柄にもなく、今日という日を私は思っている以上に楽しみにしていたのかもしれない。

 期間限定の遠距離恋愛になると聞かされたとき、期間限定って具体的にどれくらいかと尋ね、返ってきた答えにそれくらいなら普通に出張に毛が生えたくらいだから大して変わらないのではないかと言った私に、当の本人は酷く気を悪くしていた。
 別に私だって喜んでいる訳ではない。ただ、そこまで悲観する事でもないと思ったのだからそう言ってしまったのだ。半年にも満たない遠距離で、その時期が来れば元の場所へと戻ってくるのも分かっているのだからたいした問題ではないと世間の女も思うのではないだろうかと言えば彼からも大目玉を食らうし、友人に話しても人間としての何かが欠落しているのではないかと疑われた。私は、そんなに可笑しな事を言っているのだろうかと本気で不思議に思う。
 元々私の先輩だった彼は、以前同じ拠点にいた時と同じように仕事が終われば生存確認という名の電話もしたし、週末ともなればオンラインで映像を繋いで話す事もあるのだから、彼が同じオフィスにいた時と然程変わらない。
 寧ろ付き合っている事を隠しているよりは、幾分も今の方が関係性としては堂々と出来ていいのかもしれないとすら思う。間違っても、それは言葉にする事はないけれど。思いの他、彼は乙女心を持ったように繊細に傷つきやすいらしい。
 彼が長期という名の出張へ出かけてから二ヶ月、久しぶりに帰ってくる予定となっていた。
 月曜日にはまた通常の業務が待ち受けているのだから、金曜日の夕方アポからそのまま車で直帰するらしい。私が土曜日にゆっくり帰ってくれば?と聞けば、想像していたように顔を歪ませたのだから、金曜日寝ずにお待ちしてますねと伝えて、今日がその時だ。
 時刻はもう間もなく、十時だ。
 部屋も片付け、会社から帰ってきてから少しだけ化粧を直して準備も整っていた筈の私は、状況に違うようにベッドに打ち伏せていた。
 もうすぐ付くとメッセージが彼から入って、ベッドから体を起こす。乱れた髪を手櫛で少し整え、近くの駐車場にエンジン音が聞こえて玄関のドアを開けて、出迎えるためその場へと向かった。
「おう、愛想なし女元気だったか。」
「感動の再会で随分なご挨拶だ事で。」
「じゃあ、何がお望みなんだよ。」
 駐車場の券売機から出てくる紙を受け取った彼は私に気づいたように、皮肉でその幕を開けた。これは私たちが付き合う前から変わらない恒例行事なのだから、別に今になって私が剥れる事はない。
「そうやって勘ぐるのやめて欲しいけど…お帰り、宇髄さん。」
 私がそう言えば満足したように彼は私に歩み寄って、腰に手を添えて車のキーを手で遊ばせながら歩みを進んでいく。酷くご機嫌な様子が見て取れて、意図せず私まで何だか嬉しくなる。
 二人で玄関のドアを開けて、彼はきちんとリビングのソファーの端っこに重たそうな鞄を置いて、私が用意していた壁にかかったハンガーでスーツを掛けて、吊るす。
「宇髄さん、何食べたい?」
「六時間運転して来たから取り合えずビール飲みたい。喉、からっから。」
「六時間はそりゃ疲れるね。ちょっと待ってて、今用意する。」
 台所に行ってビールを取るために冷蔵庫を開ければ、後ろから図体のデカいその体が圧し掛かってくる。太っている訳ではないにしても、いつになったら彼は自分と私の体の作りが違うと分かってくれるのだろうか。いつもであれば、重たいと言って早々に退去を命じていた私も今日ばかりはその重みが少し愛おしく感じられた。これが二ヶ月の重みで、遠距離恋愛の醍醐味なのかもしれない。
 ビールを持って振り返れば、随分と上のほうから赤い瞳が私を見ていて、こんな光景も随分と久しぶりだなと手持ち無沙汰になって、背伸びをして両手に持っていたビールを彼の頬に挟み込むように翳してみた。
「冷た。」
「そりゃそうだよ。飲みたいかなと思ったから、奥の冷える所に置いてたし。」
