死に際には走馬灯のように過去の思い出が蘇ると言うが、あれは事実だ。   前世で私が死ぬ間際、実際に様々な記憶が蘇り時が止まったようにゆっくりと流れ込んで、そして人生が終わった。術師として生きていく覚悟を決めた時から、自分の死に様なんてなんとなく想像が出来たし、事実その想像とおおよそ違わぬ死に方だ。私の恩師は“術師に後悔のない死などない“と表現していたが、それを理解しているからこそ逆に後悔はなく、私は人として人生を閉じることが出来たのだろうと思う。予定にはなかった特級呪霊の出現により、私は呆気なく前世での人生を終えた。
 その消えゆく記憶の中で最後に思ったのは、次こそは彼を裏切らない世界に生まれたいという願望だった。人生の終わりに願望が芽生えるとは、なんて皮肉な事だろうかと嘲笑いながら私の記憶は途絶えている。




 大学に入学した頃の私は平穏なキャンパスライフを送っていた。
 ぼんやりしながら講義を受けて、講義で顔を合わせる友人と昼食を共にする。親からの仕送りとは別に、週に数回バイトをしながら小銭を稼ぐ。本当にどこにでもいそうな、ありきたりな大学生だ。言い換えれば、可もなく不可もないそんな感じ。流されるままに、その日その日を適当に生きていた。
 そんな私に過去の記憶が流れ込んできたのは、入学して数年が経過してからのことだ。
 最初は何かのタチの悪い夢でも見ているのだろうかとも思ったが、あまりにリアルで鮮明すぎるその記憶が前世のものであると数日してから理解した。私が今生きているこの世界は驚くほどに平和で、そして穏やかだ。おそらくは、呪霊とかそういう類いが存在しない世界線らしい。
「…なに、考えてるの。」
 その平和で、穏やかな世界での生活は、何故か少し生きづらく息をしにくいと私には感じられた。執拗に私に狙いついているその視線も、優しい声の裏側に隠れている圧のある言葉も、全てが私を拘束しているように感じられるからだ。
 夏油傑は、私の恋人だ。大学一年の夏頃からの付き合いになる。
 最初は独占欲の強い人なのかと思う程度だったが、次第にそれは異質なものへと形を変えていき、彼は私を見えないもので束縛した。彼自身との関わり以外の全ての関係性を、私は断たされている。大学の授業も全て彼と同じ物を履修し、昼食もいつも一緒だ。居酒屋のバイトも、酔っ払いに絡まれる仕事をわざわざする必要がないと辞めさせられた。起きて、彼と一緒に大学に行って、そして同じ家に帰ってくる。ただひたすら、この繰り返しが日常として過ぎていく。
「なにも、そういう傑は?」
「そんなの聞くまでもないだろう。」
「え、なにかな。」
「もちろんの事考えてたよ。」
 そうなの?と尋ね返すようにそう言えば、わかってるくせにと彼の長い腕が私を包み込んだ。そうだ、彼の言う通り私はそんな事を聞くまでもなくわかっている。彼が四六時中私の事を考えているのは、火を見るより明らかなのだから。
 私たち二人だけの空間は、いつも静かだ。私のスマホも彼のスマホも基本的に鳴る事はなく、いつだってしんとしている。トーク履歴を開いてみても、そこには彼との履歴しか残っていない。常に行動を共にしている私たちが電波に乗せてのやり取りをする必要性はほぼなく、そして必然的に彼以外の連絡先を持ち得ないSNSはもちろん通知音を鳴らす事はない。
は私のこと、考えてくれないの?」
 彼の私に対する執着は異常で、常軌を逸している。私に対する深すぎる愛情が故に引き起こされている事象で、その愛情は紛れもない本物だ。多分彼は、私を束縛したいのではないのだと思う。彼が四六時中私の事ばかりを考えているように、私にも同じ状況を作り上げさせたいのだろう。それが彼にとっての、愛情なのだろうと考えるようになった。傑は真っ直ぐすぎるが故に、行き着く先が極論に陥りがちだ。今も、昔も。
 傑も、付き合ってばかりの頃からこうだった訳じゃない。あの頃はまだ大学内での行動にも制限はなかったし、バイトもさせてくれた。傑は徐々に私から選択肢と自由を奪って、時間をかけて今の私たちに仕上げていった。多分そうさせてしまったのは私で、そしていずれはこうなる運命だったのだろう。遅かれ早かれやってくる未来だ。
