女は海を見ていた。もうじき朝日が差し込もうかというそんな朝方、女は海沿いの路肩に車を止めてそよぐ海の波を見ていた。数時間前にあった幸せに満ちていた頃の自分の姿がそこにあったという事など到底思い出せない見えない現状を傍らに、海を見ていた。
 丁度日が遠くで差し込んできた頃、女は思い立ったように車の傍を離れ、砂で足をとられる砂場にも臆することなく一直線に海を目指して走り出し、放心したように海に浸かった。
 台風明けの海は容赦なく女の体を飲み込み、静寂を取り戻す。
    このまま、死んでしまえれば。
 体の半分を海水に浸しそれでもやはり臆することなく前へ前へと進んでいく女は聞き取れるかとれないかきわどい程の、波の音に掻き消されてしまいそうな小さな声を聞いて立ち止まった。

 かすかに、自分の名前を呼ばれた気がした。



 青葉は今から丁度一年ほど前、恋をしていた。
 相手はサークルの同期だった。入学当初から男女の域を超えて常に一緒にいたメンバーの内の一人だった。恋をしたきっかけはほんの些細な、今考えればそんな事で友達としか見れなかった人を突然好きになれるのか疑問に思ってしまう程の事。恋とは前触れなく突然やってくるものだった。
 それでも確実に好きだった。自分一人だけで勝手に盛り上がって時には落ち込んだりしていた、恋に一喜一憂されているのは自分だけであるとまた彼女もそれを理解していた。
 今までと何変わりなく一緒にいた彼に彼女は最大限の恋をした。時には大胆にベタなアピールだってしたこともあった。
 それでも青葉と彼女の想い人に今まで以上の関係が齎される事は結局なかった。
 青葉は恋を終わらせることにした。絶望した訳でもなく、だからと言って彼が嫌いになった訳でもなく、ただ今の関係だけでも保てるのが得策なのではないだろうかと思い始めたからだった。彼を好きという気持ちが消えやらぬまま、青葉は対等な友情という関係の元に彼を見る事にした。
 そんな日々にも少しずつ慣れてきた頃、青葉はいつものようにいつものメンバーと遊ぶために海に繰り出していた。
 いつも一緒にいると言っても皆で海に行くとなればそれぞれのテンションは上がるものだった。友人たちは童心に帰ったように波と戯れ、そして青葉も同じようにその歓喜の元、海で戯れていた。
 彼とはこんな関係であっても一緒にいるのが青葉に取って最大に幸せだった。彼に恋する事を止めてから半年が経ち、青葉はようやく他の友人と同じ視線で彼を追う事が出来るようになっていた。もう彼との恋は終わった。それでいいと。彼女に未練という暗い言葉は思い当たらなかった。
 夜の海は若者で溢れる。深夜零時を過ぎた辺りに海水浴を始めた青葉のテンションは午前二時ごろにもなると最高潮にまで上り詰めていた。どれだけクラゲに刺されようがその楽しさに海から離れようとは誰ひとりしなかった。
 彼女は喉を潤おす為に一度砂浜へと腰を降ろし、海で遊んでいる彼らを見ていた。
「休憩か?」
「あ、うん。喉渇いちゃって。」
「俺も俺も。」
 友人の一人が青葉を追うように海から出てきて同じように砂浜に腰を下ろした。二人はまだ依然として海で無邪気に遊んでいる友人を見つめながらに、ペットボトルの蓋を取って己の喉を潤した。
「あいつの事、もういいのか。」
 一瞬ためらったように青葉の顔を覗いた友人は気を使ったのか少しだけ低いトーンの口調で告げた。
「うん。もういいの。」
 青葉は本心のままの言葉を口にした。きっとそれが本音だとは思ってもらえないだろうと頭の片隅で思いながらも、自分の中にあった本音を彼女は言葉にして夜の海のような清々しい顔をしていた。
 その言葉を聞いた友人は割に明るい顔でそうかと笑った。
 笑った彼は青葉が恋をしていた当時何故か不思議な程彼女の恋に非協力的な人物であった。本来の彼であれば応援してくれるようなそんな筈の男だった彼は、当時青葉が疑問に思っていた真実を夏の開放的な海の助けもあってか口を滑らせてしまった。
「あの時俺大変だったんだよ。青葉はあいつの事好きだし、あいつは青葉の事異性としては見れないって言ってたから。俺板挟みにされて結構辛かったなあ。」
 一瞬、時が止まったように青葉は言葉を止めてしまった。
 ふっきれたとばかり思っていた筈の自分の恋心に青葉は再び疑問を問いかける。人は秘密にされればその秘密を知りたがる。きっとそれは人間であれば例外なく。しかし青葉はこの時悟ってしまった。聞かない方が幸せなこともあるという事に。
「そうだよね。きっとそう相談してるとは思ったんだよね。」
 何故かその時ばかりはあれだけ勢いを付けていた筈の波も静まり、彼女を取り巻く環境は静寂を保っていた。一度言った彼も何かを感じ取ったのか「あ」とだけ言った。そんな妙な静けさが怖くなって青葉は自分でも不自然な程の作り笑いを浮かべた。ついさっきまで何を考える訳でもなく浮かべる事の出来た笑顔からは想像もつかない程痛々しい、とげのある笑顔だった。
「そうだとは、思ってたんだ。」
 そう自分に言い聞かせ、偽りだらけの言葉を語りかける事しか出来なかった。
 海が、黒く、黒く見えた。



