四月と言えば真っ先に春という単語が脳裏を掠める。しっかりと四季が存在する日本で、日本人にとってそれは息をするくらい当たり前の事なのかもしれない。四月と言えば春、春と言えば桜、桜と言えば………昔にこんなクイズが流行ったような気がする。桜と言えば暖かいと出てきそうなものだが、そんな想像を裏切るように、桜が咲くこの時期は時折ほんのりと寒い。三月下旬から四月上旬にかけて“花散らしの雨”がよく降るからだ。 委員会の仕事を終えて教室に戻ると、既に人影はない。 多くの生徒は部活動に所属しているので、この教室の静けさはある意味健全な状態なのかもしれない。私のように、どの部活にしようか熟考している間に仮入部期間が終了していた帰宅部以外は、楽器の音を響かせたり、体育館をキュッキュと鳴らせたり、グラウンドの土をザッザッと巻き上げたり様々な音を奏でる。それを教室の中から少し遠巻きに聞くのが好きだったりする。 クラス替えをして間もない新学期。初回の席替えは廊下側の前から三番目、最終学年に上がって三日目、私にとって今日は新学期最初の日直当番だ。学年が上がって二階から三階へ教室が変わっても、少し遠巻きに聞こえるあの音は変わらず響いている。 不思議なもので、全ての音が重なるとそれは私の中で心地のいいメロディーとなって吸い込まれていく。シャープペンシルを揺らしながら肘をついていた私を、眠りに誘うかのように。 あッ、 はっきりする視界と、記憶と。肘をついた右手に乗せていた顔ががくんと前にずれ込んだ。こういう時、今寝てた?と自分に問いかける事がある。問いかけいてる時点でそういう場合は千パーセント寝ていると相場は決まっている。 心なしか少しだけ体が軽いような気がして、そして学校でしか見ないような薄黄緑色をしたカーテンの先に広がる景色が薄暗い。一体日誌を書きながらどれだけ眠っていたのだろうか。心配になって時計を見ると、然程時間は経っていないようだった。 断片的でそして薄らにしか残っていない記憶を辿りながら残りの日誌を埋めて、職員室にそれを持っていく。すれ違う生徒たちは、皆傘を持って足早に校門へと向かっているようだった。 心の中で、先ほどと同じく短く、あッ、と呟く。 教室にかかっていた時計が狂っていた訳でもなくて、私が驚く程長い居眠りをしていた訳でもなくて、どうやら雨が降っているらしい。春の天気は変わりやすいとは言うものの、つい先程までの春日和が信じられないほど空が淀んでいる。 運動部も既に引き上げているのか、辺りを一通り見渡しては見るものの、見知った顔を見つけることはできない。 「。」 下駄箱の前で佇む。心も、佇む。皆が当たり前のように手にしているそれを、私は持っていないからだ。先程心の中で短く呟いたのはその事な訳だけれど、大袈裟に驚く程ではない。全くもって同様の事を何度も経験しているという実績があるからだ。こんな不名誉な形で実績という言葉を使っている試しは未だかつて聞いた事がない。 「おわ、宮城くんか。」 「おわってそれどんな感情だよ?」 「誰もいないと思ってたから吃驚した。」 「傘、忘れたの?」 傘を持っていないという隠しきれない事実がどこか恥ずかしくて、咄嗟に言葉が出てこない。けれど、周りの傘の保有率を考えると恐らくは今日の天気予報で急な天気の乱れは事前に把握できたのだろうと思う。 「天気予報みるの忘れちゃって、」 「ふうん。」 悪足掻きでしかない言い訳を捻り出してはみたけれど、そこには私を肯定する言葉も否定する言葉もなく、感情のよく分からない返答だけが無機質に響いている。彼とは一年生の時に同じクラスだったものの、よく喋るという程の仲でもない。三年生になって一年ぶりに再び同じクラスになったという、近いようであまり近くないクラスメイトの一人だ。 「帰ろうよ、雨もっと酷くなるらしいから。」 「……え、っと、ん?」 「俺の傘に入って帰る?って聞いてるんだけど。」 「えぇ…?日本語なのに通訳が必要な感じ?」 「嫌ならしょうがないけど。」 「寧ろすごい助かるけど、ほんといいの?」 駄目だったら声かけてないでしょ、そう言って宮城くんは大きめの傘を広げて少し先で立ち止まってこちらを振り返った。慌てて上履きからローファーに足を通して、その大きな傘を目掛けて小走りで駆け寄った。 時折沈黙が気まずいような気がして、いくつか無意味な質問をしてみるとそれに宮城くんは律儀に答えてくれる。けれど大粒で勢いのある雨が傘の上で弾け飛ぶ音に相殺されて半分は聞き逃してしまった気がする。想像以上に宮城くんの声は小さいのかもしれない。 「天気予報とか普段から見ない人?」 「朝弱くてギリギリまで寝ちゃうから。」 「あ〜、なんかイメージつく。」 