宮城と特別仲が良かった、という訳ではない。良いか悪いかで言えば悪くはない。それくらいのただの同級生で、クラスメイトだ。二年連続でクラスが一緒なので席が近いとたまに喋る事があるくらいで、その他多くいるクラスメイトとの差分は特にない。

 木曜日。
 私は大きなサンドウィッチを持って登校する。
 これは一ヶ月前から私にとって毎週の恒例行事になっていて、いつもよりも十五分だけ早起きをして具材をぎゅうぎゅうに詰め込んでいく。あとは躊躇なくスパンッと包丁で上から押さえつける。ぎゅうぎゅうにしているのは、せめて見た目だけでも綺麗にしたいという思いからだ。胸をつくる時の要領と同じだ。盛れる。
 毎週木曜日、適当な理由をつけてクラスメイトの友人との昼食をやんわり断って向かうのは、校舎のひっそりと薄暗い階段へと続く屋上だ。
 人が居ないと見せかけて、実は格好の隠れ場という漫画やアニメの世界で世間に知れ渡っているその情報は案外特例という訳ではないようで、湘北高校の屋上は少なくともある程度身を隠すには適切な場所らしい。
「お〜い、待った?」
「女子の会話が長いってのは知ってる。」
「…付き合いがあるんだよ、こっちも。」
 これまでほぼ毎日同じ友人たちと昼食を共にしていたのだから、抜けるにしてもそれなりの理由や大義名分は必要だろう。なんとかそれをすり抜けてここにきている訳だが、これも四度目だ。次はどんな理由をつけようか、そんな事ばかりが頭を過ぎっていく。
「はい、これリョータの。」
「ん、あんがと。具は?」
「具っておにぎりじゃないんだからさ。」
「気になんじゃん。」
「ゆで卵をマヨでベトベトにした卵サンド。」
「ネーミングセンス天才だな。」
 自覚している。こういう時、妙な照れ臭さが私を素直にはさせてくれない。もっと可愛く言えればいいのにと思ってはいても、それが出来るか出来ないかは生まれ持った才能みたいなもので、きっと私にそれは備わっていない。
 屋上へと続く扉を死角にした奥まった場所にいたリョータの隣に腰を下ろして、ハイ!と分厚いサンドイッチがラッピングされている袋を手渡す。
「サンキュ。」
「うん。」
 まだ名前を呼ぶ時に違和感が残って、いちいち自分の表情が固まっているような気がしてならない。一年生の時からクラスメイトだった宮城が、私の中でリョータに変わったのはちょうどこの屋上にくる様になってから、今から数えて一ヶ月ほど前の事だ。
「さみ〜。」
 もう間も無く春が来て、高校生活も最後になる。次も同じクラスになるんだろうかなんて考えていたら、完全にあらぬ方向を見ながらよそ見をしていた私に「ねえ」と一言声をかけて、大して冷えていないリョータの体温がふわりと重なった。
「そんな寒いかな、来週桜の開花だよ?」
「沖縄に比べたらさみいの。」
「その割にリョータっていつも軽装だよね。」
「着込んでんのダッセェだろ。」
「え〜?全然ダッセェくないと思うけど。」
「いいじゃん、本人さみいって言ってんだし。」
「……ん、そっか。」
 寧ろリョータの方が私なんかよりよっぽど暖かくて、春に向かって暖かくなりつつある気候の中でもほんのりと肌寒さを感じる私の頬やブレザーの上から熱を伝わせた。
 今までなんの予兆もなくただのクラスメイトとして過ごしていた私にとって、この状況は一ヶ月が経過してもまだまだ違和感とこそばゆさが強くて、どうしていいか分からない。距離感が近くなったなんて生ぬるいものじゃなくて、ゼロが突然百になったようなものだ。助走をつけてみるとか、リョータにそういう概念はないらしい。
「つうか普通察さない?」
「なにが。」
「てか察せよ。」
「え〜?」
「ほんとは分かってるだろ。」
 そうだ、本当は分かってる。全然鈍感なタイプではないし、何なら気づかなくてもいいところにまで気づいて損をするタイプの性分だ。でもそれは性分なので変えることが出来なくて、私の性格との親和性が低い。察していても、自分から甘えたりするのは何だか気が引けてしまう。何より、どう甘えるべきなのか恋愛に関しては一年生の私に分かる筈もない。
「……そういうのさ、確認しないでもらえる?」
「自分が言ったんだろ、突然しないでって。」
「そうは言ったけど、そうじゃないじゃん……」
 私が想像していたよりも、リョータは結構スキンシップをとってくるタイプで、突然すぎる!と言えば「自然の摂理だから、これ」なんて、平然とした顔で言ってきたりするので本当にやめて欲しい。心臓がひとつしか与えられなかったのは、完全に設計ミスだと思う。
 クラスメイトでしかなかった頃のリョータはもっとクールで、あまり自分の感情をストレートに表現しないイメージがあったけれど、私が見ていたのは別の時空の話だったのだろうか。それほどに、感情に素直で正直困る。週一度の木曜の昼休み、リョータはしっかりと私の彼氏になる。
「ならいい加減慣れろって。」
「荒治療すぎない?」
「それくらいの方が治り早いっしょ。」
「寧ろ傷開いてる気がする。」
 リョータの膝の上に乗っている袋を取り上げて、中からサンドウィッチを取り出す。食べるという選択肢以外を潰すように、サンドウィッチのラッピングを外しながらもう一度リョータの前に差し出した。
「取り合えず有り難く召し上がってください。」
「へいへい。」
 諦めたリョータは、あむっと大きな口を開いて卵サンドをほうばった。パンパンに詰め込んだせいか、パンから卵が溢れ出てしまっている。卵を片手で掬って、ぺろりと食べるそんな光景を見ていて、本当に唐突にリョータは私の彼氏なんだなとそう思う。
 私の中で、リョータと付き合っているこの現状は完全に想定外の出来事だった。今でもたまに、これが現実なのかどうかよく分からなくなる。