 午後三時を過ぎたころ、青葉達はようやく海を離れた。そんな彼女が家に着いたのは午前四時になる少し前で、まだ外の空は彼女の心を透視したかのように暗く、深い黒色をしていた。
 彼女は着替える事もシャワーを浴びる事もなくただ目の前にあったベッドになぎ倒れた。  一体彼にとって自分とは何だったのか。少しだけ考えた所でいい友達という関係以外に新たな物は浮かび上がらない。そして彼女もそれで満足し、それを一番望んでいた筈だった。しかし結局のところ真実を聞いてしまえばモヤが残る一方で、一向に心が楽になることはなかった。
 青葉は取ってばかりの免許を手に持ち、初心者マークを貼ることなく自宅の車を動かした。まだ慣れないマニュアルの車のギアを引き、先ほど帰ってきた道を必死に思い出して海へと車を走らせた。
 午後四時半、彼女は先ほどまで歓喜に溢れていた海を見た。路肩に車を止め、ただ朝日が昇るのを待つように、青でしかない海に違う色を彷彿とさせながら海を見ていた。数時間前、そこに幸せそうな笑顔をした自分の姿があった事など最早想像にすら堅い。
    このまま死んでしまえれば。
 女は朝日が昇り始めたころ、そんな事を思っていた。未練は何一つとしてなかった。しかし真実を聞いてしまった今、未練があったとしか思えなかった。結局のところふっきれたと思っていたのは単に自分の自己満足であり、言い聞かせであったのかもしれないと。
 煌々と照らされる幻想的な朝日を見ると何かの衝動に駆られた女は海をその眼差しに携え、突き進んでいった。
 今の現状に不満はなかった。恋は叶わなかったけれど今までと変わりない関係を保っている友人たちにも恵まれ、順風満帆な人生だということを分かっていた。終わったはずのたった一つの恋愛を今更ぶりかえしたように引きずっているだけでこの世から消えてしまえればなんて思うのは間違いであり、贅沢であると。そんな事は、分かっていた。
 ザブザブと音を立てて進んでいく青葉の服は海水に浸り、重みを増していく。
 どこからか流れてきた冬物のベストが彼女の行く手を阻んでいるように流れ着いた。このベストを着ていた人は一体どんな人だったのだろうかと。この海で身を投げたのかもしれない。若しくはただ要らなくなって海に廃棄物として流しただけなのかもしれない。ならば自分も海の廃棄物になりたい、そう思った。
 女は意を決して前へ前へと進んでいき覚悟を決めた。
 その時、微かに自分の名を呼ぶ小さな声を彼女は聞いた気がした。
「沢田。」
 聞き取るには小さすぎる、あまり聞き覚えのない声だった。青葉はふと振り向いた先に、一人の男を見つけた。
「伊武。」
 そこには中学と高校、そして大学までずっと一緒だった男の姿があった。ずっと一緒の学校にいながらも然して言葉を交わした事のない、限りなく他人に近い男がいた。彼女が思い立った事を止めるには少々役不足な男の姿が、あった。
「何、してんの。」
「早朝ランニングだけど。」
「…そう。」
 中学の頃からテニスに熱中している男であったことを青葉は記憶していた。たいした共通点もなかった彼とこんな形で、こんな場所で出会うとは思ってもみなかった。
 中学の頃はまだ彼と話す事もあった。同じクラスになった時は大した事もないどうでもいい話だってした。けれど高校へと進学するとそんな事も全くなくなってしまった。テニスに熱中している彼と、特に何の目標もなくただぶらぶらと彷徨っている自分に彼との共通点はなかった。自分で止まる事の出来ない鮫が彼ならば自分は海の波に体を委ねる事しか出来ないクラゲのようだと彼女は思った。
「止めないで。私、本気だから。」
 それっぽい言葉を口にすることで青葉は自分の心を落ちつかせ、そしてそれを真実にしようとする。
「何が?海水浴のこと?」
「馬鹿にしないでよ。私今から、死ぬの」
 伊武は靴を綺麗に揃えるとジャブジャブと音を鳴らしながら少しだけ足を海に浸からせる。青葉はそんな彼から逃げるようにしてさらなる深みへと足を進めて行き、どんどんと海水に浸る体の面積を広げていく。
「別に止めないよ。死にたがってる人間を引きとめる程俺は善人じゃないから。」
 そう、小さく呟く彼に青葉は一度立ち止まり、疑問符を口にした。
「それとも止めてもらえるとでも思ったのかい。」
 彼の言葉に青葉は何も言えなくなってしまった。彼の言い分は正論だった。確かに彼は人を助ける程の善人ではないし、今から身投げしようとしている人間がまさか実は引きとめて欲しかっただなんて理にかなっていない。
 青葉は考える。自分は今まで何をするつもりでいたのだろうかと。死のうとしていた筈だった。しかし今、知っている顔を見る事でしようとしていた事の恐ろしさを知った気がした。
「そもそも俺と沢田は大した関係でもないしね。仲がいいわけでもない。そんな俺に君を止める必要はないだろ。」
「同級生に対して言う言葉じゃないでしょ、そんな事。」
「同級生だったとしても俺たちは別に友達という言葉で繋がれている訳でもない。」
「……」
「沢田、君が死んでも俺の生活には何も支障はないよ。」
 恐怖と、そして苛立ちが青葉の中で渦巻いていた。しかしここで今引き返せば自分はそれこそいい笑い者になると思った。今更引き返す事など到底できなかった。今戻ってしまえば自分はただ、悲劇のヒロインになりたかっただけになってしまうから。
 しかしぼそぼそと言葉を紡ぐ彼の一言に、青葉は体の向きを変えた。
「死ねば、いいんじゃないかな。」
 彼の最高に性格の悪い一言を聞き終えた直後、青葉の背後から大きな波が襲いかかっていた。
 自分はこの時を、望んでいたはずだった。