「え、それ全然嬉しくないやつじゃん。」 私がなんとなく言ったその言葉に、宮城くんは独特な「ふはっ」という笑い声を漏らした。彼のツボがどこにあるのかはよく分からないけれど、一年生の時も宮城くんはこういう風に笑うんだなと同じように思った気がする。あまり頻繁に見られるものではない分、なんだかそれがすごく尊いような気がした。笑うとエクボが出現するのは今日初めて知った収穫だった。 「が傘忘れるのって超有名じゃん。」 「なにそれ。」 「多分だけど全員知ってるレベルの。」 「よく忘れるのは事実だけどそこまで?」 「そう、そこまで。」 そこまで有名だという事実は知らなかったけれど、宮城くんの虚言とは到底思えない。実績というものは物事を裏切らない。裏切るのは私が私自身に持っている期待だけだ。いかに私がずぼらで鈍臭いかを学年中が知っているという事になる。それを三年間本人が知る事なく過ごしてきたのだから今更ながらも究極に恥ずかしい。 「だからもっと早く一緒に帰れるかと思ってた。」 今までの恥を震えながら受け入れている最中に、また新しい情報が追加される。情報過多、情報の錯綜、混乱混乱……一周回っても残ったのは混乱だ。私の脳裏には言葉数の多くない宮城くんが存在している中で、実際の彼は割と突拍子もない事をへろりと言ってのける。声は小さいけれど。 「そのタイミング待ってたら三年目になってた。」 「…これも通訳が必要なやつ?」 「いらないでしょ、てか分かるっしょ。」 「理解力の乏しさには自信がある方だから。」 「そういう自信の持ち方は初めて聞いたわ。」 言って、もう一度宮城くんの、あの独特な笑い声を耳にする。あまり接点がないクラスメイトという肩書きはさっきと何ら変わらない筈なのに、その控えめな笑顔は不思議と私も少しだけ幸福な気持ちにさせてくれる。滅多に見られないからこそ、特別感があるのかもしれない。 「じゃあさ、今日のお礼に一個お願い聞いてよ。」 「お礼を強請っちゃう?」 「たまには強欲に行こうと思いまして。」 「ふうん?」 どんな事を要求してくるのだろうか。自らお礼を願ってくる人を今まで見た事がないので想像が付かない分、余計にどきどきする。強欲と言うくらいなのだから壮大で果てしない事を言うのだろうか。神や仏ではないので、私が叶えられる範囲のものにして欲しい。 「今年のインターハイが終わったら、俺の彼女になってよ。」 宮城くんの口元を凝視しながら出てきたその言葉に、一瞬理解が追いつかず立ち止まる。パラパラと雨を頭上に感じると、すぐに大きな傘がこちらに歩み寄って再び大きな雨音が弾けている。こういう時に限って、ひどくはっきりと耳に残る程鮮明に言葉が入ってきた。 「……今じゃないんだ?」 「俺キャプテンだし、今年最後の夏だから。」 「そういうのって普通事前予告しなくない?」 「だって俺の事今はよく知らないでしょ。」 「……まあ、それはそうだけども。」 「それに、ツバはつけときたい。」 さっきまで会話の半分は雨音にかき消されてよく聞き取れなかった筈なのに、自分でも驚くほど鮮明に全ての言葉が耳から体内へと滑り込んでくる。今日の宮城くんには驚かされてばかりだ。 大きな傘の中でした会話に、彼の独特な笑い方に、今日初めて見つけた愛嬌のあるエクボに、大胆すぎるその言葉に、私は惑わされっぱなしだ。 「だからそれまでに俺の事ちゃんと知ってよ。」 今までただのクラスメイトでしかなかった宮城くんが、自分の中で存在を大きくしているのが分かって反応に困る。告白はいましているくせに、付き合うのは夏なのだと彼は言う。その数ヶ月という時間をかけて、私は恐らく宮城くんの事を考えるのだろう。それは今すぐに付き合って欲しいと言われるよりも、もしかするととてつもなく効果の強い言葉なのかもしれない。言ってきたのは宮城くんの方なのに、まるで私が宮城くんの事を好きだったような気持ちになるのだから不思議だ。 「帰ろ、家まで送ってく。」 「…宮城くんってさ、」 「ん〜?」 それはあくまで希望ベースであって、けして押し付けがましくなくて。だから自分の事を知って欲しいと言っておきながらそれに対する答えは求めて来ない。それがとてもいい距離感であって、そしてどうしようもなく狡い。そうして私を思考させることで、既に私の中にしっかりと宮城リョータという存在が育ちはじめているからだ。 「やっぱいいや、なんでもない。」 「なんだよそれ。」 「宮城くんの夏が終わったら言う。」 もう既に自分の中で答えが出ているような気がして、なんだかそれが気に食わない。気に食わないくせに口角が上がっている自分がもっと気に食わない。だから、私もと最後に意味のない悪足掻きをしてみせた。
花散らしの雨 |