私は、賭けに負けたのだと思う。無謀な賭けになどでなければ、よかった。奈良坂透は、私の幼馴染だ。寧ろ、幼馴染という言葉で表現するよりは、血の繋がっていない家族と形容した方が正しいのかもしれない。同じ病院で、同じ日に私たちは生まれた。
 お互い住んでいた家も近かったこともあり、母親達の仲も良好で、何をするにしても私たちは一括りにされて、常に一緒にいた。私の幼い頃の記憶の断片には、いつだって透がいた。私たちのこの関係は、思春期になっても、大人になっても、中年になって歳を老いても唯一変わらない不変のものだと思っていた。まさか、たった一つの私の過ちでそれが綺麗さっぱりなかったことになるとは思っていなかったのだ。
 全ては、一人だけ成長をやめた、私の愚かさが招いたことだった。
 これは、私がたった一手を誤り、そして全てを失って虚無感に苛まれるまでの過程となる話だ。



 透の住んでいた家が、第一次近界民侵攻で半壊してからすぐに彼はボーダーに入った。真面目という言葉が似合う男である一方で、特別正義感に強い男という訳でもないと私は思っていた。だから、彼がボーダーに入ったのだと入隊後に事後報告を受けた時は、それなりに驚いた。
「なんだ、は俺が入隊した事に反対してるのか。」
 何でも透に話す私と違って、透は私にあまり多くを語らない。相談しないで、自分自身で考え、答えを出して、自走するタイプだ。それは相手が私だからという訳ではなく、誰に対してもそうなのだからきっと性分だろう。
「そんな事ないよ。でも透って正義のヒーローって感じじゃないし。」
「別にボーダーに入ったからと言ってそれが正義とは限らないし、入隊の目的は俗人的なものだろう。」
「そうなんだけどさ、世間一般的な見え方のはなし。」
 私がきっと問いただしたところで、透が私にボーダーに入った本質的な理由を言うことはないだろうと思ったし、きっと詮索されるのも本意ではないだろう。そう思って、聞くことをやめた。何を考えているかよく分からない性格をしていながらも、付き合いが長いからこそ、ある程度の推測はできていた。
 正義を貫くためではない。きっと、自分の煮え切らない、どこに放出していいか分からない不条理な感情に理由をつけるために、彼はボーダーに入ったのだと、私はそう思った。答え合わせをした訳でもないのだから、私のただの妄想に過ぎないと言われてしまえばそれまでの話だ。
「じゃあ、私が入隊しても目的があればいいって事?」
「お前は時々突拍子もない事を言うな。」
「そんな事ないよ。だって透が言ったんでしょ、俗人的なんだって。」
 私のその理由と目的は明らかに不純で、言葉に出すことは絶対にできないものだったけれど、そう言えば透は何と言ってくるのだろうかと純粋に気になったのだ。ある意味では、かけに出たのかもしれない。
「…がそう思うんだったら、いいんじゃないか。」
「透なら、そう言うと思った。」
「それはそう言うと分かってる俺を、逆に利用してるんじゃないか。」
「そうだね、だって言質取りたいじゃん?」
「そういうところが、らしいな。」
 本当は、私がボーダーに入ることに対しての許可が欲しかっただけだった。その理由が、何故なのかを聞いてこないあたりが透らしいと思う。私が聞かなかったのと同じように、彼も私を認めながらも、自由に放任している。私たちには、お互いを拘束する効力はないのだから。友達以上、恋人未満と言えば酷くくだらない関係のように聞こえるけれど、私はその絶対的な立ち位置が、きっと何よりも大切だった。
「どうせなら試験もちゃんとしたいから、透が教えて。」
 こうやって、私は透に甘える。この絶対的な立場を利用して、透の隣にいるのだ。そうして私を甘やかしてくれる透がいる限り、私はこの立ち位置を退くつもりはなかった。
「お前の注文は、俺に拒否権を与えない物言いだな。」
 そう言いながらも、私に手を焼いてくれる透が、私にはどうしようもなく大切だった。
 間も無くして、私は透の後を追うようにボーダーに入り、正隊員になった。組織外の人間に重要機密を教えるわけにはいかないからというお決まりのような定型文を必ず冒頭につけながらも、教えても差し支えない部分だけを、透は私に教えてくれた。お陰で、入隊後もスムーズに進むことができたし、透の顔のお陰ですぐにボーダー内でも馴染むことができた。