 青葉は砂浜に立っていた。そして伊武は砂浜で項垂れるように倒れ込んでいた。一体だれがこんな現状を想像しただろうか。波の音にかき消された何かを叩くような音がその場に小さく木霊していた。
「痛いんだけど。何で俺が君に殴られなきゃなんないんだよ。」
「腹立ったから。」
 ずぶ濡れになっている女は少しだけ息を切らしながら砂浜に立ちつくしていた。倒れている男の心配などすることもなく、ただ呆けたようにふやけた砂の上で小さな足跡を作り上げる。
「本当に死にたがってた割には元気、あるじゃん。」
 彼の言葉に青葉は再び言葉を失った。何もかもが自分が思い描いていた事と反転していたから。
「やっぱり死にたくなかったんじゃないか。」
 彼女は思う。彼に恋をした事、舞いあがっていた頃の楽しかった去年の夏の事、つい先ほどまで皆と楽しく遊んでいた事、真実を知ってしまった事、そして死んでしまおうとしていた事を。今思いなおせばそのどれもが酷く下らなく、不思議とちっぽけな事に見えてしまった。
 結局のところ自分は本当に悲劇のヒロインを演じたかっただけなのかもしれないと。
「あんたを殴らないと気がすまなかったから。」
 女に、最早死にたいという願望はなかった。
「ほんと、殴られ損だよね。嫌になっちゃうよ。」
 伊武の女のように整った綺麗なそのかんばせに入った赤い拳の跡を見ると何だか全てがどうでもよくなったように青葉は笑えてしまった。つい先ほどまで死のうとしていた人間とは思えない程に愉快に、笑ってしまった。
 海沿いの路肩に止まっている車もハザードランプを炊かせながら笑っているように見えた。
「でも、ありがとう。」
 ありったけの笑顔で本心のままに言葉を紡げたのは一体いつぶりだっただろうかと考えてしまう程に、爽やかに言葉が出てきて青葉は再び笑ってしまった。
「何だよそれ。俺は別に助けた訳でも引きとめた訳でもないだろ。」
「何でもいいから。とにかくありがとう。」
「やっぱり殴られ損だよ。ほんと嫌になっちゃうよなあ。」
「性格わる。」
 女は思う。きっと自分が恋をしていた男も悪意があって言ったのではなく、そしてそれを告げた男も決して憎悪に溢れて言ったのではなく、全ては楽しみの溢れる海の助けがあったものではないのだろうかと。何もかもが全て憎悪に溢れているものではなかったのだろうと。
 そう、思う事が出来た。
 この性格の酷く悪い、一人の同級生によって。
「お礼に車で送るよ。」
「いらない。」
「人の好意は素直に受け取っておくべきだと思うけど。」
「車に乗ったらランニングの意味がない。」
 断る伊武など気にすることなく、聊か機嫌のいい青葉は彼の腕を握ると強引に彼を車に乗せ、不慣れな運転で車は静かに海沿いの道を走りだしていた。哀しみの色で満ちていた海はもうそこにはなかった。
 彼女が腕に付けていたシュシュだけが青葉の先ほどまでの心境を表現するように悲しげに浮いていた。

不確かな確率
( 2010’08’20 )