諏訪と、喧嘩してしまった。
 酷く下らない、人に言うのも、それを言葉にするのさえ恥ずかしいような本当に些細な出来事だ。きっと、普通の人間はこんな事で腹を立てたりしないのだろうなと分かっているから、余計と自分を幼稚で痛い人間だと思えて悲しくなる。
 正直に言おう、正しく言えばこれは喧嘩とも呼べない事象で、ただ私が一方的に臍を曲げて怒っているだけで、諏訪は怒ってなどいない。寧ろ、初めのうちは、私を宥めるためか「わりぃ、わりぃ。」とそう言っていたが、ねじ曲げた臍をどこで戻せばいいのか分からなくなった私は、その言葉を素直に受け入れるだけの冷静さを持っていない。
「おーい、。」
 もう一度根気よく、私の機嫌を図るように名前を呼んできたけれど、それに返事をすれば私が何かに負けたような気がして、取り敢えずベッドにごろりと転がった。
 見てもいないテレビが、大して面白くもないテレビドラマを流している。経済番組を見ていた諏訪からリモコンを奪い、一回り離れたインターン生に恋をするアラフォー女社長という無理のある設定のこのドラマに変えたのは、他でもない私だ。
 付き合ってそろそろ半年が経つけれど、こういうシーンは結構多い。それは諏訪がガサツでだらしが無いからという訳ではなくて、その概ねの原因は私だろう。ほぼ癇癪持ちと言われても仕方のない、私のこの性格が全てに起因している。
 こうなってくると、何処で怒ることをやめて元に戻ればいいのか、私はそのきっかけやタイミングを知らない。可愛く甘えるだとか、素直にごめんなさいの一言が出てこないのだから仕方がない。一番長く付き合ってきたこの自分の性格を、私自身が一番厄介と感じていた。
 自分でリモコンを奪い取って回した、設定に無理しかないそのドラマは、その空間を繋ぎ止める役割をもちろん果たすことはなく、まだ経済番組をつけていた方がマシだったと、そう思う。そこしか見るものがない私はテレビに視線を指すように向けていて、諏訪はテレビの上っ側をぼうっと見つめていた。
 テレビドラマがエンディングに入ると、それがきっかけとなったのか、諏訪は腰を上げてキッチンに向かう。何をするのか見ていれば、カラカラと少しだけ音を立てて、ベランダの戸が空いた。取り敢えず、暇を潰すのか煙草を吸いに行ったらしい。
 十分がすぎても、ベランダが再び開く音はしなかった。季節は十二月だ、部屋着で十分も外にいたら間違いなく体が冷える。一体何をしているのだろうか。自分が負けているような気になるのを抑えながら、私はキッチンの方角へと向かう。
 あと一回謝ったら、許そうと思っていたのに。
「何してんの。」
 少し時間が経過したことで、自分の怒りがただの一過性のものであった事を理解した私は少し冷静になりながらも、スタンスを変えずに食ってかかる。こういう所が人間として出来ていないのだと、そう思う。
「あー、いやまあ、頭冷やしてんじゃね?」
「嘘つき。」
 それが嘘であると、ものの一秒で察知した。その視線は私と交わることなく、さっきのようにぼうっと何処か斜め上を向いていたと言うこともあったけれど、冷静に考えて諏訪が頭を冷やすようなことを何一つとしてやっていないのだから、頭など冷やす必要がないだろう。寧ろクールダウンが必要なのは、私の方だ。
「もう一回謝ったら、許すつもりだったのに。」
「そんなこと言われて謝ったんじゃ、余計腹立つだろ。」
「…そんな事ないし。ムカつく。」
「どっちにしても今は悪い方向にしかいかねえし、目に入らないのが正解だろ。」
 諏訪の言い分は、正しい。確かに彼の言う通りだ。彼があの場でしつこく何度も謝ろうものなら、私の怒りはより増長するだけだろう。決して長い付き合いな訳でもないのに、諏訪は私の性格をよく理解していて、取り扱いにも長けている。そんな諏訪でも取り扱いを誤るのだから、きっと私は諏訪以外とは付き合えない。
 さっきまでの怒りが急に不安に変わって、すぅっと体から熱が引いていくように身震いを感じる。こんな事を繰り返していては諏訪に見放されると。
「今日はソファーで寝っから、お前ももう寝ろ。」
 急に遠ざけられたような気がして、血の気が引いていくような気がした。もう、流石に付き合いきれないと思われたのかもしれない。取り敢えず、今日のところは諏訪の言葉に従ってベッドへ向かうしかなかった。
 すぐに謝罪の言葉が出てくる人間にプライドはないのだろうかと、ずっとそんな事を思っていたが、今日ほどその能力を手に入れたいと思ったことはなかったかもしれない。早く明日の朝になって欲しいと思う一方で、朝が来るのが怖いとも思った。―――祈るようにして、眠った。