「もう上がり?私、後三十分で終わるから待っててよ。」
「テスト近いし、勉強したいんだけど。」
「頭いいんだから大した勉強しなくても余裕なくせに。待合室でちょっとだけ待っててよ。」
 ボーダーに入ったのは、透の近くにいる事が目的だった。多分、透本人にも何となくその真意はバレているのだろうと思う。それでも、彼は特別私への態度を変えず、今まで通りに接してくれる。多分、私が高校受験に失敗したことを、気にしてくれているのだろうと思う。
 進学のとき、透が進学校へ進むつもりだと言う事を本人から聞いて、体温が冷えた気がした。考えてもみれば当然の事だ。学力に秀でた透が、一般校にわざわざ進むと言う選択肢はないだろう。少し考えれば分かった事なのに、私はそこまで頭を回すことのできなかった、ただの頭の足りない人間だった。
 そこから必死に同じ高校に行くために勉強をしたが、エンジンを掛けたタイミングが遅く、手遅れだった。私は、結局一般校に進学し、生まれて初めて透と離れることになった。私がボーダーに入った理由も、そこに起因するものが一番大きい。
「分かった。終わったら、声かけて。」
 透は、優しい。それは彼に彼女がいても、私に彼氏がいても、変わらない私たちの関係図だ。透は彼女のことを大切にしているけれど、それと同じくらい私にも労力を使ってくれる。私自身も彼氏に甘えながらも、本質的な部分では透を頼った。そんな、関係性だ。きっとこれを形容する言葉はないだろう。
 好きなのは当然として、恋愛的な好きとはまた違って、私の中で透は特別な存在だ。どう表現するのが正しいのかは分からないけれど、それは彼氏なんかよりもよっぽど、私にとっては大切な存在だし、透にとってもそうだと何故か信じて疑わなかった。



 夕方からの任務があって、まだ時間にも随分と余裕があった。透に、一緒に防衛任務に行こいうと連絡をすれば、分かったとその一言だけが返ってきた。私は、自分自身が嘗て落ちた透の通う高校へと足を伸ばしていた。
 校門の前で、透を待つ。何故だか、少しだけ鼻が高いような気がしていた。別に彼女の気分になった訳でもないけれど、透を待つこの感じは悪くないと思った。
先輩、奈良坂先輩待ちですか。」
「うん、透と一緒に防衛任務行こうと思って。」
「ほんと、仲良いですね。もうすぐ来ると思いますよ。」
 そう言って、古寺を見送って、私は透を待つ。私がこうして校門で待っていることは初めてなのだから、透は何か言うだろうかと考える。けれどすぐにその結論に至ってしまう。きっと、彼は何食わぬ顔でいつも通り何も表情を変えることなく私と合流するだろう。
 少し悔しいような気がしながらも、いつもの事かと思いながら彼を待っていた時、一人の女に声をかけられた。明らかに、私に対しての悪意を孕んでいる顔だった。
「透の彼女でもないくせに出しゃばらないでよ。普通に、ムカつく。」
 私は透の彼女を見たことはなかったけれど、きっと彼女がそうなのだろうと察知した。いくつか思い当たる節があって、私も最初は何も言えず、ただ立ち尽くすだけだった。自分自身が元から持ち合わせていた境遇を最大限利用して、透を独占していたと、私自身に自覚があったからだ。
 ボーダーで上手くいかず落ち込んだ時も、彼氏と喧嘩をして泣いた時も、風邪をひいて具合が悪い時も、私が一番最初に連絡を入れるのは透だった。それが、私にとっての当たり前だったからだ。物心ついた時から、それが私のルールのようになっていた。
「自分の立場弁えなさいよ。透だって迷惑してるんだから。もう関わらないで。」
 少しばかりの罪悪感を感じていた筈の私は、プチンと切れたように、彼女のその言葉で何かが弾き飛んだ。この女は何を言っているのだろうか。もう関わるな?そんな事が何故言えるのかと、誰に断りを得てそんなことを言っているのだと。腹が立って仕方がなかった。
「透が自分ものみたいに言わないで。私と透はあんたなんかとは歴史も違うんだから。」
