三年生である彼らにとっての夏が、一つの仕事が終わった。それは終焉という言葉ではなかったけれど、彼らの中学生活という一つの面からすればそれは違う形での終焉なのかもしれない。
 そして彼女にとっても、一つの終焉が訪れていた。





 手塚と青葉が別れた、そんな噂はまさに風の如くこの青学に浸透していった。
 誰かはそれが嘘なんじゃないかと呟き、他の誰かはどうやら仲違いの末にけんか別れをしたのだと根も葉もない噂を信じ、正確ではない情報がごった返す校舎の廊下を、青葉は通り抜ける。
 嘗て自分がこれ程までに校内の視線を占領した事があっただろうかと、彼女は皮肉めいた笑みを傍らに無表情にそこを突き進んでいく。手塚とは違い、何かが秀でている訳ではない自分がこんなにも注目されていたのは手塚の彼女というレッテルが張られていたのだからに違いないのだろう。彼女は次第に視線を下げて、足元を見つめながらに教室へと向かう。

 手塚がドイツに留学すると言い始めたのは彼らの夏が終わったのと時を同じくした頃だった。全国制覇という彼の夢を喜ぶ間もなく青葉に告げられたのは別れの言葉だった。別れよう、そんな簡単な一言だけで。
 彼女は戸惑いに一度何かを言おうと立ち止まったが、思いとどまったように 分かった その一言で彼の言葉を受容し、飲み込んだ。あっけもない、終焉だった。
 手塚が手先や他の事に器用な分、いかんせん口の方が幾分も不器用である事を知っていたからこそ、彼女はあえて理由を尋ねる事はしなかったのかもしれない。不器用すぎる程の彼の少ない言葉に、きっと全てを感じ取ってしまったから。長い付き合いとは時に残酷なものだと青葉は苦笑せざるを得ない。彼の言わんとしている本音が分からなければよかった。さすれば、どうして?何故別れる必要があるの?と、そう反論する事が出来ただろうに。
「青葉先輩。何、逃げてるんすか?」
 思いもよらない人物に呼びとめられた青葉は立ち止まり振り返る。自分よりも歳の若いその男が、自分から声をかけるなど珍しい事があるものだと。普段の彼であれば、違いなく声をかけてくる人間ではない筈だった。
 今まで幾度も同じキャンパス内で顔を合わせても視線を交わすだけで何も言葉も交わす事もなく、あったとしても小さな生意気じみた言葉があるくらいの彼が、青葉の名を口にする。そんな彼に青葉は暫く固まったように動く事が敵わなかった。それは彼が声をかけてきた事に驚いたという事よりも、彼の言っている事がいかにも正論であったからに違いなかった。
「部活、いつまでサボるつもりなの。」
「別にサボってなんか………ないじゃない。私これでも三年生だって事、越前君知ってる?」
 そう言えば彼は馬鹿馬鹿しいとまでに目を細めて青葉を見た。「知ってるに決まってる。」なんとも無愛想に、いつもと変わらない彼の生意気な言葉が木霊する。
「三年生は引退。もう夏は終わったの。私は、もう引退したんだ。」
 さも当然のように言おうとしていた筈の青葉の言葉は、正論を述べているには違いなかったがどこか弱弱しく宙を舞っていた。
「でも先輩、冬までは部活続けるんじゃなかったっけ?」
 越前の一言に青葉は苦笑した。そう言えばそんな事を言った時もあったかもしれない。まだ今より少し前に、今とは違う手塚との関係があった頃に思っていた過去の事だ。それを思いついた時と今の現状は明らかに違っている。
「……そんな事、言ったっけかな。私。」
 越前を直視する事無く青葉の言葉が少し冷たくそよぐ風に吹かれていく。まるで彼女が自分を嘲笑うかの如く、今だけは不思議と風が強く吹き荒れる。
 ぴゅう、と音を立てて過ぎ去っていく風に髪を押さえた彼女は、風に飛ばされそうな程に小さな、聞き流してくれとばかりに響く越前の声を聞いたような気がした。幻聴と言われたらそれだけの、風の音にまぎれた小さな声を、拾った。
「……うそつき。」



