とても、とても、満たされている。 何を持って満たされているのか。それは万人に共通なのか。それは酷く俗人的な感覚でしかなくて、人の数だけそれぞれ違うのかもしれない。ただひとつ言えるとすれば、私は今のこの現状にとても満たされているということだ。 不思議なのは、満たされている一方で同じくらいの大きさの不安を感じる事だ。満たされている分だけ、同じだけ不安が蔓延っている。つまり、どれだけ満たされても不安が消えることはないのかもしれない。私は今、そんな不思議な境地にいる。 「ん、どうしたの?」 「なんかこうやって帰るの初めてだなあって。」 「そっか、そういえばそうかも。」 付き合って三ヶ月が経とうとしている四月の帰り道。こうして肩を並べて一緒に帰るのは初めてのことだ。全国制覇の常連である山王工業に勝利してから、湘北バスケ部はエース級の期待値を背負っている。彼は、そんなプレッシャーの中でキャプテンを務めているのだから本当にすごいと思う。 二年生の時に初めて同じクラスになったリョータのイメージは控えめに言っても良くはなかった。時折顔に大きなあざや傷を作っていたリョータには近付き難い雰囲気があって、今こうして私の隣を歩いている彼と同一人物なのかと不思議に思うくらいだ。 「ちょっと緊張する……」 「一緒に帰るだけで?」 「クラス替えから一緒にいるのも久しぶりだし。」 「うん、だから俺は今のうちに沢山吸っとく。」 「…吸う?」 「そう、次いつ一緒にいれるか分かんねえし?」 クラスが離れてより一緒にいられなくなった分、最終学年になってキャプテンとしてより忙しくなった分、土日もなかなか会うことが叶わない分、しっかりとリョータは私の彼氏でいてくれる。それを説明するのは中々に難しい。ベタベタと物理的に甘やかしてくれるという訳じゃなくて、この空気感をどう説明すれば上手く伝わるのだろうか。短い時間でも、しっかりと私はリョータに満たされている。 「なんかちょっと甘い匂いがするんだよな。」 「そう?ハンドクリームの匂いかな?」 鞄の中から愛用しているハンドクリームを取り出してみる。お尻の方をくるくると巻かれているそれをもう一回転させて自分の手に伸ばして、そしてリョータの鼻元にふわりと風を作り出した。 「そう、これこれ。この匂いで思い出す。」 「これ人気だから結構持ってる人多いけどね。」 「この間デパートでも同じ匂いしててさ、」 「小田急デパート?」 「そう。で、のこと思い出してた。」 新作が出るたびに新しいものを買い揃えていた私にとって、この言葉はずるい。それが意図的に言われた言葉なのか、本能的にでた言葉なのかは分からない。けれど、確実にそのたった一言がそれを特別なものに変えていく。先月発売してばかりの新作を早く手に入れるべく、不必要なまでに小まめに消費していたのに。こんな事を言われてしまっては私の未来の行動も変わってしまう。 「よくもまあ、そんな真顔で……」 「こう見えて心臓バクバクなんだけどね。」 「この顔で?」 「そう、この顔で。」 俺の得意技平気なふりだから、リョータはそう付け加えて少しだけ罰が悪そうに眉毛を歪めて笑った。特別な事をされている訳じゃない。普通の会話をしているだけ。けれど、その言葉のひとつひとつがどれも私を満たしてくれる。満たされすぎて不安になるくらいに、満ちていく。 「がつけるとちょっと匂い変わる。」 「加齢臭的な?」 「ううん、ふわっと柔らかくなるんだよな。」 「リョータ前世は犬だったんじゃない?」 「まじで、そ〜かも。」 言葉ひとつで、もっとリョータの事が好きになる。つい一ヶ月前まで毎日同じクラスにいてリョータの事を知っていたはずなのに、一緒にいる時間が増える分だけ新しいリョータが垣間見えて、そしてどうしようもない気持ちになる。きっとこの現象を恋と呼ぶのだろうと思う。 ハンドクリームがたっぷりと塗られた私の手を取って、ぎゅっとリョータの大きくてごつごつした手が絡め取っていく。それは手を繋ぐというには少し力加減が強くて、ぎゅっぎゅっぎゅっ、三度同じ力加減で私の手を握り直すと突然手を離された。 なにをするのだろうか。隣にいるリョータを少し見上げるようにすると、私の右手に触れたリョータの左手が彼の鼻元へと近づいて、そしてすぅっと息を吸い上げた。 「いい匂いゲット。」 「なにそれ?」 「暫くは匂い残るでしょ?」 「発言だけ切り取ったら変態っぽいね。」 「男なんて彼女前にしたら皆変態だろ。」 「え〜、不健全!」 「男子高校生なめんなし。」 ちょっと戯けた会話の後に、そっとリョータの左手が優しく私の手を掬い上げる。お互いに油分の多い手のひらは少しだけベッタリとしていて、何だか変な感じがした。カサカサとしているリョータの指先を潤すように、指の間に自分の指を滑り込ませて馴染ませていく。そして、さっきのリョータのように一度手を離した。 「ん?」 