 そう言えばちゃんと私の髪を撫でて、その行為を褒め称えてくれる。いくら私が一般的な夢見る少女のように楽観的に考えることの出来ない人間でも、嬉しいと感じる事を彼は知っているのだからずるいと思う。
 普段は言葉の厳しい彼も、仕事できちんと成果を残した時は私にこうして褒美をくれていたのを思い出す。仕事の出来る彼に認められたという喜びと同時に、一人の女として嬉しかったという事を彼は知っているだろうか。自分の柄でもないから、知らないでいてくれたらいいなと思う反面、そんな事は万に一つにもないだろうなと思う。
 取り合えずその攻撃を拭って、リビングへと戻り、彼をソファーへと座らせる。
「なんか適当に作るから寛いで待ってて。」
「…お前、俺が来るのに何も作ってなかったのか。」
「あ、うん。仕事終わったの遅くて。ごめん。」
 自分が来るのにも関わらず何も用意していなかった事に気分を害しているのかと少し焦りもしたけれど、綺麗に掛け布団が整っていないベッドを一度見て、まじまじと私の表情を見た彼は、私の腕を引いてソファーへと居直らせた。
「お前、具合悪いだろ。」
「何、突然。」
「事前準備に命掛けるお前が何も作ってないとかありえない。」
「言い方に悪意を感じるけど、帰ってくるの遅かったって言ったでしょ。」
「さっきまでベッドで転がってたくせに。」
 突然我に返ったようにビールの缶をテーブルにおいて、私が立ち上がることをそっと拒む。以前から不思議に思うことがあった。私はあまり人に感情を出すほうでもなければ、それを口にする事がない。自分の事で他人に迷惑をかけたくないという気持ちが強いところがあるのかもしれない。
 私が今どういう状況なのかを悟ったのか、ベッドに転がされた。
「…ご飯の前に、お前ってやつ?」
 少しばかり冗談めいてそう言えば、本当に心配そうな彼の顔が見えて何も言えなくなる。
「馬鹿言ってるなら、転がって大人しくしてろ。」
 意味分からないから、大丈夫だしと起き上がろうとすればそれを彼は許してはくれない。先ほどまで手に付けていたビールもテーブルに置かれたまま、気温の変化に汗をかいてテーブルを濡らしていた。
「お前は昔からそうだったからな。嫌でも分かるわ。」
 これは本当に今の私の状況を分かっているのだろうと、そう思わずにはいられない。けれど、昔からというのは一体何のことなのだろうか。彼と出会って一年以上は経っているけれど、毎度彼は私がそうなる度に何かを感じていたのだろうか。
「…昔からって、何。」
「あー、顔みたら分かるって事。」
 なんだかはぐらかされたような気がしないでもなかったけれど、取り合えず悟られているのは間違いないのだから仕方がない。プライベートだけでなく、仕事の時ですら彼はエスパーなのだろうか?と不思議に思うことがあるが、それは彼の感が鋭いというその一言で片付けてしまってもいいのだろうか。それにしてはあまりにも的確で正確なのだから驚いてしまうのだけれど、肝心な所で彼は何も言わなかった。
 乱雑にベッドへと転がしたかと思えば、驚くほど丁寧に掛け布団をかけてくるのだから、何だか調子が狂う。
「……ごめん。」
「何が。」
「いや、二ヶ月ぶりに会ったからそういう事したかったかなと思って。」
 数ヶ月ぶりに会うのだから、そういう事にもなるだろう。もうそれを恥ずかしがるような年齢でもないのだから、率直にそう伝えると深いため息が聞こえてくる。
「お前は俺のことを性欲の塊だと思ってんのかよ。」
「そこまでは言ってないけど、どっちかに分類したらどちらかといえばそちら側でしょ?」
「よく自分の彼氏のことそんなセックスマシンのように言えたもんだ。」
「悪意はないよ。」
 正直に言えば、私自身も期待していなかった訳ではなかったからだ。知らず知らずの間で、私も彼の事を求めていたのかもしれないなとそんな事を感じざるを得ない。
 たかが数ヶ月に限定した遠距離とは言えど、きっと心のどこかでは寂しく思っていたのかもしれない。今日の自分の行動を鑑みると、意図せず彼と会える事に気分があがっていたからだ。