 その時は突然やってきた。
 放課後、体育館前の自動販売機でお気に入りのミルクティーを買っていた時の事だ。ガコン、と音を立てて落ちてきた暖かい缶を取り出す。体育館からはキュッキュとバスケットシューズが床に擦れる音がして、何だか心地がいい。風に晒され随分と冷えてしまった両手をミルクティーに擦り付けるように暫く視線の先の体育館を見ていると、少し下方で視線を感じて目線を寄せる。
「なんだ宮城か。」
「何だじゃねえっしょ。それこっちの台詞。」
「なにやってんの?」
「部活だろ。」
「あ、そっか。」
 宮城がバスケ部である事も、あの名門の山王工業に勝利した事も、その後キャプテンになったのも全部知っていたのに、こうして彼が部活をしているのをそう言えば見たことがないのだと思い出す。あくまで私の知っている宮城はバスケ部のキャプテンというよりは、少しクールなクラスメイトでしかなかったのかもしれない。
「バスケ部に好きな奴でもいんの?」
「そんなベタな……、飲み物買いに来ただけ。」
「ふうん。」
 少し距離を置いて体育館の中を見ていた私に対して、宮城は床にバスケットボールを置いてその上に両腕で重心を掛けながらしゃがんで私を見上げている。その体勢って普通女子が男子に使うやつなんじゃないだろうかと喉まで上がってきて、少し温くなったミルクティーで飲み込んだ。上目遣いの無駄遣いだ。
って俺の事嫌い?」
「え〜、なに突然。全然嫌いじゃないけど。」
「じゃあ好きって事か。」
「随分都合いい解釈だね。」
 宮城にしては随分と果敢に攻めたジョークだなと思った。その意図も分からないし、体育館でバスケ部を見ていた私を揶揄っているだけに違いないと、そう何故だか決めつけたように私は割と冷静だ。だから、その分だけ衝撃が大きかったのかもしれない。
「俺が好きだからその解釈の方が得じゃん。」
 一瞬なにを言っているのか分からず、あ〜確かにと納得しかけて、一体私はなにを納得しかけていたのか全く分からなくなる。ものすごく重要で、かつ大胆な事を割とウィスパーボイスで言ってのけたけれどこれはどこまで本気なんだろうか。
「じゃ、俺部活だから。」
 ほんの一瞬、私が宮城とそう名前を口にしそうになったのとほぼ同時に、多分見計らっていたのであろうその絶妙なタイミングで私に言葉をぶつけて相殺してきた。断ることも、喜ぶことも、追加でヒアリングをかける事もなに一つ許してはもらえなかった。
 暫く放心して体育館の向こうを見ていたけれど、あまり覚えていない。ただ、号令を掛けてキュッキュと心地のいいバッシュの音が宮城目掛けて一瞬にして集まってきたのを耳が覚えていた。





