珍しくマネージャーの仕事を早く終わらせた私は、更衣室脇で、ブン太を待っていた。全国大会の決勝に敗れてから一週間が経ち、三年生は、形だけの引退を余儀なくされた。付属高校という事もあり、立海の夏は今年も変わらない。ただ、部長が切原という後輩に託されただけで、他は、何も。
「ブン太遅い。」
「おお悪い悪い…て待ってろなんて言ったっけか?」
「ううん。あたしが勝手に待ってた。」
 恋愛は恋愛。部活は部活。これは私達が作ったルールだった。部活に私情は持ちこまない。それが、ブン太から私に託されたたった一つの願いだった。我がままそうに見える彼は、案外、誰よりも常識人で、人の心を思いやれる人間だ。彼の提示してきたたった一つの願いを、私はずっと守り続けてきた。だからこそ、今日は彼の帰りを待つより他なかったのかもしれない。
「なんだよ。お前待ってるなんて思ってなかったからジャッカルもいるけど。」
「別に私は構わないよ。ねえ?ジャッカル。」
「……それは俺に拒否権がないと言ってるようなものだろ。」
 言って三人同時にほほ笑んだ、なんて事無い時間。この先もきっと、継続される穏やかな時間。私達三人は帰路へと足を進めていく。伸びた夕日が、影を伸ばしたように、私の身長を大きく見せる。けれど、そんな私の影よりも更に大きいブン太の影を見て、ふと安心する自分に気づいた。目に見えるものはなくても、ブン太は本当に頼りがいがあり、私から言わせれば完璧な恋人に違いない。
「じゃあ、また明日。」
 ジャッカルがふた手に別れた、私達とは別の帰路へとついていく。私と、ブン太は、彼の後ろ姿を見送りながら、もう一つの道を歩いて行く。二人きりになった帰路道は、少しだけ不自然に静けさを保っていた。ブン太と肩を並べて帰る帰路道は、付き合う前の随分と昔の事以来だった。
 ブン太は相変わらず、何も言わない。私も、何も言わない。着実に家路へと向かっていく足取りだけが、私達の聴覚を刺激した。
「なに、今日はお喋りなブン太にしては静かだね。」
「…それはお前も同じだろい、青葉。」
「え?私、そんなにお喋りな方じゃないと思うんだけど。」
 そう言えば、ブン太は呆れたように笑った。その笑みに、彼に似合わぬ、痛々しさを浮かべながら。不自然なまでの、二人の会話が、再び消えていく。付き合いたての恋人達ではないにしろ、あまりにも質素な会話だった。それは、私達が不仲な訳でもなく、なんとなくその理由が私には分かっていた。
「ねえ、ブン太。夏、終わっちゃうね。」
「あー、そういえばそうかも。」
「そういえばなんて、白々しいな。ブン太にとって、夏って、一番の季節でしょ。」
 核心を突く様に、私がそう言えば、一度彼は私の方を見てから、わざとらしくそのかんばせに笑みを塗りつける。先ほどと同じように、やはり、何処か痛々しさを感じさせる、そんなかんばせを。きっと他の人には分からない、幼いころから彼と一緒に居た私だけが分かる、それが。少しだけ、優越感に浸らせてくれた。
「そうだな。もう苺ミルクの練乳かき氷も食えなくなるんだな、来年まで。」
「うん。ほんと、それ。」
「でも秋は食欲の秋だしなあ、栗の菓子類が盛んになるから悪くないなあ。」
 明らかに、私が何か言いたげにしているのを分かっていながらも、彼はあえて日常的な話を、日常的な笑みをつくろって話し続ける。私も、彼の口からそんな日常的な言葉が出ているのと同じように、あえて同じような返答の言葉を返す。
「もう一応引退した訳だし、時間あるから久々にケーキバイキングでも行こうか。栗スイーツめぐり。」
「お!青葉にしては名案だなあ。その誘い、乗った!」
 元気そうな口元に、不自然なまでの違和感を感じたのは、きっと私の感違いではない。私が彼から聞きたかった本当の言葉は、今彼が言った事とは程遠い。私は、彼が自らその話題を口にするのをずっと、この一週間待っていた。けれど、結局のところ、期待の言葉は未だ聞かれていない。
 私は、ブン太との約束を守ってきた。彼が望んだ一つの願いを、ずっと、守ってきた。それは、彼が本当にテニスというものを何よりも大切にしているからであると、分かっていたからだ。時折、ブン太にとっての自分の立ち位置が、テニスよりも弱い存在なのではないだろうかと嫉妬する事もあったけれど、それでも私は彼のテニスに関与する事はなかった。マネージャーという、一番彼のテニスに関わる立ち位置にいても、自分なりにそれは守ってきたつもりだった。
 幼いころに、ブン太とよく日が暮れるまで遊んだ公園が視界に映り、私は半ば強引に彼をそこのベンチに腰かけさせた。腹減ったから早く帰りたいという彼に、たまには彼女に時間費やしてもいいでしょ、そう言えば彼は何も言わずに大人しくなった。
