あの時は、どうしてこの環境を幸せと思うことが出来たのだろうか。
 もしかしたら冷静に物事を判断できる環境になかったのかもしれない。否、そうに違いない。ブン太と関係を持ち始めたのは彼氏に振られて、自棄になっていたちょうどその時だった。私の傷を癒してくれるにはてっとり早く私の味方をしてくれて、都合のいい男だった。何事も深く考えず勢いのままに生きていきたいと思っていたその当時の私にとって、ブン太はちょうどよくその時の低レベルな脳内の私にフィットしたのだろう。


 社会人になってから数年付き合っていた彼氏に、振られた。
 大学の終わりかけに付き合ったその彼の事は当初そこまで好きではなかった。大学に行けば私には沢山の友達がいて、彼氏だけに依存せずとも楽しく青春を謳歌することができた。彼氏なんて、その青春のおまけのような付属品だと思っていて、寧ろ必死に追いかけてくれていたのは彼氏のほうだった。それが分かっていたからこそ気分を害することなく、付き合えていたのかもしれない。
 社会人になって暫くたったころ、急に友人の付き合いが悪くなった。皆仕事が大変だとか、仕事づきあいで飲みに行かないと行けないと言って、私の優先順位はどんどんと下降を辿っていた。
 御堅いと呼ばれる業界に飛び込んだ私は安定した給料を貰う代償として、社会人を周りの同級生のように楽しめないでいた。私がほしいのはお金ではなく、学生時代と変わらぬ友情関係だったのに―――きっとそう思っていたのは私だけだったように今になって思う。
 会社内でのパワハラやその他の面倒事を考慮してか、私の会社では、会社全体は愚か部署での飲み会すら禁止されていた。個人間で飲みに行く事だけは唯一関与されてはいなかったけれど、先輩がそういった会を催してくれないのだから同期で飲みに行くという話しも会話の中で出てきにくくなり、次第に数ヶ月、半年と経っていけばそこから何か新しい事が始まるわけでもなかった。
 大学時代の友人が社会人生活を満喫している中で、私は堅苦しく何の楽しみもない社会人生活を過ごす様になり、次第に行き着く先が大学時代に然して好きでも興味があった訳でもない彼氏に向くしかその矛先はなかったのだから私は社会の生み出した徒花になっていた。
「ねえ、金曜日の夜から旅行行こうよ!二泊三日とかでさ、ぱあっと。」
「…え、そんなにか。別に金曜日飲みに行って俺の家来て適当にどっか行けばよくね?」
「前は言ってくれたじゃん。二人でちゃんと二泊三日とかで旅行行きたいねって。」
「お前それいつの話だよ。俺らもう立派に社会人だし、日曜とか家でサザエさん見て憂鬱になるのがセオリーだわ。」
 いつだか彼との熱量の差を嫌でも感じるようになっていた。これは、私が彼に対して大学時代にしていた態度と同じなのだから、何があの時とその感情を変えてしまったのだろうかと不思議に思う。
 何処かの雑誌で読んだ記事には、男は追いたい生き物で、女は追われたい生き物であるとそんな下らない内容のものだった。
 その記事のままとでも雑誌の中から笑っているかのように、私と彼の関係性はそのままを描いているような気がしたけれど気のせいだと気づかない振りをした。あれだけ一生懸命に私を大切にして、追ってくれていた彼の気持ちが揺るぐ筈はないのだと言い聞かせていたのかもしれない。
「一緒に居たいって思うから言ってるんじゃん。駄目なの?」
「駄目じゃないけど、そういう風に言われるのが重いっていうか、なんかダルい。」
 その言葉を聞いて、一気に現実に戻された私は今までのように振るうことを止めた。大して好きでもなく、サークル内でもそこそこ顔がよくてイケてる集団に属していただけの彼が今となっては私の唯一の拠り所になっていたからだ。
 気づいてからは、地獄の日々だった。縋る場所も、気を使わないで自分を出すことの出来ていた彼の隣を死守する為に一生懸命に自分を偽って、機嫌を伺ってばかりいた。自分が心を安らがせるその場所を作るために気を張って、本末転倒な事は理解していた。けれど、私には仕事以外にそれしかすることがなかったのだ。ここを失ったら、どうして生きていけばいいのだろうかといつだって恐怖心が隣に蔓延っていた。
 それから数ヶ月して、私は浮気をされた。
 最初は頭に血が上って手元にある物を手当たりしだい投げ散らかして、暴言を吐いて、感情のままに泣き喚いたけれど、何も言わずに罰の悪いかんばせで私を見る彼に何故かスイッチが入ったように冷静になって、懇願してしまった。
