ⅶ.番外編 酒は百薬の長


 時に、人は魔法にかかる。魔法と言っても、百人が百人かかる訳ではない。それには耐性だったり、その場の運だったり、コンディションが大きく影響する。多分私は、それらに恵まれていない環境だったのだろうと思う。
 十三時間の夜を超えてやってきたアメリカは一年ぶりで懐かしいようでもあって、私の知らない側面を多分に持っている。単なる同級生の一人でしかなかった私と宮城が、紆余曲折を経て、こうして恋人として再会を果たしているのだから。あの時のアメリカとは違って当たり前だ。
「………てかそんなに飲んで大丈夫なの?」
「え~、いいじゃん。」
「いや別にいいんだけど、酒強いの?」
「う~ん、弱くはないんじゃないかな。」
 法律的にお酒を飲めるようになってから、この言葉を放った人間で酒が強かったと思った試しは一度たりともない。つまりは、私はこの少量のビールでその判断力を失ったということになる。
「……もう既に目線ちゃんと合わねえのに?」
「向こうのテーブルのロブスターとはばっちり目が合ってる。」
「……あ、そう。」
 自分で自分の事はある程度分かっている。二十年以上生きているこの体は、私が一番よく知っていて、本当の事を言えば酒にはあまり耐性がない。まだ飲み始めてばかりだからと思っていたけれど、いつになったら私は強くなるのだろう。
 酔っている事を認めない間にも、自分が酔っている事を自覚しながら、それを言葉に出すことだけは気が引ける。同じくビールを二杯飲んだ宮城が顔色一つ変えていないからだ。
 渡米してから日に焼けて肌の色が濃くなったから赤くなっても分かりにくいだけ……最初はそんな事を言い聞かせていたけれど、そうではないらしい。沖縄の血は酒に強いと聞くけれど、本当なのだろうか。
「へへへ、」
「……なに、」
「楽しいなあと思って。」
「……絶対酔ってるじゃん。」
 気持ち悪くならない感覚と、飲み足りない感覚と、その中間と言えば分かりやすいだろうか。私と宮城の沸点は違うらしい。少しばかり頬に熱を感じている私と、私の肉眼で見る限りはひどく冷静でいつも通りの宮城と。
「宮城ってザル?」
「いや別にザルとかじゃないだろうけど……」
「自分の限界試した事ない感じ?」
「……てか自分の限界試したの?」
 大学の飲み会で何度か具合が悪くなるまで飲んだ事があったのを思い出す。もう既に酔い始めている頭でも、これは言うべきではないと判断したので口を噤む。
 誰に言われるでもなく、自分の意思でアメリカに行く資金を貯めたいと思う私にとって飲み会に参加する事は、他の大学生に比べても少ないだろうと思う。
「約束して欲しいんだけど。」
「……何を?」
 友達だった頃には見なかった顔だ。半年前、付き合うことになったあの時に見たその顔と少しだけ似ているような気がする。
「俺の前以外で、限界試さないで。」
「ん?」
 私の思考がアルコールに支配されている事実がありながらも、若干理解ができない彼のその言葉はおそらくアルコールの幻覚ではないだろう。独占欲などの類は強い方だという認識はしていたけれど、もしかしてそういう事なんだろうだろうか。
「………そんな顔、俺以外に見せないで。」
 想像していたようで、想像していない言葉が耳に響く。私はしっかりと酔っ払っているはずなのに、想定していない事を前に心臓の音がうるさく平気なふりを継続できない。
「またまた~、」
「いや、マジで。」
「……目、怖い。」
「本気って分かるっしょ?」
「分かります。」
 少しだけ熱っている頬にグラスを当てがって冷静さを取り戻そうと頭を冷やす。冷やしたところで、目の前の宮城の表情は変わらない。じとっとした湿り気のあるその視線に、改めて当たり前すぎる事実を感じ取った。
「なんかさ、」
「なんだよ。」
「私、宮城の彼女なんだな~って思って。」
「なにそれ、今更?」
 片思いを拗らせすぎていると言えばそうなのかもしれない。でも、ずっと彩子を見ている宮城を見てきていたから。彼の視線の先にいるのが彩子ではなく、自分でしかないその事実に未だ慣れる事はない。彼女になったという自覚はあっても、付き合ってから半年、彼とこうして会うのはこれが初めてなのだから。