 翌日、何食わぬ顔で教室に入る。一番乗りだ。ちなみにこの二年間ほぼ無遅刻無欠席、テストの点数以外で優秀なのは多分これくらいなものだが、それでもお世辞にも褒められる程早く来ている訳でもない。そんな状況下での一番乗りなので、そういう事だ。
 時間が経つのが異様に遅い。静寂な教室の秒針が酷くカチカチと耳についた。授業中にそんな些細な音を気にした事などなかったのにどうかしている。でも、よく考えたら割と寝て過ごしている事が多いので知らなかっただけかもしれない。

 結局私が早く来たという行為にあまり価値はなかったようで、私が待ち構えていた宮城は朝ホームルームを知らせるチャイムの数分前にやってきた。本当になに食わぬ顔でだ。
 昨日あんな事を勝手に言い残して置いてなんて図々しい!と感情を昂らせて、冷静に朝練があったのだという少し頭を捻ればわかる事を今になって気がついた。どこにもぶつける事のできないこの感情を一体どうしたらいいのだろうか。自分が不憫で仕方がない。

 休み時間になる毎にじっと視線を送ってみたけれど、宮城が私を気にしている様子はない。一時間目終わりの休み時間はすやすやと眠っていたようだし、二時間目の終わりもすやすやしていたし、三時間目の終わりもすやすやしていた。
 多分、少しだけ安田くんと話していたくらいで、あとはずっとすやすやしていた。昨日のあれは改めてなんだったんだ。揶揄われていないというのなら、あまりに誠実さに欠けるだろう。
「ねえ。今日学食で食べる感じ?」
「そうだけど。」
「サンドウィッチって好き?」
「は?普通に好きだけどなに……」
 普段割と受動的で、自発的な発言や行動をしない私にしては相当強引だったという自覚はあった。けれど、確認しないことには平穏な高校生活が送れない。フィジカル的な意味で。つまりは自分のメンタル面が想像以上に強くないということなんだろうと思う。
 無駄に早起きしてせっせとサンドウィッチを作ったのには理由がある。
 私は料理が出来ない。けれど、昨日のあの発言がなんだったのかを確認しないことには私に安眠はない。けれど、必ずしも同じクラスだからと言って話す機会がある訳でもないと想定して唯一挟んで包丁を入れるだけで出来てしまうそれを餌に釣竿を垂らした私は、ある意味で慎重派なのかもしれない。
「昨日のなに?」
「あ〜、あれね。言葉のまんまなんだけど。」
「唐突すぎでしょ。」
「取り敢えず腹減ってるんだけど、貰える?」
 なぜだ。どうしてこうなっている。実質好きと言われたのは私の筈なのに、私が終始落ち着きなくあわあわしていて、宮城はいつも通り腹が立つ程に平然としている。何なら餌にしていたサンドウィッチまで要求されている。
「でも嫌いじゃないんでしょ?」
「そりゃもちろん嫌いじゃないけど……」
「嫌いじゃなきゃいいじゃん。」
「それとは違うし、色々あるじゃん。」
「じゃあ聞くけどさ。」
 嫌いではない事をどこまで引用して汎用しようとしているんだろうか。悪い冗談だったと言ってもらった方が幾分も納得もすれば、心も今すぐに落ち着いてくれる筈なのにまだ私にこの人は追加聴取しようと言うのか。
 問い詰められた無実の人間が、ありもしない罪を認めてしまうとドラマで言っているけれど、それはこの心理状態に似ているのだろうか。好きと言われた筈の私の方が精神的に追い詰められているこの状況はどう考えてもおかしい。
「好きになるのゼロじゃないって事?」
 絶妙に交わせない言い方をしてくる宮城は、もしかしたら言葉の魔術師なんだろうか。精密に練られていたくらいになんとも絶妙で、私の次の言葉を阻んでくる。恋愛感情としての好きじゃないのかと聞かれたらすぐに出たであろうその返答は、質問の仕方によって全く変わるものらしい。これを無意識でやっていたとしたら、相当ご立派な文学者にでもなるんじゃないだろうか。
「そりゃゼロじゃないだろうけど………」
「ならそれでいいよ。」
「質問に対する本質的な回答じゃないんだけど。」
「ほぼ一緒でしょ、たぶん。」
 ほぼ一緒のようで、ほぼ一緒じゃなく別物なのだけれど私はついに言い返すことが出来ないでいる。どうしていいか分からなくて、ペリペリとサンドイッチの皮を剥がしてかぷりと齧り付く。よく分からなくなったら、取り敢えず他の行動で打ち消すくらいしか方法はないのだから。
 そんな私を見て、宮城も私を真似するように薄っぺらいサンドウィッチにかぷりと齧り付く。中身の具材を噛み締めてから、好きなやつだわと言って、より私を動揺の渦へと貶めていく。人たらしってこういう男のことを言うんだろうか。
「だって宮城、彩子の事好きじゃん。」
「うん、好きだよ。」
「ほら、やっぱりそうだ。」
「でも今はが好きなんだけど。」
 トントン拍子に会話が進んでいく。そして当たり前のように宮城が私を好きだと言う。これはどんな世界線なんだろうか。確実に私が知っている記憶では、宮城はクラスメイトの彩子のことが好きな筈だ。それはクラスメイトであれば私だけでなくほとんどの人間が知っている事でもある。だから、私はこんな事態を想像にもしていなかった訳だ。
「だから付き合ってよ。」
 望んでいたのかどうかは正直よく分からない。
 けれど、根本的な事を考えた時、自分の思考の矛盾に触れて気付いた。そもそも宮城の申し出や感情を真っ向から否定するのであれば、私はここまで悩んでいるはずがないという事実。宮城の表現次第で、私の中で宮城が彼氏になる事があり得ないものではないという認めざるを得ない現実。
「……わかった。」
 結局、私もこの距離感だったり、そもそも宮城のこと自体が多分好きだったのだろうと思う。





