昔、下校途中の道すがらでカレーの匂いがしたのを思い出す。まだ家までは少し距離がある筈なのに、今日はカレーかとよく思いながら帰ったものだ。どこの家庭でも市販のルゥなんてそこそこ同じもので、作り方だって箱の裏の説明書きにおおよそ従って作るのに家庭によってカレーの味が違うのは何故なのだろうか。自宅から少し離れていても、そのカレーの匂いは多分うちのカレーだと不思議と認識ができた。 私の母は料理上手な人だった。共働きの家庭で平日はあまり凝った料理をしてくれなかったけれど、土曜日と日曜日は私の要望に極力沿ったものを作ってくれた。遠い記憶の中でも、微かにあのカレーの匂いがするような気がした。 日曜日、私は決まって母にカレーを作って欲しいとせがんだ。日曜なんだからもっと凝ったものをリクエストすれば良いのにという母の言葉を差し置いて、それでもカレーを作って欲しいとよく言った。そして、母は市販のルゥを割って日曜日の夕暮れからカレーを作り始める。甘いカレーは子供っぽいと無駄に背伸びをしている私の要望から、我が家のカレーは甘口と中辛を半分ずつにしたカレーだ。少し大きめにカットされた、飴色に煮詰まった甘い玉ねぎが大好きで、箱の裏に書かれた分量よりも倍の量で玉ねぎの入った特製カレー。 カレーは二日目が美味いと言うけれど、三日目も美味しいことを私はよく知っていた。だから、日曜日にカレーを作るように母に頼むことが多かった。月曜日にも二日目のカレーを、火曜日には三日目の格別に美味いカレーを食べれて、そして仕事で忙しくしている母もそれで家事をする手間が省けると思っていたからだ。 「ただいま。」 私の今の暮らしは良く言えばとてもシンプルで、言葉を選ばなければ必要最低限のものしかない、無機質な生活だ。傑は極力術師以外の人間との関わりを持ちたがらず、衣食住ですらも人の介入を嫌がった。 「おかえり、予定よりも早かったんじゃない?」 「うん、話聞いてるの面倒になったからさっさと切り上げてきたよ。」 「そっか、教祖様は大変だね。」 「その言い方は、皮肉だなあ。」 高専にいた時はよく色んな店に行って食事をしたのが、今となっては懐かしい思い出だ。焼肉食べ放題で腹がちぎれるほど肉を食べたりしていたのは、一体どれくらい昔の事だろうか。焼肉食べ放題と謳っていながら、カレーがあったり、はたまた寿司があったりするのは何故だろうかと不思議に思いながらも若かった私は花より団子で、有り難くその恩恵に授かって、そして帰り際にいつだって二度と同じ過ちを繰り返さないと誓って店を後にしたのを思い出す。 「今日の晩御飯はなにかな。」 「これという料理名はないよ。」 「そうなの?」 「うん、私料理できないし。」 傑は、私が出した料理しか口にしない。別にずっと作って欲しいと求められた訳ではなかったけれど、外で惣菜を買って来ることも外食する事もない傑に私が勝手にそうしているだけだ。自分の分を作る、そのついでに。 「切ったり、湯がいたりチンしてるだけだから。」 買ってきた野菜を切ったり、鍋で湯がいたり、冷やご飯を茶碗に移して電子レンジにかけたり、本当にそれだけ。食べ物であって、それはどれもこれも料理と呼べる立派なものではない。私は、料理上手な母を持ちながらも料理ができなかった。 だから、私の料理は何も匂いがしない。 「私にしてみれば、愛妻料理に違いないけどね。」 「あれ、私独身だったと思うけど。」 「君に結婚願望があったとは知らなかったな。」 まだ子どもの頃、自分の母と父を見て、当たり前のように自分も大人になれば恋愛をして、結婚をして、子どもを産んで、自分が生きてきた環境を繰り返し受け継いでいくと思っていた。こんな無機質な部屋で、料理とも呼べない食べ物を毎日流し込む生活は多分予定にもしていなかった。 「こんなに愛してるのに、形式が欲しい?」 「愛されてたんだ、私。」 「傷つくよ、伝わってないなんて。」 傑は私を大切にしてくれる。この十年近い長い年月の中で大きく変わった私たちは、それだけは唯一変わらない。高専にいた頃から今に至るまで、それは一貫されている。あの頃と、何一つ変わらない優しさで私を受け入れてくれる。 「ごめん、ちょっと試してみたくなっただけ。」 