仕事を終えてポストを覗き込む。入っていなければいちいち開けるのは面倒で、つい横着をして少し背伸びをしながら中身を確認する。小さな、ペラペラとした紙が一枚だけ見えてダイアルを回す。ゼロ、七、ゼロ、七……鍵が開く。
 ひんやりとしたポストの中には葉書が一枚裸のまま入っている。ひっくり返して見てみると、高校時代の同窓会の出席確認の葉書のようだった。何度かぴらぴらと表、裏、表と見て見たけれど、その行動に大した意味はない。部屋に戻って、鍵と一緒にテーブルの上へと置いてすぐにソファーに沈み込んだ。

 高校時代の事を思い返すと、とてもキラキラとして眩しいいかにも青春が甦ってくる。確実に、私にとってそれは掛け替えのない大切で幸せだった記憶だ。そして、幸せだったが故に、今はあまり思い出したくはない思い出でもある。
 幸せだった分、それが今の私を追い詰めるからだ。





 高校三年生の夏。
 リョータから告白されたのがこの頃だった。これから本格的に受験勉強に取り組もうという時期に、それも私に?二つの違和感を抱えながらリョータにその真意を尋ねると返ってきたのは私が想像していた以上にしっかりとした理由で、過去彩子を忘れるために手当たり次第告白をしていたそれとは違うのではないかと感じた。これが私の盛大な自意識過剰だったらいい笑い者だ。
 インターハイが終わるまではキャプテンとして真剣にバスケと向き合いたかったからという真っ当すぎる理由。そして、私を好きだと言ったその理由。今も、その時の衝撃を私は鮮明に思い出す事ができる。仮に今この瞬間が人生のゴールと仮定した時、私が最も幸せだったのはその瞬間だったのだろうと思う。
「ほんとに冬の選抜まで残らないの?」
「ん〜?バスケは大学でも出来るし一区切り。」
「大学行くために受験勉強もしなきゃだしね。」
「そそ、それに土日にデートもしたいしさ。」
「めっちゃ言ってる事矛盾してるじゃん。」
 私にとって当たり前に休みだった土日もリョータにとっては常に部活だったのだから、そもそも土日の意味合いが違うのかもしれない。バスケをしている時のリョータはクラスメイトとして見かける彼よりもよっぽど感情豊かだったけれど、それに近いものを感じて少し胸がざわついた。
 高校生と言ってもお互いバイトをしている訳でもなく、限られたお小遣いの中からデート代を捻出しなくてはいけない。よって、大した選択肢なんてある筈もない。せいぜい電車で少し移動して、適切な範囲内のお金を使って遊ぶことくらいしかできない。けれど、その日常の中での非日常がとても神秘的に思えて、どきどきしたのを覚えている。
「江ノ島とか行ってみたいかも。」
「江ノ島のジンクス知らない?」
「……ジンクス?」
「そう、江ノ島でデートすると別れるってやつ。」
「え〜、初耳かも。」
 普通こういうジンクス的なものって女子の方が気にするものなんじゃないだろうか。もしかすると性格的なものなのかもしれない。直感的な私に対して、リョータは結構慎重派なのかもしれないと思うとなんだか少しだけ可愛らしい。
「江島神社の神様が嫉妬すんだと。」
「器小さくない?」
「だからそういう事言うなって!」
 ジンクスなんてものは所詮ただのジンクスでしかない。気持ちの問題だ。付き合ってばかりの状態でこんな事を思う私もどうかしているのかもしれないけれど、別に江ノ島にデートに行ったからといってそれが直接的な別れの原因になる訳じゃない。別れる時は江ノ島に行ってなかろうと別れるだろうし、人生で一度たりとも別れの経験なく結婚するケースの方が稀な筈だ。それに、結婚だって別にゴールじゃない。ジンクスなんて、所詮それくらいの効力しか持ってはいない。私の持論でしかないけれど。
「ただのジンクスだって証明する為に行こうよ。」
「そんな冒険家気質だったっけ?」
「分かんないけど、江ノ島冒険はしてみたい。」
「……ま、いいけど。」