 私たちはそれから付き合いを始めて、そして今日までそれを継続している。私の中で彼は宮城からリョータに変わって、クラスメイトの一人から彼氏に変わった訳だけど、全てが変わった訳ではなく以前と変わらない関係も持ち合わせていた。

 付き合う事になった時、私はひとつだけリョータに約束を求めた。
 付き合っている事は暫く秘密にして欲しいという依頼だ。これから晴れて付き合おうと言っている最中のこの言葉に、リョータは些か気に食わないようだったけれど、それでも私も特別怯むことはしなかった。
 リョータが彩子を好きだという事は私に限らず、クラスメイトにはあまりにも有名で知れ渡った事実でしかない。そんなリョータが私と付き合ったとなると、色々と面倒な展開が今から想像出来て思いやられる。
 そもそも、お互い彼氏や彼女が出来たからと言いふらして悦に浸りたいタイプという訳でもない。付き合っている事実を捻じ曲げる訳じゃないし、事実が変わる訳でもない。私たちが良ければそれでいいじゃんと言えば、返す言葉がなかったのか渋々納得したリョータからの返事はなかったけれど、否定の言葉も特になかった。
 間接的に彩子に迷惑がかかりそうな気もしていたので、リョータが物分かりのいいタイプで良かった。
 私からの依頼に対抗してか、リョータも負けじと依頼返しを実行してくる。土日も基本的には部活が中心の生活をしている以上、一緒にいる時間がないので、週に一度曜日を決めてここで一緒に昼食を取ること。そんな小学生のような可愛い依頼が飛んでくるとは思っていなかったので、許可せざるを得ないだろう。
 そこから毎週木曜日が私たちの時間になっている。