「そりゃもちろん彼女になった自覚はあるよ?」
「……てかないと困るし。」
「自覚はあるんだけどさ、聞いてないな~と思って。」
「は?」
 時に、酒にあまり強くないこの一面が役に立つ事もある。というかたった今知った。勢い任せで普段言えないことを想像以上に簡単に言えるからだ。言ったら後悔するだろうかと思案する事もなく、ブレーキをかけるものがなくなって常にアクセルだけが踏み込まれている。
「何で彼女になれたのかって。」
 ブレーキをかける事なく出てきたその言葉にはありのままの本音しかなくて、そして恐らくは普段私が聞きたいと思いながらも聞けないでいた事実だ。言った事に後悔をするは明日の私が担う事になるだろう。
「……マジで今更じゃん。」
「そう、本当に今更。」
「てか理由なんて一つしかないでしょ。」
「まあ多分そうなんだろうけど。」
「……で、何だよ。」
 聞き返すまでもなく簡単に理解されているであろう私の願望を、宮城はあえて聞き返す。普通に考えて、あまり言いたくはないのだろう。付き合って半年、その確信的な言葉を一度たりとも聞いた事がなければ、付き合う事になった時ですらお互いにその言葉を言わずに恋人になってしまった私たちだから。
「聞きたいな~とか思うものじゃない?普通。」
「………今更?」
「逆に今更だからこそ?」
「逆にって何だし……」
「ところで次は何飲む?」
「……会話反復横跳びさせてんの?」
 もう少し突き詰めるにはもう少しばかりのアルコールが必要で、私は久しぶりに見る横文字がズラリと並んでいるメニューを開く。三杯目となるビールを注文しようとメニューを閉じかけた時、気になる文字が見えて私は再びメニューを開く。
「で、何頼むの?」
「……ん~、じゃあスクリュードライバーで。」
「なにそれ、美味いの?」
「分かんない、飲んだ事ないから。」
「は?」
「いいじゃん、飲んでみたくなった。」
 やや不可思議な顔をしながらも宮城は手を上に上げてウェイターにビールと、私のスクリュードライバーを注文する。本当に飲んだ事がないので、どんな味がするのかは皆目検討もつかない。カクテルは甘い分飲みやすく、その分気づいた時にはとんでもない事になっているとどこかで聞いた事があるけれど、スクリュードライバーはどうなのだろうか。
「で、聞けたりする?」
「急に話戻すじゃん……」
「だって気になるじゃん。」
「……普通に分かってんだろ、」
「うん、まあ。」
「じゃあいいでしょ。」
「え~。」
 私がどんな言葉を求めているのか、完全に分かっている宮城の言葉だ。そして、あえてそれを言葉にしないのは本当にそう思っているからなのだろうとも思う。別にその言葉がないと不安になる訳じゃないし、そんなやわな関係性でもない。
 彩子に対しては隠す事もなく漏れ出していたその感情と言葉、それが欲しいと思ってしまった。ただの我儘で、贅沢だという事も理解している。約五年もの片思いが成就したその事実だけでも、私にしてみれば奇跡でしかないのだから。
 目の前に運ばれてきたスクリュードライバーは少しオレンジがかった暖かい色をしていて、とても優しそうなカクテルに見えた。くいっと一口、口をつけてオレンジとその先に何とも言えないアルコールの味が広がった。
「……お酒強い。」
「何でんなもん頼んだんだよ。」
「飲みたくなったから。」
「今度から飲めない酒飲むの禁止ね?」
 そう言って、宮城は私のスクリュードライバーを手に取って自分の飲み物とスイッチする。頼んでもいないのに、こういう気が効くところが結局好きなので少しばかり悔しくなる。ドキドキと心臓が煩いのは、きっとアルコールのせいだろうけれど。
「俺と一緒の時だったらいいけど。」
「……うん。」
 ある意味、私が欲しがったその言葉よりもよっぽど“特別”を感じる事の出来るその言葉は、やっぱり私の鼓動を早めていく。こんな手の込んだ愛の言葉を沢山くれるのに、たった二文字の簡単な言葉は簡単には紡げないものらしい。宮城も、そして私も。
「で、結局言ってくれないんだ?」
「いやいや……マジ今更じゃん。」
「ちゃんと聞きたい酔い具合なんだって。」
「………何だよそれ。」
