その日は珍しく深い眠りに付く事が出来た。何かとやる事も多く、おちおち寝ていられない俺にしては本当に深い眠りだった。まるで誰かにそう強制されているかのように、ご丁寧に夢まで見てしまった。 少し懐かしい、過去を。 青葉は俺の十も下の妹だった。兄妹というよりはどちらかというと親子のような関係だったのかもしれない。青葉を産んですぐに母親が死に、時期に父も死んだ。必然的に青葉の面倒は彼女を除き末っ子である俺に任されていた。 事あるごとに俺の傍を歩く青葉の姿が酷く懐かしい。あいつはお決まりのように俺に懐き、慕っていた。そんな青葉が俺も何より可愛くて仕方がなかった。 江戸から上洛すると決まった時、青葉はてこでも動かないんじゃないかと思わせるほどに、頑固に、一緒に行くと言って聞かなかった。何度となく断りを入れても彼女の答えは揺るがなかった。いつまで経っても妹だけには甘いと周りから苦言を漏らされる覚悟を胸に、結局俺は青葉を連れて上洛した。 青葉を置いてこようと思えばそれは可能な事だった。あえて強引にでもそうしなかったのは俺の甘さだ。 口では駄目だと言っておきながら青葉を手放すのが、怖かった。一度上洛すればそうそう会えるものではない。一生会えない今生の別れになる可能性だってあった。そんな状況を許せなかった俺の甘さが、青葉を結果的に苦しめてしまったのかもしれない。 「…青葉、お前最近他の隊士に色目つかってねえか?」 「色目?馬鹿馬鹿しい。そんな事ある筈ないでしょ。」 こんな姿を他の隊士の前で見られたら恥ずかしくて死んでしまえるんじゃないかと思う程、俺は青葉に対して過保護なのだと自分の事ながら思う。鬼の副長として他の隊士には切腹だの羅刹化だの偉そうに言ってのけるこの俺が、呆れるほどに笑いの種でしかない。 年頃になった青葉は綺麗だった。そんじょそこらの女なんか比べ物にならない程に、美しかった。それはきっと俺の目にだけでなく、他にも十二分に通じ得る美しさだ。 「優しすぎるのがいいとは思わない。でも、厳しすぎるのもいいとは思わない。」 青葉の言葉の意図がつかめない俺は疑問符を口にする。 「兄さんが皆に厳しい分、私は皆を癒したいと思ったの。だって私は、兄さんの半身だから。」 十も下の小娘の言葉に、俺は返答の言葉をついに捜し出す事が出来なかった。俺は一人では一人前にすらなれないのかと問いかけると青葉は笑って言った。「嫌じゃないくせに。」と。正論すぎる、言葉だった。 「そもそも兄さんの優しさは私に使い過ぎなんだよ。」 「自惚れるのも対外にしやがれ。」 「そうやって私にばっかり優しくするから、他に厳しくなるんだって。兄さんは私に囚われすぎてる。」 大勢の人間がいる筈の屯所が、一瞬無音に支配されたような気がする程に、静まり返る。年々青葉の言葉には驚かされるばかりだった。どんどんと青葉が成長し、大人になっていくのを目の当たりにしている俺は嬉しさと背中合わせの恐怖をいつだって抱いていた。 大人顔負けの言葉を放つ青葉が凛々しくて、一人の成人として、旅立っていくような気がしてならなかった。幼いころから俺の背中を付いて回って育った青葉が、少しずつ、遠く、遠く、感じられた。 もう、俺の役目も終わったのかもしれないと、そう思わせるほどに。 「上洛するまで、私の世界は兄さんだけだった。他には何もなくて、いらなかった。」 今では到底考えられない程に、幼いころの青葉は人見知りだった。子供に好かれる近藤さんにすら青葉が心を開くまでは気が遠くなる時間を要した。事あるごとに俺の背に隠れ、世界を広げようとしない、青葉の言葉の通りの彼女の幼少期だった。 「兄さんの世界は、私の世界でもあった。兄さんが好きな物が、私も好きだった。」 青葉は思いだす様に目を瞑って、俺に語り聞かせる。少し昔のはなしを。まだ青葉が俺を必要としていた頃の、今よりも幾分も精神的にも幼かった青葉の、本当の気持ちを。 「兄さんは夜空が好きだって言ったよね?」 「ああ。」 「私もね、夜空が好きだった。でも、今は違う。」 「…………。」 確信的な一言だった。青葉の世界が最早俺だけではなくなってしまったと、その言葉が意味している。もう俺の背を辿ってばかりだった青葉の姿はここにないのだと、ようやく俺の心が認めているようでもあった。 「私ね、茜色の空が 夕空が好き。」 上洛する前の青葉の言葉が頭を過ぎった。江戸に残れと強く言った時の青葉の言葉に、俺は自惚れていたのだ。きっと。まだ自分が必要とされている、ずっと青葉には俺が必要なんだと勝手に勘違いしてしまった、そんな青葉の言葉が。 私はお兄ちゃんの傍に居たい。役に、立ちたいの。 この言葉に俺は負けてしまった。