「考えてるよ。」
「ほんとに?」
「うん、ほんと。」
「なら、もっと考えて。」
 まだあの頃は一緒に住んでもいなくて、辞めてほしいと言われていたバイトも口では辞めたと言いながらも回数を減らしてこっそり続けていた。不定期だった連絡が定期的になってきた頃、傑は私の所在を確認するように決まった時間に連絡をしてくるようになった。五分も既読を付けずにいるとすぐにブルブルとスマホがポケットの中で振動し続けた。バイトが終わるまでは、と電源をオフにすることでようやくその振動が止まると暫くして傑は私の前に姿を現せて、その日を境に私はバイトを辞めた。
 その一件を境に、私に対する束縛がどんどんと増していった。自宅も強制的に解約されてしまい、必然的に彼の部屋に住む事になった。が気にいる部屋にしようとすぐに彼のワンルームからリビングと寝室が分かれた広々とした部屋へと引っ越した。私に部屋を選ぶ権利は与えられていながらも、一緒に住むという事は選択肢としてではなく既に決定事項だった。私の学校以外での自由がなくなった。
 二年生に上がり、傑は私に授業のコマ割りを見せてきた。それは提案という形ではなく、今期の授業はこれを履修するというそれもまた決定事項として私に降りてきた。学部も学科も違う私たちが取れる授業をどうにか無理やり組み合わせたコマ割りだった。唯一学校内で確保していた自由もなくなり、私の全ての自由は傑に支配されていた。
「これ以上傑でいっぱいになったら馬鹿になりそう。」
「大丈夫だよ、馬鹿になんてなりやしないから。」
 大学の友人達とこっそり飲みにいく約束をした時、用があって実家に少し帰ってくると嘘をついた。たまには息抜きくらい多めに見てくれるだろうと軽い気持ちで嘘をついて私は後悔をする。知らぬ間に私の位置情報を正確に把握している傑がその場に乗り込み、自宅に連れ帰られると初めて彼に平手で叩かれた。
 どうして分かってくれないのかと、傑は泣いていた。私は、逆にどうして傑はこうなってしまったのだろうかとどうするべきなのかを考え、そして彼以外の連絡先をスマホから消し去ることで最後の自由を捨てた。そうまでしても傑と別れるという選択肢は不思議となく、もしかすると既に自分で何かを選択する能力を私は失ってしまっていたのかもしれない。
「ほんとはね、就職どうしようかなって考えてた。」
「あぁ、そんな事。君は仕事なんてしなくていいよ。」
「仕送りもなくなるし、働かないと生活できない。」
「私が働くし、傍にいれる在宅の仕事を選ぶよ。」
 傑は頭がいい、それに加えて器用だ。多分彼が言うように在宅でできる仕事にはかなり限りがあるだろうけれど、本気を出せば傑なら職を見つけてくるだろう。ここ最近プログラミングの本を幾つか読んでいるようだったので、もしかするとエンジニアとしての働き方を模索しているのかもしれない。
「贅沢できるくらいちゃんと稼ぐし、が心配する必要はないよ。だから、君はもっと私の事を考えて?」
 これは傑の口癖だ。頭の中を私でいっぱいにしてと、繰り返し何度も何度も私に言って聞かせる。頭の中を占領すれば、私がどこへも行かないとでも思っているのだろうか。だとすれば、方向性を間違えてはいるけれど、その愛情は紛れもない本物だ。部屋中見渡しても彼以外の情報なんてどこにもないのに、これ以上どうやって傑の事を考えればいいのだろう。いつになったら、傑は満たされ、そして見えない恐怖から解放されるのだろうか。私はその大きな歪んだ愛情と、大きな体を抱き締める。子供をあやす時のよう、“いいこいいこ“と言わんばかりにゆっくりと艶めいた黒髪を丁寧に撫でて、ぎゅっと背中に腕を回す。
「とっくの前から頭の中傑でいっぱいだよ。」
 いつも余裕と隣り合わせにいた傑から余裕を取り上げてしまったのは私なのだから。そんな歪んだ愛情でも、愛おしく感じられるのかもしれない。




