ああ、またやってしまった。起きてする後悔に、いつだって意味はない。後悔はしても、私はそれを学習しないからだ。後悔をすれば、人間同じ過ちを繰りかさない筈なのに全くもって酒という魔法の飲み物は恐ろしいと思う。私だけでなく、多くの人間を魔物に変える魔法のような液体だ。
「おはよう、気分はどう?」
 確実に気分が悪いと分かっていながら、この男は面白がるように寝起きの私の視界に入り込んで、そんな事を言う。今回ばかりではなく、数ヶ月に一度ある日常にも近い光景だ。こんな日の朝は、決まって目を開いて最初に入ってくるのが迅だった。私が目を覚ます絶妙のタイミングをきっと予測しているのだろうと思う。そんな所で無駄な能力を使わないで欲しいと言っても、自分の意思でコントロールできるものじゃないから仕方がないと言われていつもそこで話は終了する。
「…暗躍に次ぐ嫌な趣味だね、その挨拶。」
「彼女を心配する素敵な彼氏に暴言じゃないか。」
「今の私にはどんな賛美も暴言に聞こえるから。」
「学習しないねえ、相変わらず。」
 迅はそう言って、用意していた水を私に差し出す。具合が悪い事を最大限利用して、目線でペットボトルの蓋を開けて欲しいと訴えかけるも、彼はそこまで甘やかさない。リハビリがてら自分で開けなさいと諭されて、私は力の入らない右手を何度か滑らせながらやっとの事で蓋を開けて、ごくごくと水を流し入れた。既にペットボトルの中身は半分程にまで減っていて、どうせすぐにまた飲みたくなるからと蓋を閉めずにそのままベッドボードに置いた。
 飲みの席にはよく行く方だが、昨日は久しぶりに度を超えて飲みすぎた。自分の限界を分からず飲むほど若い訳でもなく、ある程度酒を知り、酒との付き合い方も心得ている筈なのに大概の大人は何かをきっかけに酒に溺れる日があるものだ。私自身酔いたい程の何かがあった訳ではなかったけれど、もしかすると知らない内に溜まっていた何かを晴らしたかったのかもしれない。
「昨日はどこまで覚えてるんだ?」
「どこまで覚えてるかを覚えてない。」
「それは重症だな。」
 迅は、あまり酒を飲まない。飲めない訳ではないけれど、自分の理性を放り投げる程に飲む事もないし、酔った姿もほとんど見た事がない。いつだって酔って醜態を晒しているのは私の方だ。年は同じでも、あらゆる面で迅の方が大人のように感じられた。
「呆れてる?」
「うーん、どうかな。もう慣れたっていう方が正しい気がする。」
 彼は私が暇を見つけては飲み行く事に対しても、特別咎めることはない。もっと回数を減らせと口出しすることもないし、そもそも酒自体を控えろとも言わない。だからと言って私の全てを受け入れて許容してくれているのかと言われたら、私は自信を持ってイエスと言うことはできない。
「迅はさ、飲みたくなる日とかないの?もやもやしたりとか、あるでしょ。」
 私たちの関係は、出会った頃からあまり大きく変わらず継続されている。同期で友であり、そこから延長線上に伸びて恋人になった。けれど、恐らくは恋人という関係性よりも家族という方が私も、私たちを知る周りの人間もしっくり来るのではないだろうか。先の大戦で身寄りを失った私たちは、きっと無意識に家族をつくろうとしていたのかもしれない。
「まあない訳でもないけど、解決策としては一時的だからなあ。」
「うわ、しれっと嫌味。お酒飲まない人の方が大人とか皮肉。」
 迅の言う通り、一時的なその場凌ぎにしかならない事は分かっている。けれど、一時的にでも楽になりたいと思うのが人の心理なんじゃないかと思う。苦しまみれに何か策を打とうとするのが普通なのではないだろうか。いくら未来が見えると言っても、そこまで達観して悟りを開かなくてもいいのではないだろうか。
「二日酔いの時くらい優しくしてよね。」
 元々の同僚としての時間が長すぎて、どう甘えるのが正解かを私はよく分かっていない。酒の勢いに任せて甘える手もあるのかもしれないけれど、その場に基本的に彼はいないのだから実行のしようがない。昨日は小南の二十歳の誕生日祝いを玉狛支部内でやっていて、珍しく酒の席に彼も同席していた。
「優しくって具体的には?俺のサイドエフェクトはエスパーじゃないから。」
 非番の日が常に被っている訳でもないし、一緒に出掛けることも少ない。任務以外で一緒に外を出歩くのは、生活必需品や食材の買い出しをする時くらいで、基地という名の私たちの家で一緒にいるのがほとんどだ。食事当番で一緒に料理をしたり、寝るまでの間テレビを見ながら談笑したりもするけれど、私たち二人だけの空間という訳ではない。