 その代わりちゃんと神社で沢山賽銭を入れてお参りしようと言うリョータに、なんだか可笑しくて笑ってしまった。直接的な言葉にする事はなかったけれど、それはそのまま私への愛情表現となっているのだと気づいていないのだろうか。
「そんなに大事なんだ、私のこと。」
「……なに、急に。」
「だってジンクスに怯えてるから。」
「彼女にするってそういう事でしょ。」
「そりゃそうだ〜。」
 屋上へと続く人通りの少ない階段で、私たちは神奈川県のお出かけスポットが掲載されている雑誌をぺらぺらと捲りながらこんな高校生らしい会話を繰り広げていた。多分、付き合って二週間とかそれくらいだったと思う。
 私が引っ張るような形で主導権を持っていた筈なのに、リョータは些かそれが不満だったのか私の手を引いて強引に自分の方へと手繰り寄せた。
「俺にもかっこつけさせろって……」
 そんな事よりも、それ以上に必要な感情が溢れていた。





 江ノ島でデートをするには最適な気候、程よい日光がアスファルトから少し反射している。真夏と呼ぶには少し遅い、微かに秋の訪れを感じられるような静かな夏の終わり。私たちが普段から通学に利用している江ノ電ではなく、小田急線の片瀬江ノ島駅で待ち合わせをする。竜宮城に来た錯覚をさせる駅の風貌に、より期待感が増した。
 駅前のコンビニから飲み物を二つ買って出てきたリョータと合流して、私たちはまだ照り返しのあるアスファルトを歩きながら、徒歩で江ノ島を目指す。途中、江ノ島神社でお参りをしたけれど、私が奮発して百円玉を賽銭箱に投げ入れた後、リョータはもう一回り大きな五百円玉を投げ入れて静かに手を合わせた。サングラスをかけたその風貌からはなんだかミスマッチで、ひと足先に目を開けていた私は再び笑ってしまった。
「リョータって江ノ島はじめて?」
「あ〜、はじめてだけど何で?」
「ジンクスもそうだけどなんか道とか詳しいし。」
「こう見えて事前に予習するタイプ。」
「勉強でそれできればいい線行くんじゃない?」
「一言余計すぎるだろ。」
 有料エスカレーターを使わずに一歩一歩少し先を歩くリョータの背中を追って私も登っていく。額にじんわりと汗の玉が滑り落ちて、雑に右手で拭い上げて左側を見ると普段自分たちが暮らしている藤沢の街並が米粒のように小さく見えて、そしてただひたすらに青が広がっていた。上を見ても下を見ても、青一色だった。
「藤沢ってひろ〜い。」
「ちなみに見てる方向は鎌倉だけど。」
「え、そうなの〜?」
「藤沢あっち、あの米粒みたいなオーパとか。」
「あ、ほんとだ!デパートも見える。」
 どうでもいいこんな会話が楽しいんだから、恋って魔力があるんだなと思った。何処に行くかではなくて、誰と行くかなんて言うけれどまさにそうなのだろう。江ノ島に行きたいとは言ったものの、私たちが行ける範囲で知っていたのが江ノ島だというだけの事で特別な思い入れや憧れがあった訳じゃない。ひたすら階段を登っているだけなのに、それが楽しいと思えるのだから本当に不思議だった。
「リョータってすごいんだ?」
「凄いの基準値低くない?」
「まだ十八年しか生きてないのにさ〜。」
「十八年生きてれば地図くらい読める。」
 リョータといると、自然体でいられる自分に気づいたのはもっと先の事だった。一緒にいて楽しいし、会話の波長も合う。友達の延長線上にある理想的な恋人関係だとそう思った。ベタベタする程距離が近いという訳でもなく、けれどふと物寂しさを感じた時にはスッと距離を縮めて手を取ってくれるような。痒いところに常に手が届くような、どうしようもない安心感があったのかもしれない。
「もう日が落ちるけど。」
「ん〜、だってまだ足痛いから登れない。」
「おぶってくけど?」
「二人とも転がり落ちて海の藻屑でしょ……」