 ホームベーカリーを私が購入したのは、四日程前のことだ。ちょっとした臨時収入があって、たまたま通りがかった家電量販店で目に入り、迷わず買った。別にパンを家で一から捏ねて作ってみたかったという程パンが好きな訳でもなく、どちらかと言わずとも俄然米派だが、諏訪が普段食べない朝ごはんを食べる時は決まってパンだったのを思い出して、パンが好きなのかなと思ったそれだけの事だ。人間、案外単純な生き物だ。
 別に恩着せがましい気持ちがあった訳ではなかったけれど、諏訪が喜ぶかなと、喜んでくれたらいいなと少しばかりそんな事を思っていた私にとって、彼が何の気兼ねもなく言ったその一言はまさに地雷だった。
「また面倒がりには向いてねえもん買ったなあ、お前。」
 全自動と言う言葉につられて買ってみたものの、そんなに面倒なのだろうかと一瞬考えたが、何故そんな事を諏訪が知っているのかということの方が気になってしまった。特別料理に長けている訳でもないし、本をよく読んではいるが関連性はなさそうだ。
「面倒じゃないよ。だって、全自動って書いてるし。」
「全自動でも突っ込むまでの行程に時間かかんだよ。」
「なんで洸ちゃんがそんな事知ってんの。」
「いやまあ、普通に考えればわかる。」
 決して悪気はなかったんだと思う。私自身も、諏訪に言われて、全自動は全自動でも自動でやってくれるまでの過程を手動でやる必要性がある事はなんとなく想像ができたけれど、彼の言い方には実体験を経たようなリアリティーを感じたのが、私が疑問に思った原因だろう。だとすれば、いつ彼はパンを焼いたのだろうか。
「調味料混ぜたりするの案外細かくて気使う作業だから面倒だぞ。」
 誰と調味料を混ぜて、捏ねたのか。まさか自宅で一人そんな面倒な事はしないだろう。母の得意料理だったりするのだろうか、はたまた昔の女がせっせと彼の為にホームベーカリーでわざわざパンを焼いていた光景を、見ていたのだろうか。―――考え出すと、キリがないほどに嫌な選択肢ばかりが羅列されていた。
「遠征選抜試験で昔作ったんだよ。閉鎖環境試験で   、」
 聞く必要がないと分かっているのに、誰と一緒にその試験をしたのかと聞けば、なんとなく何かを察知したのか、急に諏訪の口の動きが鈍くなった。しくじった、とでも思っているのだろう。何もやましい事がないのに、しくじったと思う彼も彼で気の毒なようにも感じるけれど、もう私の関心は誰と一緒に“閉鎖環境“にいたのかに焦点が向いてしまっていた。
「…三雲とか、あと隠岐もいたっけな。」
 少しの間を開けて、他には?と聞けば、あー他に誰かいたっけな、なんて如何にもな答えが返ってくる。記憶力に優れているこの男が、数年前の出来事であってもおいそれと記憶から抜け落ちることがないのは私がよく知っている。恋人になるよりも以前より、私はボーダー隊員としての諏訪を知っているのだから間違い無いだろう。
「他は、なんて人?」
「…香取って、今はもう居ないやつ。」
 私がボーダーに入ったのは二年程前になる。特別女性隊員が少ないという訳ではないのだろうけれど、やはり女性隊員という存在は目立つものだ。香取という女の名は、聞いたことがあった。私が入隊した時には既に彼女は在籍していなかったけれど、B級ランク戦の過去のログを見てなんとなくその存在を知っていた。
「おい、睨むなって。」
 私の機嫌を察知したのではなく、既に理解した様子の諏訪は、罰が悪そうに髪を一度ボサボサと揺らすと、困ったようにそう言った。
「睨んでない。」
 睨んでない、と言ってみたもののきっと私はものすごい威圧感のある視線で彼をみているのだろう。そうに違いないと、鏡を見ずとも理解できる。
 彼の事を信頼できない訳ではない。過去の事にどうこう言うつもりもないし、そんな権限もない。現に、彼は私の彼氏で、それが全てなのだから。それ以上でもそれ以下でもない。けれど、私にはちょっとした負い目があった。私は、私の知らない諏訪と他の人間との長い年月のやり取りにひどく不安を感じるのだ。目に見えるものより、目に見えない絆や、形の 方が時には脅威になるものだと、そう思う。
「おいおい、勘弁してくれ。」