「私に挑むなんて、どういう風の吹き回しだ?」 「私だって、たまには不安になるよ。」 傑が私の事を自分の信念と同じくらい、何よりも大切にしてくれているのは痛いほどわかっていたし、周りの人間が見てもそれは一目で分かるくらいの傑の愛情だと思う。けれど、たまに不安になる事がある。もし彼が愛してくれていた私が術師ではなく、ただの人間だったら 「君を安心させるのが私の使命だし、その為に何をしようか。」 「相変わらず私に甘いなあ、傑は。」 そんな仮説なんて意味がないと分かっているのに、ぼうっと何も考えずまな板に野菜を切りつけていると沸き上がってくる瞬間がある。その度に、私は術師なのだからそんな事を考えた所で何の意味はないのだと言い聞かせて、包丁を持つ手に集中する事で考えることをやめた。 私そのものを愛しているのだと、術師としての私を愛しているのではないと、そんな聞こえる筈もない幻聴を私は欲しかったのかもしれない。それはどんなアイラブユー<愛の言葉>よりも一番わかりやすく私に響くだろう。 「私ばっかり満たして、そう言う傑は幸せなの?」 「ん?もちろん、幸せだよ。」 包丁を置いた私を、その大きな体でふわりと包み込んで言葉以上の幸せをくれる。彼のその匂いは昔と変わらず私を満たしてくれるけれど、あの頃とは少し違うような気もしていた。その正体が何かは、よく分からない。 「君が隣にいるのに満たされないとか、そんな罰当たりはないだろう。」 「そっか。私、めっちゃ愛されてるなあ。」 「随分と白々しいじゃないか、拗ねてしまうよ?」 隣でぐつぐつと音を立てる鍋に、カットした野菜を放り込む。ぐつぐつと音を立てる鍋は料理をしている様子をこの上なく表現しているのに、やっぱり私の料理は匂いがしない。ただお湯が野菜の色を少し吸い出して色が濁るだけで、それが形になることはない。 「でもさ、傑が理想とする世界はまだ完成してないのに、幸せなの?」 「うーん、そうだね。手に入れるまでが一番の醍醐味だったりもする。」 「じゃあ、もう既に手に入れた私には飽きちゃった?」 「今日のは、意地悪だ。」 私は何度も、過去の自分に問いかける。高専にいた頃、もしあの任務がなければ、あの事件は起きなかっただろうかと考えずにはいられない。そんな仮想でしかない過去があったのなら、私も母ように家庭の匂いを漂わせたカレーを作りながら傑の帰りを待つ事ができたのだろうか。匂いのしないご飯を用意するのではなくて、もっと暖かい料理と呼べるものを彼に作ってあげることかできただろうか。 「ごめんね傑。」 「何に対してのごめんかな?」 「好きすぎて、ごめんね。」 高専を中退する形で逃げた私は、それから母を含め家族と会っていない。手続き上、私は行方不明という名目で家族へは伝えられているのだろうと思う。あれだけ好きだった母とも、母の作ったカレーとも、私はもう二度と再会することはない。 呪術高専に入ってからも時折帰省をすれば、母は私に料理を教えてくれようとしてくれた。けれど、花嫁修行にはまだ早いからと断っていた。多分あの頃の私は、それまでの同じ生活が当たり前のように継続する未来を描いていただろうし、あの頃の私にとっての未来である今のこの現実がこんな形だとは思っていなかったに違いない。だから、私は今も料理ができないし、きっとこの先も母のように美味しい料理を作れるようにはならないだろう。 「じゃあ私はに詫び続けないといけないね。」 「何その模範解答みたいな甘い言葉。」 ぐつぐつと煮立った匂いのしない鍋の火を止めて、振り返るとあの頃と何も違わない傑のかんばせがあって、言葉のまま私は彼に甘える。恥ずかしげもなく縋り付く私を、彼もまた受け止めてくれた。 暖かいカレーを作りながら傑の帰りを待つ未来はどうやったら手に入れられたのだろうか。考えてみたけれど、やっぱりこの未来はこうなるべくしてなったのだろうとそう思った。あの事件があってもなくても、きっと遅かれ早かれこの未来は変わらなかったのかもしれない。 「…幸せすぎて、ちょっと怖い。」 時間は痛みを加速させていくのだから、少しばかり怖いというのは紛れもない私の本音だ。私が選んだ世界には存在しない、あったかもしれない未来に私は嫉妬した。
かがやきに病める |