 江ノ島のメインスポットでもある岩屋について、私の疲労はピークに達していた。パンプスを履いてきたのがよくなかったようで、足の疲労が半端じゃない。トレーニングさながらの永遠に続く石畳を登り続け、岩屋に降りてくる為の急勾配な下り階段でライフポイントは消滅した。リョータは基礎体力がある分平然としているようだったけれど、想像していた以上に江ノ島はハードだった。
「船で帰ろうよ、そこから出てるみたいだし。」
「ダメ、歩いて帰る。」
「もう歩けないよ。」
「押したげるから帰るよ。」
「え〜?」
 最後の気力を振り絞って立ち上がると、リョータに後ろから両手で押されながらなんとか岩場の階段を登り終えた。結局途中途中でベンチに腰掛けながら休憩をしていたら完全に日が落ちて、恥ずかしいから嫌だと騒ぐ私を背中におぶってリョータが平らな道を歩いて、なんとか江ノ島を後にした。
 江ノ島のジンクスなんてただのジンクスに過ぎない、それを証明するかのように私とリョータはうまくやっていたと思う。少女漫画でしか見たことがなかったけれど、卒業式には律儀に第二ボタンをくれたし、春から東京の大学に通うからと引っ越した私の一人暮らし先に最初に来たのもリョータだった。
 私の、幸せで大切な思い出だ。





『今年こそは来なさいよ。』
 スマートフォンの奥から聞こえてくる友人の声に、苦虫を噛み潰したような不快感が充満している。奥歯に力が入る。声の主は私の高校時代の友人で、先日葉書を出してきた同窓会の幹事をやっている張本人だ。彼女がこう言う言い回しをするのにも、私が苦虫を噛み潰したような不快感を感じているのにも理由がある。
 何も、彼女の事が嫌いという訳ではない。彼女は今でも定期的に食事に出かける親しい友人の一人だ。ならば何故か。それは、この時期になると決まって彼女が同窓会を企画するからだ。そして、決まって私への参加を後押しするようにこうして連絡を入れる。それが、私には苦しかった。
『リョータなら多分来ないわよ。』
「…ほんとかな。」
『去年も一昨年も来てないって、何回言わすの。』
「今年は来るかもしれないじゃん。」
『あんたもしつこいわね。』
 高校を卒業してから数年後、同窓会は定期的に開催されているらしい。らしいと言うのは、私が過去一度も参加した事のない他人事だからだ。同窓会というその企画自体を毛嫌いしている訳じゃない。万一リョータがそこに来たとしたら、私はやっぱりその場にいるべきじゃないと思うから、だから行かない。リョータにだって参加する権利はあるのだから。
『仕事の繋がりでいい店貸切にできそうなのよ。』
 流行りものに疎い私でも知っている、老舗イタリアンレストランの名前だった。七里ヶ浜の展望を欲しいままにしたロケーションと、繊細な料理が男女問わずに人気な場所だと記憶している。
『気分転換にもなるだろうからふらっと来なね。』
 結局その後も複数人から外堀を固められて、気づいた時には同窓会に参加する方向性になってしまっていた。葉書は、今も尚テーブルの上でマグカップの下敷きになっているというのに。





 少し早めに会場となっているレストランに到着する。湘南に戻ってくるのは実家帰省以来で、随分と久しぶりだ。レストランの外階段を抜けていくと、室内と屋外に分かれたスペースが展開されていて、エントランスホールにまとまった料理が犇めいている。
 渡されたシャンパンを持って室内へと入っていくと、そこには既に何人か見知った顔が見えて少しだけ安心する。
、ちゃんと来たのね。」
「彩子がほとんど脅したようなもんじゃん。」
「人聞きの悪い言い方しないでよ。」
 幹事をやっている彩子の隣を陣取って、私は持っていたシャンパンに口をつける。こうして気心の知れている旧友との再会は私にとっては高校卒業ぶりで、何だかくすぐったい。何だか少しだけ気恥ずかしいのに、不思議なことに一瞬にして昔に戻ったような気分に陥った。まだ正式に始まっている訳でもないのに、既に少しだけふわふわとした気持ちよさの中にいた。
「お、宮城か…?」
「ほんとだ、宮城くん!」