「お願いだから別れるなんて言わないで。今回は許すし、私も頑張るから。」
 彼からしたらまだ感情のままに振舞う私のほうがまともに見えていたのだろう。急に目の色を変えたように、呆れた感情を浮かべて私が一番恐れた言葉を躊躇なく解き放った。
「まじでもう面倒なんだよお前。浮気したくなる男の気持ち、分からないだろ。」
 分かる筈もなくて、言葉を返せないと最終的な私たちの結末が完結した言葉として冷たく振りかざされた。
「別れよう。」
 もう泣き喚いても、取り付くって謝ったところでどうにもならない事をその瞳を見て察して、終には私も否定の言葉を紡ぐことができなかった。
 男は追うのが好きな生き物で、女は追われるのが好きな生き物なのだ。全てをそれで完結させた。



 彼に振られてから暫くは、する事といえば仕事以外に何もなかった筈なのに仕事すら手につかず私は何の為に生きているのだろうかと絶望する日々が続いていた。
 大学時代の友人に縋るように会えないかと持ちかけても、平日は仕事に忙しく、休みは彼氏や新しく出来た友人との付き合いが詰まっていて誰も私の相手をしてくれず、暇なのは私一人だけだった。こんな日常が死ぬまで続くのかと思うと、最早病気にでもなって早く死んで、皆からその早すぎる死を悼まれた方がいいのではないかとどうしようもない事を考えた。
 ちょうどそんな私の心を弱り、人生のどん底にいた時にブン太に会った。
 私から誘った訳ではなかった。する事もなく実家の犬と触れ合うことで幾分か絶望を紛らわせようと久しぶりの里帰りをした帰り道、未だ実家に住んでいるブン太に出くわしたのだ。
?まじお前社会人なって数年経つのに変わんねえな。」
「……ブン太、久しぶり。」
 こんなにも燻っている私の姿を、一番輝いていた中高時代を知っている彼に目撃されたのは不幸でしかなかった。変わらないと言っている彼の言葉が、私が何も成長していない事を示していると分かっているからこそ辛かった。彼は今の私の現状を知っても尚、変わらないと言ってくれるだろうか。青春を謳歌し、いつだって輪の中心にいた私と同じだと思ってくれるだろうか。考えただけでも憂鬱で、逃げ出したくなった。
「ブン太はまだ実家暮らしなんだね。」
「別に出る意味ねーし、通えるし、金もったいないじゃん?」
「確かにそうだけど、私にはその考えなかったな。」
 社会人になるという緊張があったあの頃、まだ私には煌びやかな世界が見えていた。新しい一歩を踏み出す為には実家を出て環境も新しくするのだとそう考えた私と彼は違うのだなと他人事のように思う。
「お前どこ住んでんの。」
「隣町だよ。会社もそんなに遠くないし。」
「はあ?まじそれ金ドブに捨ててるって。」
 社会人として実家に恥ずかしげもなく堂々と住んでいる事に彼は何も感じないのだろうか。いや、そうなのだろう。彼は昔からマイペースで、そして周りの常識に囚われず自分の世界観で生きている男だった。今も変わっていないのだなと、そう思った。
「隣町ならまだ電車あるだろ?久しぶりの再会にお前の家で飲もうぜ。」
「…何それ。唐突。」
「お前金曜日の正しい過ごし方って知らないのか?一週間を誰かと労う日だろ。」
 そう言われて、嗚呼そんな事もあったなと思い出す。私からその当たり前の金曜日が失われてから随分と時間が経っていたから忘れていたのかもしれない。
 言うことだけは何も代わらないブン太も、見てくれだけはスーツに身を包んですっかり社会人だ。社会人になっても、学生の頃のまま本当に何も変わらないブン太が少しうらやましく、そして過去の輝いていた私を知る今となっては数少ない友人である事を思い出して、久しぶりに金曜日を満喫してみたくなった。
「実家暮らしでお金かかってないんだからお酒とツマミはブン太の驕りね。」
「しゃーねーなあ。」
 私たちは歩いてきた道を逆走して、駅の道へと急いだ。
 こんな金曜日は、久しぶりの事のように感じた。



 あれから、ブン太は毎週金曜日になると私の家にやってきた。以前よりも心地よく、理解しあえる共通部分が多くなったと思うのは私がそれだけ辛い経験をしてきたからなのだろうか。
 必死に追ってくる事はなくとも、程よく私を求めて毎週金曜日の仕事終わりに連絡して来ては家に来るブン太がちょうどよかったのかもしれない。恋人の真似事をしているようなこのなんともいえない環境が、きっとちょうどよかった。