 青学の全国制覇が為されてから暫くが経っていた。今までが嘘だったかのようにテニスコートに人が群がっていた。全国制覇をしたと知って出来あがった俄かファンのミーハーな女子たちや、視察をしている他校生、おおげさにカメラなんかを構えている数人の記者達、青学はそれだけ有名になっていた。青葉はまるで人ごとのように、嘗て自分がいたテニスコートを見ていた。
 青学は昔からの名門校だった。しかし最近ではそれも過去の栄光となりつつあって、今のように人でごった返しているなんて状況は少なくともなかった。そんな新しい青学を作り出したのは他でもない手塚達なのだと知っているからこそ彼女にため息が襲いかかる。それを望んでいた筈だった自分が、何処かそれを喜んでいないようで酷く矛盾していた。
 全ては他人事のように流れていく。聞こえてくる黄色い声援も、時折光るカメラのフラッシュ音も、全てが他人事のように流れていく。もう全ては、自分とは関係のない所で作りだされ、流れているのだと。
「ねえ。暇そうに見るくらいなら、中、入ったら?」
 久しぶりに聞く生意気な声にも青葉は振り返らない。その声の持ち主が誰かを分かっているからこそ、彼女は振り返る事が出来なかった。
「言ったでしょ?私、引退したのよ?」
「だったら態々こんな所で見てる必要なんかないと思うけど。」
「……可愛い下級生をたまに見たくなるのは悪い事?」
「別に。そうは言ってない。」
 もしかしたらあったかもしれない光景を青葉は脳内に繰り広げた。そこには他でもない自分がテニスコートの縁で彼らを見守っていて、少し前と何ら変わる事のない自分の姿。でもその光景は現実にはない。彼女は、それを放棄してしまった。暖かな三年間の思い出から逃げ出した。
 基本的にエスカレーター式の青学はさほど受験に左右されない。高校受験という堅物とは無縁の世界だった。多くの者は引退しても尚卒業までは頻繁にこのテニスコートへと顔を覗かせるものだ。言わずと知れた青学テニス部の恒例でもあった。
 彼女は信じて疑わなかったのだ。今も尚、手塚がテニスコートで必死に黄色い球を追いかけている姿を。あると、信じて疑わなかったのだ。
「何も、変わらない。」
 ふと、越前がテニスコートを見据えながら呟いた。何が?なんて不粋な事を問い返そうとした青葉は、言いかけて途中で言葉を止めた。
「アンタが居なくなっただけで、それ以外は何も変わってない。」
「……そう。」
「先輩が居なくても何も変わらない。居ないからって、何も変わらない。」
 分かってはいた事実ではあったけれど、青葉は耳を塞ぎたくなった。別に自分がいなくては皆が困ると自惚れていた訳ではない。例え一人しかいなかったマネージャーだったとしてもテニスをしている人間にとってそれは深刻になるほどの問題ではないという事なのだろう。
 分かってはいた事実、だからこそ躊躇いもなく引退した事には違いなかったけれど、それでも何かが彼女の喉を痞えていた。
「先輩は何がしたいの?手塚部長を困らせるのが、そんなに楽しい?」
 返す言葉もなく、青葉は再びテニスコートに視線を戻した。彼の言葉が、青葉の良心にチクリと刺さる。何がしたいのかはきっと彼女自身にも不透明だったのかもしれない。でも手塚を困らせたかった訳でも、意地を張っている訳でも、なかった。しかしそれは単純に彼の言っている事へと直結していた。手塚を困らせているだけなのだと。
「……国光に迷惑をかけたい訳、ないじゃない……。」
「じゃあ違うんじゃない?今、青葉先輩がしてる事。」
 思わず青葉は振り返る。そこには恐ろしいまでに真っ直ぐに何かを見据えた、しっかりとした意志を持つ彼の瞳があった。まるで痛い程に射抜かれるような、強い眼差しが青葉を映し出す。
「私が居なくなっても何も変わらない。だったら私がすべき事は、もう終わった。」
 青葉は自分よりも年下の少年に少し怯えながらも、本音をさらけ出したように言った。言う、というよりは何かの答えを待つように、尋ねるような、そんな言葉で。
「何も変わらないよ。でも、変わるものもあるって事。」



 季節が完全に夏を忘れ去った秋の頃、青葉は青学のジャージを身に纏っていた。久しく結んでいなかった長く茶色い髪を一つに束ねて、ジャージのチャックを引っ張り上げた。懐かしい感覚に震えそうになる足を、一歩、前へと踏み出した。
 何事もなかったようにテニスコートに入っていくと、生意気な彼が、青葉を見つけたといわんばかりに声をかける。
「あれ?青葉先輩、引退したんじゃなかったんすか?」
 しらじらしく笑う彼に、青葉もせいいっぱいの笑みを浮かべながらに、言葉を作る。
「そんな事言ったっけな、私。」
 そう言えば彼はやはりあの時と同じように「うそつき。」と口を動かす。
 他人事でしかなかった風景が、少しずつ自分のものへと戻っていく感覚が不思議と清々しかった。久しぶりに見るテニスコートが以前に見たものよりも青く、青葉の視界に映し出された。真新しい、芝生であるかのように。
「私が何かを変えられるなんて大それた事は思ってない。でも、私、……帰ってきてもよかったかな?」
 彼は何も言わない。無愛想なその顔を帽子のツバに隠す様に、窺わせてはくれない。青葉は不安になりながらも彼から返って来る言葉をずっと、待っていた。
 もう、手塚はいない。このテニスコートを探しても、何処にもいない。けれど変わらない。彼が居なくなっただけで、それ以外は何も変わっていない。彼女が少し懐かしいとさえ思えるほどに、あの夏と違わない光景が、此処にはあった。辺りを、広がっている。
「さあね。自分で考えれば?」
 いかにも彼らしく、やはりどうしようもなく生意気な言葉が返ってきた。でも彼女は不安に襲われるどころか不思議なまでに落ちついていた。それはまるで居場所を、見つけ、また再確認しているようでもあった。
 口の割にはまだ小さい彼の姿が、テニスコートへと誘われていく。あの夏に、皆がいた、今と何も変わらないテニスコートの青を、踏みしめて。
   おーい!ボール!
 桃城の相も変わらず大きな声と共に青葉の足元へと黄色いボールが一つ、転がり落ちた。彼女はそれを拾い上げて、以前と変わらぬ対応をしてくれる彼らのいるテニスコートを見つめた。
「ねえ青葉先輩。」
 今度は帽子のツバに表情を隠す事のない越前の顔が、青葉を映し出した。何も変わらない、しかし新しいものへと変化していくであろう、この居場所で。


   おかえり。」
 ポーン、ポーンとボールが弾む音が、木霊する。晴天とも呼べるこの日に相応しい程の、部活がそこにはあった。新しい時代がやってきたかのように風が、彼らを揺らしていく。この時期にしては少し、暖かい風だった。
 青葉は越前の言葉に答えるように、黄色いボールを彼に返球した。

 季節の終わりと同時に、始まりが、此処には広がっていた。

( 20110314 )