「リョータの真似。」 「吸ってんの?」 「そう、吸ってんの。」 ハンドクリームの元の匂いから私の体温を経て、そしてリョータの体温と混ざり合ったそれをすぅっと吸い込むと、少しだけいつもと違う匂いがした気がした。リョータが言うように、俗人的な匂いが加わるのかもしれない。 「どうですか、匂いは?」 「ん〜、なんかちょっとゴムの匂いがする。」 「は?」 「バスケットボールの、あの匂い。」 「あ〜、俺のか。」 リョータは自分の手のひらを再び鼻に近づけて、くんくんと音が出そうなくらいの勢いでその匂いを探している。ほんの微かに残っていた私のハンドクリームの匂いはすぐに嗅ぎ当てたのに、どうやらバスケットボールのあの独特な匂いを感じ取る事ができないようで小首を傾げて不思議そうにしている。 「そんな匂いする?」 「うん、めっちゃする〜。」 「ゴムくさいとか最悪じゃん。」 「字面はね。でも、私好きだよ。」 「そうなの?」 「そう、リョータの匂いだもん。」 両手を交互に嗅いでいたリョータはその言葉に一度立ち止まって、一度よく分からない感情を見せていたけれど、暫くするとニッと私の方に振り向いて笑った。やっぱり、右の眉を少しへの字に歪ませながら。 「俺の彼女、か〜わい。」 こういうところが、狡い。 私がこういう類の褒め言葉に滅法弱く、そして耐性がないと知っているくせに。知っていて敢えてやっている部分も否めないので、いつも私は反応までに時間を要する。そして、どう対応するのが正解なのかを今も尚掴みきれていない。 もう一度リョータの左手が私を捕まえて、余計に言葉を発するタイミングを失ってしまう。そんな私を見てさぞ満足そうなリョータは、少しだけ悪い笑みを浮かべて覗き込むようにして回り込んでいる。 「そんなに私の顔が好きですか?」 「なに、藪から棒に。」 「可愛いって言うから。」 「そんなん好きに決まってるじゃん?」 改めて満たされている、満たされすぎている自分の事を考えてみる。これ程までに満たされていいのだろうかと、冗談抜きでそう思ってしまう。バスケで忙しい分、一緒にいる時はしっかりと全力で私のことだけを考えてくれるところが垣間見えるから。他の彼氏彼女事情を聞くと、明らかに一緒にいられる時間やできる事に制限があるのに、そんな障害なんて関係がないくらいに満たされていて。だから、その分常に不安と恐怖が付きまとうのだろうと思う。 「十年経ったらしわくちゃになってるかもよ?」 「そうなの?」 幸せな分、常に不安が隣にあるような気がして。今が人生で一番幸せだとしたらもう下がるしかないんじゃないだろうか。そう思うのに、リョータと一緒にいる度にその幸福度が更新されていくから、だからその分不安も一緒に張り付いて来る。 「は分かってないな。」 「ん?」 「そう考えてるのまでが“かわい〜”んだって。」 一瞬なにを言っているのだろうか思案する時間が発生する。本当になにを言っているのだろうか。仮説として十年後の未来の話をしてみた訳だが、特別可愛いと思われる内容はない。寧ろ、可愛いからかけ離れた劣化の話をしていた筈だ。思案しても結局その意味がわからず、今度は私が小首を傾げてリョータを見やる。 「十年後も俺といる未来が見えてるって事でしょ?」 言われて、どうしようもなく込み上げるような心音がうるさい。生憎私にはリョータと違って平気なふりという得意技はないので、心音が成すまま感情が溢れ出しているに違いない。そのかんばせは、ゆるゆるに緩みまくっているのかもしれないし、驚くほどに赤いのかもしれない。そして多分、その両方なんだろうと思う。 「例えばの話じゃん………」 「素直じゃないとこも含めて全部か〜わい。」 「馬鹿にしてるでしょ。」 「してる訳ないじゃん?」 どきどきと体の中心から湧き出ているそれが手のひらを通じて伝わってしまうような気がして、指切りをする時のように一度弾みをつけてリョータの手を振り解いた。そんな私をみると、やっぱり満足そうなリョータは凡その状況を把握しているようで両腕を頭の後ろに組んで余裕そうだ。むかつく。でも、好きだから悔しい。 「ちなみにこれ内緒の話だから内密に。」 「なにそれ?」 「俺の彼女が可愛い理由は、重要機密事項なの。」 「まじで意味わかんない……」 「漏洩したら他の男に取られちゃうからね。」 バスケに対してとても紳士的で、きっと頭の中はバスケの事で埋め尽くされている筈なのに、どうしてこうもこの男は私を惑わす術を知っているのだろうか。満たされながらも不安に感じている私から、ついにこの男は不安を取り除いたのだからどうかしている。 「だから、どうかご内密に。」 目の前に見えている最寄り駅の改札が、あともう少し遠ければいいのにとそう思ってしまった私の負けが確定した瞬間だった。
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