矛盾にも、嬉しいと思ってしまった。そんな単純で私欲に満ちた理由で青葉を連れてきてしまったのだ。危険が蔓延る、危険しかない、この街に。 「私の世界は、もう兄さんだけじゃない。」 青葉は頭を垂れて俺に「ありがとう。」そう言った。何故礼など言うのかと尋ねれば、世界を広げてくれたのは俺だから、と彼女は言った。京に連れて来てもらえなかったらきっと自分の世界はそれ以上に広がる事はなかっただろうから、と。 「……そうか。」 明らかに精魂の抜けた俺の声に、青葉は覗きこむようにして俺を見た。俺と酷く似ている、そのかんばせをぶつけながらに。 「妹離れが出来てない兄さんには少し辛いかもしれないけどね!」 「何言ってやがる。冗談も休み休み言えよ。」 「まあでも、私も兄離れできない妹なんだけどね。今は、まだ。」 そう言って青葉は俺に体を預けて、凭れかかる。俺もやはりそれが心地よくて他人の目を気にすることなく、それを許可する。 近親相姦なんて柄ではないし、自分の妹をそういう対象で見ようなんて微塵も思わなかったけれど、それでも他人に渡すのが躊躇われるほどに俺は青葉を閉じ込めたがった。青葉の世界が広がっていくのとは逆に俺の世界が狭まっているような気がしてならない。 「ねえお兄ちゃん。」 兄さん、ではなく久しぶりに聞く昔の俺の呼び名。俺はそんな些細な事でも、心を弾ませてしまう。 「何だよ。」 でも、なんとなく青葉の次の言葉が理解出来て、俺は有無を言わせず青葉を包み込むようにして抱きとめた。息が出来ないように、声を紡げないように、どうしようもなく強く、強く。すると案の定くぐもった声が聞こえた。「痛いよ。」と。 少しだけ腕の力を抜いた先に覗いた青葉の顔がどうしようもなく愛しく、俺と同じ色をした紫の瞳に射抜かれる。黒く艶めく綺麗な長髪に指を絡めた。 こんな事を出来るのは、これが最後なんじゃないかと直感的に思った体が、本能的に動いた。 「私平助が好きだよ。お兄ちゃんと同じくらいに。」 青葉も言って俺の懐に顔をうずめた。まるでこれが最後の甘えだと主張するかの如く、酷く駄々っ子な童のように青葉の腕が俺の背中にしがみついていた。 「でもお兄ちゃんとは違う“ 好き ”なんだ。」 俺は目を覚ました。酷く幸せな夢のようであって、何よりも残酷でもある夢から、覚めた。こんな夢を見た俺を青葉は笑うだろうか。未だに妹離れが出来ていないのか、と。 笑われても構わないと思った。笑われるだけ、ずっとマシだ。そこにそれを笑ってくれる青葉がいれば、何でも耐えられたのに。 俺の甘さが、青葉への依存が、彼女を殺してしまった。目の前で青葉を殺された平助も酷く思い悩んでいるようだった。青葉が死んでから月日が流れた、今尚。 平助が悪いとは思っていない。寧ろ平助だけでも生き延びたのを喜ぶべきであると、そう考えてもいた。頭ではそう分かっていても、俺は心の何処かで平助を許せないでいた。妹を二度奪った、平助に。 「平助。本当はお前も分かっているんだろう?……あそこに行くのは今日で最後にしろ。」 いつか、平助に告げた言葉。我ながら笑ってしまう。あの場所に行って欲しくないと願うのは青葉ではなく、俺に違いなかったからだ。どうしようもない大人だと、自分を嘲笑えるほどに。 あの時巡察に付いて行くと腰に刀をぶら提げた青葉をやはり無理にでも止めておくべきだったのだろうか。剣術の心得があると言ってもとてもひ弱な青葉を止め、俺の小姓にでもして飼い殺しにしておけばよかったのだろうか。俺は今尚その問いの答えを見つけられない。 青葉とは最早違う色をした、色素のない俺の髪と、赤い瞳が、俺を包んだ。もう俺はあいつの半身にはなれないのだろうか。羅刹にまで身を窶した俺を、青葉は半身とはしてくれないんじゃないか。血に狂う衝動の中、俺は考える。 「もう、私に囚われないで。」 不意に青葉の声が聞こえた気がした。ついに俺も狂ってしまったのかと思ったが、不思議と心が楽になった。俺は青葉の半身であった頃の、人間の姿へと戻っていた。 もう夢でも何でもいい、幻覚でも、幽霊でも 足がついてなくたっていい、青葉に会いたかった。 青葉の世界を広げたのは、青葉の唯一の世界だった俺だ。そうして青葉は大人になっていった。でも俺は思わずにはいられない。あの時、嫌われてでも彼女を行かせなければ今も彼女は隣で笑っていたんじゃないかって。 俺は青葉の、青葉が信じて疑わない立派な兄で居たかった。だから、平助に付いて行きたいと願う青葉の聞き入れを受け止め、彼女を手放した。色々後悔はあるけれど、兄としては模範的な行動だったのだろう。 でも、俺は今も違う事無く思うのだ。 出来るなら彼女を飼い殺したかったと。 ( 20110308 ) |