 その名前が急に耳の鼓膜に響き渡るように、緊張感が走った。今まで回避し続けてきていた、私が一番恐れていた事がどうやら起きているらしい。騒めく会場で、私もくるりと半回転させて振り返る。確かに視界に映っているのは、私がかつて付き合っていた宮城リョータ本人に違いがなかった。
「久しぶりじゃん。」
「リョータ、来たんだ?」
「うん、ダメだった?」
「そんな事ないんじゃないかな。」
「かなって、なんだよ。」
 数年ぶりに見たリョータは私が知っていた時よりもガッチリとしていて、少し大人びて見えた。リョータが私の彼氏だったのが果たしてどれくらい前の事なのか。少し考えればすぐにわかる筈のその事実を、私は思い出さない。思い出すことによって、思い出したくない思い出までが一緒に次々と出てくるからだ。自分で、蓋をした。別れて、すぐに。
 結局リョータが来てから十分も経たない頃には同窓会はしっかりと彩子の乾杯の音頭を持って始まっていた。かろうじてリョータから離れた席に座る事はできたけれど、結局潜在的にリョータで頭がいっぱいな私は横目で何度かリョータを視界に映す。その度に気まずくなって、手元のビールを喉に通していく。こんなに苦いビールは、初めて飲んだ。
 一時間もすれば周りも随分と酒に飲まれていて、思い思いに個別に話をし始めている。いつも以上に苦味を強く感じるビールはあまり進まず、周りの頃合い的にもちょうどいいとそのまま鞄を持ってレストランを後にする。目の前には七里ヶ浜の駅と、そして視界いっぱいに映る湘南の海が広がっている。
 珍しく履いていたハイヒールを脱ぎ捨てて、踵を持って浜辺を進んでいく。
 ザッザッザッ、砂が鳴いているように聞こえた。
 波の跡がないギリギリのところまで来て腰を下ろした先、少し右側に懐かしい島が見える。あれ以来一度も訪れたことのない、リョータと行った江ノ島が小さくぼんやりと形を映している。時折展望台のライトがカラフルに螺旋を描いていて綺麗だった。
「あれから江ノ島でデートした?」
「……なあに、嫌味?」
「別にそんな事ないでしょ、聞いてるだけ。」
「ジンクスが本当だって証明しちゃったしね。」
 行かないでしょ、そう嘲笑うように言葉が続いた。そんな私の言葉を聞き終えたリョータは、そっかと短い言葉で相槌を打つと私の隣に腰を下ろした。二人して、目線の先には小さな島が映っている。
「あれがなきゃ別れてなかったか?俺ら。」
「どうだろうね〜、分かんないかな。」
は嘘つきだな。」
 この点に関してはリョータの言う通り、私は嘘つきだ。江ノ島という一つのジンクスがあったとしても、きっと私とリョータは別れていたのだろうと思う。もうあれから何年も経っているのに、狂おしいほどに胸が苦しい。同窓会で一瞬にして昔に戻ったあの感覚と同じで、リョータを視界に映すことで触れたくない記憶の一部にすぐに到達した。
「リョータ、すっごいモテるんじゃない?」
「なに、藪から棒に。」
「だって今やプロ選手じゃん。」
「なんだ、知ってたの?」
「さすがにね、それくらいは知ってるよ。」
 リョータがバスケにかける情熱を知っていたので、プロリーグでその名が轟いた時には罪悪感を抱きながらも素直に嬉しかった。元カレという存在でしかなかったけれど、私はリョータのバスケが好きだった。かろうじてルールを知っていたくらいのバスケに興味を持ったのも、リョータがきっかけだった。
「大学はバスケサークル入ったんだっけ。」
「からっきしだったけどね。見てるだけ。」
「飲み会に忙しそうだったもんな〜。」
「だからそれ嫌味でしょ?」
 リョータは私の隣でハハハと笑って、「そう」と言った。嫌味を言われたところでそれに反撃する事はない。言われて当然だと分かっているからだ。そして、リョータは嫌味の一つや二つくらい私に言う権利を持っている。
 物理的な距離ができると、人というものはどんどんとすれ違っていくものらしい。そう知ったのは、大学に入って暫くしての頃だった。最初の頃は物理的な距離なんかよりも、強い気持ちがあればどうって事がないと思っていたし、その自信があった。リョータとの仲が徐々に拗れていくとは夢にも思っていなかった。