「なんか、喋りなよ。言いたい事とか、ないの?」
「お前から引きとめておいてそれはないだろ。」
「いいじゃん。滅多に我がままを言わない彼女のお願いの一つくらい、聞いてくれたって。」
「よく言うぜ。って言いたいとこだが、そうかもなあ。」
 いつになく弱気なブン太の背中が、どうしようもなく小さく見える。きっと、付き合い始めてから彼のこんな姿を見るのは初めてだろう。いつだって言葉にせずとも、オーラが漂い、私を引っ張って行ってくれるその逞しい背中が、有無を言わせず項垂れていた。
「ねえブン太、私、ジャッカルに負けたくないよ。」
 怒られるのを覚悟で、私がそう言えば、彼はちゃんちゃら可笑しいとでもいったように、声をあげて笑っていた。
「お前、意味わかんねえ。いくらお前が昔テニスやってたって言ってもジャッカルには負けるだろい。」
「そうじゃなくって。」
 ようやく本題を切りだした私に、ブン太も気づいたように、私を見てから一度何か言おうとして、黙り込んだ。私達を伸ばしていた影も、暮れた日によって映しだされなくなっていく。嗚呼、もう夏も終わりなんだなと、そんな季節の移り変わりを感じるように。
「私、テニスの事には関与しなかった。きっとこれからもしない。でも、今回だけは、関与してもいいでしょ?」
 ブン太が最後の夏に負けた事、立海を優勝へと導けなかった事、彼はなんてことない素振りをしていたけれど、私にはそれが逆に痛々しく感じられた。マネージャーとしてではなく、彼女として、頼って欲しかった。それが例え、ただの愚痴の一種だとしても、話して欲しかった。いつだってブン太に頼ってばかりいた私だからこそ、彼の弱みを、受け止めたかった。
「私、ずっとブン太を見てたから分かるんだ。分かるからこそ、私、死んじゃう程に辛いんだろうと思うんだ。下らない愚痴でもいいから、ブン太から言って欲しかった。」
 言いきる前に泣いてしまいそうな私を見て、ブン太も隠すように、私の右肩に顔を埋めた。
「あほう。そこは、格好つけさせる所だろい。」
 きっと、泣いてはいないのだろうけれど、何かの拍子に泣いてもおかしくない彼の声が、少し震えて、私の鼓膜を通過した。その彼の声に、私の声も同じように震えながら、夜の公園に振動した。
「馬鹿。知り合って何年経つと思ってるの?分からない訳、ないじゃん。」
 鼻にかかった自分の声を、なんだかくすぐったく思っていると、同じような声が、耳元で響いた。「馬鹿。お前が泣いてどうすんだ。意味ねえだろ。」そう言いながらも、彼の筋肉質な腕が私に纏わりついた。幼い頃に知り合った頃より、付き合ってばかりの頃より、何より、この瞬間が幸せに感じられた。そう言えば、きっとブン太は怒るのだろうけれど。この瞬間を、彼と一緒に迎えられた事が、何よりうれしかった。その為に、私は彼の傍に居たかった。
「なんかお前って母ちゃんみてえ。」
「いやだなあ。ブン太、マザコンだったっけ?」
「こういう時くらい、汐らしくしろっての。」
 彼の腕の力が時を追うごとに強くなっていくのが、どうしようもなく心地よくて、私の心を満たしていく。本当は自分の口から言って欲しかったけれど、それすらも今ではどうでもいい、ほんとうに微々たる問題としか思わなくなっていた。
 誰よりも能天気で、自分の力を理解していて、天衣無縫でありながらも何処か大人びている、そんなブン太をようやく私は独占した気になっていた。テニスというヴェールを剥いだ彼に、久しぶりに出会った。テニスという固定観念などなかった、幼かった頃の、何も考えずに言いたい事を言い合えていたあの頃の二人に、戻ったような気がしたのだ。丸井ブン太という、本来の姿に。
「私に汐らしさを求めるブン太の方がどうかしてる。」
 そう言えば、彼に包まれた右肩で、くすくすと微かに声が伝って来る。「確かにな。」そう答えるブン太は、今も尚顔をあげることなく、まるで母親に甘えるように私の右肩に顔を埋めたままだった。そんな彼が愛おしくて、私もたまらず腕に力を込めて、今日だけは非力な彼の元へと纏わりついた。
「でも、私、ジャッカルに勝てたんだったらそれだけでいいや。もう。」
「馬鹿か。俺をガチホモにするなっての。」
 口では悪態をつきながらも、今のブン太はまるで駄々をこねて甘える赤子のようだった。そんな彼の真っ赤に燃える髪の中心部を小突けば、小さな声で涙が出そうな言葉が、漏れだした。今日ばかりは、彼は私の涙腺を崩すのが、得意になってしまったようであった。
お前がいて、よかった。

ふたりの跡地
( 2011’09’15 )