 困った顔をしながらも、宮城は私の代わりにすいすいと水のようにスクリュードライバーを飲み進めていく。何のお酒が入っているのかは分からなかったけれど、ものすごくアルコール度の高い、喉が焼けるような感覚があったが……本当に彼はザルなのだろうか。
「………You mean so much to me.」
「へ?」
 突然不意をついたようなタイミングで出てきたその英語を、必死に酔っ払った頭で解釈する。こういう時、概ね英語を理解できる自分を喜ぶべきなのか、それとも分からない方が良かったのか。中々判断に難しいところがある。
「ふ、ふいうちだね……?」
「……自分から言ったんだから準備くらいしとけよ。」
「……確かに。」
 好きというその簡単な二文字を、あえて遠回しにしたその言葉は逆に意味を持ちすぎているようでなんだか恥ずかしくなった。「あなたは私にとって大事な人」直訳したその日本語が脳内を駆け巡った時、幸せと一緒にどうしようもない恥じらいが駆け抜けた。
「……何だよその顔。」
「どんな顔?」
「俺の想像してた顔と違う顔。」
「いや、その顔分かんないし……」
「分かれし。」
「無理だし。」
 結局、私たちにこのムードは時期尚早という事なのかもしれない。甘いとか、イチャイチャとか、そういった恋人がしそうな全般が。高校一年生で知り合ってから友達の期間が長すぎたという事もそれを手伝ってしまっているのかもしれない。
「でも………何で英語?」
「ここアメリカだし。」
「まあそうですけど、随分こじつけ感ある理由だね?」
「文句言うなよ。」
「文句だなんて………ご馳走様です。」
「いや、そこは私もとかそういう科白じゃなくて?」
「あ、私もです。」
「もう遅えし!」
 つい先程まで随分とくらくらしていた筈なのに、お陰様で今はとても冷静だ。自分から欲しがっておきながら、ちゃんとしっかりと頭を使わないと理解できないその言葉を解読できるくらいにはしっかり酔いが醒めている。
 あれだけ欲しがっていたのに、実際聞いてしまうと全身が痒くなったようなそんな表現し難い感情に襲われる。これは、本当に時折聞くくらいの頻度でいいのかもしれない。頻繁に聞いていたら心臓が持ちそうにない。尤も、アメリカと日本の遠距離恋愛をしている私たちにはそんな日常はないだろうけれど。
「………なんか気に食わねえ、」
「え、なにが?」
「俺しか言ってないじゃん。」
「あ~、」
 私たちはお互い、持ち得ているその感情を言葉にしないまま付き合って、そして半年恋人として過ごしてきてしまった。それは彼の言うように今更すぎるアタリマエでしかなくて、けれど言葉にされると魔法のように安心する不思議な存在でもある。
「宮城ってアメリカに友達いる?」
「……いるわ。」
「そっか。じゃあスクリュードライバーの意味、聞いてみるといいよ。」
「は?」
 大学のサークルの飲み会で、飲み放題のメニューにあったスクリュードライバーを頼んでいた友人の事を不意に思い出していた。聞きなれないそのカクテルをどんなものなのかを聞いた時、味や成分ではない別の言葉が私の耳を通り抜けていった。
“あなたに心を奪われた”
 結局、私は高校一年生のあの時からずっとこの感情を拗らせているのだ。報われた今ですら、変わる事なく。だって、それは事実であり、私の中で揺らぐ事のない真実だから。それが全ての始まりで、そして今の私たちを動かしたのだろうから。
「もう一杯飲んじゃおっかな~、」
「調子乗んなし。」
「宮城の前でだけならいいんでしょ?」
 わざとらしくテーブルすれすれまで顔を下ろして見上げるようにすると、一瞬合った視線はすぐに外されてしまう。けれど、すぐに聞こえてきたのは私の表情筋が緩むような、そんな一言だった。
「……いいに決まってる。」
 少しだけ自分に自信を持てた夜だった。簡単に紡ぐ事のできないあの二文字を、割と近い未来の彼が口癖のように連発するようになるとは……この時の私はまだ知らない。
 スクリュードライバーの代わりに宮城から譲り受けたビールを飲み干して、私が頼むのは温かみのある色をしたオレンジ色のカクテルだ。
「スクリュードライバー!」
「はあ?」
 それが、今の全てだ。



偏愛レトリック / 完