 ネーミングセンスが天才と評されたパンパンに詰め込まれた卵サンドを食べ終えたリョータを見ると、私の視線に気付いたのかその視線を拾って視線が重なる。また察しろと言われるのだろうかと構えていたけれど、今度は不思議そうに私を見ているので少し拍子が抜けた。
 座ったままお尻ひとつ分だけリョータの隣に移動して、ばっちりとセットされている髪に触れてみる。ワックスで固められているその髪は先行していたイメージと逆行して、とてもふわふわと柔らかい。一本一本の髪の毛が猫っ毛でとても柔らかくて、思わず撫でたくなるような触り心地だ。
「……意図がわかんねえんだけど。」
「察しろって言われたから。」
「なら全然察してねえじゃん。」
「え〜?甘えたかったんじゃないの?」
 お互い住んでいる場所が近くない事もあるし、土日にゆっくり時間をとって会えるほど時間に余裕がある訳ではない私たちにとって、木曜日は特別な環境だ。寧ろこの週に一度のこの数十分の間を除けば、私たちはほとんど以前までのクラスメイトの関係性から変わっていない。用事があれば会話はしても、不必要じゃない程度に、必要最低限に留めて。リョータは、宮城に戻る。
「察知能力ゴミだろ。」
「そんな?」
「逆だっての、甘やかしてえんだよ馬鹿。」
 もう一度私の耳元で馬鹿と聞こえた気がするけれど、その後すぐにぐいっと引き寄せられてリョータの態度と見合わぬ鼓動を聞く羽目になる。この音に私の鼓動もつられたように連鎖反応を起こしているので、きっと二人して寿命をすり減らしているんだと思う。





 タイミングをずらして屋上から教室へと戻る。
 私が先に教室に戻ると、昼食を終えた友人たちが歓談タイムに突入している。雑誌を手にしながら、あ〜でもないしこ〜でもないと言っているのを見ると、案外世界は平和なんだなととても俯瞰的にそう思う。
 何事もなかったようにその輪の中に戻っていくと、暫くしてリョータも教室へと戻ってくる。ちょうど雑誌を広げていた友人の机がリョータと隣り合っていて、着席したタイミングで何も知らない友人が口を開く。
「あ、宮城〜!」
「なに?」
「男子目線だと、どの色が可愛い?」
「どれ?」
 首だけをひょいと突き出してその雑誌に目をやるリョータを見て、無駄に心拍数が高くなる。何も悪い事はしていない筈なのに、関係を隠している事がイケナイことをしているような気持ちにさせるので心臓に悪い。ここ最近、心臓孝行が出来ていないので申し訳なく思う。
 毎週木曜日の昼に限定してリョータと過ごすようになってから約一ヶ月。お互い多くを語るタイプでもないし、割と沈黙も多い。でもそれは居心地の悪い沈黙ではなくて、お互いが隣にいる事を感じ取って満足できているような感覚でまるで違和感はない。
 だから、何故私の事を好きになったのか。そんな根本的なことを聞いたことはなかった。付き合っている訳だし、私の事を好きだという事実はしっかり付き合う前に聞いているのでそれだけで私は満足だが、立ち返ってみると本当にどこを好きになったんだろうか。七不思議のひとつに数えてもいいんじゃないだろうかと思う。
「カーキがいいかな。」
「え〜?ピンクとか黄色じゃなくて?」
「断然カーキ。」
「まじか、でもなんでカーキ?」
 カーキ、好きなんだ。二年間もクラスメイトとして接してきたけれど、改めて私はリョータのことを何も知らない。何故私のことを好きになってくれたのかも知らないし、リョータ自身のことも何も。今ひとつ、カーキ色が好きらしいという情報だけ得ることができた。
「俺の彼女に似合いそうだから。」
「え、宮城彼女いたの?」
「いるよ。」
 私との約束を守りながら、随分とギリギリのところ攻めているけれどこれは私への攻撃なんだろうか。だとすれば、私のエイチピーはほぼないに等しい。息が詰まって、うまく呼吸ができない。とても、苦しい。
「初耳なんだけど!てか誰?」
「ん〜?秘密。」
 ぎゃあぎゃあと周りが騒がしい。一方で爆弾発言を投下した当の本人は平気な顔をしている。とても悔しい。こんなことを言われたら、もう私を好きになった理由なんてどうでも良くなってしまうからだ。ずるい。
 人たらしな彼氏を持った私の心臓は、やっぱりひとつじゃ足りないらしい。  



春になる / 2023’03’11
BGM:きらり/藤井 風