒美と言って何かを強請っている。
「……百円あげようか?」
「子供じゃない。」
「言ってることは十分子供ですけどね。」
 結局褒美になるのかどうかは別として、私の許諾なしにリョータの右手が私の首元へと回ってそのままぐいっと持ち上げられる。いつだって必然的に私が少し背伸びをするように彼へと合わせているのに、まるで容赦なく呼吸の隙間を与えてくれない。
「…ちょっと!」
「次なにすればいい?」
「はい?」
 まんまと策略にハマっているのが分かりながらも、もうスイッチが入ったこの男を止められないのを分かっているので取り敢えずまだ手を付けていない家事を口から放り投げない事には自分のやるべき事が進まないような気がして考える。
「……じゃあお風呂洗ってくれる?」
「うん。」
 褒美をもらって取り敢えず今の所満足したのか、彼は再びあの後ろ姿を再掲しながら風呂場へと消えていく。本当に悪い遊びを教えてしまったかもしれない。私の家事の生産性が下がっているような気がしてならない。
 まな板に食材を置いてトントンと切り刻んでいく。フライパンを一度洗って、食材を再び炒めていく。一度皿に置いて出来上がっているおかずが冷めたタイミングを見計らってタッパーに入れていく。
 これが彼の血となり汗となり滋養強壮を高め、私の睡眠を奪っていくのかと思うと何だか妙な気分だ。今日はジムに行かないのだろうか?朝のロードワークだけではこのお化けのような体力は消耗しないので、どうか自発的にジムに行くと言ってくれないだろうか。
 形だけでなくきちんと綺麗にしているだろうかと風呂場を確認しに行くと、足腰を使って風呂の内側からキュッキュッと言わせながらスポンジで風呂を磨いている彼がいて、あぁ……とよく分からない声が出た。
「めちゃくちゃ綺麗に磨いたけど?」
「……そうだね。」
 彼は洗剤塗れになっているその手を蛇口で洗ってタオルで拭き取ると、もう一度私を抱き寄せてぎゅうっと音がなるほどに強く強く抱き寄せる。次の家事を要求された時、私は一体どうすればいいのだろうか。
 強く抱きしめられていた腕がパッと離れて、そしてチュッとわざと音を鳴らせるように唇を啄まれる。三個目の家事の褒美でこの有り様だ、だんだんとその先が恐ろしく思えて仕方がない。
「もうそろそろ休憩したら?」
「まだ終わってないんでしょ?次はなにすればいい?」
 ボールを咥えて持ってきて、そして少し遠くに投げると走ってそれを追いかけて咥えて帰ってくる犬とほぼほぼ同じ姿だ。ドヤ顔をしてそのボールを私の手前に置くと、その対価として褒美を求める、そんな犬とあまりにも似ていないだろうか。
 ちなみにうちの実家の犬の話だ。
「枕と布団干してくればいい?」
「……うん、そうだね。」
 この爛々とした後ろ姿を見るのは今日で何度目だろうか。ちなみに私はまだ目覚めてから三十分も経っていない。
 二人用の大きな布団と、その上に枕をちょんと二つ乗せたリョータが早々にリビングを突き抜けていって、行儀悪くベランダの柵に足を引っ掛けて開ける。とても天気が良く燦々と降り注がれる太陽の下に、昨日私たちが使ったそれを干していた。
 黒板消しをパンパンするくらいには意味のない行為でしかないけれど、彼はパンパンと布団を両手で挟んで叩き上げていく。布団もそんなマッスルに挟まれるとは夢にも思っていなかっただろう。叩かれるごとにペしゃんペしゃんと音を立てて萎んでいく。
「布団と枕干したよ?」
 もうこの展開も数回目なので、なにも分かっていないふりは難しい。今目の前にいるのはゴツい体をしているアメリカ帰りの恋人ではなく、ぷりぷりと小さく可愛げに尻尾を振る子犬だと思うことにして、大事になる前に自分からフレンチな交わりを落とした。
「………そんだけ?」
「それはリョータの主観で、私にとってはこんなに、です。」
「…足んねえし。」
 想像通りの言葉が降ってきたけれど、私にはまだまだやる事が残されている。取り敢えず今すぐジムに行ってくれないだろうか。私が促せば確実に機嫌を損ねるだろうから、どうか自発的に。
「今日なに食べたい?」
「ん〜、オムライス。」
「じゃあオムハヤシにしようか?」
「なにそれ美味そ〜。」
「でしょ?」
 オムライスだけではすぐにカロリーを消費されそうな気がして、その上にハヤシを垂れ流しておくことにする。そうすれば二重にカロリーが上増しされるだろうから。それを消費するだけの運動をしてきてもらわないと困る。
「明日デパート一緒に行こ。」
「……明日?」
「うん、だから今日はオムハヤシ食べても消化できるくらいトレーニングしてきなよ?」
 一瞬リョータは明らかにムッとして、いつものあの形状を見せたけれど私もそんな簡単には怯まない。どうせ今日も休みだ。何もなくスッと寝ることなんてあり得ないし、彼は多分夕方にはまた爪にヤスリをかけるだろう……もう爪がなくなるんじゃないだろうか。
「………今日もお酒飲む?」
「飲みますから。」
 覚悟を決めたようにそう言えば、彼も覚悟を決めたのか、それとも観念したのか少しだけ納得したように私の体を離してから、最後に出し惜しむことなく軽く口付けた。
「オムハヤシ楽しみにしてる。」
「はい、それはもう。」
 健康サンダルの粒が刺さって刺激される足元をもう一度上げて、今度は私の方からその返事をする。
 長くなる夜に備えて、一通りの用事が済んだら私はもう一眠りしようと思う。



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( 2023’06’27 )