 逆上してしまったからには、もう自分の口を止めることはできなかった。行ってはいけないと分かっているその一言を、私は紡いでしまった。
「透は私のなんだから。だから、取らないで。」
 言う前も、言った後も物凄い罪悪感がありながらも、自分の本心でもあるその言葉に後悔はなかった。この言葉自体は、私の嘘偽りのない、本心だからだ。このまま透を待ち続けることもできなくなって、私はその場を離れた。米屋にシフトを変わってもらように伝えれば、条件付きですぐにオーケーの返事が返ってきて、私はそのまま逃げるようにして自宅へと戻った。
 私にとって透は、一体なんのだろうか。とてもそれは形容しがたく、言葉にするのは難しい。現に私には彼氏がいて、透にも彼女がいる。だから、恋人関係だとか、恋愛的な好き嫌いではないはずだ。もっと純粋に、心の奥底で当たり前に存在しているこの関係を、なんと表現すればいいのか私は分からない。透なら、その答えを知っているのだろうか。
「…もしもし。」
「ああ、うん、?ちょっと、出てきてくれないか。」
「透が電話してくるなんて、珍しい。」
「…心当たりは、ある筈だろ。」
 家の玄関を出ると、透がそこにいた。私が出てきたのを確認すると、持っていたスマートフォンをしまって、テクテクと一人で歩き始める。私がどこに行くのかと尋ねると、珈琲でも飲みながら話をしようと言って、私たちがよく通っている喫茶店へと連れて行った。
 珈琲と紅茶を頼んで、私たちは正面に向き合って、無言の時間を過ごす。彼と一緒にいて、ここまで居心地が悪く、息がしにくいと感じたのは今かつて一度もなかった。何のことを言われるのかは、なんとなく理解しているつもりだった。
「俺は自分のだからってあいつに言ったって本当か。」
 息ができないくらいの苦しさを覚える。その言葉は、確実に私自身が透の彼女に向けて放った言葉だ。その場の勢いをつけて言ってしまった言葉ではあったけれど、紛れもなく私の本心でしかないその言葉を、私はどう説明すれば正しく透に伝わるのだろうか。
「…言ったよ。だって、そうじゃん。私たちずっと一緒だし、現に今だってそうでしょ。」
「じゃあ、言ったって事に否定はしないんだな。」
「うん。本当のこと、言っただけだよ。」
 きっと透は私を責めるために聞いたのではなく、事実確認をするために私を呼んだのだろう。自分自身の彼女でありながらも、私の意見や主張を聞かずにそれを鵜呑みにしようとしない、如何にも透らしいやり方だなと思う。
「なら、もう俺はとは一緒にいられない。こうして会うのも、これが最後だ。」
 その可能性を全くとして考えていなかった訳ではなかったけれど、直に自分の耳でその言葉を受け入れた時、表現し難いような感情になった。透が、私以外の誰かを優先するはずがないのだと、どこか奢っていたのかもしれない。
「もう、とは会わない。」



 言われて、しばらく私は次の言葉を紡ぐことができず、呆然としていた。透が放ったその短い一言が、信じられないほどに受け入れがたく、信じられなかったからだ。私と透が離れるなんて、いつの時代も想像したことはなかったのだから。
「どうしてそうなるの。言い過ぎたって自覚はあるよ、だからちゃんと彼女には謝る。」
「違うだろ。それは、だってわかってるはずだ。」
「私は、今までと同じように透と一緒にいたかった、傍にいたいだけ。」
 彼氏になってと言うのとは違う。私には彼氏がいるし、透にも彼女がいるのだから、その軸とはまた一線ずれている話だ。私と透にはわかるであろうこの関係性も、きっと世間では理解できないことだろうと思う。だからこそ、私たちの関係性は表現することが難しく、私たち二人以外に理解をされない。
「そのつもりだったよ、俺も。でも、ルールを破ったのは、だろ。」
 破ったつもりはなかった。ただ、私にとっての透が何よりも大切なように、彼にとっても私がそうであって欲しいという願望のまま、つい言ってしまった一言だった。あんな風に食ってかかって来られなければ、決していうことのなかった言葉だと思う。
「俺たちの関係は本当に大切にしなきゃ手に入らないものだろ。何なら、恋人なんかよりも。」