の家のソファーちっさくね?」
「そうかな?一人暮らしならこんなもんだし、そもそもソファーあるだけでも結構贅沢な方だよ。」
「俺がゆっくりできないじゃん。俺も大の字で転がって寛ぎてえ。」
「人様の家で贅沢な悩み抱えてるね。」
 そう言えば、この狭いソファーを言う程嫌いではないと言う様に窮屈なそのソファーに腰掛けてきて、ぎゅうっと私を手繰り寄せる。まるで赤子が母親に甘えるような仕草で、今までにないタイプに私も気分が悪くなかったのかもしれない。
「お前、俺の事好きにならないの?」
「何それ。超上からじゃん。」
「俺はお前の事好きって事だろ。男心が分からない女だよな、って。」
「そういう自信過剰な所、昔と変わってないね。」
 言いながら、私も彼の事をまったく拒む事はない。心地がいいからだ。私が知らず知らずの間に誰かから求められる事を望んでいたのかもしれない。
 この上から物言いするブン太ですら愛おしく感じて、求めていた何かと合致したと思ってしまったのだ。徐々に誰からも相手にされなくなった寂しい心の中に、タイミングよく入ってきてしまった。
 一生懸命に暇な土日を嫌って誘っていた友人達に対しての感情も変わり、薄情で私には必要のない人間だと思うようになってしまっていた。ブン太が傍にいてくれるのだから、それらはもはや私の中で必要ないものに分類され、思い切った断捨離に切り捨てられていった。
「でも、私もブン太が好きかも。」
 そう言えば応えてくれるブン太が、今の私には何よりも必要で、これ以外何も必要ないと思ってしまったのだ。
 なだれ込むようにキスをされて、私もそれに応える。恋愛というものは追うものでもなく、追われるものでもなく、互いに気持ちを通じ合わせる事なのだとブン太が空っぽの私に教えてくれているような気がした。
 すぐに場所を変えてベッドへと移って、何度も肌を重ねれば幸せだった。振られた彼氏を忘れられず、あれ程までに輝かしく思っていたのは私の幻想なのだと気づいて、それを教えてくれたのがブン太なのだと思った。
 一頻りの行為を終えて、律儀に私へ腕枕をしてくれるその腕の中で考えた。
 昔から彼は、人気のある男だった。いつだって皆の中心にいて、運動も出来ればその愛くるしい性格も皆から愛されていた。元彼の顔を思い出しても、幾分もブン太の方がいいだろう。昔ふざけて某アイドル事務所へ履歴書を送ったほうがいいんじゃないか、なんて言っていた事を思い出す。確実に彼は、中高時代の皆のアイドルだった。誰もが認めて、誰もが否定しない絶対的な存在だった。
「ブン太。」
「なんだよ。」
「明日、一緒にソファー見に行こうか。」
 もっと真面目に彼に向き合おうと思ったのだ。誰もが羨む“丸井ブン太”という存在は手に入れた私はきっと、誰もが羨む彼女になれるのだろう。ならば、それに恥じないだけの女になろうと思った。
のそういう所まじ好き。」
 その言葉に幸せをかみ締めて、一度だけ彼にキスをすると、幸せ心地のまま私も彼も夢の世界へと落ちていった。



 世間で話題になっている“人を駄目にするソファー”を彼と見に行って、二人でその金額の高さに目を丸めながらも、幸せの証として折半して購入した。すぐに家で使いたくて大きなそのビーズクッションを両手で抱えてなんとか家まで持ち帰った。
 ネットで注文すればそんな手間を感じることなく手に入れる事もなかっただろうけれど、二人で買って、その日にその幸せを二人で感じることに意味があると思っていた。
「人を駄目にするソファーって私たちももっと駄目になったりして。」
「いいじゃん。二人に駄目になろうぜ。」
 彼の体重の分だけ沈んでいるそのクッションソファーに、私も上から被さってみれば二人分の体重の重みに耐えかねてスライムのようにぐちょんと床に限りなく平行に伸びて、二人して笑った。
 世の中の幸せというのは、こういうものなのだと思っていた。私もついに、追いかけるだけでもなく、追われるだけでもない幸せな結末を手に入れたと感じていたのだ、―――数ヶ月前までは。
 繁忙期に入り、仕事が忙しくなり金曜日もいつものように会えなくなっていた。部屋で待ってるとブン太は言ってくれたけれど、ここ最近の私は家に帰った瞬間風呂にも入らずベッドに倒れてそのまま朝を迎える生活が常習化していた。とても、以前のようにブン太と金曜日を楽しめるだけの体力を持て余してなかった。