 酷く目覚めが悪い   ということは、睡眠の質は別として幾分か寝ることができたらしい。昨日は随分と寝付きが悪かった。
 彼はソファーで寝ると言っていたけれど、まだいるだろうか。呆れて私を置いて家を出ている最悪の状況を想像しながら部屋の仕切りを開けると、ふわりと温かい香りが鼻に抜けていく。どこか、ふわふわとしていて、ほんのりと甘い香りだ。
「なんで作ってんの。私の家で、洸ちゃんが。」
 キッチンでは確実に私よりも随分と前から起きているであろう諏訪が、ホームベーカリーを出して、パンを作っている。
「なんだ、起こしちまったか。」
「ううん。ドア閉めてから全然気づかなかった。結構音するんだね。」
「こいつの難点はそこだな。」
 なんでパンを作っているのかと聞いた答えは返ってこない。流れるように自然な形で話を続けてきたけれど、きっとあえてこの質問に対して諏訪は答えなかったのだろうと私は思った。
 まるで昨日のあの夜の出来事が何もなかったかのようにいつも通りの朝で、そこには平穏しかなかった。あんな下らない出来事が夢であったらいいのにと願いながら眠りについた私は、やはりあれは夢だったのかもしれないと、そう思う。けれど、夢でないことは確かで、現実にあったからこそ、彼がこうして私が買ってまだ使ってもいないホームベーカリーでパンを作っているに違いないのだろう。
「よくパンは甘いって言うけど、ほんとに甘い香りなんだね。」
「焼きたては味が濃く感じるんだと。」
 私が如何にも初めて体験しましたとばかりにそういうと、「あんだけ言っておいてまだ作ってねえのがらしいわ。やってから言えよ。」そう言って呆れたように笑った。諏訪にそう言われて、私もそれもその通りだなと素直に思えた。尤もすぎる意見だ。
 残十分と表示されたホームベーカリーのタイマーをみた諏訪は、パンパンと手についた粉を振り落としてベランダへと出ていく。一仕事を終えて、煙草でも吸うのだろう。換気扇の下であれば部屋で吸っていいと言っているのに、諏訪は一度たりとも私の部屋で煙草を吸わない。そういう所も、好きだと毎度思う。

 私が諏訪洸太郎を知ったのは、入隊してから数ヶ月後の事だった。
 入隊して、人よりも早いスピードでB級になった。昔から運が強いのもあったし、本番に強いタイプだったのも関係していたのかもしれない。チームに入ってB級ランク戦で当たった時、諏訪光太郎という男を初めて認識した。特別目立つ存在でもなければ、目立たないという訳でもない男だと思った。特質していうのであれば、私と同じで少々口の悪い男だと思ったくらいだろうか。最初の印象は、良くも悪くもなかった。
 一見、周りからは羨ましがられることも多かったけれど、その実私は人間関係が苦手だった。感情のコントロールが人よりも苦手で、留めておく事が下手だった。だから友人も片手で数えられるくらいしかいない、そんな人間だ。
 ボーダーに入ったのはその数少ない友人の誘いがきっかけだったが、彼女は落ちて、私だけが受かった。本人の意思は別としても、素質が何よりも重要視されるらしい。入ったはいいけれど、特段大きな目標や目的のないまま入隊した私は、中々周りと打ち解けることができなかった。
 私が大学一年生の時、見かけたことのある顔を大学構内で見つけた。それが諏訪だった。そこから本部でも見かければ会話を交わす程度の関係になった。それが、私のボーダー内での横のつながりを広げるきっかけになったのは言うまでもないだろう。
 普段あまりモノや人に執着しない私にとって、“唯一“という存在は言葉の通り強い意味をもつもので、特別だ。恐らくは、諏訪に対する独占欲がそうさせているのだと思う。ボーダー内での彼の顔が広いのは付き合う前から知っていた筈なのに、自分だけが取り残されたような気持ちになることがあるのだ。だから、私の知らない時代の諏訪の話を聞くのはあまり好きではなかった。
 人間の欲というものは、時に想像を上回る程に、根強いものなのだろう。

 二本分の煙草の煙をゆっくりと堪能した諏訪は、愉快に焼き上がりを伝える軽快なメロディーが流れるのとほぼ同時に戻ってくる。ゆっくりと開けると、先ほどよりも甘みの強い香りが鼻に抜けていった。
「なんだ、急に甘えたモードかい。」
 焼きたてのパンを遮るようにしてホームベーカリーと彼の間を陣取って、身を寄せると、期待していたアクションがきちんと返ってくる。甘やかされていると自覚するほどに、諏訪は私に甘い。昨日の理不尽な態度を怒ってもいいのに、絶対にそんな事はしなかった。今日だけでなく、いつもの事だ。
「なんで怒らないの。」
「そんなんで怒ってたら身持たねえし、お前の彼氏やってらんねえわ。」
「確かに。それは一理ある。」
 私を無下にする事なく、彼はパンを取り出して薄切りにしていく。私の寂れた冷蔵庫の中にあった適当な具材を挟み込んで、さらに盛り付ける。別に写真に撮る訳でもないのに、無駄に几帳面で綺麗に向きまで揃っているそれをテーブルに持っていって、二人で食べる。
「美味しい。」
 私がそう言えば、そりゃよかったわと言って彼も一口頬張る。「卵なしでもイケるけどやっぱあった方がうめえな。」とそう言って、私を煽る。不思議ともう、湧き出てくるあの感情はなかった。そうだと分かっているから、あえて諏訪も言っているのだろうけれど。
「じゃ、ホームベーカリーは俺の思い出として上書きしとけよ。」
 結局こうして言いくるめてくる諏訪は、私よりも一枚も二枚も上手だ。「万年B級のくせに。」といえば何て返ってくるか分かっているから、私も懲りずに決め台詞のように紡いでいく。
「一回黙っとけ。」
 そう言って私の腕を取る諏訪は、限りなく私にとって正しい答えを今体現しているのだろうと、そう思う。


いつくしみの美学
( 2021'12'10 )