幼馴染の彼から電話があったのはきっと三年ぶり。私は、いつだって都合がいい時に彼に振り回されているような気がしてならない。着信時刻は四時半、生憎今日は午前授業の土曜日だった。一度は着信を無視しようと携帯をベッドに投げ捨てた手は、また再び、迷う間もなくそれを拾いに走る。悔しいと、唇を噛みしめた私を見計らったように、再び同じ相手からの着信を、今度は迷うことなく通話のボタンにダイアルを押した。
「お前どうせ暇なのは知ってんだぜ。何で一回目で出ねえんだよ。」
「……もう暫く連絡取ってなかったし何かあっても同じ学内で会えるからいいかと思って連絡先消しちゃって誰か分かんなかったんだよ。」
「仮にも幼馴染に言う言葉ではねえよな、それ。俺、今結構ナーバスなんだけどもよ。」
「冗談だよ。それで、珍しく電話してきた本当の理由は?」
 なんとなく話しの要件は想定していた。きっと、彼が本当にナーバスであるのだという事も。テニス部のレギュラーともなれば、立海ではちょっとした有名人に変わらない。そんな彼らに付きまとう噂はまさに光の如き速さで飛んで回るのだ、その真意を別として。
「お前ん家叔母さんも伯父さんもまだ帰ってないだろ?」
「だから。」
 冷たく突き放したように言えば、彼は何の迷いもなく「じゃあ今から行くわ。」と無責任な言葉を残して電話からその声を消した。それとほぼ同時に鳴り響いたインターホーンに映ったのは、随分とふてくされたようなブン太の顔だった。いくら近所に住んでいるとは言ったところで、電話を切ってすぐにインターホンまで手が届く程の距離ではない。彼は、私の返答など待っていなかったのだ。それだけは、昔と何も変わらない。
「直接あった方が言いやすい事もあんだろうが。」
「なにそれ私に告白でもしにきたの?夜這かけるにはまだ早いと思うけど。」
「…反吐が出るだろ、お互い。そういう性質わるな冗談はやめようぜ。」
 そう言った後に、少しだけ、ブン太が呆れたように笑っていた。その笑みにつられるように、私も苦いなりに笑みを引き攣らせた。次第に元ある表情へと変動を見せたブン太を見て、私は悟ったように一言吐きだした。
「一人で居られないんだったら素直にそう言えばいいのにね。弱虫ブン太。」
 昔からブン太は一人が極端に苦手な部類の人間だった。いつだって大勢の人にかこまれて、楽しそうに話をして、時にはゲームをしたり、いつだってブン太の周りには笑顔が咲いていた。そんな彼が一人への自立をみたのが、テニスだった。テニスを境目に、私とブン太は次第に距離を置く様になっていく。いつだって近所だからと託けては日が暮れるまで遊んでいた私達の姿は、もう見当たらない。思春期ということも、少なからずは影響しているのかもしれない。
「女に振られて来る場所が幼馴染の女の家だなんて、情けないか、下心があるかのどっちかじゃん。」
「自惚れんのも体外にしろい。ただ、男同士じゃこういう話はしにくいってだけだ。」
「ふうん。」
 ブン太はどっかりとテーブルに腰かけて、リビングの時計を見る。「あの時計見るのも随分久しぶりだなあ。」なんて言いながら、私が「当たり前じゃん。」そう言えば「違いねえ。」って黙り込んだ。遊び疲れて私の家に倒れ込むようにやって来るのも、丁度こんな夕食時だったような気がする。母親がいる日はよくブン太と夕食を同じテーブルで取ったものだった。
「なあ、青葉。腹減った。」
「自分の家に帰ったら腐るほどあるでしょ。お菓子とか、いろいろ。」
「まあそうケチくさい事言わねえで、幼馴染権限で頼むわ。」
 ため息交じりに向かった台所に、一つの箱が置かれてある。それは昔から我が家ではお馴染の、グラタンの箱だった。マカロニを茹でて、色んな野菜をトッピングするだけの、簡単で美味しいマカロニグラタン。