「別にお前がここにいれば、それで目的は達成できてんだよ。阿呆だな。」
 その言葉で、自分が如何に安直な考えを持っていたのかを思い知って少しだけ恥ずかしくなるのと同時に、幸せを噛み締めた。
「遠距離、いいかも。」
「喧嘩売ってんのか。」
「だって宇髄さん、優しいし。ちょっとときめいちゃったから。」
「いつもときめいてるの間違いだろ。」
「ほんと自信過剰は健在だな。」
 いつだって愛情を自分から表現するのは苦手だ。言葉で甘える事も滅多に出来ないし、自分から肉体的に甘えるのも得意ではない。今まで付き合ってきた人に対してはそんな事はなかったのだとも思うけれど、何故だか彼には昔から一緒にいたような安心感があった。何年も一緒に連れ添っていたような感覚があって、それは恋人としてというよりは仲間としてずっと一緒にいたような信頼関係に似たもののように感じる。
「でも、そういうところ好き。今日は特に、好き。」
「今日に限定するなよ。相変わらず可愛げに欠けるやつ。」
 そうは言いながらもきちんと私の意向を理解して、大きな体で私のことを包み込んでくれる。
 どこか強がっていたのかもしれない。私は男に依存しなくても一人で自立して生きて行ける人間なのだと。昔からそう思って育ってきたところはあったけれど、彼の前にいると安らぎを感じると共に、いつだって強がる事をやめられなかった。一人の人間として、何に依存する訳でもなくちゃんと生きていけるのだと示すかのように。
 大学の頃だっただろうか、占い好きの友人に無理やり連れて行かれた占いでも言われた事があった。前世では常に何かと戦い、自分の身は自分で守らないといけない過酷な状況に常にいて、そのまま死んでしまったのだと。だから人に甘える事にも抵抗を無意識に感じてしまうのかもしれない。
 暫くすると彼は台所へと向かって、冷蔵庫から生姜を取り出して生姜湯を作ってくれた。
「血行がよくなるらしい。酒と思って飲んどけ。」
 マグカップに入ったそれに口をつけて流し込むと、本当に彼が言うように体全体が暖かくなるようで全身の血流が流れていくのを感じる。自分が腹部に抱えていた鈍痛も少しばかり軽減される気がした。
「……なんか、懐かしい味。」
「なんだ、親にでも作ってもらってたのか。」
「ううん、飲むのは初めてなんだけどなんか懐かしくて。」
 以前にも彼は同じ事をしてくれていたような気がしたけれど、思い返してもこれが初めてだろう。それでも何だか懐かしいような気がしてしまうのは何故なのだろうか。
 体が温まってきたことによって、何だか火照りを感じる。今なら素直に甘えられるような気がして、マグカップを持ちながら少しだけ体を彼のほうへと寄せて、もたれかかってみる。
「お前は弱ってるくらいでちょうどいいかもな。」
「人がしんどいのを楽しまないでよ。」
「なら普段からもう少ししおらしくしたらどうだ。」
「……検討はしてみます。」
 態度と口調が伴っていない事は理解しつつも、どうしようもなく今日は彼の優しさが愛おしくて、甘えたいとそう感じていた。いつだって彼は私の足りないものを埋めてくれるような存在で、まだ知り合ってからそれ程長い月日が経っている訳でもないのにもう何年も一緒にいるような安心感があるのだから不思議で仕方がない。
 安心感を覚えると同時に、強がってしまうのは何故なのだろうかと不思議に思いつつ、今日は数ヶ月ぶりに映像ではなく現物として私の前に現れた彼に数か月分の甘えを体現してみようと思った。
「宇髄さん、早く帰ってきてね。」
「いつまでもその師弟関係のような呼び方止めろよ。」
「いつから宇髄さん私の師匠になったんですか。」
「お前が俺から学ぶことがある限りそうなんじゃね?」
「じゃあ一生、宇髄さんだね。」
 このどうしようもなく大きな温もりと安心感に抱かれて、私はもう少し素直に人生を生きてみようと思った。
 意図せず、自分が彼の事をどれだけ大切に思っているのかを思い知らされる一日になった。

密かな共依存
( 2020'08'14 )