 それぞれ別の大学に進学した私とリョータは、ちょっとした遠距離恋愛をすることになった。けれど、特別不安はなかった。私は進学と同時に東京で一人暮らしを始めていて、お互い実家だった頃よりも羽を伸ばして二人で一緒にいる事ができる。遠距離になったことよりも、外的要因に左右される事なく一緒にいれる空間がある事が嬉しかった。
「は?三井さんだって?」
「インカレサークル入ったら三井さんいてさ。」
「なんでバスケサークルなんて入るんだよ?」
 リョータの事をもっと知れると思った。辛うじて体育でやったバスケのルールくらいは知っているけれど、大学に入ってもバスケを続けると言ったリョータに少しでも寄り添いたいと思ったのは嘘偽りのない私の本音だった。リョータが大切にしているバスケを、私も同じように感じる事で、理解者になりたいと思ったのかもしれない。
「なんでって…リョータがやってるから。」
「なら俺のバスケ見にくりゃいいだろ?」
「……そんなに怒ってる意味が分かんない。」
「別に怒ってない。」
「めっちゃ怒ってるじゃん。」
 一人暮らしを始めて二回目の来訪で、よく分からない話で気まずくなった。明らかな不快感を言葉にしているリョータに、私もその真意が分からず素直に理由を問いただす事もできなかった。結局私が何のサークルに入ったところで気に入らないのだろうと、私もそう決めつけて会話を続けることをやめてしまった。
 バスケがうまくなくても、サークルは楽しかった。元々リョータのバスケを見るのが好きだったのもあるし、やっぱり高校時代の顔見知り程度とはいえ知り合いでもあった三井さんがいたのは大きかった。
 リョータは大学でも部活に入っていた事もあって、土日もそこまで時間に自由がない。会えるのは月に一度か二度になっていた。それもあってか、私はよりサークル中心の生活にどっぷりと嵌りこんでしまったのかもしれない。
「でさ、三井さんがね〜、」
「…………」
「リョータ聞いてる?」
「俺と一緒にいるのに三井サンの話ばっかじゃん。」
「え、そうかな?」
 高校時代、三井さんとの絡みはほぼなかったに等しい。三井さんの在学中はまだ私はリョータと付き合っていなかったのだから当然だ。まるで接点がない。リョータの友人として名前と顔を知っていたという程度だ。
 だから、余計にだったのかもしれない。リョータの話題を出すと、どんどん三井さんとの距離が縮まった。お互いの共通点がリョータということもあっただからだと思う。けれど、私はリョータと付き合っているという事を三井さんに伝えなかった。なんとなく、言うのが阻まれた。
「月に数回しか会えないのに他の男の話かよ……」
 その言葉に、私の何かがぷつりと音を立てた。リョータばかりそんな事を言っているけれど、悪いのは果たして私だけなのだろうか。大した事じゃなくても、日々積み重ねていくとそれは大きく不満となって形成されていくものらしい。私もリョータも小さな不満を解消しないまま進んできてしまったのが、きっと最大の要因だったのだと思う。
「会えないのはリョータのせいでしょ?」
「…は?」
「この間の土曜日も部活入ったからって。」
「しょうがねえじゃん、部活なんだから。」
「部活あったら何でも許さないといけないの?」
「部活とサークル一緒にすんなよ…!」
 さすがにショックだった。少なくともサークルに入ったのは、リョータをもっと知りたかったからでそこに他意はない。そんな私の想いをひとまとめにして否定された気がした。確かに部活とサークルは別次元のもので、部活に比べてしまうとサークルなんて所詮お遊びなのかもしれない。急に胸にぽっかり穴が空いたように、表現し難い感情に苛まれた。
「……今のはごめん。」
「うん。」
「ほんと、ごめんって。」
「分かってる。」