「お、なになに。グラタン?」
「いいから座ってなよ。」
「怖え。でもあれだな、このグラタン見てっと思いだすよなあ、昔の事。」
 ブン太はこっちの気もお構いなしに、私の肩を媒体に重心をかけるようにしながらその顔を覗かせる。昔は私の方が高かった身長も、今はブン太が頑張る必要もない程に彼は私の身長など遠に越えていた。
「作るの面倒だし、今日は残念だけどインスタントにするよ。」
「そこくらい腕によりをかけて作ってくれよ。」
「私はブン太を慰められるくらいの心の余裕はないの。悪いけど。」
「お、お前も俺の同士か?失恋組の。」
「さあ、どうだろうね。」
 私の意味ありげな発言に興味を持ちながらも、歩み寄って来るブン太を私は撥ね退けて冷凍庫へと手を伸ばす。袋から破った先に見えた冷凍グラタンは二つ、私は袋に示されているであろうレンジでの調理方法や時間を視界に映すことなく、それを丸めてシンクの三角コーナーへと投げ捨てた。そして、器用に動く指先が、レンジで二人分の冷凍グラタンを解凍にかかっていた。
「なにお前。調理方法適当すぎねえ?」
「別に。もう見ないでも何ワット何分か覚えてるんだもん。」
「…お前それはさすがにどうなんだ。」
 呆れながらこちらを見てくるブン太に、私の右手が再び動き出す。覗きこんでくるようにするその表情に、私達の間に思春期もなにもないのだと、改めて実感させられる。友情で考えるのであれば、それはどうしようもない喜びに違いなかったけれど、現に思春期に立っている私達にとってそれは、もはや恋愛とは成り立たないという事をも同時に示唆してしまっているのである。「そんなにそれ、好きか?」迷うことなく「うん。」と頷く私に、やはり彼も面食らったように黙り込んだ。
「うん。好き。大好きだよ。」
「そんなに美味いのか?」
「うーん、美味しいんだけど、なんだろう…懐かしい味がするの。」
 昔、一度だけブン太にせがまれて作った手作りグラタン。私の腕は、お世辞にもいいとは言えない代物だった。そんな私の失敗作でしかないグラタンを魔法のように美味しくしたのが、ブン太だった。のっぺらぼうのように味のない私のグラタンに、味が蘇り、次第に魔法にかかったように不思議と絶品なグラタンへと変化を遂げた。もちろん、その相乗効果があったのは間違いないのだろうけれど。
「昔ブン太が作ってくれたグラタンの味に、そっくりだから。」
 ブーン、と音を立てるレンジの傍らで、涙が下った。そんなつもりなんてなかったのにと、言い訳したがる自分の唇を必死で噛みしめ、堪えた。違う、本当はずっと忘れることなど出来なかったのだ。あのグラタンの味も、冷凍グラタンなんかでは到底敵わない程に口でとろけたあのグラタンの思い出も、それより以前に自然と抱いていた彼への恋心も、全部、忘れられるはずがなかった。この三年と言う短くはない歳月で、徐々に薄れていったのだとばかり、そう言い聞かせていたのはただの自分の言い訳でしかなかったのだと思い知らされる。
「ほんと、慰めて欲しいのはこっちの方だよ。千年の恋も、レンジと一緒に冷めちゃうじゃん。」
 慰めか、それとも私の知らない彼の新たな感情か、友達としての同情か、はたまた自分の失恋を癒す一時的な道具か、そのどれかは分からない。けれど、今の私にはブン太の温もりが、優しく私自身を包み込んでくれているというその事実だけで十分に暖かい。それが、少しだけ悔しかった。
「一人で居られないって、そりゃお前の方だろ。」
 私の肩を優しくぽんぽん、と何度か叩きつけたブン太の振動と共に、二度目の涙が今度は歯止めを失ってしまったかのように、勢いをつけて流れ落ちた。冷凍グラタンの出来あがりと共に鳴り響いたレンジの音に体を起こした私は、もう一度その腕の中へと誘われていく。

綺麗な魔の手
( 2011’09’27 )