 燃えるような恋をして付き合った訳でもなかったけれど、そんな生活を繰り返している内にどう甘えるべきなのかタイミングを逃して、そして気づいたら家族のような関係性になっていた。
「酒は控えろとかさ、そういうのないの?」
「ないよ。自分の生きたいように生きるべきだし、俺もそうだから。」
 もし迅が、酒を控えろと言ったら?と考える。その言葉の通り酒を控えるかどうかは別としても、きっと私はその言葉を迅の口からでるのを何処か期待しているのかもしれない。ある意味ではこれ以上ない程に安定している私達の関係性が、しっかりと男と女のそれであるのだと認識する事で自分を落ち着かせたいのかもしれない。
「たまに思う。私って、迅の彼女だったっけって。」
 彼との時間を作らず、誘われるがままに飲みに行く私が言うのも迅からすると烏滸がましい話だろう。けれど、私は自分を引き止めるその一言が欲しかった。あんまり飲みすぎるなよ、気をつけて行ってこい、そんな言葉が欲しい訳ではない。私は、迅にとっての特別な存在である証明が欲しかった。普段から物事に執着しない彼だからこそ、私はそれを欲してしまった。
「なに、俺が不安にさせてるから酒飲むの?」
「半分正解、半分はずれ。普通に楽しくて飲む時だってあるよ。」
「そんな素直で可愛いキャラだっけ、お前。」
「あんたの彼女でしょ、知らなかったの?」
「不覚にも。」
 今更ベタベタとした馴れ合いをしたいとは思わない。それ相応の関係で構わない。周りが羨むような事をして欲しいとは思わないし、周りと同じように付き合いたいとも思わない。私と迅には歴史があって、そして他のどの恋人とも違うのだから同じである必要なんてない。たった一つ、迅が私同じ感情を持ち合わせているのだと知りたかった。自分を、安心させるために。
「もっと私に頓着して、執着してよ。」
 まだ微かに残るアルコールの勢いを借りて、彼の服の裾を掴んでこちらへと手繰り寄せる。勢いを借りたまではいいものの、その先の甘え方を知らない私は結局そこでどうしていいのか分からなくなる。勢い任せに甘えるには少しばかり酔いが足りなかったのかもしれない。
「分かってないなら、は馬鹿だよ。」
 適切な距離の詰め方を知らない私に、迅は笑う。シャツが伸びるからと一度私の手を振り解いて、私に並ぶようベッドに腰掛けた。久しぶりに触れた迅の唇は、ぬるくて、私の冷えた唇には少し暖かい。忘れかけていたものが突然フラッシュバックしたように、思い出したその感触をもう一度自分から確かめに行く。
「俺が酒を飲まないのは、ある程度今の現状に満足してるからかもしれない。」
 私たちは、きっとお互いに不器用なのだろう。なんでも一人で出来てしまうからこそ、誰かに依存して、甘えるという器用さを持ち合わせていない。もしかするとそれは、私も迅ももう何も失いたくないと思っているからなのかもしれない。今まで失ってきてばかりの私たちは、知らない間で臆病になっているのではないだろうか。
「現状で満足してもらったら、私が満足できない。」
「はは、傲慢な奴。」
 近くに手繰り寄せる程、失った時の辛さを私たちはよく知っている。私たちはお互いにとって唯一同じ境遇で、そして理解者なのだ。だから同僚という関係を超えて、付き合った。一番大切で、そして一番失いたくない。それ故に、どうしても失った後の事が嫌でもチラついて、昔のように自分の感情に素直になれないのだろう。自分に正直である事は、思っている以上に難しい。
「未来視なんて、なければいいのに。」
 迅は、その瞳の裏側でどんな未来を見ているのだろうか。その未来に、私はいるのだろうか。それを問い詰めて聴くほど私も子どもじゃないし、迅の気苦労も理解しているつもりだ。だから、その不確定な未来に私は怯えながら生きていく。例えそこに幸せな未来があっても、リスクを考えながら生きていくしかない自分を受け入れて、迅の側にいるしかないのだ。
 大丈夫だと私の恐怖を否定する言葉は出てこない。出て来るはずはないと分かっていながらも、返事がない限り私はこの感情と共存しないといけないのだと、覚悟を決める必要がある。
「迅、もう一回。」
 この不確かながらも幸せな時間が、ずっと続けば私はもっと幸せになれるだろうか。彼のサイドエフェクトであればその答えを知っているのかもしれないけれど、結局それは私には分からずじまいだ。


秘めてラビリンス
( 2022'01'20 )