白くて、箱のようなこの場所で薬品の匂いが鼻を掠めた。
 閉じ込められているような感覚に陥る閉塞感しかない病室。初めてこの場所を訪れた時に感じた窮屈さを今も尚彼は鮮明に思い出す事が出来る。まるで彼女を牢獄の中に閉じ込めているような、そんな錯覚に陥った。それは錯覚でもなくば本当に彼は彼女をこの牢獄のような場所に閉じ込めてしまったのかもしれない。
 受付を過ぎて一つ階段を上った先に見える、箱の中へと彼は足を踏み入れた。オーブの海に落ちていく赤い夕陽に照らし出された少女が混沌たる表情で魅入っていた。
「……貴方も懲りない男ね、アスラン。」
「そうか?」
「うん、とても。私此処には来ないでと何度言ったか分からない。」
 皮肉めいた笑みを漏らす青葉にアスランもようやく表情を緩めた。「お前も懲りない女なんじゃないのか。」彼がそう言えば彼女はまるで誇らしげにない胸を張って「まあね。」何故か自慢げに言って見せた。
「見舞いの花だ。置いておく。」
 見舞いに訪れて置いて行くにはあまりに貧相な花に最早彼女も驚く事はない。彼はいつだって何処にでも咲いているようなありきたりな花を見舞いの度に持って青葉に渡した。
「相も変わらず貧相な事。まるで私が貧相だとでも言いたげね?」
「捉え方の問題だろ。」
 慣れたように進んでいく会話に二人は淡々と飲みこまれていく。小言を言いながら青葉の手が貧相な花の束を握り、棚の上にちょこんと置かれていた頃合いの花瓶に乱暴に投げ入れた。
「君はもう少し素直になった方がいいと俺は思うがな。」
 本来の彼女の姿を、少し前にあった青葉の在りし日の姿を、未だ瞼の裏に焼きつくその眼差しの向こうで見比べながら彼は言った。対する青葉はそんな彼の助言とも取れる言葉に失笑したように、でも呆れた笑みを垣間見せた。
「…此処にもう来ないで欲しいっていうのは私の素直な願望なんだけどなあ。」
 まるで自分を嘲笑っているようにもとれる彼女の笑みの向こうに、アスランは少し昔の事を思い出していた。
 アスランが青葉と出会ったのはまだ彼が月に住んでいた頃の事だった。キラと同様に彼女は彼にとっての幼馴染といえる数少ない存在だった。一度は敵対し、和解したのがこのオーブの地だった。彼女はオーブ軍の軍人として立派に機体を操縦する女パイロットだった。もちろんそれはアスランやキラに及ぶ力ではなかったけれど、それでも彼女は目的の為に力を振るっていた。
 アークエンジェルの軍人にとっても、アスランと青葉が共闘しているというのは“種族の壁”を隔てたという礎になりつつあった。ナチュラルとコーディネーターが共存していけるという、大きな望みに違いなかった。しかし彼女が戦の中で傷を負った事で全ては一転したのである。
「私、コーディネーターは嫌いなの。」
「俺を俺としてではなく、お前はコーディネーターとしてしか俺を見れないのか。」
 何度となく耳にしたアスランの言葉が青葉の耳元を掠り、通り過ぎていく。彼女は少し考えるようにして黙り込んでから、やはり自嘲めいた薄ら笑いで口を開いた。
「…そうよ。」
 そしてやはり何度となく耳にした青葉の言葉がアスランの耳元を掠り、通り過ぎていく。それは何度となく交わされた二人の日常的な会話だった。
「私は貴方が憎い。それもそんじょそこらの憎さじゃなくて   死ぬほど、よ。」
 付け加えるように青葉は言葉を選びながら告げる。まるでアスランを故意に傷つけるような、そんな言葉で。しかし彼の心は折れない。最早そんな言葉は通用しないと言わんばかりに余裕風を吹かしたように、清々しいまでの彼の顔が覗いていた。
「そうか。俺も嫌われたものだな。」
「今更?もうとっくに知っているものかと思ったのだけど。」
「それはすまなかったな。」
 大して悪気のない言葉が病室に木霊した。こんな意味もない会話を一体今までどれほど繰り返しただろうか。しかしアスランがこの病室を訪れる事を辞めなければ、青葉も対抗するように口を開けば小言を漏らした。貴方が嫌いだ、と。
「私がコーディネーターだったら今こんな所で伏せってなどいなかった。ナチュラルに生まれてしまったが為に負った私の弱さが尚私を弱くさせたんだから。
    だから私はコーディネーターが羨ましい。私もそう、生まれたかった。」
 そう言っておきながらそんな事を今更どうにか出来る訳ではないと知っている青葉はやはり自嘲めいて乾いた笑みを浮かべた。
「…俺はコーディネーターに生まれてよかったと思った事はない。」
「そんなの知ってる。だから私は貴方が嫌いなんだから。」
「もし自分にこんな力がなければ、見なくてもいいものもあったんだと思う。」
「力を持ちながらも目を背けるのはただの逃げでしょ?」
「……そうかもしれないな。」
 終わった戦の後に待ち受けていたのは疑う程に平和なこの世界のありさま。そして、癒えぬ傷跡。戦場に出るにはあまりに幼すぎた彼らに残された傷はきっと本当の意味で言える事は一生ないのだろう。それは青葉にしても、もちろんアスランにしても同様に。
「でもお前はちゃんと役目を、自分の意志を最後まで通したじゃないか。」
 青葉はその言葉を境に黙り込んだ。最早海に沈み切った赤い夕陽を探す様に窓辺に視線を移し、そこから動こうとはしない。
「俺はこうして、ちゃんと生きてる。」
 少しだけまた大人らしくなったその体を彼は軽く押さえ、青葉に見せつけるようにしてそう言った。彼女は恐る恐る目を向けたけれど、やはりすぐに窓辺へと目線を移した。まるで何かから逃れようとしているかのように。
「…青葉。」
 諭す様に呼ばれた名前に青葉はようやく、あどけなく気の緩んだ本来の姿をアスランの前に映し出した。酷く不安に揺れるその瞳が、波を打ったように滲みだした。
「私は大切な人を守れる力が欲しかった。」
 アスランを庇うつもりで動いた結果、青葉は傷を負い、そしてアスランも同じく傷を負った。それはどうしようもない事に近いなかったけれど、青葉には酷く深い傷を残してしまった。コーディネーターに対する憧れと、妬みと。ナチュラルである事への苛立ち。本当はそんな事ただの理由でしかないと、青葉自身知っていたのかもしれない。
「そんな人がアスランだなんて我ながら馬鹿馬鹿しい。」
「随分と嫌われたものだな、俺も。」
 ようやく青葉は何の柵もなく年相応に笑って見せた。「じゃあ、また明日。」そう言って病室を去っていくアスランの背中に「馬鹿。だから来ないでって言ってるじゃない。」お決まりのように投げつける。
 消える事のないこの傷跡が、少しだけ愛おしくなって彼女はその傷をそっと撫でた。

箱庭の楽園
( 20110420 )