 結局、この時を境に私たちの関係は徐々に冷えていった。いつ会えるかも分からない彼氏よりも、まず間違いなく楽しいと思えるサークルの輪にいる方がよっぽど精神的に落ち着けたからだ。サークルに入ってからはリョータと会っても喧嘩のような言い合いが増えた。次第に、自発的な連絡を断つようになった。
『もうそれ三井サンの事好きだろ。』
 私がサークル活動に没頭するようになった頃、私の気持ちと反比例してリョータからの連絡が増えた。電話口からはキュッキュとバッシュの響く音がよく聞こえていた。きっと練習中の合間を縫って時間を作ってくれていたんだろうと思う。
 やり直せるだろうかと私も歩み寄りをしようとした時、またリョータの口からそんな言葉がまろび出る。今まで具体的に言葉にしていなかっただけで、ずっとリョータがそう思っていたのだと思うと一気に心が冷たくなっていくのを感じた。
「…なんでそうなるのか分かんない。」
『じゃあ否定できる?』
「どっちにしても私たちもう無理だよ。」
 決定的な別れの言葉が出なかったのは、高校時代のキラキラとした私の中で何にも変え難いリョータとの思い出が未だ捨てきれなかったからなのかもしれない。





 中途半端に連絡を絶っていた頃、リョータからの不在着信が増えた。大学生なんだから簡単に次の彼女なんて作れるだろうに、どうしてこうも私に固執するのか。会っては喧嘩ばかりしているのだから、リョータだってしんどいに決まっている筈なのに。不在着信が溜まっていくのを見ながら、私は折り返すことをしなかった。
 ある時、バイトを終えて家に帰ろうとしていた時にマンションのロビーにリョータの姿を見つけて私は咄嗟に身を隠してしまった。連絡を返していない手前、どう顔向けしていいのかも分からない。直接顔を合わせて別れの言葉を言う勇気もなかった。
 三十分待っても、一時間待っても、ついには終電の時間が過ぎても、リョータが私のマンションから離れることはなかった。結局私は近くに住むサークルの友人の家に身を寄せて、リョータと顔を合わせる事はなかった。
 綺麗に用意された布団に転がっても結局朝方まで寝れることはなくて、メッセージを開いて、面と向かっては言えないであろう確信的な一言だけを打ち込んで、送信した。
   喧嘩ばっかりでごめんね。もう、別れよう。
 送信して数分もしない間に何度もその当時流行っていたリョータ専用に設定したメロディーが響き渡って、堪らなくなって電源を落とした。





 よく眠れないまま大学で講義を受けて、サークルに顔を出した。三井さんが見えて、手をあげると三井さんも同じようにこちらに向かって手をかざしてくれた。いつもと少し違ったのは、その手がひょいひょいと、別の場所を指していたところだ。
「お前、宮城と付き合ってたんだな?」
「…なんでそれを?」
「それより何で言わなかったんだよ。」
「なんか問題あります?」
「大アリだろうが……」
 三井さんは少し呆れたように、わざとらしくため息を吐き出してそう言った。リョータと付き合っている事を言わなかったことで何か迷惑をかけたのだろうか。お互いの沈黙を使って少し考えてみたけれど、よく分からない。
「お前の事いいなって思ってたんだよ。」
「三井さんが?」
 正直意外でしかなかった。確かに同じ高校出身でリョータという共通点があってここ数ヶ月急激に距離が近づいたのは事実だ。けれど、そんな感情にはまるで気づかなかった。三井さんには内に秘められた分かりにくい優しさだったり、ヤンチャに見せかけて隠しきれない育ちの良さとか、魅力的に思う部分は多い。
「なんで言わなかったんだよ。」
「なんでって…タイミングを逃したというか。」
「タイミングなんて腐るほどあっただろ。」
「でもなんで三井さんがそれを?」
 多分、どこかで私も三井さんに惹かれていた。こう言われて嬉しくなかったのかと問われたら、そんな事はない。リョータが言うように、三井さんに完全に惹かれていなかったという否定をする事はできない。けれど何故三井さんに惹かれていたのかを私自身明確に分かっていなくて、それを分からせてくれたのは三井さんの言葉だった。