 それを聞いて、その通り過ぎて私はとんでもない事を仕出かしてしまったと後悔をする。もう今更後悔したところで、私がどれだけ泣いて喚いて謝ったところで、状況が好転することはない。付き合いが長いからこそ、最早私に挽回の手はないのだと悟らせる。
「恋人は別れたらそれで終わりだ。そうならない為にこの関係を大切にしなきゃいけなかったんじゃないか。」
 その一言が的確すぎて、言葉が出ない。声もなく、涙だけが意思とは裏腹に流れていった。縋れるくらいの隙があればよかったのにと思うほどに、もうこれは一方的な別れの最終通達でしかなく、どんどんとそれが現実味を帯びてきて、自分の感情を処理するのが難しくなってきた。
「その暗黙のルールを、も分ってると思ってた。だから、もうとは会わない。」
 普段から言葉数の多くない透にしては、一方的に私に話しかけてくれる。それだけ、私とのこの関係を大切にしてくれていて、そして心の内で育んでくれていたのだと、間接的に理解した。私がどんな無茶を言っても、彼女よりも優先していつだって透は私の前に現れた。だからこそ、彼女は私に怒りを感じていたのだろう。至極、真っ当な感情だと思う。
「ボーダーは、どうするの。」
「同じ隊って訳でもないんだし、どうとでもなるだろ。」
「周りの人がびっくりするよ、何事かって。」
「別に説明する必要もないし、詮索してくるような野暮な人間も少ない。」
 彼のこの冷静なまでの言葉が、きちんとこの後の事を想定しているのだと私に分からせて、絶望にも似た感情を植え付ける。もう、何を言っても、状況が覆ることはないのだと、そう言っているのだろう。
「分かった。だから、私を家に送り届けるまで、いつもの透でいてよ。」
 きっと、透だって私と永遠にこの関係性を終わらせることを本意とはしてないのだろう。苛立ちが見えるのは、きっとそう言う事なのだろうと思う。暗黙のルールを何となく理解しておきながら、知らないふりをして破った私が完全に悪い。
 透は私のものだと、そう言われた彼女に透が示しをつけるには、もうその選択肢しかきっとないのだろう。私が透の立場でも、そうだろうと思う。けれど、どこか天秤にかけた時に彼女よりも私を選ぶのではないかと、そう奢っていた私の負けだったのだ。
「分かった。じゃあ、帰ろう。」
 通い慣れたこの喫茶店の帰り道を、こうして透と帰るのも金輪際ないのかと思うと、一歩一歩を噛み締めるように大切に感じる。今までなんてことがないと思っていた日常ほど、掛け替えのない大切な瞬間だったのだと気付かされる。今更気付いたところ、全ては意味がないのだけれど。
「もう透に教えてもらえないのか。腕、落ちたりして。」
はもう充分強いだろ。よく言う。」
「まあね、透の教え子な訳だし、そりゃ強いよ。」
 どうってこともない話をして、私たちは、確実に一歩ずつ、終わりへと近づいていく。いつまでもどこまでもこの道が続けばいいのにと思いながら、無常にもその道のりはいつも以上に短く感じるのだから、神は時に残酷だ。
「じゃあな、。色々、頑張れよ。」
 そう言って、私に背を向けて、もう一生戻ってこないであろう透は、私の元を去っていく。私のたった一度、言葉を誤っていなければ、その背中は今も私に背を向けることなく、こちらを向いていてくれたはずなのに。
「透。」
 名残惜しくって、その名前を呼んだとき、少しだけ透の歩みが止まったようにも見えたけれど、振り返って私の元へと戻ってくることは、なかった。
 私は、こうして自分の自業自得で、何よりも大切にしていた男と終わりを迎えた。彼氏という存在とは比較しても比較しきれないほどの大きな存在がぽっかりと抜けた私は、抜け殻も同然だ。何よりも私自身が後悔せざるを得ないのは、彼自身も私をかけがえのない、比喩し難いその関係性のもと、何よりも誰よりも大切に考えてくれていたという事だった。
 彼と少しでも一緒に居たいと、そんな不純な動機で入ったボーダーでの今後の過ごし方を考えると、まさに地獄でしかない。未来は、簡単に想像できてしまうのだから残酷だ。
 透の優しさが、私には致命傷だった。
 

不誠実に優しいあなた
( 2021'12'20 )