その夜、は中々寝付くことが出来ずにいた。
 最近の京の街は、浪人が闊歩しているのとは訳が違い明らかに戦場へと巻き込まれそうな雰囲気があった。にとっても、それは怖くない訳ではない。いつふいに命を奪われてもおかしくない状況に自身が身を置いている事は彼女にも痛いほど分かっている。けれど、彼女が本当に恐れを抱いているのは、また別のことだったのかもしれない。
 ようやく暖をはぐくみ始めた布団を剥がしては寝床から立ち上がる。特別することもなければ、暇をつぶすだけの何かがある訳ではないがどうにもこのまま布団に居ても眠れないような、そんな気がしていた。
 寝巻き姿のまま、は襖を開けて長い廊下を歩いていく。こんな所を土方にでも見つけられたら怒号が飛んでくるのだろうなと思いつつ、なんとなく人事のように思いながら足を進めていく。
 幹部隊士の部屋に、灯りが付いている。二つ、点々と薄暗く照らされていた。一つは誰がどんな気遣いの言葉をかけた所で眠ることなどせずに仕事に追われる土方の部屋だ。は足音を潜ませ、そして陰も悟られぬように慎重に彼の部屋の前を過ぎていく。ここで下手を打てば、怒号が飛んできて彼女の冒険はそこで終わりを見ることになるのだから。
 なんとかそんな怒号を耳に通すことなく、はもうひとつ明かりの灯っている部屋の前へとたどり着き、足を止める。特に、何の用事がある訳でもなかったのだから起きている事を知ったところではそこで特に何をするでもなく、立ち止まっていた。この部屋にいる彼も、寝付けないでいるのだろうかなんて思いながら。
「覗きか。こんな時間に。」
「ううん。左之さんの部屋、明かりが灯ってたから。」
「なんだ、眠れねえのか。」
 もう一つの明かりが灯っている部屋の前で、はいつもと違う原田の姿を目にしていた。硬く結っているはずの程よく伸びている髪をそのままに、寝巻き姿で襖を開けた彼の姿には一度面食らいながらも、尋ねられたことに対しての返答を紡ぐ。もしかすると彼も、何か思うことがあって眠れなかったのだろうかと都合よく、彼女自身と同じ境遇に当てはめて。
 正面の部屋にも一つ明かりが灯っている事に気づいた原田は、柄にもなく声を潜めての手をひいて、言葉を紡ぐ。
「こんな所居たらあの人に何言われるか分からないだろ。」
 そう言って、手招きしてを部屋へと呼び入れる。そんな彼の言動に少し戸惑いながらも、結果的にそうするしかないは手招きのままに彼の部屋へと足を踏み入れ、音を立てぬよう静かに襖を閉じた。
 自ら訪れ、足を踏み入れておきながら何を話していいのか分からない感情に彼女は襲われる。見つけた明りに群がる虫のように、ただただ近寄ってきただけだったにとっては目的がない。普段であれば、何も考えずに彼と話すことが出来るもこのときばかりはいつもと違う雰囲気に飲まれていた。
「何だよ、お前から来たのにだんまりか。」
「別に左之さんの部屋に来ようと思って、来た訳じゃなかったから。」
「そうだとしても、男の寝床に来るってお前意味分かってるのか。」
「まあ、分かってはいるけど。他意はないよ。多分。」
 原田は少しあきれたかんばせを覗かせながらも、と違いいつもと変わらず彼女に接する。少し冗談交じりに話を進めながら、眠れない理由についての追求もしない。そんな環境が心地いいと知っていたからこそ彼女も無意識に彼を求め、彼の元へと訪れていたのかもしれない。
 彼は敷かれていた布団の近くに再び腰を下ろし、盃に手をつける。
「左之さん、飲んでたの。」
「まあな。ちょっと寝れなくて、寝酒してた。」
「そっか。どうりでお酒臭いと思った。」
「喧嘩でも売りに来たのか、は。」
 その事に対しての返事はせず、も同じくその酒を飲みたいと言うが原田がそれを止める。お前は女なんだから、そんな飲み方する必要はないだろと優しく説いて。は少しむくれながらも、ケチと一言を紡いで彼の隣に腰掛けた。にとっても、原田にとっても、夜は長い。まるで眠気を感じさせる気配は、なかった。
 特に何を話す訳でもなく、二人の静かな時間が過ぎていく。酒を飲んでいる訳でもないにとっては少し手持ち無沙汰で、彼女は襖の奥でたゆたう正面の明りを見つめる。その明りも、珍しくも今宵はぷつりと消え、更に暗闇へと二人を誘った。仕事に追われてばかりで睡眠という言葉を知らない土方が寝たのかと、二人は同じ瞬間に顔を見合わせて少し笑った。
「土方さん、寝ちゃったね。」
「寝かせてやれよ。あの人は万年寝不足だからな。」
 そう言う彼は寝ないのだろうか、はふいに原田を見たが彼は空になった盃に新たに酒を注いでいく。そんな彼に酌をする訳でもなく、は隣で静かに膝を抱えて暗闇の中へとその身を隠すように静かに佇む。
「怖い夢でも見たか。」
「ううん。寝つきが悪くて寝れなかっただけ。」
「江戸に居たころはこんな事もあったか、何度か。」
「あったね。酔った左之さんが絡んできてさ。」
「悪い夢を見たって寝れないお前が絡んできたんだろ。」
 そんな事もあったかもしれないね、とは少し思い出したようにしながら言う。確かに、そんな夜も過去にあった。まだ彼もも今より若く、昔のことの話だ。江戸に居る時と面子は同じでも、それを取り囲む環境はずいぶんと変わっていた。ただの試衛館道場の娘であったとと、ただの門下生だった原田と、存在自体は変わらずともそれは江戸と京という場所の違いだけで大きく異なっているようだった。