「宮城が来たんだよ、お前が自分の彼女だって。」
「……ほんとに?」
「別にここで嘘ついてもしょうがねえだろ。」
 一体リョータが三井さんの目の前に現れて、何をしたというのだろうか。まるで見当がつかなかった。そもそも私と三井さんの仲を疑っていたくらいなのだから、自発的に姿を現すのはリョータとしてもプライドに触っただろうと思う。高校生の頃から、何かとつけて三井さんに対しては対抗心を燃やしていたリョータだからこそ。
「自分のだから、頼むから取らないでくれって。」
 三井さんにそう言って頭を下げたのだと、そう聞いて私は唖然となった。リョータがそこまでするとは夢にも思っていなかったからだ。それだけ、私と一緒にいる事を切望してくれていたのかと今になって知った。三井さんと煩かったのも、本当に自分から気持ちが消えて行くことに怯えていたからなのだろうか。
「お前も俺のことちょっと好きなのかなとか思ってた。」
「ゼロって言ったら嘘ですね。」
「でもそれってさ、多分………」
 どうやら三井さんには、もう私と付き合いたいとかそういう気はないんだろう。リョータに対して高校時代相当な負い目を負って生きてきた人だ。自分の感情を優先してまで、私と付き合おうとするはずはないと思った。だからきっと、私もそれが分かっていてリョータと付き合っている事を三井さんに言わなかったのかもしれない。
「宮城と会えなくて寂しかったから、近くにいる俺がよく見えたんじゃないか?」
 自分自身で認識できていなかったその正論が、急に込み上げて感情を揺らした。大学に入ってからリョータと中々時間を作れなかった事、リョータの大切にしているバスケを私も同じように思えるようにサークルに入った事ですれ違ってしまった事、そして高校時代当たり前のように毎日リョータが側にいたという事。全てを考えて、三井さんの言葉があまりに正論すぎて、急に感情が昂った。
「お、おい…!泣くなよ。」
「…だって、そんなの泣くに決まってる。」
「こっちは失恋してんだぞ?」
 結局、私はリョータに満たされたなかったものを他の人に求めていただけだったんだと気がついた。そして、それがリョータでないと満たされる事がないのだと気がついてしまった。
 自分がどれだけリョータの事を好きだったのか、改めて思い知った。この日を境に連絡先を変えて、そして一週間後には新しい家へと移り住んで、リョータとの接点を一切無くした。リョータとは大学を卒業して暫くしても、まだ会っていない。





、三井サンの事好きだったでしょ。」
 江ノ島に行かなければ別れなかったのかと聞いたリョータに、私は分からないと答えて嘘つきと言われたけれど、その確信的な部分をリョータは口にした。重々しい空気ではなくて、過去の思い出にできているようにとてもライトに笑いながら。
「ん〜、嫌いじゃなかったかな。」
「少なくとも三井サンはの事好きだった。」
「趣味悪いな〜。」
「俺の趣味も悪いって言ってるよ、それ。」
 リョータは私を覗き込むようにして、儚げに笑う。穏やかな春の海は、波の音も緩やかで、けれど時折潮風だけを運んで鼻の奥に懐かしい香りを突き刺してくる。優しく揺れる、色素の薄いリョータの茶色い瞳も、ワックスで固めているくせに猫っ毛ですぐに崩れやすいその髪も、なんだか急にフラッシュバックしたように思い出されて困る。
「あの時の俺って、自分に自信がなくてさ。」
 リョータは昔から、自分の事を過小評価する人間だった。それは大好きなバスケで、得意なバスケでも同じで、負けん気があるくせに自分の評価だけは高くない。もっと自己評価を高くしてもバチは当たらないのにと思いながらも、リョータ自身のことだと思ってあえて口を出さないようにしていた部分でもあった。
「だからみっともなく三井さんに嫉妬した。」