「別に金曜じゃなくてもいいからが都合いい時に会おうぜ。」
「うん。でも今疲れてるし、土曜日も結構家で仕事しなきゃいけないんだよね。そんなの暇しちゃうでしょ?」
「じゃあの仕事が一段落したら旅行行こう!二泊三日とかでさ、俺少し多めに出すし。」
 いつかに聞いたような言葉に、なんだか嫌な気がした。用意した白いクッションビーズが、きちんと私の家での彼の位置を設けている筈なのに、どうしてだかそれが少し邪魔に思えたのだ。
「ありがとうブン太。仕事落ち着いたら、連絡するね。」
 それから一ヶ月は、あの時感じた少しばかりの違和感の正体を考える間もなく忙しく過ごして、本当に起きて仕事に行き、何かを食べることを忘れたように残業をして死んだように家で寝る生活を続けていた。時折白いクッションビーズを見て、人を駄目にするソファーとは一体どういう意味なのだろうかと考えても、すぐに瞼が下りてきて眠りへと誘われた。
 繁忙期には違いなかったけれど、社内トラブルも相まっていた事もあり、入社して数年経って始めて同期で飲みにいくことになった。
 苦楽を共にしてきた人間というものは分かり合えるものだと思い知ったその飲み会は、意図せずどうしようも楽しかった。
 今まで個人的な関わりを持たなかった同期という自分の会社の人間がどれ程大切で、そして自分の事を理解してくれているのかを思い知るきっかけとなった。
 繁忙期が終わって、二週間程が経つ。大きなトラブルもなく、少し残業をして定時を過ぎて帰る日々が続いていた。
 ブン太と会おうと思えばその余裕は大いにあったけれど、不思議と会う気にはならなかった。あれだけ心地がいいと思っていたブン太の存在が、どんどんと形状を変えているような気がしてならない。
―――そろそろ繁忙期も終わっただろ?早く会いたい。
 いつだって猛烈な愛情を一文にしたためて来るブン太に、次第に気持ちが離れていくような気がしていた。
 あれ以来同僚と飲みに行く機会も増え、その誘いは断らないくせに、何の予定もない土日をブン太と過ごそうとは思わなくなっていた。何故だろうか、そう考えたときに同じようなシチュエーションに過去自分が置かれていた事をふいに思い出した。
 冷静になって、あの時の私は弱っていて冷静さを失っていたのではないだろうかとそう思った。
 同級生よりも少し送れて、真っ当な社会人としての付き合いをし始めたのがそれに気づいた理由なのかもしれない。
 同期の会社の人間と一緒にいる時の方がよっぽど楽しくて、自分自身が前を向いているのだから。
 旅行費を多く出すからというのも最初は嬉しかったけれどよく考えれば、実家で生活しているのに何故全額出せないのだろうか。そもそも彼は週末だけでなく会社に行くのに都合がいいからと平日も私の家にいたけれど、その食費も光熱費も当然のように私が払っている事に何も思わないのだろうか。実家を出たことがないから仕方ないのかとも考えたけれど、社会人になって数年たっても実家を出ようとしない彼には到底分かる筈もないのだと、気づいてしまった。そもそもが、この歳になって実家を出ないことに危機感を感じていない彼とは本来相容れない属性だったのだ。
 全てを悟った上でふと視界に入った“人を駄目にするソファー”を見て、なんとなくそれに腰をかけてみる。買った初日以来、私の家での彼の居場所だからと大切に見守っていたそれが酷く憎らしく見えた。私が使う訳でもないのに、私がこれの半分を払っているのだ。
 初めて跨ってみて、あまりにも心地のよさに私が普段使っているソファーよりも贅沢なものをあの男に使わせていたのかと思うとあまりに複雑だった。
 人を駄目にするというのは、本当なのかもしれない。
 私はスマホを手に取り、不在着信から引っ張って見慣れた文字をディスプレイに浮かび上がらした。
 言う事は決まっている。あの時彼が私を振った理由が、今なら分かるからだ。
 男は追いたい生き物、女は追われたい生き物。それを説いた下らない雑誌の編集者は、上っ面の恋愛しかした事がないのだろうなと思い、私は躊躇うことなく通話ボタンに指をかけた。
「ブン太連絡できなくてごめんね。」
 この後に続く言葉は、私が嘗て言われた言葉の全てだ。


呵責日和

( 2020'08'13 )