 京の戦況は、よくない。新撰組が京の警護をしていた少し前の事が二人にとっても少し懐かしく思えるほどに、一気に戦況は激化していた。連れ添ってきた隊士も、少なからず犠牲となりつつあった。今まで変わらないと思っていたその場所が、どこかにとっては遠く感じられるようになっていた。そこに、今も尚彼女は居ることには違いがないのに   
「土方さんは、きっと私を追い出すと思うの。」
 激化する戦況の中、はそんな事を感じるようになっていた。いつだって口は悪いがどうしようもない優しさを含む彼からしたら当たり前のことなのかもしれないと自身も分かっていながらも、いつその言葉を言われるのではないかと怯える事が増えていた。自分が新撰組に不要だと、そう言われる日が近いのではないだろうかと。
 はただの道場主の娘だった。父が病に臥せり、一番弟子だった近藤に道場を継承させそのあとは言うまもなく亡くなっていった。が上京してきたのは、それが要因で、それ以外の要因はなかった。本来であれば、この新撰組にいるべき人間ではなかったのは違いのないことだ。身寄りがない、そのたった一つの理由で、連れ来られただけだった。
「左之さんは、私が追い出されそうになったら土方さんに反発してくれる?」
 眠れなかったのは、寒かった訳でも、夜更かしがしたかった訳でもない。にとって、唯一の居場所であるその場がなくなってしまうというそんな恐怖心が彼女の眠気を奪い取っていた。膝を抱えているが、原田にはより小さく見えていたのかもしれない。それはまるで、江戸にいた頃に皆で上京すると決まった時のと同じように、原田の視界に映った。
「…それは、どうだろうな。」
 原田から出た言葉に、も面食らったようにその表情をかんばせに塗りつける。いつだって優しくて、味方でいてくれる彼からまさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったというの表情だった。彼女のほしかった言葉をいつだってくれる原田は、彼女に欲しがった言葉を与えない。
「私、ひとりぼっちだね。左之さんにまで見放されちゃった。」
「誰が見放したって言ったんだ。」
「ここがなくなったら、私に帰る場所もないって知ってる癖に。」
 そのの言葉に、原田は再び盃に入った酒をくいっと飲み干していく。特に慰めの言葉をかける訳でもなく、また新たな酒をその盃へと注いでいく。そこに、しばらく言葉はなかった。
「左之さんは優しいからさ、こんな時殺し文句の一つでも言ってくれると思った。」
「なんだ、それ。」
「いつだって私が泣かないようにって、優しくしてくれたから。」
 それは江戸にいた時に遡っても、の言葉通りの原田だった。今よりも若く、弱かったを気遣い、いつだって彼女を匿っていたのは彼だったから。そんな原田に、も心を許していた。
 今日も明かりが灯っていたからというのは本当の理由ではなく、にとっての一番の理由は、もっと違うところにあったのかも知れない。それは偶然であるように見えて、ただの必然だったに違いない。無意識に、彼に助けを求めたの姿だったのだろう。
「気休め言っても、結果的にを傷つけんじゃ意味ないからな。」
 そう、彼は言ってしばらく黙り込む。言われたも、その意味を考え、理解し、同じく何も言わなくなる。それが二人にとって必然たる事実だからこそ、それ以上何を言ったところで意味がないと悟ったのかもしれない。
    怖いものは、別にある。
 京の都が戦場となっていく事でもなければ、新撰組を離れることになることでもない   もっとも、彼女にとってその両方の要因も辛い事には違いはなかったけれど、それ以上に辛いと思うことがあれば、それは。
 にとって何よりも恐怖に感じられるのは、いつだって傍にいた彼という存在が遠く、離れていくことに違いなかった。いつか会える、今のように一緒にいれる、そんな保障のないものを手放す事への。
「置いて行かないで。」
 そう言って、縋るに一度戸惑いつつも、彼もその小さな肩に触れた。彼自身が眠れない理由の一つを、懐にしまい込むように。
「こんな時に限って素直だな、お前は。」
「今素直にならないでいつなるの。」
 その感情を言葉にすることの方が幾分も簡単である事を理解しながらも、二人はそれを口にすることはなかった。それを口にすることで、また一つ自分自身に辛いと思うことが増えると知っているから。
 一度、のかんばせに原田は近づいたが、それを止める。それがやはり自分自身にとっての毒となるのだと、彼自身理解しているかのように。
 一度彷徨った彼の唇は、在りどころを見つけたようにの額に落ち着いた。まるで、彼女をなだめる様であって、自分自身もなだめるような、そんな複雑な感情を交えながら。
「大事に思ってるからこそ、出来ない事ってあるんだな。」
    知らなかった。
 その彼の言葉で、の止めていた感情が流れ落ちた。

    こんなに、好きなのに。
 せめて春が来るまでは、この贅沢な夢を見たいと願って。
 口にする事はない、その願いを抱いた。


( 2020'02'14 )