「嫉妬、してたんだ?」
「嫉妬しかしてないし、それで愛想尽かされた。」
 何度か携帯で連絡を試みてくれたらしいけれど、もちろん繋がる筈はない。携帯を解約して連絡先を変えたのだと確信して家に行っても、既に私はいなかったのだとリョータは言う。そこまで変わらず私を想ってくれたリョータに、私はただただ後ろめたい感情しか持ち合わせていない。
「だから一つだけでも自分を肯定できる事を作ろうと思った。そんなん俺にはバスケしかないし、プロになれば自分を認めてやれると思った。」
 私はこういう考えをするリョータが本当に好きだったんだなと思い返す。変に愚直で、自分に厳しいそんなところ。だからこそ人に優しくて、私に優しいというその事実。そんなリョータの優しさと、SOSに気づく事ができなかった自分を、私はずっと責め続けている。
 三井さんからせっかく教えてもらった自分の気持ちに、素直に従うことはできなかった。リョータを知らぬ間に裏切っていたのだと自覚して、どうしようもない気持ちに苛まれた。だから、今日まで一度たりともリョータとは会わなかった。
「今は自分にちゃんと自信があるんだ。」
「うん。」
「もうみっともない事もしないと思う。」
「…そうなんだ?」
 リョータは砂浜で少し移動をして、私の真後ろに陣取る。泣いてしまいそうな程に優しくて、私のお腹に手を回して、そしてふわりと肩の上に顔を重ねた。昔に感じたリョータの匂いが微かに残っていて、そして少しいい匂いもした。
「一個嘘ついてるから白状する。」
「…ん?」
「これ出来レース。」
「は?」
「彩ちゃんに幹事お願いしてたの俺なの。」
 基本的に自主性を重んじる彩子が、幹事だからと言って執拗に参加を促す理由が今になってよく分かった。結局、この二人は結託していたのだ。一瞬恨めしい感情が湧きつつも、それを覆うだけの感情に私は負けてしまう。かつて恋焦がれた女性に、その後付き合った私との事をずっと依頼し続けたリョータの事を思うと、全てが相殺されるからずるいと思う。
「自分の触れてほしくない部分もいつか話したいと思ったのは、だけだよ。」
 フラッシュバックしたように、高校時代の記憶に戻る。
 リョータが私に告白してくれた時、私は二つの疑問を抱えていた。一つは、何故この受験期に?というもの。そして、何故彩子ではなく私なのだろうかという単純な疑問。リョータはその両方の質問にきちんと答えてくれて、そして私が好きな理由をそう答えたのを思い出した。
「…いつ話してくれるの?」
「今すぐ話すよ。寧ろ話したい。」
 くるりと振り向くと、リョータの困ったような笑ったかんばせが見えて、私は息が詰まる。きっとリョータは自分を責め続けて、その上で自分を認めるための道を見つけたのだろうと思う。私が別れてから逃げ続けてきた事と、ずっと向き合っていたのだ。壮大な愛を知って、居た堪れない気持ちになる。こういう時、一体どうするのが正解なのだろうか。
「その代わり、今日は久しぶりに一緒にいて?」
 リョータのその言葉は、私にYESもNOも言わせない。声が出ないほどに泣いたし、どうしていいか分からなかった。自分勝手に別れを一方的に告げず、しっかりとこの声を聞いていればもっと違う結末があったのだろうか。リョータと別れてから数年が経ちながらも、リョータ以上の人を見つけられなかった私は常にそんな事を考えていた。
「…ずっと一緒にいたいな。」
「うん、俺も。」
 これから私は、リョータの話を聞いて、もっとリョータの事を好きになるんだろうと思う。だから、私も今まで人に触れられたくなかった秘め事を全部リョータに話そうと思う。話したいと、そう思った。もうきっと、江ノ島にいく事はないだろうと思う。
 たかがジンクスとは言っても、最大限リスクは除きながら生きていきたい。これは冒険家だった私が、臆病になるまでの物語である。  



春の袂 / 2023’03’21
BGM:Lemon / 米津玄師