 術師という世間的に見た異質な存在でも、人間には違いない。術師も非術師も大きなカテゴリーで見ればただの人間という種にたどり着く。私にとって、傑が理念としていた“呪術は非術師を守るためにある“という言葉は重すぎる。非術師だろうとクズみたいな人間に守られる価値や権利が無条件にあるとは、私には思えない。術師だろうが非術師だろうが、その価値など変わらないのだ。結局のところ、私たちは術師云々の前に人間なのだから。傑のように、清く正しい真っ当な考え方は私にはできなかった。
 どちらかと言えば、私は悟の考え方に近い。自分が見える側の人間として生まれてきたからその役割を全うしているだけで、それを誇りに思っている訳でもない。嫌なものは嫌だし、正義なんかなくても何とでもやっていける。

     も、私と一緒に行こう?

 雨に降られながら、目を覆いたくなるような返り血を浴びた彼はまだ小さい子供を連れて、私に右手を差し出した。
 日帰り予定の任務に出かけた傑は数日が経過しても戻らなかった。任務完了の報告すら入らず、最悪の事態を想像する。もし万が一にも傑に何かあったのなら私一人行ったところで意味はないと分かりながらも、無理を通して一人で外れの田舎街まで辿り着いた。
「…傑が殺したの?」
「君も言ってたろ、非術師だからって守られる価値のない人間だっているって。その価値がなかったから、殺したんだ。」
「でも、だからって…」
「クズはクズだと、君だって言ってたじゃないか。」
 状況が飲みこめない私に、彼は必死に教えてくれた。自分の今まで持っていた思想は間違っていたのだと、新たな環境で自分達が生きやすい環境を作り上げようと。真面目すぎるが故に極論に陥っている傑は、かつての思想と百八十度角度を変えた真逆の事を必死に語り始める。私には、その内容も、彼のこの状況も受け入れることができなかった。
 私は、私と違って自分の信念に真っ直ぐな傑が好きだった。友達という関係を超えて恋人になって、より彼のその実直な部分が愛おしく、誇らしかった。だから、今この目の前にある惨状が彼が作り上げたものだということが信じられず、ぐしゃりと血と雨で抜かるんだ土に足跡をつけて、一歩後ろに下がった。
「私には君が必要なんだ、だから   。」
 その手を、掴むことが出来なかった。その手を掴むかどうかの迷いはあった、けれど迷いよりも躊躇いの方が大きくて、結局私は二歩三歩後退りをする。この手を今掴まなければ、一生傑と同じ道を歩む事は出来ないと分かっているのに。
 “こんなクズの為に命張ってるとか冗談じゃない“
 かつてそんな言葉を軽口のように言い放っていた私は、結局は自分の偽善を拭いきって、自分が正しいと思う事を遂行できるほどの意志も覚悟も持ってはいなかったのだ。クズと蔑みながらもそれを守ることで、自分の術師として存在価値を見出していたのかもしれない。“呪術は非術師を守るためにある“という真っ直ぐな信念もなければ、その極論として真逆の思想に至り今度はそれに対して真っ直ぐに在ろうとしている傑のようには、なれない。
も、私と一緒に行こう?」
 いつもと変わらないその優しい傑の笑顔が、一瞬にして凍りついた。この世の絶望を双眼に映し出しているような、崩れ落ちるような傑を置いて私はその場から逃げ出した。
「…ごめん、」
 その日以来、私は傑に会っていない。理由は、私が先に死んだからだ。




 私がちょうど自分の自由を全て放棄した頃、前世での記憶が急に棲みつくようになった。思い出すことで、今まで何故傑が私に執着しているのか全ての合点がいった。全ては前世から始まっていて、そして繋がっている。
 傑にも前世の記憶が戻っているのだろうか。聞いてみようかと思ったこともあったが、よくよく考えて聞くのをやめた。それを知ったところで私が成すべき事はかわらないからだ。その答えを得ることは、特別なんの意味も生まない。多分私たちはこれから先もこの二人だけの空間で、お互いの事で頭をいっぱいにしながら生きていく選択肢が変わる訳ではないのだから。
「ふふ、それは嬉しいな。」
「傑が嬉しいなら、私も嬉しいや。」
「君は今も昔も優しいね。」
 そんなことはないよと、出掛かって言葉を飲み込んだ。私は今も昔も優しくなんかない。手を差し伸べてくれた優しい顔をした傑に、ごめんという安易で残酷な一言を置き去りにして逃げてしまったのだから。そんな私が優しい筈がない。彼と共に呪詛師に堕ちるのが正解のルートだったとは今でも思ってはいないけれど、自分の選んだ道が必ずしも正しいと言える自信もなかった。
 優しくも悲しい笑顔で血濡れた手を私に差し出してくれた傑の顔が何度も思い出されて、結局死ぬ時までその記憶は私の体内にしつこくこびり付いていた。離反して、自分と違う道を選んだ敵となっても尚、彼個人を嫌いに思う事が結局できなかった。思い出されるのはあの村での優しくて悲しい傑の笑顔と、それまでに二人で培ってきたうつくしい記憶ばかりだった。
「傑。」
 もっともっと、私の頭の中を傑でいっぱいにして欲しい。どれだけ束縛されても、私にとっての自由がなくなっても、その世界に傑がいるならもうそれでいい。それが、前世で私が息たえる最後の瞬間に生まれた願望なのだから。今の私にとっての何よりの信念だ。
「なあに、」
「ずっと一緒にいようね。」
 私に唯一残された最後の自由があるとすれば、傑のことを好きでいるという自由だ。そこだけは、傑から決定事項として強制させられているものではなく、他の誰でもない私自身のはっきりとした意志だ。自分で何かを選択するという能力に乏しくなった私の中で唯一、しっかりと芯が通った選択肢で、そしてそれが私の全てなのだ。
「愛してるよ。」
「はは、その言葉擽ったいな。」
 彼もこうしてこの世界に転生しているのだから、前世でしっかり死んでいる筈だ。彼が離反してまで手に入れたかった世界は、手に入ったのだろうか。恐らくはその志し半ばで彼も死を遂げたのだろうと思う。だから、私たちはこの平和で穏やかな世界で今度こそ手に入れたかったものを手に入れないといけない。その権利が、ある筈だから。
 彼との別れを後悔し続けた私にとって、この環境は幸せだ。平和で穏やかでありながらも、少し生きづらく息をしにくいこの世界でも、傑がいればそれでいい。その息をしにくい不自由を作り出しているのが、傑だとしてもだ。今度こそ後悔がないよう傑の傍で人生を全うしたい。
 この愛が贖罪にもなるのであれば、ちょうどいい。


果てのある物語
( 2022’03’22 )